第6話:明子(その2)
岸田の過去の話です。
岸田茂。1909年(明治42年)長野県長野市に生まれ、岸田の実家は日本でも有数の鉄鋼企業である”岸田鉄鋼”の次男として生まれた。岸田の子供時代は近所でも有名なガキ大将であった。近所の子供たちと一緒に人の家に落書きをしたり、車のタイヤに石をはめたりなど度々強烈な悪戯を行った。しかし、ガキ大将と言っても、子分たちを裕福な家の子でも食べるものも困るほどの貧乏家の子でも同等な態度で振舞った。それは父親から教えられた「人は皆平等なんだ。金持ちでも貧乏人でも。」という教えに影響を受けていたからである。父親は元々このような会社を建てられたわけれはない。父親の家は岸田の祖父にあたるお爺さんの残した借金で貧しい生活を余儀なくされていた(祖父は借金が発覚した時には他界していた)。そのような体験があったからこのような教えを息子にしていたのだ。
しかし、岸田も私立の中学に上がる頃になると、やはり大手企業の息子であるという理由で学業に専念するようになった。岸田はこの頃は生真面目な性格で、学力もどんどん上がって行き、ついには学年でも10番内に上り詰めた。
1923年 7月14日 中学校の中庭
ここは岸田もお気に入りの場所であった。この中庭は、かつての学校の創設者である”今井文次郎”が学力や風紀の次に力を入れたところであった。夏のこの時期になるとこの中には色とりどりの花々が咲いていた。その花々はただ大量に隙間なく埋めたのではなく、バランスのよい割合では埋められていた。岸田はそんな中にはの真ん中に設けられたベンチに座っていた。
「今年は昨年よりも綺麗だな。」岸田はベンチから心を空っぽにしてその光景を見ていた。岸田は現在は3年生。初めてここを訪れたのは単なる暇つぶしであった。ここを初めて見たときの心境は一言で言うと「感激」であった。まるでプロの庭師が創ったような配色と割合が、岸田を魅了したのだ。
「まだまだ時間があるな。」岸田はベンチの近くに建てられている自分よりもふたまわり大きい時計台を見た。
「さて、どうしたものか・・な・・・」岸田は言葉を止めた。今は午後12時50分、昼休みになると毎回同じ時間にやってくる”彼女”の足音が聞こえてくる。
「ご機嫌よう。」
「・・・・ご機嫌よう・・」岸田はわざと彼女の挨拶を下を俯いて、かぶっている学帽を深くかぶり直して低い声で応えた。始めは怖気付いてどっか行くかという甘い考えを思っていたが、すぐにそれは間違いであったと気づいた。むしろ彼女は岸田の低音な声に惹かれたのか、昼休みになるといつもここを訪れるようになってしまった。岸田も効かないなら低音でしゃべるのをやめればいいのだが、癖というのは簡単に治らないので癖と言われるのだ。
「何を読んでたのですか?」名家出身のお嬢様のような丁寧な口調で彼女は岸田に言った。岸田のとなりには本が置いてあった。その本の名前は「新戦艦 高千穂」という海洋冒険小説であった。
「お前みたいなお嬢様がわからない本だよ。」嘘は言っていないぞ、と岸田は心の中で付け足した。
「わかりませんわ。そうゆう偏見で考えるのはよくありません。」自分でもそう考えているけど、と岸田は嫌な気分で思った。岸田はただ彼女から離れたいためにこのような言い方したのに、帰って彼女を刺激してしまったようだ。岸田は後悔していた。
その直後、彼女は岸田の隙を突いて本を取った。
「あ!お前・・」
「ふふふ、隙を見せる方が悪いのですよ。」彼女は子供のような笑い声で言った。岸田は思わず深くかぶっていた学帽を取った。
「ふふふ、やっぱりカッコイイわね。」彼女の顔は声の通りの名家で箱入り娘として育てられたような、いや、むしろ西洋のおとぎ話に出てくる囚われたお姫様ような優雅な顔立ちをしていた。目はキリッとつり上がっていて、鼻は高く、ツヤのある唇、この中学一の美貌の持ち主であった。
「いい加減にしろ。”蒼井由紀子”。」岸田は強めの口調で彼女の名前を呼ぶ。しかし、彼女はそれを無視して話を続けた。
「新戦艦・・・こういうの好きなの?」
「話を聞けよ。そうだよ、悪いか?」
「悪くないわ。むしろ男の子ならこういうのが好きなのは当然よ」蒼井は本を流すようにパラパラめくった。
「お父様もこういうのが好きでね・・・よく買ってくるの。」
「君のお父さんは戦記ものが好きなのかい?」話すことが一瞬浮かばなかったのか、蒼井は言葉を切った。その後に岸田は呆れたような口調で彼女に質問する。
「ええ。」蒼井は微笑みを浮かべて応えた。彼女はこの中学の男子、もしくは一部の女子から憧がれの存在であったが、岸田は彼女のこのような行為を見ているせいか、好意を持ったことがなかった。
「それでこの本面白いの?」
「まだ序章しか読んでない。」しかし、この時間が嫌いというわけではなかった。自分の事を好意に思い慕われることは岸田にとって、まるで父親にでもなったかのように頼られて自身がつくのだ。そうこうしていると予鈴がなった。
「じゃあ、また明日。」彼女は予鈴を聞くとそそくさに教室に帰っていった。蒼井は岸田とは違うクラスなので会えるのはこの昼休みの時間だけなのだ。そんな蒼井の後ろ姿を見ていた岸田の心は今複雑な状態であった。彼女が行ってしまうこの悲壮感に近い心境だが、まだ成長途中の岸田にはその心境が理解できなかった。
その夜 自宅
岸田は自分の勉強机に頭を抱え込んで悩んでいた。今日もらった進路について考えていたら頭が痛くなってきたのだ。
(う~ん。どうしたものか。実家は兄貴が継ぐし、俺は次男坊だから自立しないといけないしな。)などと考えていても始まらない。そう考えた岸田は頭を振って気持ちを切り替えようとした。
「・・・そう言えば・・」岸田は部屋にほっぽり投げたカバンに目を向け、そのカバンに近づいていく、岸田はカバンに手をかけると中からノートくらいの大きさの紙を出して、それを眺めるようにして見た。その紙には敬礼をしたまるで街一つを牛耳っているヤクザの組長のような厳つい顔をした日本兵とその日本兵に比べると背は低く、公立の高校に通っていそうな童顔の兵士が描かれており、その絵と一緒に”家族ノタメ・国ノタメ”と書かれていた。
「陸軍・・・か。」その紙の正体は陸軍の募集ポスターであった。今日の放課後に友人からもらったのだ。その友人は勉強が苦手で体力だけがあるいわゆる体力バカな奴で岸田自身もお似合いだな、と笑いどばした。
この日本では、陸軍学校には2つのタイプがあった。ひとつは主に陸軍の正規隊員を育成する”陸軍士官学校”ともう一つは主に一般兵を育成する”陸軍兵学校”があった。それぞれ士官学校は4年間、予備士官は2年通うことになっており、岸田が眺めているポスターは士官学校のポスターであった。
「どうしようかな?」岸田は首をやや傾けながらつぶやいた。岸田自身一時期軍隊に憧れていた過去があった。それは小学生の時に近くの基地でイベントがあり、岸田は久しぶりに全員が揃った休日をここで過ごした。そこでは兵器の展示や兵士の訓練の様子、さらには露天まで開かれていた。その時の岸田は展示してあった戦車に釘付けであった。その戦車は今では鉄の棺桶と言われ、中華民国に大量に販売されている”八九式中戦車”であった。岸田は今まで見た事ない鉄でできた車(この世界の八九式はブリキではなく一応鉄板で補強されている)に子供だしい好奇心と興味でまるでほしいものを眺めているような眼差しで見ていた。もちろん本当に欲しいと言われてもいくら日本でも有名な企業の社長である父が買えるはずがなかった。
「あの時の私は無邪気だったな・・」まるで年寄りが昔のことを思い出して和んでいるこのようなしみじみさを感じながら岸田はまたつぶやいた。
「・・・応募してみようかな。」思いつきであった。岸田は将来のことを何も考えていなかった。もちろんそれはまずいことであるのはわかっていた。大企業の御曹司が無職では自分どころか親の面目が立たなくなってしまう。そうなってしまうなら軍隊に入った方がまだマシだなとこの時の岸田は考えていた。
その後中学校は夏季長期休暇を迎えた。長期休暇中は友達と共に過ごした。本当は小学生の時のようにバカみたいに騒ぎたかったが、学校のイメージというものがあるのでできなかった。しかに時間というものは楽しいことは短く、辛いことは長く感じるものだ。1ヶ月にも及ぶ長期休暇ももうあと一週間と迫っていた。
そして岸田は自分の部屋で寝そべっていた。宿題はもうすでに終わらせてしまい、友達たちも宿題のことに気づき、今頃血なまこになりながらやっているだろう。
「暇だな。」岸田は、始めは天井のシミの数を数えていたが、数えていくうちのその行為のバカバカしさに気づきやめた。耳をすませばセミの声はアブラゼミからひぐらしに変わっており、その鳴き声はもうすぐ夏の終わりを知らせるようだった。それに夏休み初日ではまるで親の敵のごとく泣き喚くように泣いていたセミたちも、いつしかその声が小さくなっているようであった。いや、鳴いている数が少なくなっただけだ。
「よっこいしょ。」岸田は何も考えることなくまるでおじいさんが腰を上げるような声を出しながら体を起こした。そしてそのまま淡々とした歩調で岸田は部屋を出て、階段を降り、玄関に向かった。外に出ると日差しが岸田を容赦なく照らした。それを岸田は手の甲を額で覆い、目に影を作った。
岸田はある事に気づいた。気温が最初よりも低くなっている。そうか、もう終わりなんだな。と岸田は悲しい気持ちになって思った。
「さて、どうしたものか・・・」岸田は特に何も考えずに外に出ていた。岸田にとって何しないで怠けているのはダメなことという認識があった。だからせめて外に散歩にでも出かけようという考えになったのだが、さすがにただ歩いているだけではつまらない。何かないかとあたりと岸田は見渡す。
「ん?」岸田はあるものを見た。見覚えのある後ろ姿だった。岸田はそれが誰だかわかっていた。
「蒼井だな。」岸田は直感した。そしてまるで子供のような素直な心境である事を思いついた。岸田は彼女のことをよく知らないので尾行してみようと思った。それが悪いことであるのはわかっていたが、そんな罪悪感は今の岸田の中では小さかった。今岸田の心にあるのは「興味」という言葉だけであった。
蒼井の服装は汚れが一つもない白いワンピースにつばの大きな麦わら帽子を被ってお金持ちのお嬢様のオーラを出していた。岸田はそれを呆れるなり尊敬するなりな目で木で出来た電柱の影に隠れてみていた。そんな岸田にも太陽が容赦なく照らしてくる。岸田は蒼井を見て自分も帽子を持っていくべきであったな、と思っているがもうすでにあとの祭りであった。岸田はそれを気合で耐えるしかなかった。そんな岸田の状態も知らずに鼻歌混じりで歩いている蒼井であったが、しばらくすると彼女は家の塀と塀の隙間に入っていった。
「なに!?」岸田はそれを見て慌てて走って追いかけるが、隙間を覗いても彼女の姿はなかった。岸田は悔しさよりもなぜこんなことをやっていたんだ、という現実的な心境が先に出てきた。岸田は諦めて商店街の方に向かうことにした。この街の商店街は小さいながらもいろいろな商店がありそこでアイスやら飲み物などの冷たいものでも買って作業中の鉄のように熱くなった頭を冷やそうと考えた。岸田はそれから善は急げとばかりに走り出した。もう正直言って倒れる寸前なのだ。
「は~、生き返る。」岸田は本来は舐めるはずのアイスキャンディーをお腹をすかした捨て犬がご飯をもらえたように頬張るようにして食べていた。一口食べることに頭の熱が冷めていく感覚を感じながら岸田は歩き出した。もうなにもないので家に帰ることにしたのだ。そして家の近くにある民家が立ち並ぶ塀で囲まれた道を歩いている(もうすでにアイスは食べ終わった)とまた蒼井のような後ろ姿を見つけた。
「・・・・なんだ、あいつら?」だが先程までとは様子が違った。蒼井の周りには3人の見知らぬ若い男たちが囲んで笑いながら何かを話していた。しかし男たちの笑顔は楽しい笑顔というよりは気持ちの悪い何かを企んでいるような笑顔で、何よりも蒼井本人が怖がっている顔をしていた。誰が見てもただ事ではないのがわかった。
すると男の一人が岸田の方を見た。その男は先ほどの気味の悪い笑顔からまるで殺意を向けるような険しい目つきになった。
「何見てんだよ!」そいつは岸田の方に詰め寄ってきた。眉間にしわを寄せ、目を細くして睨みながら。
「何って・・・!」岸田はとんでもないような物を見たような目になった。実際とんでもなかった。残りの男二人は今のうちにという感じに蒼井を塀と垣根の間の隙間からどこかへ連れて行った。
「お前ら・・・・」そう言おうとした途端にその男が岸田に向かって言った。
「痛い目に会いたくなかったら失せな、糞餓鬼。」おそらく普通の人なら怖くなってそのまま逃げていくが、岸田は昔からそういう恐怖を感じる感覚が人よりも鈍いのか、はたまたないのか知らないがあまり恐怖を感じていなかった。
蒼井はやはり見た目通りのお金持ちの娘であった。父親は海軍軍人、母親は教師という厳格ながらも優しい家庭で育った。岸田の家も有名企業だが、所詮鉄鋼の中での話であって、あまり社会への影響力はない。しかし、彼女の家は父親は海軍のしかも上層の者であるので社会的にも影響力があった。母親も神奈川教育委員会の幹部であったため岸田と蒼井は社会階級が天と地との差というまではいかなくても結構あった。
しかし、それが災いしてか、彼女はこれまで15年間の人生で危ない体験を受けたことがあった。はじめに受けたのがまだ5歳の時、身代金目的で誘拐されかけた時(幸い近くにいた母親が気づいた)であった。2回目は10歳の時、父親に恨みのある元海軍士官が娘である由紀子を殺そうとした時(愛娘を無残に殺すことで精神的に追い詰めようとした)。そして3回目が今起きていた。
「やだ!!離してよ!!」
「うるせぇぞ!!このアマ!!」そう言うと小太りな男は抵抗する蒼井を殴った。そして近くに止めておいた車にまるで物を押し込むような扱いで入れようとするが、それでも蒼井は抵抗する。
「あなたたちは誰よ!!!」蒼井は奇声のような声で叫び、死ぬ物狂いで抵抗する。しかし男たちはそれを聞く耳も持たずに押し込もうとする。この男たちは近くのヤクザのチンピラで彼女を誘拐して身代金を要求するのが目的であった。無論出したとしても返す気はない、ヤクザからしたら蒼井は殺すも良し、抱くも良し、売るも良しな「物」としか考えていなかった。
「いや!!!」すると小太りな男が悲鳴をあげた。もう片方はその悲鳴に驚いて一瞬力を緩めてしまい、その隙に蒼井は逃げ出した。男は罵声で止めようとしたが、先ほどの自分たちのように全く聞く耳を持たずに逃げていく、蒼井の右人差指には血がついていた。そして今うずくまっている小太りな男は左目を抑え、指の隙間から血が垂れていた。蒼井の指がこの男の目に入り、そのまま潰したのだ。
「待てこのクソアマが!!!」蒼井は逃げる、逃げる、逃げ続ける。もうすでにスタミナが切れていたが恐怖がそれよりも強くそんなことを感じる余裕がなかった。しかし、所詮は女が男に体力で叶うはずがない、しかも蒼井は箱入り娘だしく運動などが苦手であった。蒼井は飛びかかってきた男にぶつかりまるでサバンナで肉食動物に追いつかれた草食動物のように転がった。地面に叩きつけられて体中から鈍い痛みが音のように響いてくるのを感じた。
「この野郎が、よくもやってくれた!!」蒼井の心境はやけに冷静であった。もうすでにスタミナが切れて抵抗することもできない。蒼井は諦めかけたその時、聞きなれた声が聞こえた。
「お巡りさん!!!こっちです!!!」放心状態の蒼井にはその声が詳しくはわからなかった。しかし、よく聞く声であるのはわかった。
「何!?」それを聞くと男は慌ててその場を逃げていった。
「・・・助かった・・・」先ほどの恐怖と緊張が一気に襲ってきて、彼女の意識は薄れていく、そして彼女が気を失う直前に見たのは、返り血をつけた服を着た心配そうな顔をして自分に駆け寄ってくる岸田の姿であった。