・8 懐抱
今回を含め、数回は、テスト投稿を実施しています。
色々なご指摘を受け、文字数のボリュームと、表現を平素なものにするように心がけてみました。
その辺りでの感想を頂ければ幸いです。
尚、文字数の減少に伴い、更新の速度には関係が有りません。
宜しくお願いします。
緞帳の様に厚い雲からは、月の影すらも見えない。
其ればかりか、銀漢にしがみ付いていた雲は自重に耐え切れず、体を細かく分散させて地表へと降り注ぐ。其れも今では堰を切った様に激しい雨に変わり、雨音は耳朶を劈く程に為っている。
漢王朝末期、此の頃の時代に生きる人達は、滅多な事が無ければ、雨中に外出する事は無い。時計も暦も無いのんびりとした時代だったからでは無く、雨具が発展していなかった事、初期医術の時代で風邪を含めた病気が大敵の時代であったからだ。
窮余の一策ではあるが、井岡賊に一計を案じた李光と甘寧は、再び湘水へと戻った折に驟雨に見舞われ、やむなく何処かで時を凌ぐ事を余儀なくされた。
闇夜に加え、降り注ぐ雨粒に依って視界を塞がれていたが、甘寧は徐々に西岸に船を寄せる。目を凝らして砂浜を選び、艫綱を石に結わえて小船が流されない様にして、大樹の陰に向かおうとした二人は、運良く近隣の漁師の下小屋を見付けて其処に飛び込む。
筵の入り口を潜ると、ムッとする程の黴臭が鼻を突く。所々から雨漏りがしているのか、外とそれ程に差の無い湿気が躰を覆う。其れにも構わず、甘寧は柿渋の防水が施された街灯と笠を手早く脱ぎ、手探りで転がっている木端を拾い上げ、種火から火を移す。
周囲が、仄かに映し出される。
ぼんやりとだが、雑然とした部屋の様子が目に飛び込んでくる。下小屋と言うよりは、既に廃屋である。ここ数年、湖南地方では自然災害が頻発し、湘水も、其の周辺の地域に猛威を振るった事は一度や二度では無い。其れが理由で廃墟に為った郷邑も、十や二十では無いのだ。
――其れが理由で破棄せざるを得なかったものの一つなのだろう……
と、甘寧は思う。能くある事なのだ、と命運を甘受する気持ちは有るが、忸怩たる思いは間違い無く甘寧の心の奥で燻っている。一度は目を背けただけに、彼女にとっては根深い問題なのだ。尤も其れは、李光の提案に乗った事からも解かる。
扨、甘寧は、小さな灯を頼りに薪を集めて火を熾した。温もりの有る炎に手を翳し、ようやっと暖が取れる様に為って、彼女は落ち着く事が出来た。
其れと同時に李光の様子が目に入いってくる。笠も外套も身に着けていなかった李光は、頭からバケツの水を被った様に濡れていて、今直ぐにでも濡れた衣類を脱がなければ返って体を冷やしてしまう様な状態だ。
「早く濡れた服を脱いで、火の傍に来い」
だから、甘寧の口からこんな言葉が漏れるのは当然の事だろう。
のろのろと火の傍に寄った李光には逡巡が有る。服を脱げ、と言う事は裸に為れと言う意味だ。子供の頃から素裸で川を泳いだりした王媚の前では抵抗は無いが、甘寧の前では同じ様な行動が出来る筈は無い。
甘寧は、李光の胸中を敏感に嗅ぎつけ、もう一言を付け足す。
「男の裸など見慣れている。愚図々々するな。別に、取って食おうと言う訳では無い」
否、寧ろ取って食う、と言って貰った方が、李光はすんなりと服を脱ぐ事が出来たかもしれない。そう言う事に、興味が無い年頃では無いのだ。相手が甘寧であれば、寧ろ本望であろう。
とは言え、濡れた服を着続ける事で躰に害を為すと分かっていても決心はつかず、李光は襟の左右を引き寄せて俯き、却って頑なな態度を見せる。甘寧の言葉が如何であれ、李光自身の心の問題なのだ。羞恥が先に立ってしまうのは、如何しようもない事なのだ。
併し、残念な事に、男と女の思考基準は違う。女は、窮地と言って差支えの無い時に、羞恥などと言うセンチメンタリズムを持ち出す事はしない。極めて現実主義の生物なのだ。
間違う事無く女である甘寧が、こんな態度を見せられれば、青筋を立てた事は決まり切った事だ。果たして、こんな事を書き記す必要が有ろうか。
甘寧は、蜃気楼の様に音も無く立ち上がった。貌からは全く表情が消え去っている。如何やら彼女は、感情が騒ぎたつ程に無表情に為る様だ。そして、猫の様に足音を忍ばせて移動し、何時の間にか李光の背後に立ちはだかった。
突如として李光に襲い掛かったかと思うと、目にも留まらぬ速さで帯を解き、あっと言う間に上着を脱がせ、瞬く間に軽衫風のズボンを剝ぎ取ってしまう。
余りの恐怖に手足を縮込ませて体を強張らせる李光を余所目に、仁王の様に立ち荒んでいた甘寧は突如として屈み、李光の背中を預かる様に抱き締めて躰を密着させる。
「こうすれば、少しは温かいだろう」
甘寧の顔は、実弟を慰める姉の様に優しい。
雨は、相変わらず間断なく振り続けている。それどころか雨量は更に増し、粗末な小屋の屋根を押し破ろうとする程に激しく為っている。風も徐々に増し、時には入口の筵を跳ね上げて、火を消そうと雨交じりの息を吹きかけてくる。
――酷い増水が起こらなければ良いが……
焚火との間に李光を挟んでいる甘寧は、焚火に柴を投げ入れながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
李光の異変に気付いたのは、そんな時だ。
躰が小刻みに震えている。秋雨に晒され、暖を取っているとは言え裸なのだから寒いのは仕方ないだろうが、それにしても震え方がおかしいのだ。不審に思った甘寧は、更に体を密着させて李光の顔を除き込む。
炎の影が映っているにも拘らず、見たからに顔色は蒼白なのである。瞳も細かく動き、明らかに焦点が有っていない。
甘寧は、病の兆候を疑った。元から体の具合が良く無かったにも拘らず、友の危機に無理を押して飛び出してきたのかもしれない、と。此れまでの心労も、甘寧の抱いた其れを遥かに凌ぐだろう。蓄積された疲労に加えて現在の状態を考慮すれば、躰に変調を来たしたとしても不思議では無い。
――こんな所で失う訳にはいかない。
既に李光の存在は、甘寧にとっては片腕と言って良いし、錦帆賊としては掛け替えのない其れだ。こんな詰らない死に方を許せる筈がない。
併し、何もしてやる事が出来ないのが現実だ。甘寧は、此れまで以上に強く抱きしめ、念を送るしか出来ない、何とももどかしい状況であった。
更に風雨が増す。
風に巻き上げられた筵が、大きな音を立てる。
暴風雨の状況では別段珍しい事では無い。にも拘らず、李光は声にならない悲鳴を上げ、甘寧の手を振り払ったかと思うと体の向きを変え、彼女の背中に腕を廻してしがみ付いた。
李光は、親友以外の全て失ったあの日以来、風が吹き荒れる状況を恐ろしく感じる。大雨だけなら大丈夫だし、暴風だけでも如何と言う事は無い。
併し、暴風雨に為ると状況は一変する。
又、大切な全てを失ってしまうかもしれない、と思うと恐怖に耐える事が出来なくなる。
今も、甘寧にしがみ付いているのは、単に恐怖から逃れたい衝動が行動に為ったものと、大切な存在である甘寧を失いたくない、と言う気持ちが綯交ぜに為ったのだ。
――気を許し過ぎたのか……
実際は押し倒された格好の甘寧だが、不思議と抵抗しようと言う気が起こらない。女として男を愛していると言う気持ちは無い。併し、メスとしてならオスを受け入れるのも悪くは無い、と。だが、其れも一瞬の逡巡で終わり、事実は李光が何かを恐れた結果、身近に居た自分に抱き付いて来たのだと分かった。
昼間に見せた自信に溢れる李光と比べれば、甘寧の腰に縋りつく、今の弱々しい姿の姿を晒す者が同一人物とは思えない程に違う。
だが、甘寧から見れば、どちらも李光である事に疑う余地が無い。其れが何かは判然としないが、此れから其れを明かしてみたいと言う気持ちが湧いてこないでもない。其の為なら、躰を許しても良い、と。
弟の存在に近い此の男と歩む人生なら、何かと波乱が有って面白そうなのだ。
李光が成長した時の姿を見てみたい、と思うのだ。
李光の躰の下から上半身を抜き、震える男の髪を優しく梳いてやる。
――少しでも不安が軽くなる様に……
と。
李光の躰から、次第に緊張が解けてゆく。
今では、胎盤に眠る胎児の様に手足を折り曲げ、安らかな寝息を立てている。心に張り巡らされていた緊張の糸は、今ではすっかりと緩んでいる。表情は、何時もの穏やかな其れに戻っている。
甘寧は、飽く事無く李光を撫で続けた。
翌朝は、曙光と共に訪れた。風雨は既に去り、空には昨晩の跡形も無い。が、地上に目を転じて見れば、決して無いとは言い難い。清流であった湘水は濁流へと変わり、激流と化した川の流れにはあらゆるものが混ざっている。
李光は、肩を揺すられる感覚で眠りから解けた。女性が持つ特有の甘い香りが鼻孔の奥を擽っているが、その正体は判らない。柔らかな大腿の感触も、さっぱり見当が付いていない。
「足が痺れて来たから、そろそろ起きろ」
こんな言葉も、未だに眠りに誘う子守歌の様にしか聞こえてこない。李光は、駄々を捏ねる様に躰を左右に捩り、枕の部分に顔を埋める。
「いい加減にしろ」
言葉の柔らかさとは裏腹に、拳の一撃は強烈である。李光は、否が応もなく現実世界へと引き摺り戻される。が、視界は闇に閉ざされた儘である。
別段、不思議な事では無く、当然と言えば当然の話だ。枕と為っていた甘寧の大腿に顔を埋めている李光の視界が、開けている筈がないのだ。
李光は、そろそろと顔を上げて状況の把握を始める。
微かに頭を持ち上げると視界が開け、柔肌が眼前一杯に広がる。最悪の想像をした李光は、音が出る程に唾を飲込み、覚悟を決めて首を上げる。小豆色の衣服、女性の象徴の隆起、そして最後に現れたのは、僅かに困り顔を浮かべる甘寧だ。
もう少し二人の関係が進んでいたら、李光は押し倒しに掛かっていたろう。尤もそんな甲斐性がある筈は無く、飛び退る様に甘寧から離れた李光は、下帯一枚だけの自分の姿に気付き、少女の様に躰を縮めて女頭領の視線から逃れる努力をする。
無意味なのは重々に承知しているが、羞恥を捨てる事は出来ない。女性の前で無用な恥を晒したくは無い、見栄を張りたい、と思うのは男の性だ。人に依って、恥に感じる事や見栄の張り方は変わるだろうが、其れを無くした時の方が男としての尊厳を失う危機であろう。
其れは扨置き、醜態とも取れる李光の様子を見て、甘寧は安堵する。
――何時も通りだ。
と。
ならば、甘寧も意識せず、何時も通りの扱いをすれば良いのだ。
「支度をしろ。時間が無い訳ではないが、のんびりもしていられない。区星の呼び掛けに呼応されたら、事だからな」
尤もらしい事を言った甘寧は、筵を跳ね上げ、躰を外に移す。此の儘では李光は身動きが出来ず、何時まで経っても出発は叶わない。尻を蹴飛ばしてでも急かせれば良いのだが、其れをしないのは、李光が彼なりに、懸命に恐怖と戦っていた事を知っているからだ。
そして、甘寧の心の何処かに、甘やかしたい――、と言う秘めた思いが隠されているからだろう。
尤も、其れを甘寧が自覚している訳では無い。
ばつの悪い顔をした李光が小屋から現れると、甘寧は先頭に立って歩き出す。
――今は、私に付いて来い。
彼女の背中がそう語っている。
◇ ◇ ◇
扨、李光と甘寧は雨に打たれるを嫌い、廃屋で一晩をやり過ごしたが、風雨を物ともせずに移動している一団が居る。
勿論、李光から偽情報を掴まされた面々だが、彼等は此れまで、腕節で困難を退けて来た粗野な連中ばかりだ。其れだけに、面倒な懸案は彼等の手には余り、指示を仰ぐ為に区星の元へと急いでいた。
夜通し駆け続けた彼等が井岡山に着いたのは、翌日の夕暮れ時であった。
「周朝が裏切りました」
彼等は、口々に叫びながら区星に報告する。
報告を零れ聞いた者達がざわめく中、区星は、全く顔色を変えなかった。全ての報告を聞き、錦帆賊の奸計だと考えたが、全てを否定できない状況である事も事実だ。何よりも、報告をした者達が声を潜めなかった為、少数の者の胸の内だけに秘めて置けなかった事は、何よりも間が悪い。翌朝には、砦は此の噂で持切りになる。
当然の様に、過激な連中は周朝の誅殺を訴え、恐れた彼は、井岡賊から抜け出すだろう。当然、彼の与党は行き先を共にする。
併し、此れで一件落着な訳では無い。
賊徒とは言っても、物事を思慮深く観察する者は必ずいる。そう言った連中は、今回の区星の処断に注目し、安易に誅殺を試みれば、嫌疑だけで殺される事を知って逐電する。それ自体は構わないが、噂をばら撒かれれば、井岡賊そのものの存続が危ぶまれるのだ。
区星は、此れまでの奸計を全て成功させてきた。今回の錦帆賊への一手も、先を見越した其れとしては下手なものでは無いと思っていた。
併し、自分を上回る者が居る。
区星は恐怖するよりも先ず、そう言う者を手元に置きたい、と思った。井岡賊に最も足りていないのは政治力だ。今回の奸計を企んだ者が、錦帆賊の飛躍の一端を担ったに違いない――、とは確信に近い区星の勘だ。其の為の一手が何か、と考えた。
周朝に関しては、何もしない事が最も的確な解決法だと考えた。時間は掛かるが、何れは噂話は沈静化して口の端々に上らなくなり、軈ては人々の脳裏からも消えてゆく。但し、其れまで、周朝が我慢できるかどうかの方が問題だ。
だが、周朝が浅慮に奔れば、区星には誅殺の為の正統な理由が出来る。全てを許容すると言う態度は、徳望を得るのには丁度良い。賊内の統制を図るには、良い機会だと思う事にする。時間が掛かる、と言う事が問題には為るが、其れ以外は妙案なのだ。
錦帆賊を統制下に置く為の一手の一つとして、
――錦帆賊の誰かを人質にでも取れれば良いが……
人質が取れれば、容易には手を出して来ない、と。同時に、上手くすれば、錦帆賊の得意分野では無い陸上戦に持ち込む事が出来るかも知れない、と。
敵を屈服させるには、圧倒的な力量差を見せ付け、心をへし折ってやるのが最も早い。其れは、此れまでに区星が培って来た経験上のものだ。
その準備の為にも、今は時間が掛かる策謀の方が丁度良いのだ。戦いは、一丸で挑む必要が有り、杞憂を抱える井岡賊は、其れを拭い去る時間が要る。
新たな命令を下した区星は、部下達が朗報を持ち帰るのを待つ事にした。
◇ ◇ ◇
甘寧と共に帰還して数日後、李光の下に、朗報が届いた。張業が戻ったのだ。
王媚を連れていない事に不安を覚えるが、李光は、張業の口からその理由が語られるのを待つ。
「済まん……。王媚が攫われちまった……」
張業の言葉は苦悩に満ちている。己が無力さが情けなく、此処に来る途中でも、何度自刃しようとした事か。苦渋に満ちながらも其れに堪えたのは、王媚を思う気持ちと、李光と言う一縷の望みがあったからだ。
――先生なら……
この気持ちだけが、懊悩に苛まれる張業の足を此処まで動かした。王媚の無事を祈ればこそ、彼女さえ助かればこそ、なのだ。
併し、甲板には怒気が逆巻く。張業と王媚、二人の関係は別にして、近寄りがたい雰囲気を醸す甘寧に比べ、気さくな王媚は錦帆賊のマスコットの様なものであり、アイドルの様な存在だ。中には、娘の様に溺愛している者も少なくは無い。
併し、李光は其れと分かる位に安堵の溜息を吐いた。怒りの眼差しが向けられた事も気に為らない。王媚が生きている可能性があると分かっただけでも、張業が恥を忍んで戻って来た事には価値があるのだ。
加えて、親友の張業の帰還は、何ものにも替えられに悦びでもある。もう一人の親友、王媚を助けたい――、との活力にもなる。
扨、策謀を完遂するには、的確な情報が不可欠と為る。見通しの利かない霧中では、一手先を読む事が出来ない。李光は、次なる情報提供者の出現を、心待ちにしている。井岡賊の内部の者だから、得難いものになるだろう、と。
李光は、親友の肩を軽く叩いて慰撫の気持ちを伝える。まるで、後は任せて置け――、と言っているようだ。
先日の暴風雨の晩から、湖南地方は穏やかな日が続いている。
鏡面の様に真平な洞庭湖には、上下一対の錦帆賊の旗艦が、上下一対の風景が存在する。水上は、静謐な空気で満たされている。
中途半端で申し明けない。
どうやら、小生には文章を短く纏める力が欠けているようです。
折を見て、長文に戻します。