・7 本性
今回を含め、数回は、テスト投稿を実施します。
色々なご指摘を受け、文字数のボリュームと、表現を平素なものにするように心がけてみました。
その辺りでの感想を頂ければ幸いです。
尚、文字数の減少に伴い、更新の速度には関係が有りません。
宜しくお願いします。
――何時もの事だ……
飛び出した王媚、そしてそれを追った張業を見送った李光は、その事を特に気も留めなかった。何時もの様に、張業が上手に王媚の心を宥めてくれる、と思い込んだのだ。
寧ろ、李光には其れ以上に腐心したい懸念事項が有った。
単なる噂話と言ってしまえば其れまでだが、一笑に付すべきかと李光は悩んでいた。
江湖と言えば、云わば荊州全土と広大な地域を指すが、水賊の縄張りとして指す場合は、実は目の届かなくなる程に広遠な地域ではない。
それどころか、水賊の世界と言えば水上に加え、其処と陸とを繋ぐ津だけある。
其れだけに世界は狭く、水賊がどんなに猛威を振るっても、江湖流域を震撼させる程の規模までには成長はしなかった。寧ろ、水賊同士で骨肉相食む勢力争いを繰り返し、闘争を繰り返して自壊を頻発させていた所を見ると、大地の上では生きて行けなくなった盗賊が、生業の場所を水上に移しただけと考えられなくも無い。
其処に錦帆賊の登場は、彼等にすればカルチャーショックに似たものであった。初期段階のものでは有っても組織性を有する錦帆賊は、我物顔で江湖を荒らし回っていた水族達には、巨大な龍の様に映った。彼等に戦いを挑んだ所で、単独で狼の群に飛び込む事とそう変わるものでは無く、敢え無く返り討ちにあった水賊は数知れない程だ。
本の数カ月だけで、実力で秀でる錦帆賊は江湖の頂点に立った。言い換えれば、江湖に君臨した、と言って良い。併し、其処で満足せずに成長を続けた事が彼等の非凡な所で、今度は陸上の情報を統合して江湖の支配に役立てる様に為った。
其れが、李光が水賊に身を投じた頃からだ。彼は、霍篤と言う名の土豪と通じて城内の雑事を一手に引き受ける任侠衆に渡りを付け、足繁く通って、任侠達との信頼関係を確立した。
任侠衆と通ずる事で、錦帆賊の支配体制は、一層に盤石なものへと変わったのだ。
細密な情報網を有する任侠衆を味方に付けた事で、僻遠の地の情報まで網羅する様に為り、現在では李光の耳朶に届かないものの方が少ない位だ。
その李光の下に、嘗ては錦帆賊と敵対関係に有った水賊の頭領が、近隣の出自では無い誰かと頻繁に密会を繰り返している、と言う情報が届けば、危機感を抱かずにはいられない。
抑々、李光とは有り得ない可能性を按じて気をまわし過ぎる性格の持ち主なのだ。不穏な噂話であればこそ、怪しいと首を傾げない方がおかしな話だろう。
安易な油断は、錦帆賊の瓦解へと繋がるのだ。
噂の裏付けを調査し始めた李光の脳裏には、既に張業の事も王媚の事に拭い去られていた。
此の時の李光は、張業と王媚び友人の李光では無く、錦帆賊の一員の李光である意識の方が強かった。
漢王朝時、海内に存在した十三郡の内、人の住める地域の保有面積だけで見れば、荊州は最大の面積を有していたと言って良い。
併し、人の住む世界はそれ程広くは無い。
網目状の川を中心に文明を発展させてきたが故に、河岸付近に人口が密集していたからだ。しかも、李光の懸念事項、噂に上った水賊の頭領と言えば、江湖では其れなりの有名人なのである。彼等が如何に隠密で行動している心算でも、有名人であるが故に必ず誰かの目に晒されていた。
江湖に限らず、海内に蔓延る数多の賊徒の中でも、情報と言うものの優位性を正確に理解しているのは、黄巾賊が壊滅した今では錦帆賊だけと言って良い。彼等が最も得意とする方面の事だけに、裏付けは容易に取れ、密談を持ちかけた相手が井岡山の賊徒である事も直ぐに分かった。
この情報を携えて甘寧に面越に向かったのが、張業と王媚が飛び出したその日の事である。
甲板に上るなり、訳も告げられずに李光が殴り飛ばされなかったのは、やはり錦帆賊の古参の面々が大人であったからだろう。親友の二人が飛び出した事を告げられた李光が、酷く肩を落として愕然としたのは言うまでも無い。
併し、激しく落胆する李光の様子は度を越している。
親友を按ずる気持ちが分からないでは無いが、二人は死ぬ為に飛び出した訳ではない。躰や心は成熟していなくとも、死を恐れない様な無知ではないし、捕縛されれば仲間に迷惑を掛ける事は、十二分に理解している筈だ。
少なくとも、張業も王媚も、仲間を窮地に齎しても平気でいられる様な常識無しではない事は、古参の機帆賊の面々なら誰もが承知している。
必ず窮地に陥る前に逃げ出してくる――、筈なのだ。
では、何故に李光は、此処まで苦悩に呉れているのか――、此の事を甘寧が訝ったのは、頭領としては当然の事であろう。
「どんな情報を得た?」
李光は、主に陸上で情報の収集と調整が仕事である。実際の水賊家業を行う甘寧達に比べ、多くの情報を有しているのは当たり前だ。
張業と王媚は、甘寧にとって信頼に値する部下である。彼等を信じる気持ちが変じ、今回の事を多少は楽観視する気持ちは有った。併し、今の李光の様子を見れば、其れらを捨て去らねばならないと思わざるを得ない。
そう思うや甘寧は、李光の肩を激しく揺さぶって話の先を促す。一瞬の躊躇が、取り返しがつかない事態を招き寄せる事はあるのだ。
李光は、やっと顔を上げた。表情は湖底に溜まった泥の様だ。二人の親友を直ぐにでも追い掛けたい気持ちを無理に抑え、錦帆賊全体に関わる報告から始める。
「井岡の賊徒は、頭目の区星自身の指示で、此方の体勢の分裂を謀っています」
甘寧は、眉根を寄せた。意外だったのだ。此れまで対峙してきた水賊の頭領と言えば、必ず蛮勇に秀でた者で、頭脳よりは駆使するより、凶暴な膂力によって部下を従えてきた者が殆どだ。
此の時に為って初めて、区星とは容易ならざる相手――、と甘寧は念頭に置いた。本来なら、次にはその事の対策を論じる所だが、李光が直ぐにでも話したい情報が此の事では無いと悟ると、頷きで次を促す。
李光も焦る気持ちが強いのだ、甘寧の仕草に甘えて先に進む。
「確な人物像は判りませんが、如何やら区星と言う人は、奸策を操る様です。問題は、区星の配下の郭石です。現在、桂陽郡の各地を荒らし回っているのは、郭石とその直属の部下です。兎に角、全員が屈強なのですが、特に郭石は人間離れをしていると聞きます。区星に関しては、人物像に多少の差異が見受けられますが、郭石に関しては、誰もが口を揃えて人間離れしている、と」
甘寧を始め、張業に王媚、加えて此の三人を優に上回る猛者が、錦帆賊にもいる。
併し、世人が口を揃えて、
「強い!」
と言われる事は無い。誰もが一字一句違わずに、強い――、と言うのであれば、郭石とは如何程に強いのか、と甘寧は思った。万が一にも郭石と対峙すれば、生き残る可能性の方が低そうである。
張業と王媚が猛者であったとしても、若い二人には圧倒的に経験値が足りていない。相手を見誤る可能性は低く無い。
――これは、益々に保護を優先しなければ……
と。
錦帆賊は、正規の軍隊では無く、云わば、有志による集合体である。身を寄せる事情は其々に有っても、信頼に依って組織が成り立っている。
人道に外れなければ、個人の行動への制約を設ける事はしないが、窮地に陥った時には救助に赴かねば、本人以外の者達への面目が立たない。
軍隊の様な厳しい規律を設けないが故の弊害だが、人の上に立つとは、斯くの如くではないか――、と甘寧と李光は考えた。人民に、無償の愛を注ぐ事で、今の政府への抗議に為ると考えたのだ。
錦帆賊は、数多ある賊徒とは思想が違う。敢えて言えば、河北で反乱を起こした太平道に似た所がある。其処が弱みでもあるのだ。
区星は、錦帆賊が他の賊徒とは異質である、と理解したのだ。其れ故に、百姓を苦しめれば、必ず焦れて救出に訪れる。又、錦帆賊の誰かを捉えれば、結束の上で救出に現れると踏んだ。言うなれば、錦帆賊の弱点を正確に把握し、駆逐、若しくは糾合の為に、二重で罠を張り巡らせようとしているのだ。
扨、報告の順位を違えずに報告した事で、李光は多少なりとも冷静さを取り戻している。
既に日は高く、張業と王媚が出発してから半日が経っている。目的地が井岡山である事は判っていても、どの道程を進むかは皆目見当が付かないのだ。
闇雲に探しても、見つけ出す可能性が皆無に近いのであれば、寧ろ、二人が捕縛されても危害が訪れない様にする策謀を巡らせた方が良いのではないか――、と。
李光は、再び首を垂れている。
併し、苦悩を抱えていた先程とは違い、今は、明らかに思案を巡らせている様子だ。
其れに気付いた甘寧は、今度は急かす事はせずに、李光が自ら首を上げるのを待った。
湖上を渡る風が、畳まれている帆布を弄んで通り過ぎる。永遠の様に長く感じるが、本の一瞬の事だ。今直ぐにでも救出に向かいたい逸る気持ちを、甘寧は懸命に抑え込む。
李光は、思案に暮れながらも、一筋の光明らしきものを見出す。針の穴の様な、小さな突端だ。自分が為した報告の中に、ヒントらしきものを見つけたのだ。見過ごさなかったのは、彼の心が暗中にあったからだ。
気持ちが闇の中に埋没していたからこそ、針穴の様な小さな光に目を向ける事が出来た。
多くの水賊を糾合した錦帆賊が一枚岩でないのなら、井岡山の賊徒とて、蘇馬や周朝等の飲込まれた勢力とは、一枚岩では無い可能性は多分に有るのだ。
ならば、同じ方法で調和を乱せば、思いの他、上手く行くかもしれない――、と。
甘寧に一歩近づいた李光は、周囲を見回して声を潜める。古参ばかりの旗艦の船上だが、区星に癒着していない者が居ないとは言い切れず、やはり、念には念を入れるべきだと判断したのだ。
「区星は、此方を分裂して、何を狙っているのだと思いますか?」
甘寧は訝った。やけに勘が悪いな……――、と。もう少し、思考に鋭利さを有す筈だが、友人の暴挙は其処まで李光の精神に影響を齎すものなのだろうかと、奇妙さを抱きつつも、問われる儘に見解を述べる。
「決戦での逆転の為か、駄目押しかは分からないが、戦局を有利にする為の一手だろう」
口端を上げた李光は、当を得た――、と表情だけで語る。
李光の問い掛けの主旨を今一つ理解出来ない甘寧は、今度は当惑を表情に出す。此の何の変哲も無い見解の何処を気に入ったのか――、と。
李光は、其れを気にせずに話を続ける。
「区星の奸計の意図が、今一つ判然としません。唯、最終決戦は総力戦だと考えている証だ、と言う事だけははっきり理解出来ます。区星はその事を念頭に置き、先を見越して、との理由で奸計を巡らせたのでしょうが、目的が判然としないだけに、事前に焦燥感を与える等の効果を発揮しないのです。ですから、此方は目的をはっきりとさせた上で、同じ手段で井岡賊を混乱させます」
この言葉を聞いた甘寧は、何時の間にか北叟笑んでいた。人の持つ内面は様々で、窮地が訪れて初めて隠れていた本性が見えて来る事が有る。企てられた策謀に更に磨きを掛け、相手を同じ奸計に陥れ様と言う、普段の李光からは窺う事の出来ない、意外とも言える一面、鼻っ柱の強さを垣間見れた事が、嬉しくて仕方が無いのだ。
張業と王媚には悪いが、この収穫の方が大きいと思った。が、そんな事はおくびにも出さない。北叟笑んだのも一瞬の事で、甘寧の顔は、もう何時もと同じに戻っている。
それを誤魔化そうと言うのか、甘寧は口を開いた。
「のんびりと構えていては、張業や王媚の救出が出来なくなるかもしれないぞ」
「直接に救出に向かえば、区星の思う壺ですし、やはり、其れが最良の手段だとも思えません。寧ろ、最悪の事態を想定して、二人に人質としての価値を与えて手出しさせない様に仕向けた方が良いかもしれません」
「成功する可能性は?」
「何とも言えませんが、二人の生存の可能性だけに限定すれば、意外に悪い手段では無いかもしれません、最も、単に時間を引き延ばすだけで終わる可能性も捨てきれませんが……」
甘寧は、瞑目して結論を熟思する。併し、思慮するまでも無く、方針は決まっていた。生存の可能性が増せば、新たに救出の方法を模索する事が出来る。楽観するのは良く無い事だが、物事は前向きに考えるべきだ――、と。
希望を抱く事に依り、幸運を招き寄せる事は出来る筈だと。
甘寧は肯き、はっきりと決断を下した。
李光は、甘寧が肯首するのを見届けてから子細を話し始めた。どちらにせよ、張業と王媚が井岡山に到達するまで数日は掛かる。根も葉もないものであっても、噂話なら、一晩も有れば賊徒間に蔓延する。時間は十分では無いにせよ、否、短い時間しか無く判断を迫られるからこそ、区星が誤った判断を下す可能性は高いのだ。
李光発案の奸計は、即座に実行に移される事と為った。
○
相変わらず、空には重い雲がぶら下がっている。其ればかりか、風も湿り気を帯びてきた。本来なら、空は茜に染まっていてもおかしく無い時間であるにも拘らず、既に世界は宵闇の中に有る。黒々と沈む稜線は、背景の空に溶け込んで判然としない。とろりとした油の様な水面を、一艘の小舟が漣で二つに切り分けている。
船の真中に座って瞑目するのは李光、櫓を操っているのは甘寧である。
今回の奸計の発案者である李光は兎も角、甘寧が直々のお出ましには訳が有る。錦帆賊には、彼女よりも屈強な水夫は数多くいるが、機転が利く、と言う意味ではその右に出る者は居ない。
井岡賊の支配地に入り込んで謀略を巡らすからこそ、念には念を入れて頭領の甘寧が自ら名乗りを上げた。李光を心配する気持ちは皆無では無いにしても、やはり、自分の部下の張業と王媚を心配して、と言うのが、随伴した最大の理由である。
とは言っても、彼女は何時も身に纏っている衣装では無く、笠を被って貌を隠し、肩には外套を引掛けて身分を隠している。
二人を乗せた小船は、井岡山から寿岳東岸に伸びる支流の遡上を始めた所だ。
暫く遡上すると攸県であるが、小舟は支流が合わさる傍に有る鬱蒼とした森が良く見える所で停船する。立ち上がった李光が、種火から炬火へと火を移すと、森に向かって大きく振って合図をする。
とは言え、此れは単なる演技だ。
既に、井岡賊の勢力下である事から、侵入した時から見張られていると辺りを付けて実践したに過ぎない。
「見張られているな……」
と言う甘寧の言葉が後押しにはなったが、全く気配には敏感ではない李光にすれば、雲を掴む様な話である。有るとすれば、そうであって欲しい――、と言う願望だけだ。
炬火は直ぐに消す。飽く迄、演出なのだ。自分が如何にも隠密行動をしている、と言う風に演じれば、他人もそう考えてくれるかもしれない、と思ったのだ。
果たして、李光の読みは功を奏した。甘寧の感覚の鋭さが、実を結ぶ結果に貢献したと言い換えても良い。五つの巨漢が、林立する木々を押し退ける様にして姿を現す。
――郭石の部下だ。
李光は確信する。同時に、凶暴さに気圧されないよう、下腹に力を込める。伸るか反るかのスリルを楽しむ時では無い、これも一種の友の命運を掛けた戦いなのだ。併し、力み過ぎるのは良く無い。演技は最後まで一貫しいる上に、言葉少なに要点だけを印象付けなければならない。
「時間通りですね」
闇夜に溶け入りそうな声であった。
夜の森林は、意外な程に賑やかで、虫、獣、鵺の泣き声で、思った以上にさんざめいている。併し、其れも杞憂だ。五つの凶暴な気配を敏感に察知し、森林は水を打った様に静まり返っている。
李光は、自分御声が相手の耳朶まで届いている事を確信し、立て続けに言葉を続ける。
「周将軍が起てば、甘寧は共闘すると断言しました。後は、先日の打ち合わせ通りに」
李光が口を閉じるのと同時に、船はするすると岸を離れて緩やかな流れに乗じる。暗闇も手伝い、森の中の人影は直ぐに見えなくなった。併し、森からは惑乱する気配がはっきりと伝わってくる。
李光は、やっと甘寧を振り向いた。
甘寧が、大きく頷いてくる。
二人は成功を確信し、歯を見せて微笑み合った。
唯、二人は知らない。近場に船を着けて陸路を進んでいる張業と王媚を、水上を進んで途中から小舟に乗り継いだ李光と甘寧が追い越してしまった事を。此の事が吉と出たのか、凶と出たのかを……。
不吉な事の前兆と言う事では無いだろうが、水面を吹き抜ける風は、此れまで以上に重みを増している。天空にぶら下がっていた雲は姿を変え、今では雨粒に為って大地を覆い始めた。
雨は次第に大粒のものへと変わり、瞬く間に驟雨へと変わった。