・6 轍鮒
お読み頂き有難う御座います。
この作品は飽く迄娯楽小説で有る事を念頭に置いてお読み頂ければ幸いです。
この作品は、縦表示の方が違和感が無いかもしれません。
謀略と言うものは、企てれば成功する訳では無く、其れを相手に信じさせるだけの信憑性を必要とするものだ。例えば、最も信憑性を与えるのが実名であり、昨今の社会問題の一つに発展している『振り込め詐欺』も、身近な人物に為り済まし、又は、信頼性の高い公的機関を詐称する場合が多いのも、其れを証明する事実であろう。
扨、李光は江湖で錦帆賊とは敵対する勢力を駆逐する為の策謀に、如何に信憑性を持たせるかに苦心したものの、結局は、一寸調べれば容易に知れる者の名を拝借する事で、猜疑の眼を晦ます事にした。
偽装の荷物は献呈品。贈り主は荀彧。相手は黄蓋。理由は、黄巾党の反乱での窮地の礼、との建前である。全くの無根の事実ではあるが、時と場所が整えば、邪推する事は大いに有り得ると考えたのだ。
所詮は湖南地方で起こる事である。態々中原まで赴いて、事実関係を調べる事は無いと考えたのだ。唯、黄巾の乱が中原や河北を中心とした地域で起こり、その激戦区の傍で荀彧が起居していて、零陵を出自とする黄蓋が孫堅に従軍して鎮圧を行った事実が有れば良く、真実は如何でも良いのだ。
後は、最近は獲物を取り上げられている水賊の慾を駆り立てる事が出来るか如何かだが、其れも、歴史ある名家の一員の荀彧が送り主である、との想像を巡らせれば、贈与する物が低廉であると考える筈は無い。第一に荀彧は面子を大切にする士大夫の一員なのだ、礼物は高価な品を送ると考えるのが自然であろう。
後は、如何に考える余裕を与えないか、切羽詰る状況を演出するかだろう。
謀略は万端とまではいかなくとも、抜かりがないほどまでに煮詰まっている。博望坡で突如として湧き出た荷物が樊城で商船の倉庫に収まって漢水を下降したとしても、態々其れの全貌を探求しようとする者は少ないと考えた方が良い。が、敢えて李光は、其れでも念には念を入れる事にした。江陵の有る荊州は、水運を使った益州や交州への起点と為る場所だけに、行賈を含めた商人が多数立ち寄る場所でもある。偶然であっても、様々な情報が行き交う場所でもあるのだ。
予想外の事態を想定し、荀彧には口裏を合わせてもらう為に贈り物をした。勿論、荀彧一人だけに贈与すると言う事はせず、遠く離れて言質を取られる筈も無い黄蓋にも、だ。贈った物は 鶏血石の帯飾りで、能く知られる田黄石程に高価では無いが、弱冠の青年が送る物としては十分に高価であり、其れだけに同封した木簡の内容が重要案件だと知らしめるには充分なものだ。
併し、敢えて言葉にすれば、此れは間違い無く気の回し過ぎだ。
使いの行賈から李光からの書簡を受け取った荀彧の貌が、怪訝さを見せたのは言うまでも無い。李光の名や軽はずみな口約束を忘れた訳ではないが、罷り間違ってもプレゼントを貰うような間柄では無い筈である。
其れが、どんな用向きが有っての贈り物か――
と。
尤も、用向きは木簡に記してあり、内容は上記してある通りだ。
多少なりとも期待感が無かった、と言えば嘘になる。荀彧とて、元服を迎えたばかりの年頃の乙女であり、年齢の近い従姉妹等の近親の者には浮いた話もある。其れを羨ましいとは思った事は無いが、多少は焦る気持ちが無い訳ではないし、用件だけしか記されていない味気ない文面に、
――男なんて……
と不満を抱かなくも無い。
「お慕い申し上げております」
等と書き綴られても迷惑千万ではあるが、一端の女として傷付くプライドも持ち合わせているのだ。さりとて、全く自尊心を擽られない訳でも無い。加冠を迎えたばかりの荀彧には後ろ盾は少なく、勿論、そんな彼女を頼って来る者もいない。その彼女を頼る者が居ると有れば、公人としての彼女のプライドが擽られてもおかしくは無いのだ。
翌春から、彼女は渤海郡の太守と為る袁紹の下への仕官が決まっている。海内一の名族の袁家への仕官は名誉と言って良い。今春から落ち目の朝廟に仕官に出た荀攸には一足先を越される事に為り、苦汁を嘗めさせられたのだ。荀攸の英邁さは認めているものの、最も身近なライバルと言えば、彼女を於いて他にはなく、此れで公私共に彼女に追い付いたのであり、時世から鑑みれば鼻を明かす可能性も充分にある。
「全く……」
と、呟くように溢しはしたが、同封の帯飾りを懐に仕舞い込む彼女の貌には優越感を窺う事が出来て、満更でも無かったのも事実なのだ。
扨、李光からの書簡が黄蓋の下に届いたのは、更に其れから数日の後である。相変わらず彼女は孫堅に臣従しており、反乱を起こした韓遂の討伐の為に涼州の金城付近に駐屯している。
涼州の反乱は、現在の所は目に見えた進展は無い。強攻を得意とする孫堅の主張は退けられ、見た目からは考えられない程に包囲を主張した董卓の意見が取り上げられている。敢えて理由を掻き記す必要が有るとも思えないが、最大のものが軍費の欠如だ。壮大や荘園や官給品による収入で、天子の収入は膨大であるにも拘らず、国家としての歳入は、黄巾の乱以降の荒地の増大で目を覆いたくなる程に減少している。
此れまで厳しい生活に晒されてきた涼州の民が、一時の感情に流されて反乱に加担しない事を知っている董卓は、彼等の感情を逆なでしない為に包囲を提唱したが、主将である皇甫嵩は、違う事情で検案を承諾した。
思惑が違ったとは言え、献策を取り上げられた董卓は胸を撫で下ろしたが、武功の場を取り上げられた孫堅は溜飲を下げるのに苦労している。其の想いは彼女の臣下にも確実に伝わっており、孫堅陣営からは鬱積した怒りにも空気に包まれている。
李光からの書簡が届けられたのは、こんな時期なのである。
幕舎で體を休めていた黄蓋は、李光からの贈り物を繁々と見詰めていた。
――果して、如何言った意味なのか……
と。
其れも其の筈、流石に西涼の地まで裏付けを取りに来る水賊がいるとは、李光とて考えなかった。其れ故に、時世の挨拶以外を記した木簡以外を添える事は無かったのだ。
使いの行賈から李光からの書簡を受け取った黄蓋の貌が、全く意図が分からずに怪訝さを見せたのは言うまでも無い。勿論、李光との出会いは覚えている。其の時の少年の様子を思い出しながら鶏血石の帯飾りを眺めていた彼女は、一つの結論を導き出した。
――若しや孺子は、儂の事が愛おしくて堪らないのでは……?
と。
そう思うと、此の贈り物にも合点がいくのだ。鶏血石の帯飾りである。名からして、朱い石である事が分かる。詰り、情熱の朱なのだ。しかも帯飾りである。髪飾りは具足を纏う時には邪魔になるので外すが、帯飾りは鎧飾りとしても使う事が多い。詰り、常に身に着けていて欲しいと言っているのだ。
否、黄蓋は、其処まで深読みした、と言うより曲解した。
見当違いも甚だしい早合点だが、一つの結論を導き出した黄蓋は、
「若さとは、良いものじゃのう……」
等と、年寄じみた事を言っているが、彼女は間も無く三十路を迎える。現在の常識であれば、まだまだ若いと言っても差支えが無いかもしれないが、当時では立派な嫁き遅れである。其れが証拠に、宗家や分家からの婚儀を切望する声は、もう彼女が実家に近寄らなくのが煩わしいと思う程に激しいのである。
思わず、
――この辺で手を打って置くのも悪くは無い……
と考えて仕舞う程なのだから、近親の者達からの口撃の凄絶さが判ると言うものだ。
――抑々、韓当や凌操がいかんのだ。程普の方が頭が切れ、儂の方が腕が立つからと言って、こんな良い女二人を放って置いて、毒にも薬にもならないそこら辺の無芸の女に手を出す法は無いじゃろう。
こんな同僚の男衆への恨み節が飛び出す程だから、李光の献呈品が、余程にお気に召したのかもしれない。其れとも、現況を嘆いているのか。
――それにしても……
もう少し若さを見せ欲しい、とも思う。孫堅に臣従し、戦に従事していたとしても、恋焦がれる女を奪い去る位の情熱を見せて欲しい、と。直接李光自身が此の場に現れ、黄蓋を抱き締めて連れ去る位はしても良いと思うのだ。
尤も、短い書面と思いの丈を込めた贈り物で気持ちを伝える奥ゆかしさも、
――これは此れで好いたらしいものよ……
とも思う。初体験に緊張で躰を竦ませる青年を、褥でたっぷりと可愛がってやろう、と言う気持ちになる。此の戦役が終え、故郷に錦を飾る時が、既に楽しみで仕方が無い黄蓋であった。頸を洗って待って居れ、孺子よ――、と言った所であろう。
「グフ、グフフフ……」
幕舎の傍を通る兵士が及び腰に為る程の気色悪い笑い声が漏れたとしても、其れは其れで仕方が無い。緊迫した空気に包まれる孫堅陣営のなか、黄蓋の幕舎だけが異彩を放っている。
敢えて言葉にしておこう、この場合の『気の回し過ぎ』とは『八方美人』に言い換える事が出来る。所謂、典型的な『女難の相』の引鉄であり、身を滅ぼす場合が有るのだ。
◇ ◇ ◇
李光から齎された二人の女性への献品が、餅に為るのか毒に為るのかは放って置いて、話を本題に戻そうと思う。
江湖の近辺で高価な正規品が輸送される場合、錦帆賊の船が随行して護衛する場合が多い。今回の偽装品に於いても其れは同じで、旗艦が随行する事で、どれ程に高価な御宝が積み込まれているのか、と他の水賊が羨望の眼差しを向けていた事は言うまでも無い。
樊城から出向した船は順調に漢水を下り、夏口から江水に乗り入れて遡上し、洞庭湖を経て、湘水を遡上して泉陵に至るのが通常の航路であろう。日数にして四日ほどだ。
異変が起きたのは長沙郡府の置かれている臨湘付近での事である。錦帆賊の旗艦が現れるのと同時に、短兵急を告げるが如く船足を速めた商船が有った。其れを、桟橋に付ける時間も惜しいとばかりにその場で反転し、旗艦が追尾を始める。
子細は明らかではないが、錦帆賊の旗艦が抜け荷を積んだ船を追った、と言う風に羨望の思いで遠望していた者達の目には映った。否、憶測を巡らせたと言った方が良いだろう。現実、最近の錦帆賊は、抜け荷以外には手を出してはいない事が、彼等に混乱を齎した。当然、彼等の脳裏は葛藤で埋め尽くされる。この所、江湖は錦帆賊に牛耳られて彼等の上がりは雀の涙ほどしかない。さりとて、敵対している事が分かっているが故に、都合よく出てきた商船が罠である、と言う選択肢を捨てきる事が出来ない。
併し、悩んでいる時間が長く為る程に護衛を受けていた商船は遠ざかり、みすみす逃す事に為ってしまうかもしれない。軈て、錦帆賊の旗艦は、江水の彼方に消え、影も形も見えなくなり、彼等の最終決定を急かせてくる。
特に葛藤が激しかったのは、錦帆賊に次ぐ規模の水賊だ。錦帆賊に対抗し得る勢力であるが故に、多くの勢力を取り込んで巨大化している彼等の足下に伏す事が容易には出来なかった。裸一貫から水賊として身を起こした、と言う自負もある。併し、視界から錦帆賊が姿を消した事で突如として舞い降りた好機だけに、獲物に飢えている部下の眼差しから逃れる事が出来なかった。
「帆先を湘水に向けろ」
苦渋の選択である。
――荷の出所は確かなのだ。
己が胸に言い聞かせ、不安を拭い去るしかなかった。
四隻の艦船は、息堰切る様にして進路を北に取って商船を追う。其れに釣られるように、数艘の小型舟も後を追う。ハイエナの様な連中は、何処にでもいる。
暫くして、漣の消えた水面をのんびりとした動きで錦帆賊の中型船が追う。太陽の位置は未だに高く、水面に反射する陽光がカメラのフラッシュの様に輝いている。如何にも、真打の登場である。
李光にとっては、久し振りの戦いの現場である。己が意志で挑む水上戦と言う意味では、初陣である。目論見通りに事が運び、一時は破顔した李光ではあるが、状況から鑑みれば、後手を踏んでいる事に考えが至り、顔を顰める。しかも、錦帆賊の方が圧倒的に少数で、立場的には不利なのである。
何時の間にか、李光の肩には必要以上の力が入っていた。表情も強張っている。久しぶりの実戦、不利な状況からすれば、致し方が無いと言って良い。併し、実は表情が強張っているのは李光だけでは無い。圧倒的にも近い不利な状況は、他の乗組員にも必要以上のプレッシャーを与えていた。
重苦しい空気に、甘寧が苦虫を噛み潰したのは言うまでも無い。闘う前から敗戦ムードが漂っては、勝てる戦も勝てなくなるのだ。必要以上に肩の力を抜かれても困るが、緊張で手足にぎこちなさが有るのはもっと困る。戦いは、平常心で挑むのが勝利への近道なのだ。抑々、冷静になって考えて見れば、数で劣っていても負ける相手ではない筈だ。
――何か、対策を講じねば……
錦帆賊を纏める者、頭領の甘寧がこう思うのは当然の事だ。同時に、何をすべきかも思い付いた。クールを気取る彼女の矜持には反するが、負けて全てが水泡に帰すよりは、幾分にもましだ――、と考えた。
早速に行動を開始した甘寧は、忍者の様に音も無く、李光の隣りに移動した。そして、湘水の様に澱みの無い小声で問い掛ける。
「怖いか?」
「いえ」
「震えているぞ」
「武者震いです」
李光は必至で平静を装うが、細かく震える身体を止める術は無い。傍目に見ても明らかな程に緊張しているのは言うまでない。が、此れは織り込み済みだ。
此処まで思い通りの返答をする李光に、胸中で北叟笑んだ甘寧は、突如として声のトーンを変えた。
「男の貴様が、こんな態で如何するか!」
怒髪天を突く、とはこの事だ。怒鳴られた李光は、帆柱の様に真直ぐに為った。額からは血の気が引いて、早くも蒼白になっている。それ程に甘寧の気迫が凄かったのだ。
「貴様の股座に付いているものはなんだ。臆病風なら、湘水に捨ててしまえ」
そう言うと、目にも留まらぬ早業で、李光の股間に掌を伸ばした甘寧は、縮こまった睾丸を握り締める。潰さない程度に強い刺激を与える力加減は、正に絶妙である。
一瞬で李光の視界からは湖南地方の風景は消え去り、眼前は銀漢にも似た星光で一杯になった。口の端から泡を垂らすが、甘寧はそんな事には一顧だにせず、周囲をぐるりと見渡した後、王媚を指差して更に怒鳴り続ける。
「女の我等の方が、余程に肝が据わっているではないか! シャンとしろ、シャンと!」
「そ、そうだぞ、先生! だらしないにも程がある! 少しは男らしい所を見せて見ろ!」
実は、王媚も酷い緊張の中に有った。併し、頭領の甘寧にこう言われてしまえば、其れを容易に表面に出してしまう訳にはいかない。厄介な性格だと王媚自身も思いつつ、甘寧の言葉に踊らされてしまったのだ。
扨、計算通りに進まないから世の中は面白いのだ。これで少しは緊張が解れると思った甘寧の目論見は当を得たが、李光の暴走までは計算に入っていなかったようだ。
李光の冷静さが戻り始めたのは、甘寧が王媚を指差した頃からだ。神経を分散させたせいか、甘寧の掌の力は緩み、睾丸を握る掌の力は、今では程好い強さに為っている。
水賊の頭領とは言え、女性特有の柔らかな掌からの刺激は心地良いものへと変わっていた。次に如何なるかは、敢えて書き記す必要は無いだろう。詰り、李光の表情に現れている苦悶の表情は消え去り、別の意味合いを持った其れ変わっていたのだ。
口の端からは泡が消え、今では顔を赤らめて、もじもじとしている。宛ら、東司に行きたいのを懸命に堪える少女のようだ。男衆は、李光の状態を正確に把握すると、笑い声を口に溜めて堪え始める。この先、どんな光景が訪れるのかを想像しているのだ。
甘寧が、男衆が何を笑っているのかを諌めようとした其の時であった。
李光の股間を掴む掌に抗う力を感じる。甘寧は生娘だが、ねんねでは無い。男のナニが如何なって、女のアソコと如何すれば子供が出来るかは知っている。其れに伴う、快楽も、だ。冷静でいなければ、と思う気持ちとは裏腹に、甘寧の顔は食べ頃に熟した林檎よりも赤くなり、今では耳朶ばかりか項までもが朱い。
此の時、
「男の子なんだから仕方が無いよ~」
とでも李光が軽口を敲いてたら如何だろうか? 何とか笑って済ませて貰えたろうか。否、恐らく最悪のシナリオを歩んでいたに違いない。とは言え、何も言えずに硬直していた事が正解とも思えない。結局は、李光の行く末は、どんな反応を示した所で同じなのだ。
扨、生娘なだけに冷静ではいられなかったが、甘寧は町娘の様な絹を引き裂く悲鳴を上げて取り乱す事は無かった。その代り、
「ナニを、おっ勃てておるか!」
こんな叫びと共に手が出た。とは言っても、劣情を催して李光を押し倒した訳ではない。荒っぽい水賊の頭領なのだから、手が出るとは、腕力に訴えたと言う事だ。当たり前と言えば其れまでだが、果たして今回は李光に非は有ったのか、実に悩む所だ。
鳩尾を的確に捉えた甘寧のボディーフローが決まって李光が前のめりになると、目にも留まらぬ速さの左右のフックが顔面を捉える。そして仕上げは、右に左にとよろめく李光へと鎌鼬よりも早い回し蹴りであった。李光は、竜巻に巻き上げられた様に錐揉み状態で昇天して星になった。否、主人公のノーガードでのH.P.がそんなに低い筈は無い。お星様に為る事は無かったものの、綺麗な放物線を描いて湘水の水柱へと為ったのだ。
湘水の底に沈みゆく李光に、もっと仏教の知識が有ったなら、きっと六文銭を忘れたお蔭で、三途の川の渡し人に船から叩き落とされたのだと思ったろう。段々と鮮明に為る川底を見て、どちらにしても行き先は黄泉の国だ――、と感じたに違いない。
此の儘、水底に沈んで浮かび上がらなく為ってもおかしくは無かったが、捨てる神がいれば拾う神がいるのが現の世である。逸早く冷静に為った張業が湘水に飛び込み、屍の様にピクリとも動かない李光を救い出したのだ。そして、生きている事を確認して、安堵の溜息を漏らしながらこう言った。
「もう少し、辛抱出来なかったのかョ?」
と。
李光は押し黙ってそっぽを向いたが、きっと、
「男の子なんだから仕方が無いよ~」
と言いたかったに違いない。間違い無く、張業も其の言葉には賛同しただろう。ともあれ、九死に一生を得た李光は、男衆の皆に引っ張り上げられて甲板に戻った。実はこれは、英雄の帰還でもある。
再三話しているが、甘寧は感情の起伏を中々に表情には出さない。言うなれば、鉄面皮と言う事だ。どんな危急の場面でも顔色を変える事無く、涼しい顔の儘で冷静に対処して、難事を乗り越えてきた。その甘寧の顔色を変えた、しかも、最も在り得な状況と言って良い、赤面をさせたのだ。此れまでの経験から鑑みれば、一生に一度でも拝めるか如何か、と言った所なのだ。此れを遣って退けた者を英雄と言わず、果して何と呼べば良いのか。やはり、英雄と称すのが、最もお似合いの称号なのであろう。
唯、数多いる英雄と決定的に違うのは、拍手喝采にて迎えられなかった事だろう。その代り、大爆笑で迎えられた。そして、甘寧からの恨みがましい眼差しに、でだ。
皆から大笑いされる事が癪に触らない訳ではない。併し、甘寧の此の顔を拝めただけで、李光は此れまでの事が如何でも良くなった。己が感情の変化を冷静に分析して、
――千金の価値が有った事なのだろうか……
と。
扨、話を元に戻そう。
通常、戦に於いては位置条件を考慮して布陣するものである。斜面であれば高地を、風が有れば風上を、と言った具合に条件の良い方に布陣するものだ。尤も、弓兵や伏兵などは風下で待機しなければならない等、多少は状況によって変化するものの、水上戦でも流れに乗じる事が出来る上流に布陣した方が良いのだ。兵法を少しでも齧っている者であれば、誰もが知る常識だ。
「後手を踏んだ、と思っているのか?」
此れは、甘寧の言葉だ。元より彼女は表情が乏しい方だが、地理に加えて数も少ないと言う不利な条件下の戦いであるにも拘らず、全く面差しの変化が見られないとは如何した事か、と李光は思う。そう思えば、何時の間にか眼差しは甘寧だけを捉えていた。
李光の問い掛ける様な眼差しに促されたからか、甘寧は再び口を開く。
「少数同士の水上戦では、容易に攻守の立場が入れ替わる。決戦の直前で優位に立っていれば良いだけで、突端での先手後手は関係無いのだ」
詰り、上流からの攻撃を仕掛けられたとしても、操船技術を駆使して躱せば良い、と言っているのだ。流れに乗ずれば、確かに船速は増して有利に戦いを進める事が出来るかも知れないが、一度躱されれば、速度が高いだけに方向転換が難しくなる。其の儘逃亡を図ろうにも、背後からの攻撃に堪えねばならない。水上戦での有利不利は、表裏の関係に有ると言っているのだ。
序に言えば、甘寧程の操船技術を有すれば、上流からの攻撃を去なして立場を入れ替えるのは難しい事では無い、と言っているのだ。
併し、李光とて多少の事は学んでいる。立場を入れ替えれば有利不利は逆転するが、相手にも同じ事をされれば元の木阿弥ではないか、と。互いに水賊であり、江湖に生きる者なのだ。客観的に考えれば、それ程に操船技術の差は無い筈なのだ。
やはり、其の想いも表情になって現れていたが、甘寧は全く動じる事は無く、それどころは微笑みまで浮べて甲板に転がっている丸太へと李光の視線を誘った。尤も、其処から先の説明は無く、甘寧はあっさりと話題を変える。
「今日は、商船は重安で停泊する。その手前に有る寿岳の南岸から東岸に掛けては、地形が入り組んでいる所為か、流れが複雑に為って船足が鈍る。襲撃場所は其の近辺だろう」
言葉と同時に甘寧が合図を送ると、櫂の動きが忙しくなった。船速が増すと共に、船底が流れの背に乗り上げ、上下動が激しさを増して胃の腑を揺す振る。
尤も、胃の腑に重さを感じるのは其ればかりが理由では無い。一度戦いが起きれば、多くの血が流れ、多くの人が涙を流す事に為る。喩、水賊であったとしても人である事には変わりは無く、必ず悲しむ近親者がいるのだ。腹の底を突き上げられる様な、戦いの前に必ず起こる緊張感に、李光は思わず生唾を飲込んで無理に抑え込んだ。
――己で選んだ道なのだ。
此の深い業を受け入れなければならない、と。
寿岳とは、衝山の事である。数多くの封禅の儀式が執り行われた事で高名な泰山と並び、神聖なる五岳の一つに数えられている山である。他には、洛陽の東にある嵩山、渭水盆地の南東端に有る崋山、太原の北に有る恒山が有り、どれもが道教の聖地とされる。
其れは扨置き、寿岳の近辺は湘水の流れが地形の影響を受けて入り組んでいる。対岸には支流との合流地点が有ったりして川幅の変化が大きく、流れの緩急も場所毎に大きく変わる。其れだけに、荷を満載する重い商船にとっては難所なのである。
甘寧は、急流の中間で船を止め、先程李光に見せた丸太を荒縄で石に括り付けて流れの途中で固定した。急流とは言っても、日本の川の様に距離間での高定差は大きく無く、櫂を使えば流れの中に留まる事が出来る。熟練の差に依って多少の違いが有るだろうが、それ程に難しい事では無い。仕込みを終わらせた甘寧は、全速力で追撃に掛かった。
追付いたのは寿岳の南岸の辺り、支流の耒水との合流地点で、やはり、流れが複雑に絡み合う難所であり、重安まで間近とあって警戒心が緩み易い場所でもある。
錦帆賊の艦船が到着した時は、正に掠奪が始まった直後と言う其の時であった。尤も、飽く迄、錦帆賊に停滞する水賊を駆逐する為の偽装の商船であり、元より荷物は積まれていない。船倉には喫水を下げる為の、錘代りの石が積み込まれているだけである。現在は其の重石を投げつけ、必死に防戦中である。
商船の存在そのものが誘いであるとは、現状を見れば明白である。敵対側の水賊の頭領は、我が身の迂闊さを呪わずにはいられなかった。一度は、罠の可能性を考慮に入れたのだから、部下の懇願の眼差しを撥ね退けてでも見送るべきだった、と。慾に駆られて身を滅ぼす水賊が多い中、こうやって生き延び、それどころか勢力を拡大して来たのは、この男の慎重さの賜と言って良いのだ。
併し、今回ばかりは判断を誤った。魔が差した、と言っても良いが、水賊としての生業の場を錦帆賊に奪われ、焦りに駆られた結果、と言って良い。しかも、後方には三隻の錦帆賊の中級船が姿を見せ、否が応でも決着をつけるしかない。唯、此の判断も、数的な優位に立っている事に加え、位置的にも優位に立っている事、更には他人の足下に諂う事を嫌う彼の性格が災いした。
第二勢力とは言え、多人数の水賊では無い。糾合されたとしても、大勢力を築いた方が高い地位に甘んずる事が出来た筈だし、生業として安定した筈だ。牙や爪を隠した振りをし、その後に頂点を目指すと言う方法も有った筈なのだ。が、其れが出来なかったのは、やはり彼の気位の高さ故だ。
上流に逃げる、と言う選択肢もある筈だが、桂陽郡に跋扈する区星の部下と言う立場に甘んじたくは無かったのだ。だから、錦帆賊と同様に区星からの共闘の打診も無視したのだ。が、其の代償は大きかった、同胞は壊滅の危機に瀕しているのだから。
少数の艦船同士の水上戦の場合、川幅を船体で塞ぐ事が出来ない事から流れに乗りながらの戦いになる。其の為、常に攻守が入れ替わり、恰も二匹の蛇の絡み合いの様な戦いになる事が多い。今回の戦いもその類から漏れる事は無く、流れに乗じて攻撃を仕掛けては其れを躱して攻守を入れ替える、と言う具合に目まぐるしい位に戦況が交錯する戦いになった。
共に江湖を縄張りとする水賊である。江水や洞庭湖ばかりでは無く、漢水や湘水と言う支流も庭先の様なものである。共に地理を利す事は出来ず、如何に錦帆賊が手練れであっても数の差を埋める事は難く、勝負は中々に決する事は無い。戦いは、川筋に身を任せて好機を窺う様な、じれる展開になった。
通常、艦船を用い戦いの場合、乗り移って船舶の横奪を行うか、舳を横腹にぶつけて沈めるかのどちらかだが、江南と言う土地柄、生活に密接している船を沈めると言う事は滅多に無い。相手を動かせるだけ動かして操船ミスを待つのが最も合理的だが、江湖に生きるが故に操船は巧みであり、突発的な事態が起こるまで待たねばならないか、若しくは、人為的に起こすか、である。
戦いは湘水に流され、寿岳を西方に望む所まで下降して来た時である。下流側に追い遣られていた敵船は突如として安定を失った。船体を大きく左右に揺らすものも有れば、流れに対して横腹を見せてしまったものもいる。小型舟の中には横転したものがいる程だ。
錦帆賊との戦いに集中していたが故に下流側の水面への注意を怠った、と言う事であるが、間違い無く甘寧の作戦勝ちであり、江湖で随一の水賊に為れたのは、決して運だけでは無い証明である。
乱れた船体を立て直すのは容易な事では無く、錦帆賊は確実にその隙を突き、一方的に攻撃を加える。戦いの行方は誰の目にも明らかで、既に勝敗は決した、と言って良い。後は掃討戦の様なものだ。錦帆賊の水夫達が得物を手に、次々と敵船に乗り移って湘水へと突き落として行く。中でも、特に王媚の動きは一頭地を抜いていて、身の軽さを利して甲板を蝶の様に舞い、蜂の様な鋭い棒術の一撃で、次々と水夫を湘水へと叩き落として行く。
誰もが惚れ々々する様な王媚の活躍であったが、李光は、甘寧の戦術に舌を巻いていた。丸太を流れに固定した時から何を狙っているかは分かっていたし、流れや戦況を自在に操り、予め罠を仕掛けた場所に誘導する戦術手腕や操船の技術も賞賛に値する。
併し、李光が最も感心したのは、戦いに対する考え方の差だ。戦いを局面や単体では考えず、一連の流れのものとして考えている、と。彼は、此れまで最終目標を念頭に置いたとしても全体を見渡す事はせず、局面で戦いを判断してきた。敵を誘き出すには如何したら良いか、戦いに勝つには如何したら良いか、と言った具合に、策謀から始まる戦いを一連のものと考えてはいなかった。飽く迄、局面を点で繋ぎ合わせていたに過ぎない。
甘寧も、今回の全てが一本の線に繋がっていた訳では無いかもしれない。其れでも始める前から決着の場を想定し、罠を仕掛けて置いたのだ。詰り、こう言う事こそが、先手を取ると言う事だ。後は、筋書きに沿って戦いを進めれば良いだけだ。其処に難しさが無い訳ではないが、勝利すると言う確信に近いものは有ったろう。常に戦いに身を染めていなかった李光には、そう言った勘が養われなかったのだ。
戦いは、既に収束へと向かっている。罠に嵌められて体勢を乱された事に依り、船から振り落とされた者もいれば、船縁にしがみ付いた儘で身動きが取れなくなってしまった者もいる。圧倒的な力量差に、降伏を選んだ者も少なくは無い。
その掃討戦も、日が沈む前に決着を迎える。
一仕事を終えて意気揚々と引き揚げてくる張業や王媚に、李光が羨望感を抱く事は無い。人には分が有り、必ず得手不得手が有る。二人が実戦に磨きをかけている様に、李光は、彼が最も得意とする分野に磨きを掛ければ良いと思っているだけだ。
陽が沈む頃には全ての制圧は終了し、錦帆賊の面々は接収した艦船を曳航して洞庭湖へと向かう道筋であった。錦帆賊に次ぐ勢力が壊滅した事に依り、他の水賊は全て服従し、江湖は錦帆賊の制圧下と為った。
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錦帆賊の勢力が広がった事は、湖南地方の各地に直ぐに広がった。水賊では有っても、江湖に秩序を作り上げている事から、周辺の行政府からは好意的では無いにせよ、表向きの実害が無い事から目を背ける事で平静を保っている。併し、桂陽で猛威を振るう区星には、如何にも面白く無く聞こえた事だろう。
湖南地方を支配するには、如何しても水利を得なくてはならない。
と言うのも、湖南地方で財を成す地が、江水や洞庭湖、更には湘水の周辺に広がる平地だからだ。加えて川が網の目の様に張り巡らされていて、徒歩での移動よりは、船を使った方が絶対に有利だからだ。
其れでも、井岡山の近辺を支配するだけで満足出来れば良いが、其れでは百姓の暮らしに毛が生えた程度のもので、鉱山と言う富を生む地を支配している意味が無い。何れは産出する鉱物を売り捌き、巨万の富を手に入れよう、自分の国を作ろうと区星は考えているのだ。其の為にも、江湖の利水権は手に入れなければならない。
以前、錦帆賊とは気脈を通じた後に、数に任せて支配しようとしたが、洟も引掛けられずに不首尾に終わった。其れでは、と、第二勢力と結ぼうと考えて色々と圧力を掛けようとしたが、機先を制せられて灰塵に帰した。区星の動きを先読みする様に行動する錦帆賊は、実に業腹なのである。
区星と言う人は、粗野なだけで井岡山を支配下に置いた訳では無い。金を使って獄吏の監視を掻い潜り、我慢強く組織網を作り上げ、武器と為る掘削道具を渡される昼間を狙って一斉蜂起して反乱を成功させた。寧ろ、蛮勇さを所持するのは弟分の郭石の方で、お世辞にもお頭の出来は良く無く、区星が居なければ力を発揮できない、云わば独活の大木なのである。区星自身は抜け目のない人、と言った方が良い。
故に区星は、錦帆賊の立場を利用する事を考えた。
「郭石、お前はこの辺の邑を襲って錦帆賊を誘き出せ」
そう言って弟分を送り出すと、別の者を呼んでこう言った。
「お前は、錦帆賊の誰かと渡りを付けろ。金を使うも良し、弱みを握るも良しだ。兎に角、中途半端なやり方はするな。必要な時に、必ず此方に呼応する者を作って置くんだ」
と。
桂陽郡では、井岡山の賊徒に依る暴風が吹き荒れている。しかも其れは、城郭の様な衛兵が駐在する所は見向きもせず、郷邑の様な防備の薄い所ばかりが襲撃されている。本来なら、県令には軍事権が有る。小規模の県でも、必ず県尉が任官している事から其れは判る。
併し、此の頃の桂陽郡の太守や各県令は腐っていた、と言って良い。任地が荒らされているにも拘らず、鎮圧の為の出兵をしなかった。既に、郡内のあらゆる所を井岡山の賊徒に蹂躙され、顔に泥を被っているのだ。今更になって出兵したとして、罷り間違って賊兵に敗れて恥の上塗りをしたくなかったのだ。
こうなると、賊徒の暴挙を止める者は居ない。少なくとも、官人は当てには為らなかった。この状況は桂陽郡だけには留まらず、零陵郡や長沙郡の一部でも同じであった。
当然の様に各地の顔役である任侠衆にはそう言った陳情が多く寄せられ、錦帆賊に救いを求める者は少なくは無かった。
この状況を看過できない者が居る。
王媚だ。桂陽郡を出自とする彼女は、故郷に人並ならぬ思い入れがある。李光や張業も、同じ故郷の出身であるが、李光は流刑地である為に先祖代々の土地では無い事から愛着が乏しく、張業も孤児で、境遇は李光とそれ程に差が無い。
併し、王媚は先の二人と違って、桂陽の地で代々の先祖が生まれ育っている。先祖の地を愛する気持ちが強いのは当然の事なのだ。だからこそ、こんな思いを募らせるのだ。
「先生、桂陽から井岡賊を追い出したいんだ。区星を斃したいんだよ! 力を貸してくれるように、甘姐さんに取り成してくれよ!」
と。
桂陽への愛着が王媚よりは乏しいが、長年を過ごした土地であれば、他の者よりは余程に其れに富んでいる。何とか出来るものなら、そうしたい――、と言う気持ちは小さくは無いのだ。
併し、容易には肯けないのが現実だ。
甘寧に取り成せ、と言うのは、錦帆賊の力を貸せ、と言う事だ。錦帆賊は飽く迄水賊であり、軽装で船の上で戦うからこそ本領を発揮する。大地に足を据えて戦うのは専門外だし、第一に具足を纏って戦う事すらも嫌がるだろう。
加えて、数の問題もある。戦を専門職とはしていない錦帆賊が、十倍の敵と与するのは難しい。嘗て、劉秀が五百倍の敵を下したのは、軍と言う統制下に有る者が敵だったからだ。憲兵に扮して、敵駐屯地内を悠々と移動できたのは、規律のある敵軍を装う事が出来たからだ。が、抑々賊軍には規律が乏しい。憲兵と言う規律を守る部隊は無い、と考えて良い。錦帆賊二千が敵中に潜もうとすれば、即座に露見して瞬く間に包囲されて壊滅するだろう。
だからこそ李光は頸を縦には振れないし、甘寧の判断も同じだろう。併し、人情では何とかしたい、と思う気持ちは強いのだ。受諾も拒否も出来ないのは、胸中の思いが王媚に近いからだろう。己が我侭で、錦帆賊に名を連ねる二千人に、命を引き換えにして桂陽の秩序の回復の手伝いをしてくれ――、とは言える筈もない。
王媚とて、李光の胸裡は理解出来る。併し、其れは飽く迄、頭の中だけ、理性の部分だけで、と言う事だ。彼女は、感情では全く納得が出来ていない。否、したくないのだ。
――同じ故郷なのに……
喩、出兵が不可能であっても、李光なら気持ちを察して、甘寧に進言してくれる、と思っていたのだ。自分の気持ちを察してくれる、と思っていたのだ。それだけに、裏切られた……――、と言う思いは小さくは無い。
「もう、いいよ! 私一人で何とかする!」
捨て台詞を残すと、王媚は、逃げる様にして李光の前から消えた。李光の胸裡が、そして王媚自身が我侭を言っているだけと解っているだけに、何時までも顔を合わせていられなかったのだ。
王媚の気持ちも、李光の立場もはっきりと理解出来る張業は、心得顔を浮かべて王媚の後を追った。昔から、王媚の癇癪を抑えるのは彼の仕事だ。そう言う関係にもある。正式では無かったが、王媚の父のお気に入りでもあった張業は、何れは彼女と結ばれる筈であった。尤も、家を無くしたからと言って二人の関係が解消された訳では無く、丈に合った速度で愛を育んでいる。
三人の関係は、何年経っても変わる事は無いだろう。李光にとって、張業と王媚は何事にも替え難い親友である。否、家族同然と言って良い。併し、二人が結ばれれば、此れまでと同じ距離間で接する事は難しい。李光の心に出来た小さな隙間に、侘しさと言う隙間風が通り過ぎた。
○
其れから数日が経った。王媚が一大決心をするまでには十分すぎる時間であった。其の日、彼女は黎明の頃に起き出した。周囲は暗中に有るが、一睡もしていないお蔭で夜目が効いて不便は無い。傍に立て掛けてある愛用の棍を手にすると、足音を忍ばせて甲板に出た。暗雲に覆われた夜空には、一粒の星の輝きも無い。併し、
――隠密行動には丁度良い。
と思った。彼女は、井岡山に単身で潜り込もうと考えている。心の本心から桂陽郡の窮地を救いたいと言う気持ちもあるし、李光への当て擦りもある。此れが正しい判断であるか如何か、意地張りの性格が邪魔して見通す事が出来ないでいる。併し、
――其れで良い。
と思ったからこそ、本心に忠実に為ろうと思ったのだ。
船縁から垂らされた縄を器用に滑り降りて小舟に降り立つと、眠りこける熊の様な先客がいる事に気付いた。流石に湖上で熊が出没する筈は無く、訝った王媚が何なのかを確かめ様と目を凝らすと、其れはむくりと置き上がる。其れが誰であるのか、王媚は直ぐに判った。
王美の視界一杯に映った馴染の顔は、白い歯を見せるとこう言って来た。
「今日あたりだと思ったんだよ。一人で行こうなんて、水臭いぞ」
張業だ。人情味を感じる温かい言葉だ、と王媚は思った。その瞬間には、王媚は張業の厚い胸に額を押付けていた。心強さ、愛おしさ、理由は様々であろうが、今は張業の体温をはっきりと感じたかった。不安に苛まれる心を、僅かでも癒したかった。
一人で出来る事等、高が知れている事は判っている。万が一でも上手く行けば、最深部まで潜り込んで区星の頸を獲れるかもしれない。叶わなくとも、内情を探っては置きたい。最終目標が達成できなくとも、何れは役立つ情報に為るかもしれないのだ。其れだけに単体での行動の方が良く、お互いが足を引張り合う状況にならないとは言い切れないのだ。
其れでも……――
王媚は張業と行動を共にしたい、と思った。お互いの存在が力に変わる場合はある。隠密性の維持より、今は心強い張業の存在を近くに感じる事が出来る方がありがたい。二人なら、何でも出来るかも知れない、と思った。
王媚は、もう一度張業の胸に貌を埋めた。はっきりと、彼の心臓の音が聞こえてくる。力強い鼓動であった。其れは、王媚に勇気と力を与える特効薬であった。
張業が櫂を握った小舟は、静かに湖面へと滑り出した。
木と木とが摩れる頼り無い音が、錦帆賊の旗艦から徐々に離れていく。相変わらず空には星は無く、鬱蒼と茂る木々との境界は判然としない。真黒な水面は、奈落の底に繋がる入り口の様だ。
錦帆賊の旗艦の甲板には二つの人影がある。
「行かせちまって、良いんですかい?」
「我々は役人では無い。彼等が人道から外れようとしている訳でなければ、引き留める事は出来ん」
「其れは、そうかもしれませんが……、今回ばかりは無理にでも引き留めた方が……」
「自分の意志で飛び出して言ったんだ。自分の尻は、自分で拭うさ。何時までも、子供では無いんだ」
甘寧と、彼女が最も信頼する部下の会話だが、相変わらず甘寧の顔は表情に乏しく、今一つ何を考えているのかは憶測が及ばない。併し、もう一方の副長の方は、如何にも、気が気では無い……――、と言った面差しだ。
「李光の奴は、何をやっていたんだ……」
思わず毒づかずにはいられない。甘寧は其れには応えず、近しい友であるだけに、止める事の方が難しいだろう、と思った。唯、無事に帰って来い――、と思っただけだ。
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桂陽郡内は、城郭以外は既に地方行政府として機能していない。郡内のいたる所にある関所からは衛兵が消え、既に賊徒の国と言った風だ。併し、思い掛けない事実もある。賊徒であるが故に、秩序が低いと思っていた。
君臨すれど、統治せず。
と思っていただけに、各関所に必ず何人かが詰めている事に驚きを禁じ得ない。思った以上に組織化が為されている――、と。
とは言え、やはり規律は乏しい。周囲の監視はそっちのけで、居眠りをしている者や酒を煽っている者と、何の為の関所なのか、思わなくもないが、多人数での通過は難しそうだ。と言う事は、彼等が相手にしているのは、やはり官軍と考えて良い、と張業と王媚の二人は思った。が、此れが二人の油断へと繋がった。
碌に身を隠そうともせずに井岡山に近付く二人の前に立ちはだかった者が居る。区星の命令で、各地を荒らし回っていた郭石だ。八尺ある張業よりも二回りは大きい躰、顔はじゃが芋の様に痘痕だらけだ。腕は丸太の様に太く、石割に使う、普通の人の身長程ある石頭を軽々と持っている。
「お、お、お前等、き、き、錦帆賊だな」
そして、言葉の吃音が原始人を思わせる。
錦帆賊である事を言い逃れる事は出来ない。彼等の特徴は、躰の何処かに羽飾りと鈴を纏っている所だ。鈴の音が鳴らない様に細工はしてあるが、羽飾りと共に身に着けた儘であった事が仇と為った。
人間離れした容姿に言い知れぬ恐怖を感じた二人は、じりじりと後退るのが精一杯であった。既に闘志は無く、どうやって逃げるかで脳裡は満たされている。二人は、時の流れが突如として遅く為った様に感じていた。
その癖に、額から流れ落ちる汗は、何時にも増して格段に多い。顎から滴り落ちる汗は、足元の枯葉の色を変える程に多い。
又、額を伝った汗が、顎から滴り落ちた。枯葉を叩く音が聞こえたのか、突如として山鳥が甲高い声で鋭く鳴いたのは其の時だ。
一瞬であったが、郭石は山鳥に気を奪われ、眼前の二人から注意を逸らした。張業はその隙を見逃さず、王媚の腕を掴んで逃亡に掛かる。
再び、山鳥の叫びが聞こえた。
先程よりも近くから聞こえる事を訝る張業の頭上を、怪鳥の黒い影が悠々と飛び越えて行く。影の正体は郭石で、両手を広げて張業の行手を塞いだ。
「に、に、逃がさないいんだな」
狩りを楽しんででもいるのか、ニタリと口の端を上げた郭石の顔は酷く歪み、益々と人間離れをする。小さな瞳は、先程とは比べようのない程に残忍な光が宿っている。唇を嘗める、ぬらぬらとした朱い舌ベロが別の生き物の様に蠢いている。
止む無く足を止めた張業と王媚は、此れまで味わった事の無い異質の恐怖に戦慄する。人間や獣が相手なら一歩も引かないが、それ以外のものでは勝手が違うのだ。逃げる事が叶わないと有らば戦うしかないが、恐怖の所為か勝機が全く見出せなかい。それどころか、足が震えて真面に動かせない始末だ。
張業は、拳で大腿を討ち据える。一歩だけでも踏み出せ――、と。己が意志とは全くの正反対の動きしかしない足に喝を入れる。
――王媚だけでも……
其の思いが、今の張業の全てを支えている。愛しい者を助けたいとの気持ちだけが、今の彼の心に有る全てだ。
其の思いが伝わった。足は岩の様に固まってしまっているが、何とか一歩目を踏み出せた。二歩目は勢いだ。そして、三歩目を踏み出した時には、此れ迄感じていた恐怖が消し飛んでいた。既に、王媚を活かす為の死を覚悟している。
原始人には負けぬよう、獣の咆哮と共に討ち掛かる。
「此れなら誰にも負けない」
王媚から太鼓判を押された大上段からの撃ち込みに、更に気合いを加えて打ち込む。渾身の力を込めた、会心の一振りであった。少なくとも、此れなら相打ちに持ち込める――、と。
併し、張業の想いは届かなかった。
郭石は、落ちてきた枯枝を振り払うかの如く、易々と張業の会心の一撃を払いのけた。其ればかりか、勢い余った張業はもんどりうって吹き飛ばされ、少し離れた大木に背中を強か打ちつけて、呻き声と共に悶絶してしまう。
すぐさま駈け寄った王媚は、張業が気を失っているだけだと分かって安堵するが、其れも一瞬の事で、次なる恐怖が己に襲い掛かって来ている事を悟る。
気丈にも、張業を庇う様に立ち上がり、愛用の棍を構えるも、見せ付けられた郭石の膂力に足には力が入らなかった。郭石は人間の常識から逸脱している、彼女は、初めて恐ろしいと思う人間に出合った。
声は出せず、さりとて飛び掛かる事も出来ない。
今の王媚には、棍を構えて震えるしか出来ない。兎が、獅子に戦いを挑む様なものなのだ。誰が、今の彼女を笑う事が出来ようか。
戦いは一瞬であった。郭石は、無造作に石頭を横に薙いだだけであった、体重の軽い王媚は、其れだけで遠くにまで吹き飛ばされた。張業と同様、王媚も一撃で気絶させられ、手荷物の様に郭石の小脇に抱えられて、井岡山へと連れ去られた。
張業はその場に残された儘だ。彼が気付いた時には、獣の口から吐き出される息の様になまら温かい風だけ吹いていただけだ。懸命に王媚の姿を探したものの成果は無く、何が起こったのかは直ぐに想像できた。
夢だと思いたかった。併し、節々が痛む体が真実だと告げている。張業は、絶望する以外に無かった。
王媚の後を追おうにも、脚は全く進まず、後退するしかない。
――どの面を下げてのめのめと……
唇に血が滲む程に噛締めたが、躰に刻み込まれた恐怖が足を前には進めさせてくれなかった。ぽっかりと夜空に浮かぶ赤い月が、背中を丸めてとぼとぼと歩く張業を嘲けっている。