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飛湍の中  作者: GOLDMUND
5/22

・4 揺籃 (下)

本作は、真名の解釈が原作とは少々異なります。

又、何処かで聞いた事のある名前や、台詞が有るかもしれませんが、きっと気のせいです。全く、関係も御座いません。偶々です。御了承下さい。

 中原の西端に近い譲城と言う城郭は、古来より中原と荊州を繋ぐ要地に建つ都市で、此れまでに数多くの戦を乗り越えて来た都市でもある。其れだけに王朝の防衛意識は高く、平時でも多くの兵士が駐屯をしている。

 それに引き換え、現在の潁川郡を席巻している黄巾の賊徒の首魁を波才と言い、官軍、特に其の中心的な存在の皇甫嵩・朱儁と云った将軍を向こうに回しても一歩も引けを取らない程の勇猛果敢な良将と言って良い。

 其れだけに潁川郡は激戦地となっていて、太平道の支配下に置かれていない各城の防備は厚く、守備兵達は目前に迫った戦で神経質になっている。

「物々しいですね……」

 これは、李光の言葉だが、四人に共通した感想でもある。仮に鑑札が無ければ、四人は間違い無く検挙され、直ぐにでも獄舎に連行されていたろう。併し鑑札が有ったとしても、嫌疑を掛けられない、と言う事では無い。其れが証拠に、

「其処の孺子っこ四人、少し待て」

 と、鑑札を提示して門を潜ったにも拘らず、強引に引き留められている。

 一斉に振り向いた四人の瞳に映ったのは、如何にも軍人然とした女丈夫である。歳の頃は黄忠と同じ位で、而立までは時を要すが、既に女性としての円熟期を迎えつつある。長い銀髪を頭の高い所で結わえて無造作に後ろに流し、切れ長の眼差しは、厳しくも有り優しくも有り、見る者によって印象は区々だろう。豊かな胸と紅を引いた口許の黒子が女性らしさに華を添えている。

 勿論、李光と張業の頬が上気した事を記すのも、その二人が王媚に向う脛を蹴飛ばされた事を書き記すのも、無駄、と言ってしまって差支えが無い。詰り二人の少年は、彼女が魅力的な女性だと言っているのだ。

 其れは扨置き、女丈夫は喜劇の様な四人の遣り取りを視界に治めているにも拘らず、怪訝な眼差しを緩めずに言葉を続ける。

「お主ら、身の証を立てるものは有るかの?」

「通行鑑札で宜しければ、此方に」

 李光が懐から取り出した其れを目にすると、女丈夫は益々怪訝な顔をする。普通なら、鑑札を発行した者の名を見た途端に問答無用で通してしまうが、少年達の風体と鑑札に釣り合いが見られない所に、女丈夫は違和感を覚えたのだ。

「お主等、不埒を働いて、この鑑札を手に入れた訳ではあるまいな」

「滅相も御座いません。此れは、我師の司馬徳操を介して、襄陽の名士・黄承彦大人に御願いして取り寄せて貰ったものです。決して、不浄のものでは御座いません。私の名は徐福と申します。司馬徳操こと水鏡塾の門下である事は、調べて貰えば直ぐに判る事です」

 真偽の確かめ様は無いが、澱み無く口から出る言葉を聞き、女丈夫は、粗真実だろうと思った。が、容易に信用する事が出来ないのが、現在の中原の状勢であり、譲城と言う都市の立場である。念には念を入れる必要は有るのだ。

「おい、程将軍を呼んで来い」

 女丈夫は、随伴している部下に言いつけた。四人を連行しなかったのは、やはり、太尉・張温の印を憚ってである。罷り間違ってこの事が張温の耳に届いて不興を買えば、罰せられないとは言い切れない。その場合には、一族にも類が及び、場合に依っては、彼女の主君にまで其れが及ばないとは限らないのだ。この辺りでの妥協が、最低限の節度であろう。


「待たせたな。黄将軍」

 其の言葉とは裏腹に、程将軍と呼ばれた者は、一刻を要さずに姿を見せている。其れだけ、譲城の土地柄と通行鑑札の発行主を重視しているのだ。

 因みに、時の単位を表す『刻』の文字は、本来は百分の一を示す意味が有り、南北朝以降は約十五分に換算されるが、漢代以前では三十分に換算される。『時』は二時間と思えば良い。

 話を元に戻す。程将軍とは、程普の事である。因みに、先程から登場している銀髪の女丈夫の姓諱を黄蓋と言う。共に富春を出自とする孫堅に仕えているが、其の孫堅も今は、中原の平定に奔走している朱儁の下で奮闘している。

 其れは扨置き、事情を聞いた程普は肯首した。

「間違い無いだろう。張太尉と黄大人の伴侶は親類関係に有る。黄大人と司馬女史が共に襄陽付近の名士なら、多少の親交が有ると考えるのが自然だろう。屋号までは知らんが、確かに司馬女史は私塾を経営しているとも聞いている」

 程普は、孫堅の元に集う武将の中でも智将として知られていて、参謀に近い立場である。其れだけに中央政府を始め、中原やその付近の情報には精通している事情通である。特に、戦を有利に進めるには、敵将の情報の分析は必須である。必然的に、海内の重要人物の相関図は、彼女の頭に叩き込まれていると言う事だ。

 程普からお墨付きを貰えば、黄蓋には其れ以上に胡乱に感じる事は無い。

「疑って、済まんかったの。今は繁忙の時じゃて、身元の定まらない者は、城内に入れない決まりになっておるのじゃ。で、此処には何用が有って訪れたのじゃ?」

 黄蓋には、此れまでの剣呑な感じは全く無い。切れ長の目が細められると優しさが目立ち、これ程までに愛嬌が増すのか、と疑いたくなる位にがらりと表情が変わる。凛々しい女性が嫌いと言う事は無いが、李光は、親しみやすい今の彼女の方が余程に好感を持てた。

「実は、登龍門の異名が有る私塾を経営していた李家に嫁いだ者を調べています」

「登竜門とは、李膺の事だな?」

 訊ね返したのは、程普の方だ。彼女は李光が肯くのを見届けてから、続きを話し始める。

「それなら、この城内では無い。譲城の治政管轄だが、此処より真東に有る近邑だ。其処で訊いた方が早いだろう」

 程普は、親切にも簡易な地図を、剣先で地面に書いて説明と注意を加える。

「併しな……、東に向かうと許県に近付く事に為る。許県は、現在は黄巾の支配下に有るから、危険だぞ。四・五日待てば、潁川郡と東郡の掃討作戦が始まる。其れまで待った方が良く無いか?」

 李光は、程普の言葉の謎掛けに直ぐに気付いた。急いて出発すれば、極秘情報を漏洩する黄巾の賊徒の内通者、と言う嫌疑を再び掛け兼ねられない、と言う事だ。急ぐ旅では無く、四・五日の遅れなどは如何と言う事は無い。

「其れでしたら、軍の進発を待って、ゆっくりと東に向かう事にします」

 程普は、満足気に肯く。恰も、物分かりが良くて助かる、と言っている様にも見える。


 黄巾討伐の軍旅は、程普の言葉通りに五日目に発せられた。李光達は、其れから五日を待って出立している。軍隊は足が遅く、一舎、詰りは一日の移動距離は、街道の整備が進むこの時代であっても、精々三十里程度が限界である。数の少ない黄忠の部隊でもその位が限界で、平原で移動は楽に為っても、数が多ければ、やはり三十里が限界であろう。

 扨、荊州でも、南郡や南陽郡は口数が多く、城郭間は必ず一日の行程内に有るが、其れ以上に多くの人が集まる中原は、一日の行程内に複数の城県がある。詰り、付随する郷邑は数多であり、場合によっては城壁から遠望できる程度の距離にある。

 『登龍門』と渾名される塾舎が有るのもそんな邑で、譲城からは一時も掛からずに到着している。やはり程普は単に鎌をかけたのであり、李光達が黄巾に癒着が有るかどうかを調べる為に、口から出まかせを言って試しただけである。

 地方の私塾は、大概は城郭からは外れた郷邑にある場合が多い。其れは当時の交通事情に起因していて、近隣の者が徒歩で通って来る事は無く、又、地方都市では長逗留できるような宿泊施設や宿舎を斡旋する者が居ないからだ。必然的に学舎内に宿舎を併設するしか無く、広大な敷地を必要とする訳である。勿論、水鏡塾が南漳県の城郭に立てられていないのも同じ理由である。

 邑に足を踏み入れた途端に登龍門が、どの家屋なのかが直ぐに分かった。私塾が邑の中に場所を求めた、と言うよりは、私塾が出来たから人が集まって此処に邑が形成されたと言って良い程に、塾舎を中心にして民家が広がっている。

 登龍門と呼ばれた私塾の門前に立った李光は門を開け放つと同時に、胸に熱いものを覚えた。既に李家が桂陽に流されて二十年近く経っているにも拘らず、庭には塵一つ無く、建物には傷んでいる所が全く見受けられない。人が生活している気配は無いが、人の温もりのある家と言うのが正しい表現だろう。

 邑の者が、李家の帰来を望み、何時戻って来ても困らない様に、入れ代わり立ち代わり手入れに訪れているのだ。考えるまでも無く、李光が導き出した答えである。同時に、これ程までに人々から愛されている事を知り、李家の再興を決意するだけでなく、

 ――李家の威明を、再び海内の隅々にまで知らしめなくてはならない。

 其の想いを心に強く刻み付けた。李家の一員として迎え入れられた事を誇りに感じずにはいられない。強い決意は躰中に漲る力へと変わり、軈て肩を伝って握り拳に為った。気持ちの篭った拳を確かめ様と俯いた時、帯から下げた佩が瞳に映る。同時に、甘寧に告げた言葉が思いだされる。

 ――先ずは此れを、兄の内儀に御届けせねば。

 と。方便とは言え、口に出した事を実践しないのは、不義を働くのと変わらず、士大夫としては失格である。大志を抱いたからには、他人にも己にも嘘をついてはならない、と。近隣で情報を仕入れた李光は、兄・李瓉の内儀の住む、潁陰へと向かう。

 譲城から潁陰に向かうには、一度東に向かって臨潁を経由し、其処で進路を南に転ずれば良い。距離にすれば、二日であろう。併し、問題が無い訳ではない。戦乱に塗れている潁川郡を、無事に徒歩で旅する事が出来るのか、と言う事だ。決して不安は小さくは無いが、李光の決意は固く、徐福、張業、王媚の三人に懸念を押し切る格好に為った。


 不安と言うものは、概ね的中する。臨潁は、黄巾の賊徒の強襲に屈して陥落していて、現在は其の奪回作戦の最中で、内通を防ぐ為に街道は遮断されている。臨潁の手前で停留を余儀された者は少なくは無く、彼等から其れなりの情報は流れてくる。

 潁川の領する黄巾の賊徒の首魁の波才が籠城した為、後詰を断ち切るために周囲の城郭の攻略を始めているのが、臨潁に立て籠もる賊徒も門を固く閉ざして籠城を始めた為に、今回の街道封鎖へと繋がっている。

 旅人に残された現実的な対応策は、譲城に戻って南進して舞陽を目指し、其処から東進して潁陰を目指すしかない。又は、野宿を前提にして、間道を使って臨潁を回避すると言う方法が有るが、黄巾の賊徒が近い所に居る可能性があるなら、現実的な選択肢では無い。

 仕方なく、四人が来た道を戻ろうとしたその時であった。

「何じゃ……、又、孺子どもか。今度は如何言う訳じゃ?」

 黄蓋である。見咎めていると言う訳ではない、偶然が二度重なれば、多少は疑いの眼差しを向けられるのも仕方が無い。併し、蚊のjの眼差しにはそう言った色は皆無であった。

 李光は、これ以上は目的を有耶無耶にして、隠し通す事の方を危険と判断した。

「私は、譲城李家の流刑先の桂陽で世話になった者です。所が、自然災害で李家の者の悉くが絶え、私は恩を返す為にも李瓉様から頂いた佩を、御内儀様に形見として届けようと思って此処まで来ました。其の御内儀様が、今は潁陰で暮らしていると判りましたので」

 李光は、話して同情を引こうとは考えてはいない。其れ故に、言葉は事務的な色合いが強い。黄蓋は、話を聞いて大きく溜息を吐く。重要な点は一つである。少年達が、桂陽から逃げ出して来た無宿人である、と言う事だ。

 黄蓋は、桂陽の西隣の零陵郡の出自で、郡の治政背景は、桂陽郡の其れと大差は無い。流刑に科せられた者と異民族が多く、口数を掌握する為に移住は認められていない。詰り、黄蓋の様に、士大夫の家柄でなければ、易々と郡内から出る事は出来ないと言う事だ。

 宮仕えする者として、本来なら少年達を検挙しなければならないが、

 ――思えば不憫ではないか。

 と彼女は思った。遠い桂陽から、苦労を重ねて中原まで来た事は、詳しい話を聞かなくても分かる。寧ろ、こういう問題を常に身近に感じて成長して来たからこそ、薄倖の少年を作り出さねばならない今の政府の方に問題が有るのだ、との考えに至る。悪いのは現在の政府なのだと思うと、黄蓋は、早々にほっかむりをして見逃す事にした。

 併し、もう一方の問題の解決は難しい。軍と言うものは、統制下の元に行動する団体なので、作戦行動中は、其れを乱す者の混入は御法度である。軍務についている彼女であるからこそ、此の事を重々に承知しているが、

 ――其処に人情味が有っても良いではないか。

 とも思うのだ。軍とは言っても、所詮は人の集まりなのである。規律の何処かに人情が挟まれても良いだろう――、と。

「何か、我軍に有益な情報でも齎せば、融通が出来るんじゃがのゥ……」

 黄蓋は、恰も独り言の様に呟いて見せたが、少年達は、目敏くその言葉を聞き付けた。

「先生、籠城戦をぱぱっと終らせる様な献策をすれば良いんだよ」

「黄大人の屋敷での、三ヶ月にも及ぶ退屈な日々の成果の見せ所だぞ」

 王媚と張業が口々に囃し立てるのは、多少なりとも鬱屈とした日々を送らされた怨みが有るからだろう。尤も、其れには関係無く、李光は目の間に何かの問題が提示されれば、採用の如何に関わらずに所見を巡らせるだろう。況してや、自分の我侭で潁陰に向かうのだ。知恵を絞るのが当たり前の話だ。

 李光は、貌を上げて郊外を見詰めた。何かしらの献策が有る、と言う表情だ。黄蓋は、肯きだけで先を促す。

「短時間で城郭を陥落させるには、伏兵を駆使して隙を作り、其の間隙を縫う位ではないでしょうか。ですが、敵味方共に、夥しい数の死傷者が出るのは必至です。代案は無い訳では無く、上手くいけば、の話ですが、十日位を掛けても良いのであれば、敵味方の被害を最小限にした上で、落城を達成できるかもしれません」

 黄蓋は戦人だ。それだけに、戦えば、多くの犠牲者が出る事が当たり前だと思っている。勿論、其れを少なくする事は心掛けている。自分が先頭に立って剣戟を振い、兵士を鼓舞し、其れで犠牲者が減るのなら、彼女は喜んで先鋒として身を捧げる覚悟がある。

 併し、少年を見れば、自分と同じ事をして犠牲を少なく出来る筈は無く、寧ろ、そんな方法で犠牲者の数を減らそうと考えていない事は、一目瞭然である。では、どんな方法が有るのか――、と黄蓋は、更に眼差しを送る事で先を促す。

「先ずは、汚物の排泄口を探し、其れを塞いでしまいます。当然、汚物は城内に溜められたままに為り、朝夕が冷え込む様に為って来たからと言っても、残暑の厳しい今の季節では、城内は三日を待たずして酷い異臭に苛まれる事に為るでしょう。城内には、数万の民が起居しているでしょうから、穴を掘って埋めるのにも限度が有ります。と為れば、城壁に登って城外に捨てる事を考えるでしょう。此処からが戦の始まりになります。敢えて当てる必要は有りませんが、弓射して人が城壁に登る事が危険である事を知らせれば、汚物は城内に溜まる一方です。兵士は耐え忍ぶかも知れませんが、民は我慢が出来ず、城内には不協和音に満ち、付け入る隙が増えます。場合によっては暴動が起きるかも知れませんし、矢文を放って其れを扇動する事も出来ますが、開門すれば、城内の者の一切の罪過を免ずる、とした方が効果は大きいでしょう」

 攻め墜とす事ばかりを考えていた黄蓋は、着眼点の違いに感心をした。同時に、

 ――これなら堅殿に引き合わせても良いだろう。

 と判断する。少なくとも、郡の運営を任されている程普は、賛同に廻る筈である。黄蓋は、四人を本営へと導いた。


 本陣へと向かう道すがらの事である。

「李先生、何処であんな事を学んだのですか? 孫子や呉子を読んだだけでは思い当りませんよ」

 耳朶に口唇を寄せた徐福の瞳は、新たな戦の方法を提示した李光に心酔している様な輝きが有る。男の腕を抱きかかえて答えを強請る様子から見るに、何処でそんな方法を学んだのかを知りたくて仕方が無いと言った風だ。

「墨子の一節にこうあります。汚物の排泄口は、人目に付かない所に設けよ、と」

 墨子は、混乱期の春秋末期から戦国初期に生きた思想家で、小国家独立を理想として掲げた。併し、勢力拡大に躍起になっていた当時の各国家の政治思想とは相いれる事が無く、残念ながら重用されなかった思想である。当然、大帝國の支配する様に為った大秦以降の王朝に於いても重視はされておらず、名を知るに留まる程度が当時の墨子への評価だ。敢えて言えば、見向きもされていないと言って良い。併し、一つの城郭が一国家と歩むのが理想としていただけに、城郭の独立性を高める為の知識が豊富に鏤められていて、李光の様に、新たな国家体制を望む者にとっては学ぶ所は少なくは無い。

 黄大人の書庫には、多くの書物が収蔵されていたが、何処に行っても読める五経や有名な兵法書より、滅多にお目に掛かれない墨子の様なものに李光の心が強く引かれたのは言うまでも無い。

 扨、そうこうしている間に本陣へと到着する。柿渋の防水が為されただけの簡素な幕舎から、孫堅と言う武将の為人が窺える。華美な賛辞を好まず、荒唐無稽な言葉より、実現可能な事を至上とする人ではなかろうか、と李光は思った。

 李光が思いを馳せている内に、黄蓋からの簡単な紹介と、先程の献策が説明される。

 孫堅は然して面白そうな顔もせずに李光を一睨みすると、声を掛けずに程普へと視線を移して意見を求めた。

 程普は苦笑した。こういう素っ気無い態度をとる時が、主君の孫堅が強い興味を抱いた時である事を、程普を始めとする孫堅に随伴する武将の殆どが知っているからだ。勿論、黄蓋は、安堵に溜飲が下がる思いをしている。

「やってみる価値は有る、と思います。決戦を目前に控え、兵数を減らさずに済むのなら、それに越した事は有りません。逆に増えるのであれば、正に渡りに船と言う事に為ります。期間的にも、計算通りに十日で片が付くなら、短期決戦と言って良いでしょう。剣戟を交さねば、精強な兵は育ちませんが、勝つ事は自信へと繋がります」

 程普の太鼓判に、孫堅はやっと満足気な肯きを見せる。本来の孫堅と言う武将なら、落城に十日を掛ける様な、まどろっこしい方法は取らない。が、今回に限ってこんな手段を採用したのは、波才と言う思いも掛けない戦上手の敵武将の前に、帝國の誇る皇甫嵩・朱儁の二人が、手痛い敗戦を喫したからだ。

 否、正確に記せば敗戦では無く、痛み分け、ではあるが。勝つ事が運命付けられている官軍が引き分けに終わる事は、意味する所は敗戦と同じなのだ。官軍とは言っても、実情は現地採用の者が殆どで、食う為に志願した者ばかりだ。其れでも、食えるからと言って、容易に兵卒に志願するものでも無い。命あっての物種なだけに、強い官軍で無ければ、志願する者が増えないのが実情だ。

 皇甫嵩・朱儁が許県の波才を引き付けている今、彼等に随伴する諸将が周囲の城郭を奪取して波才を締め上げると共に、主君の名声を上げようと躍起になっている。朱儁の下では孫堅が働き、主に南東の城郭の平定を行っており、もう一方の皇甫嵩の下では曹操が奮戦し、北方の城郭の平定を行っている。主君の名声が上がれば、部下である彼女達の名声も上がる。戦いは敵味方の間だけでは無く、様々な立場と場所で行われているのだ。

「上首尾に終われば、褒美を遣わす。陣内で待つが良い」

 其の言葉と共に去り行く孫堅に、李光は声を掛けた。

「私共は、此処より南の潁陰に用向きが有って此処に立ち寄りました。閣下の御命令で戦を見届けるのは吝かでは御座いませんが、三日の御猶予を頂ければ先に用向きを済ませる事が出来ます。必ず戻ってまいります故、如何か御配慮を」

 孫堅は、大度は必要だ、と肯く程普を見た後で、思量する。今後、孫家に役立つ存在ならば、易々と見逃す手は無い――、と。再びこの場に戻らせる為の配慮は必要だが、人質を取ると言う険呑なやり方は逆効果だ。其処で孫堅は、一計を案じる。

「李少年は、孫家の大事な客人だ。其方が潁陰に行きたいと有らば、引き留める訳にはいかぬ。併し、こう言う御時世だし、何時、黄巾の賊徒と遭遇せぬとも限らぬ。其処で、我軍から腕利きの護衛を付けようではないか。其れなら、私も安心と言うものだ。三日とは言わず、四日でも五日でも好きなだけ時を懸けると良い」

 そう言うと、孫堅は足早に幕舎を後にした。李光は、孫堅の策略に気付く事は無かった。勿論、見張りが付いたのだから、親切な人だ――、等とは露程も思わなかったが……。


 潁陰に向けて出立したのは翌朝の事だ。李光に加えて何時もの三人、更には如何にも不機嫌だと貌に書いてある少女と、全く無関心だと貌に書いてある少女がいる。取敢えず、自己紹介を、と李光が口を開きかけた時であった。

「アンタの御蔭で、私の輝かしい初戦の、華々しい勲功が消えちゃったじゃないのよ!」

 食って掛かったのは、不機嫌も露わな貌の少女だ。

 李光が驚いたのは彼女の剣幕では無く、何故、初陣で勲功を得る事が出来る、と断言できる所だ。他の三人も同じ疑問を抱いたのだろう、其れを解消しようとか考えたのも同時なのか、無関係だと澄まし顔をする少女の方に視線が集まる。

 併し、少女は微動だにしない。否、微かに眉間の縦皺が僅かに深く為った様である。恰もその顔から察するに、私に聞くな――、と言外に語っているかの様に見える。意志が揺らぎそう無い程に表情は硬い。目の下に有る薄らとした隈から鑑みるに、昨晩は長々と不満を聞かせ続けられたに相違ない。李光達は、訳を聞くのを諦めた。

 そして、おかんむりの少女に再び視線を戻した時、李光は此処に来てやっと重要な事に気付く。この少女、何処となく所か、誰かにそっくりではないか――、と。

 鴇色の髪の毛、褐色の肌、勝気な性格を其の儘具現している様な吊り気味の瞳に象徴される鋭利な貌の造り、まるで、昨日言葉を交した孫堅を一回り若くした様な印象である。こんな事が早々あるのか、と訝った李光は、懐疑の眼差しと共に、其の想いを言葉にした。

「何か、ちびっこの孫将軍に見えますが……」

「ちびっこ、て何よ! 私だって、もうすぐ元服なんだから、もう十分に大人よ! 大体、母娘関係なんだから、似ていて当たり前じゃない!」

 年齢にはそぐわない立派な胸を突きだして威張る様子に、止め処も無い頭痛を感じなくも無いが、詰り、孫堅と言う武将の本質が、この少女と同じなのだと思うと、他人事ながら、孫家軍の行末に、多少の不安を感じないでも無い。同時に、何故孫堅が、幼い娘を護衛と称して李光と共に送り出したのかが、この短い遣り取りから朧気ながら解った。

 この戦好きの少女は、事ある毎に戦をさせろ、と煩いのだ。そして今回は策謀を駆使する事で落城を目指している孫堅の方針に不満を募らせる事が分かっているだけに、相手をするのが面倒だから、献策した李光に最後まで責任を取らせる、要はお守りもさせようと言う事なのだろう、と。

 護衛が付く事に親切心を感じた、等とは露程にも思っていないが、

 ――厄介事を押付けられた……

 とは思った。此処までの面倒を見る心算は無かっただけに、この騙し討ちに憤りを感じなくも無い。併し其れも、今と為っては後の祭りである。

 肩を落とした李光は、護衛の二人を全く無視して足先を南の潁陰へと向けた。

「楽しい旅に為りそうじゃないか」

 全く慰めになっていない張業の言葉が、妙に癇に障った。


 本来、臨潁より以南は黄巾の賊徒は皆無で、護衛の必要が無い。孫堅とて、そう言った情報は耳にしているだろうから、やはり李光に厄介を押付けたのだと思って良い。

 文句を言い続ける事で僅かずつでもガス抜きをすれば、怒りの炎も少しずつ収まるのは道理だろう。一ときの間を賭けて文句を言い続ける事で、少女の気も多少は晴れている。今では、自己紹介をしていない事を不躾だと思ったか、

「私は孫伯符よ。元服を迎えていないから、字の方は決定じゃないけど、ね。で、こっちは冥琳。姓字は周公瑾ね」

「オイ! 其の名は他人の前では禁忌だろう」

 補足としてだが、二人の姓諱は、孫策と周瑜である。因みに周瑜は元服を迎えているので、公瑾は正式な字である。

 通常、他人に名乗る時は姓字が基本であろう。主君や天子が相手では諱を使うが、どんな事が有っても渾名を自己紹介に使う事は無い。当初は、李光は、『冥琳』は渾名だと思ったが、本人の〝禁忌〟と言う言葉に戸惑った。次いで、徐福なら知っているかもしれない、と振り向く。

「真名と言う、諱とは別の意味で重要な名です。数年前から、都を中心に流行りだしたのですが、主に、字で呼び合う以上の親しい間柄で使われます。普通なら諱で呼ぶ場合に、敢えて真名を使用するですが、諱は、託した願いとは逆の意味を持つ文字を使う事が多々あります。例えば、丈夫に育ってほしい場合に、敢えて〝弱〟とか〝病〟等の文字を使用する事があるでしょう。其れだと聞こえが悪いので、聞こえの良い文字を使用する〝真名〟と言う風習が定着しつつあるのです」

 詰りは、諱と同等の重さが有る呼び名と言う事である。軽々しく聞き返さなくて良かった、と李光は思う。でなければ、今頃は如何為っていた事か、と。諱で呼ぶ事が憚られるのは、呼ぶ事で精神的な支配が出来ると信じられていた時代の名残だ。要は、真名で呼ぶ事にも、同様の意味が込められていると考えるべきだろう。

 李光の考えは其れとして、全ての人が同じ考え方をする訳ではない。

「便利だなァ」

 この言葉は、張業のものだ。王媚も肯きで賛同している。特に、李光を含めた三人の間には遠慮が無いから、諱で呼び合う事に抵抗は無いが、最近は他人と出会い、共に行動する事も多く、容易に諱で呼び合う事が憚れつつある。王媚は元服を済ませていて『伯娘』と言う字が有るが、李光と張業には其れが無く、名乗る時に困る事が多いのだ。張業と王媚は、諱に代る真名が幾分にも軽いものと考えたのだ。

「じゃあ……、私は、伽子華(キャスカ)にしよう」

「俺は、比彬(ピピン)だな。先生は……、そうだな、樵霞(コルカス)にしろよ」

 勿論、二人は知っている文字を並べただけで、特に意味するものは無いのだ。重要なものだと言っている手前から、お気軽に真名を決めようとしている二人に、多少の頭痛を覚えないでもない李光だが、敢えて無視する事でやり過ごす。

 名と躰には密接な繋がりが有るのだ。其れだけに安易な気持ちやその場の勢いだけで名付けてはいけない――、と。

 視線は既に、徐福へと向けられている。

「真名には、何か決まり事の様なものが有るのですか?」

「特には有りませんが、やはり、諱に変わるものですから、熟慮してから決めた方が良いと思います。存外に多いのは、慣れ親しんだ、童名か、その一文字を使う事です。名は体を表すと言いますし、幼少時代の名は、意外な程に本人の本質を見抜いているものです」

 張業達とのやり取りを見ていた徐福は、苦笑を隠そうともせずに答えた。

 そう言われれば、李光に考え付く真名は一つしか無い。其れは、表情へと変わった。真名の交換を期待している徐福には目もくれず、李光は定めた其れを胸裡に仕舞い込んだ。

 ――然るべき時、然るべき人にだけ告げれば良い。

 と。思うや李光は足を速めて、南の潁陰を目指す。

「ピ~ヒョロロロ……」

 取り残された徐福の頭上を旋回している鳶が、如何にも呑気な鳴き声を上げた。


 抑々、潁陰までの道中には危険は無い。秋の陽射しの下、世間話に興じながら歩を進めれば、心の中の柵も、何時の間にか消え去ってしまうのも若者の特権と言って良い。文句ばかりを言っていた孫策も、今ではこの凸凹四人衆に興味を抱いたようだ。それは、李光が提示した戦略への対抗心を感じさせる言葉と為って現れた。

「賊徒に温情なんてかける必要は無いのよ。命を取られないと分かればつけあがる一方で、一度降伏しても、時が経てば、直ぐに反旗を翻すわ。甘やかして有益な事は一つも無いわ」

「確かにその通りです」

 李光は直ぐに賛同する。拍子抜けする孫策を余所に、彼女の考え方は間違いではないと思った。彼等が賊徒であり続ければ、武力を以って決着を付ける事も必要だが、彼等が帰農した場合はどうなるのか。賊徒は国家に仇なす者であったとしても、百姓の者は、国家には無くてはならないものである筈だ。人の集まりが国と言うものを論ずべき基礎に有るのなら、国家の再生は、民を助け、帰農させる事ではないのか。天子と崇められる者は、国家が有って初めて人臣の上に立つ事が出来るのだ。国は、哀憐と温情を持って治めるのが正道であり、恐怖で縛り付けるものではない筈なのだ。

 併し、孫策の言葉が現在の海内では主流の意見であり、云わば正義でもある。李光とは、思想が根本的に違うのだから、論ずべき事自体が無駄だとも思うが、彼は、彼女を少しだけへこませてやるのも良いと思った。

「ですが、多くの人が死ぬよりは、死なない方が良いでしょう。多くの人が死ぬと言う事は、貴女の知った顔がその中に含まれる確率も増えるのですから」

「私の知り合いには、そんな間抜けはいないわ!」

 孫策は、瞳に怒りを込める。馬鹿にはされていないが、気に障ったのだ。鉄の様に直ぐに熱くなるのが、彼女の一番の長所だと言って良い。若しくは、単にむらっ気が強いだけかもしれないが……。

「単なる確率の問題ですよ。人が一人死んだ場合と、千人が死んだ場合では、単純に確率は千倍になるでしょう。其れと同様に、怨嗟も千倍、否、其れ以上に膨れ上がるのですよ」

 孫策は、眉間に縦皺を寄せる。李光が何を言いたいのかが、今一つ解りかねる、といった所だ。が、相棒の周瑜の方は、悔しそうな貌をした。李光が何を言おうとしているのか、察しが付いたし、既に孫策が話術に嵌ってしまっている事が分かったからだ。

「昔、江南に覇王と呼ばれた人がいましたね。敵将の支配を受け入れた、と言う理由だけで定陶に住む人を、老若男女に関わらずに皆殺しにしました。他にも、敵将の章邯の連れていた兵士二十万を、反乱の恐れがあるとの讒言だけで抗殺しています。結果的に諸侯が懐かなかった覇王は、多くの敵を抱えて戦に負け、躰を八つ裂きにされました」

「其れが、他人から恨みを買った応報とは限らないわ」

「周の文王は、徳を以って諸侯を遇し、多くを味方に付け、暴政を布いた商の紂王を破り、春秋の動乱期が始まるまでの四百年、王朝に栄華を齎しました。その春秋時代から覇道を歩み始めた秦は、四百年を掛けて徐々に力を付けて並み居る列強を下し、数百万、数千万と言う人を死に追い遣って帝國を築き、僅か十五年で滅亡しました。私は、多少なりとも因果が有ると思いますが」

 孫策は、音が聞こえそうな程の歯軋りをした。言い負かされた事が、悔しくて悔しくて仕方が無いのだ。其れでも周瑜に助けを求めなかったのは、彼女の意地と言って良い。何処かに逆転の先例は無いものか、と思案を巡らせるが、周瑜が首を横に振る様子を目の端に留め、盛大に地団太を踏んだ。

 孫策は、李光を睨み付けながら、彼の背後を進む。潁陰は、もう、直ぐ其処であった。


 目指したのは潁陰であっても、県城ではない。潁陰には、李瓉に嫁いだ荀氏ばかりが住む集落が有り、李光が目指したのは其方である。向かうのは荀爽の屋敷で、李瓉は彼の末娘を娶り、一男を儲けたが、流刑を前にして三行半を渡す事で妻子を刑罰から守っている。

 荀爽の屋敷は慎ましやかな造りであった。正面門いがいは敷地をしゃちこ張った門塀で仕切らず、生垣と板戸だけで囲った屋敷は、周囲の土地と一体になって時を育んで来た様にも見える。家の造りは人柄を表す。荀爽とは、肩肘を張らない性格の人なのだろう、と李光は思った。

 門を敲き、対応に現れたのは耳順に手が届こうかと言う年齢の老人である。上品な目尻の皺や豊齢線、眉は白く、冠の乗る髪の多くは白いものに変わっているが、どれもが品が有り、家僕どころか、家宰にも見えない。如何言う手合いの人だろうか――、と疑問に思う。李光は、失礼に為らない様に、言葉を選んで話し掛ける。

「私は、桂陽に流された李家に、言葉では言い表せない程の恩を受けた者です。所が、彼等が流された邑は災害に見舞われ、土砂崩れに依って大半の命を失いました。残念ながら、李家の面々は、その運命から逃れる事が出来ませんでした……」

 李光は、此処まで話して言葉を詰まらせる。顔を俯かせたのは、零れ落ちる涙を隠す為だ。此れまで、辛い気持ちを押し留める為に、感情を込めずに話してきた。併し、兄・李瓉との思い出の有る帯飾りの佩が手元から無くなると思うと、李家の一員ではなくなってしまう様な気がして、昂る心を抑制する事が出来ない。

 無言の時は、どれ程続いたろうか。李光の足元に出来た涙の染みがくっきりと残っているのを見れば、随分と長い時間だったのだろう。李光は、不意に左の二の腕に温もりを感じる。眉雪は、哀惜と慈悲の眼差しで李光を見詰めながら、力付ける様に腕を軽く叩いている。父の様だ――、と父の温もりを知らない李光は感じた。

「此方を訪れたのは他でもありません。以前、私は李瓉様から此の佩を頂きましたが、今と為っては形見と言っても過言ではありません。私が持つより、然るべき方が持つべきだと考えました」

「貴方が其れで良いと思うのでしたら、然るべき者に御引合せしましょう」

 全てを見通している様な瞳で見詰められた李光は、はっきりと肯いた。

 六人は眉雪に誘われて屋敷に足を踏み入れ、離れへと通される。内、李光だけは更に老爺の後に続き、屋敷の一室に通される。暫く待って現れたのは、不惑に近付いた女性と、李光と同年齢位の男子である。

 男子を見た途端に李光は蒼ざめ、浮かれていた心に冷や水を浴びせられた気持になった。

 ――私は、何と放漫だったのか……

 と。

 思えば、兄・李瓉からは何度も子を授かった事を聞いていた筈である。李光がどんな大志を胸裡に秘めようと、正統はその子に有り、一族の再興も、彼が求道するものであり、其れが正道であろう。端から、李光が求める場所は無かったのだ。

 親子が何度も頭を下げ、桂陽での李家の暮らしぶりを聞いているが、李光は機械的に答えるだけで、今直ぐにでもこの場を逃げ出したい気持ちで一杯であった。

 その機会が訪れたのは、夕闇が迫り、燭台に火を灯す者が訪れを告げた時であった。中座した李光は、孫策達が待たされる部屋へと行き、

「帰りましょう」

 言うや、荷物を持ち上げ、早々に退室しようとする。其れを引き留めたのは、周瑜だ。

「何を言っている。家主への挨拶も終わってないのに、そんな無礼が出来る訳ないだろう」

 強引に腕を掴み、李光を振り向かせる。蝋人形の様に表情が消え、血色の失せた顔に気付いたのは其の時だ。

 怪訝な眼差しに晒され、李光は俯いて顔を隠す。己が浅慮に原因が有るとは言え、今は誰にも干渉して欲しくは無かった。此の場から消えて無くなりたいだけであった。

 五人は顔を見合わせる。此れでは訳を問質す事も出来ず、唯従うしかない。五人は釈然といない儘で、各々の荷物に手を掛け、足早に歩く李光の後を追うしかない。あれ程希望に満ち溢れていた顔が、今ではこの有様である。狐に抓まれている様な気持ちであっても如何する事も出来ない。が、求めれば答えは得られるものだ。

 当然に立ち止まった李光の目前に、対応に現れた老爺が貌を出す。

「大変な苦労を重ねて此処まで来て、辛い思いをしましたが、此れが決して今後に報われないと言う事ではありませんよ。老生が若人の貴方に出来る事等は微々たるものですが、其方の御父上の元礼殿の生前の事を話して進ぜよう」

 老爺は、皺の様に目を細めて笑顔を作った。

「名乗るのが少し遅れたが、儂は荀慈明と言うものだ。娘と孫に、生きる希望を与えてくれて有難う。何処か、抜け殻の様に為っていた娘が泣き、笑い、やっと人間に戻った様に感じました。貴方には辛い事ですが、その分だけ人に幸せを分け与えて呉れたのです」

 荀爽は、深々と頭を下げる。

 僅かにでも人の役に立った事で幾分か救われた気がした李光は、微かに血色が戻った。尤も、血色が戻ったのは、己が事しか考えていなかった自分への羞恥が多分に含まれていた事だろう。元より、潁陰を訪れたのは、兄の内儀の為では無かったのか――、と。

 荀爽に連れられた李光は、ひと払いのされた屋敷の一角へと消えた。


 荀爽の話を聞き終えた時には、既に夕闇が訪れていた。結局は荀家で一晩を厄介に為り、今は寝台で躰を休めている。李光の知らない父の話を聞き、多少なりとも救われるところは有ったものの、一度昂った心は中々収まる事は無く、李光は躰を右に左にと捩っているが、中々眠気は訪れ様としない。

 一枚の絵画の様な風流な庭先で虫の音、風に戦がれて怒る葉擦れの音、全ての音が耳に付いて心を騒がせる。聞える筈の無い、星月や雲の動く音までが聞こえて来そうであった。

 もう何回目の寝返りだろうか、もう数えるのも面倒に為る位に其れを繰り替えした時、李光は窓の外に人の気配を感じた。李光が気配に敏感と言う事は無いので、忍んで来た者がそう言った事に心得の無い者と思えば良い。枝葉を搔き分けたり、踏み折ったりと、夜陰に塗れて訪れた者にしては、細かな配慮に全く欠けている。怪訝に思った李光は、表に首を突き出して覗いてみる。

 ゴッ!

 想像を絶する衝撃が訪れたのはその刹那だ。瞼の中で獅子座流星群を観測した李光は、余りの痛みに額を抑えて蹲った。掃出しの窓を挟んで目の前では、やはり黒い塊が同じ様な格好で蹲っている。次の行動を起こしたのは、黒い塊の方が先であった。

「何すんのよ! 痛いじゃない!」

 否、其れは李光の台詞だろう。不審者が近付いて来たから、確認の為に顔を出しただけであり、詰責を受ける覚えは無い筈だ。が、呆気に取られた彼は、遂、口を滑らせる。

「申し訳ありません」

 と。此れで立場が逆転してしまう。世の中には強気な人間に都合よく出来ている、と言う事は無いだろうが、弱気な人間が貧乏籤を引く様には出来ているものだ。

「傷が残ったら如何すんのよ! 気を付けなさいよね!」

 再逆転の糸口が此処に有ったが、其れを李光に望むのは酷と言うものだろう。扨、主導権云々は別にして、突然の来訪者であっても、建物の内外に分かれて会話と言うのもおかしいと思ったか、李光は其の者を招き入れて椅子を進める。入口に廻らず、態々窓から乱入して来た事に苦笑を覚えつつ……。

「私は荀文若よ。今は、慈明叔父様の所で御世話になっているの。貴方が李光ね。一寸聞きたい事が有るのよ」

 主導権と言うものは、思わぬところで発揮される。本来なら、初対面の人物を諱で呼捨てるのは、不遜極まりないと言って良い。しかも、荀文若、彼女の諱を彧と言うが、李光に比べると明らかに年少で、本来なら敬わねばならない。が、其処で主導権がものを言う。「他でも無い、荊州の張曼成討伐の事よ。何で彼奴が、四川盆地に逃げるって分かったの?」

 荀彧は真剣なのだろう、椅子から上体を乗り出す位だから間違いはない。

 が、李光にも疑問が湧いた。潁陰に居た筈の荀彧が、何故、李光が張曼成を討ち取った部隊に居た事を知っているのか、だ。が、其れも、荀彧の疑問に答えた後で良い、と思った。

「別に予想出来ていた訳ではありません。当りを付けただけですよ。張曼成が、四川に逃げるという想定の下で作戦を立てただけであって、確実だった訳ではありません」

「……」

 荀彧は、唖然とした。顎関節が外れてしまった様に、口を閉じられずにいる。本来、作戦と言うものは綿密な情報の下であらゆる可能性を模索し、否定的な要素の搾取、検討を行った上で立案されるものであって、仮定の上で行われるものでは無い。其れを、易々と遣って退けた事に呆れたのだ。だから、思わず言葉が出た。

「アンタ……、バカァ?」

「……」

 今度は李光が呆れた。初見で、まじまじと見詰めた上で莫迦扱いは無いだろう――、と。

 尤も、荀彧の口は、その程度で閉じられる事は無い。

「大体、張賊が、渭水盆地に逃げたらどうする心算だったのよ。馬鹿なんじゃないの?」

「当てが外れれば、やり直すか諦めれば良いのではありませんか? 人間、死ななければ、幾等でもやり直しがききますから」

 其処が李光と言う人の強さだろう。所謂雑草の強さだが、失うものが無いだけに何度でもやり直す事が出来ると思っている。全てを失っても、一からやり直せると思っている事が強さに繋がっているのだ。

 再び呆れかけた荀彧だが、其れが彼女の意識下には無いものだと思えば、不思議と興味は湧いて来るものだ。荀彧は、注意深く李光を見詰め始めた。

「所で、荀小姐は、何故、私が別働隊に随伴していた事を知っているのですか?」

「買うのよ。正確に言えば、商人が商品と共に携えてくるわけ」

 荀家は、孟子に近い時代を生きた思想家で、『性悪説』をとした荀子の直系子孫に当る。其れだけに家柄の各式は高く、常に海内の状勢には注意を払ってきた。一族の姻戚関係や名族同士の情報の遣り取りによって得る場合もあるが、実は、海内の各地を渡り歩く商人、詰りは行賈から得る其れが殆どである。

 機転の利く行賈は、必ず人の集まる所には顔を出し、様々な情報を集める。其れを集約、判別し、名族や名士、豪族と、ありとあらゆる冨宅の下に品物と共に運んで商いが行われ、その質と精度が、後々の出入を左右する。商売人として成功するか否かは、其処に依る。

 各家に依って情報は様々だが、この情報は、荀家の琴線に触れた、と言う事だ。同様に、孫策に随伴している周瑜の本家も名家で、同様に多くの情報が雲集するが、常識の範囲内として、特に着目はしなかったのだろう。この辺りは、各家の方針によって異なる事だ。

 事の真実を聞いてしまえば簡単な事だが、其れが出来るだけの経済力や権力を羨ましく思わなくもないが、無い物強請りをしても始まらないのは事実だ。風聞に耳を澄ませ、必要不必要の判断を自分の経験の元に行うしかないのが、今の李光に出来る精一杯の事だ。

 扨、納得した李光は次の疑問に映った。

「何故、その事が気になったのですか?」

「私には、出来ないからよ。普通は、最良の結果を想定して策謀を立てるなんて言う様な、都合の良い事は考えないわ。寧ろ、最悪の可能性を考慮した上で、目的を達成を考えるものでしょう。其れなら、不慮の事態が起きても、対応が容易になるわ。一つの戦場で行われる戦術でも、否定的な要素を打ち消す事で立案されるわ。其れが更に長期の戦略や政略ともなれば、最良の目標だけを掲げた立案では、不規則な何かが起きただけで対処が出来ず、頓挫してしまうわ」

「成程……、勉強になります」

 そう言って深々と頭を下げる李光に、荀彧は肩透かしを食った気分であった。もう少し、対抗心や気概と言うものが無いのか――、と。

「ですが、政策に関しては、妥協の先に理想が有る訳ではありません。理想を確固たるものとして掲げた上で、努力を怠らない事が必要なのではないでしょうか」

 其の言葉を聞いた瞬間に、

 ――孺子の言葉だ。

 と荀彧は思ったが、言葉にする事は出来なかった。寧ろ、今迄の自分を否定されたようで、頭に血が上るのを感じつつも抑える事が出来ないでいる。雑多な知識を得る事で、自分が薄汚れた存在になったと認めている事でもある。多くの先達の言葉に触れ、様々な思想を耳にする事で薄汚れてしまったとは思わないが、真白な紙の儘の李光を羨ましく思わなくも無い。

 が、荀彧とは、素直に他人の意見に賛同出来るような、〝できた〟人では無い。

「だったら、比べて見ましょうよ。アンタは今のアンタの儘で生涯貫く。私はずっと今の儘でいる。何時か再会した時、変わっていた方が敗けよ」

 ――私だって昔は無垢だったのだ。

 世事に多く関われば、人というものは決して変わらない訳にはいかないのだ。羨ましさが無いと言ったら嘘になるが、今の自分を否定する事は、此れまでの生き様と此れから、の人生を否定する事と同じだ。誇りの塊の様な荀彧が、自分自身を否定出来る筈も無い。

「勝つのは私よ!」

 荀彧は捨て台詞を残し、入って来た時と同じ様に窓から去った。既に目的は果たしているのだ、此れは余禄の様なものよ――、荀彧は足音も高らかに夜の庭園を歩いた。その足音が、何処となく弾んでいる様に聞こえるのは、気のせいだろうか……


     ○


「もう一日位は良いのではないかな……」

 と引き留める荀爽に深々と頭を下げ、李光達六人は、翌朝には荀家を後にした。


 秋の冷気を帯びた風が、寂寞とした李光の胸裡を吹き抜けてゆく。足は思うように進まず、抜け殻に為った躰は微風にも流されてしまいそうで定まらない。大志だけは残ったものの、眼前の目標を失い、燦然と輝いていた星辰までもが遥か彼方に遠退いた様に思えた。胸にぽっかりと開いた穴を塞ぐ手立ては見つからず、焦れば其れだけ穴が広がる様な気がした。さりとて、故郷を飛び出してきた少年に、旅に疲れた渡り鳥の様に、羽を休める事の出来る栖が有る訳ではない。

 今は何処かで羽を休めたかった。目的を得る為に遮二無二天翔けて来た羽を、何処かで折り畳みたかった。併し、彼にとっては詮無い望みだ。浮き草は、結局は彼を取り巻くあらゆるものに流されて生きるしかない。吹き溜まりに流されるしか、一ヶ所に止まる術は無いのだ。

 だが、流された果てが吹き溜まりでは、余りにも惨めではないか。せめて、

 ――希望と共に自分の意志で其処に行きたい。

 と思うのは、少年らしい青臭さを残した考えだろう。尤も、李光は其れで良いと思った。要は心の持ち様なのだ。世間に馴染めずに流された先に行き着いたのではなく、自分から向かう。この気持ちが大切なのだ。


 幾分か足が軽くなった李光は、臨潁を目指す。其処で、孫策と周瑜と別れ、慰留を進める程普に丁寧に侘びを入れ、城郭の陥落を待つ。臨潁は、十日を待たずして陥落する。無傷の城、数多に投稿兵、犠牲が皆無の自軍、戦でこれ以上に望む事が有るだろうか。益々李光の慰留を望む声は高まったが、彼は丁寧に頭を下げて固辞した。銀子が二十粒、果して此の報酬は、多いのか少ないのかは物議を呼ぶ所だろう。尤も、少年は報酬に目が眩んで立案したのではないから、何一つ異存が無かったとは追記すべきだろう。

 そして、物議は此処だけで醸された訳ではない。此れまで、力押しを得意とし、云わば硬派な戦いを信条としてきた孫堅が、突如として策謀を駆使し、言うなれば〝軟〟功を行い、敵味方共に無被害で攻略を達成すれば、様々な所で其れが行われる様に為る。

 黄巾賊が支配する許県城内では降伏論が俄に起こると共に、包囲側の官軍では短期決戦を主張する者が増える。敵味方に様々な恣意を齎したこの戦も、最も脅威に感じたのは、皇甫嵩の指揮下で、許県の北西に有る長社県の攻略を行っていた曹操である。

 曹操は知勇に溢れる将だが、猜疑心の強さが彼女の持つ才能の開花の足枷と為っている。情報収集の重要さを十二分に理解していて、行賈を介して多くの情報を収集し、戦の分析に余念がないが、今回の孫堅の其れに関しては如何しても納得がいかないのか、首を捻る事を繰り返している。何故、孫堅は突如として戦の方法を変えたのか――、と。

 曹操は、孫堅の動向に注視せざるを得なくなった。臆見ではあるが、彼女の予想では今回の黄巾の賊徒の反乱は、海内の壊乱の序章に過ぎず、長い動乱への惹起であると考えている。今は、諸将が篩に掛けられている時なのだ、と。

 敵は多く、予断を許さない状況だが、注意を払わねばならない人物は多くは無い。

 確かに彼女の上官に当る皇甫嵩は戦の上手い勇将だが、性格が謙虚で海内に覇を唱えるのは漢王朝以外である事を認めていない。朱儁にも似た様な思想は有るが、寧ろ俗念が強く、奸では無いが、官と考えた方が良く、適度に賄賂も出世も望む人だ。共に、野心を迸らせる様な人では無く、注意を払う必要は無い。

 それに引き替え、孫堅は、官に就いた時から野心を隠そうとせず、治下に有る任地を安んじて民心を得、着々と武力を後ろ盾にした勢力を拡大している。その方法は単純で、必ず勧善懲悪が背景にある。理由の如何に関わらず、悪には正義の鉄槌を必ず下す、と言う単純明快で誰にでも理解しやすい治政方針が柱石であったが故に民心を得ているだけで、勢力としての限界の到来は早く、大きな脅威になる筈では無かった。が、何故、此処に来て方針を変換したのか? 理由は分からずとも、曹操にとっては脅威と為る存在になりつつある。

 数日後、思案に暮れる曹操に、追報が齎される。

「孫堅の本陣を出入していた四人組がいる?」

 その情報は、彼女の興味を引いた。四人は、攻略が始まる前に本陣に顔を出し、落城を見届けると同時に陣中を去って、既に博望坡を越えて荊州に向かった事まで分かっている。褒賞の出し惜しみをしたのか粗雑に扱ったのか、将又、元より彼等に仕官の気持ちが無かったのかは不明だが、詰りは、孫堅は彼等の登用に失敗したと言う事だ。

 タカ派も最右翼にいる孫堅に、策謀を実践させるだけの知性の持ち主である、曹家軍に招いても決して損は無い、と曹操は考えた。買い被りは良いとは思わないが、寧ろ、飼殺しにしてでも掌中に抱えておいた方が、不必要な危機を迎えずに済む、と考えたのだ。何よりも、理詰めの彼女の直感が訴えて来るのだ。

「其の四人を我足下へ」

 曹陣営に出入している行賈は、低頭して本陣を後にした。

「鬼が出るか。蛇が出るか……、其れとも、掛け替えのない珠玉なのか。実に楽しみだわ」

 幕舎から、静かな笑い声が聞こえた。


 扨、時間は前後するが、李光達四人は面倒に巻き込まれる事を嫌ってか、速足で臨潁を後にし、後ろ髪を引かれる思いで譲城を横目で通り過ぎて、荊州との境に当る博望坡を越える。更に漢水を渡り、襄陽に至って初めて話し合う場を設けた。

 襄陽滞在時に何度も訪れた酒家である。何時も座っていた壁際の席は窓に近く、往来を行き来する人の流れが良く見える。李光はその流れを暫く眺めていたが、ぱったりと往来が途切れた所で口を開いた。

「私は、此れからは人の理から離れた所で、海内の様子を見詰めたいと思います。決して人に誇れるものではありませんから、御一緒に如何か、とは言えません。ですが、此れが今生の別れに為る事は無いと思います。何れ、再会の機会は有るでしょうから、此処からは自分の意志で、此れからの行動を決めて下さい」

「先生……、今更に為ってそりゃあないよ。桂陽を出てから、俺達は一蓮托生で此処まで来たんだ。付いて来るな、て言ったってそうはいかないぜ」

 張業の言葉に、王媚も肯いて賛同する。が、徐福はそうはいかず、泣きそうな顔に為る。

 人の理から外れるとは、人道に悖る、と言う事だ。司馬徽の言付けに背いて水鏡塾を飛び出し、やっと許しを乞うたばかりだと言うのに、道理に外れては、今度こそ破門されかねない。

 況してや、人一倍道徳に口喧しい母を悲しませる訳にはいかないのだ。儒教が国学とされている時代の話なのである。親への孝行は子の務めであり、何を最於いてでも優先されねばならない教えでもある。学識に優れる徐福が、其れを違える事が出来る筈が無い。

 李光と行動を共にしたいが、徐福には其れを口にする事は出来ず、俯くしかない。彼女のその姿を目にし、李光は元より、張業も王媚も蠱惑の言葉を口にする事は無い。唯、徐福の意志に任せる事にした。

「残念ですが……」

 絞り出す様な声と、最期まで言葉に出す出来ない所に徐福の苦悩が窺える。徐福は、雑念を振り切る様な勢いで立ち上がった。これ以上同席して、未練を膨らませたくはない。

「私は、黄大人の元へ寄りますので、これで失礼いたします」

 卓子を離れた徐福には、未練が無い訳ではない。寧ろ其れは強く、容易には立ち去る事が出来ずに酒家の外壁に背を付けたままで、其処から中々離れる事が出来なかった。此れまでは袖擦り合う仲だったのだ、三人の行末だけは知っておきたい――、その気持ちが余計に離れ難い気持ちを募らせた。

 扨、残った、と言うよりは、残された三人は言い知れない寂しさを感じている。三人だった仲間は四人に増え、五人に増え、更に顔見知りと為って増えていったが、結局は三人に戻っている。結局、無宿人は、人とは馴染めない者なのか――、と遣り切れなさがある。

 併し、何時までもその気持ちに捉われていても仕方が無い。若い彼等は、前に進むしかないのだ。死んだ訳では無いのだ、この先、徐福とは二度と会えないと決まった訳ではない。寧ろ、再会の時を楽しみに待とう――、と李光達は気持ちを切り替える事にした。

「それで、先生は如何しようと思っているんだ?」

「私達が知っている、人道から外れた場所に居る人と言えば、一人しかいませんよ」

 張業と王媚は瞠目した。まさか、李光の口からそんな言葉が漏れるとは――、との気持ちが強い。驚愕は言葉になった。

「甘女子か?」

 肯く李光は、躊躇は無かった。熟考の結果であり、今では、何故甘寧が韜晦を決め込んだのかが分かる様な気がした。だから李光も、無為に時を過ごしてでも、来たるべき時を待とうと思ったのだ。

「水賊に為ろうと思っている訳ではありませんよ。唯、世事に捉われた儘で、時を過ごしたくないと考えただけです」

 そう言った途端に、張業と王媚は深い溜息を吐いた。長い付き合いだから仕方が無いと思う所もあるが、優等生の李光がそんな一大決心をした時には、もっと力強い言葉で決意を語って欲しいと思うからだ。

「もう一寸、気の利いた言い方は出来ないのかよ……。先生が、如何言い繕った所で、錦帆賊と行動を共にするという事は、そう言う事と同じだろう」

 諦念が露わと為った張業の言葉を聞き、李光は二人が何を求めているのかを考えた。

 再び、窓から見える通りを雑然と人の行列が行き来を始める。男、女、子供、老人、人足や商人、役人、書生と実に雑多な種類の人々が通り過ぎる。分類すればそればかりでは無く、色白に色黒、速足の人も居れば、のんびりと歩く人もいる。真直ぐと前を見詰める人、空を見上げる人、俯く人と数え上げれば限が無い程に様々で、全く同じ人は一人としていない。とは言え、見た目と人柄が一致する事は無く、善人と悪人の判断は、見てくれからは難しいが、第一印象が与えるものは大きい。

 では、他人から見た李光とはなんだろうか。取り立てて特徴の無い書生、と言う風に見えるだろう。そんな風体の者が、見てくれからは想像も出来ない一大決心をしても、如何思うだろうか。果たして、本気にするだろうか。

 李光が、二人の期待を朧気に理解したのは、再び人の通りが途切れた時であった。

「俺は、水賊王に為る!」

 拳を固めた李光の力強い言葉だが、其れは飽く迄上辺だけのものだ。

 喝采を送る二人とは裏腹に、李光の貌は全く浮かない。その訳は、直ぐに言葉に為った。

「私が水賊王に為れる訳ないでしょう……。大体、船に乗せて貰えるかどうかも分からないし、抑々、錦帆賊の頭領は甘女史なんですよ。ぽっと出の新参者の言葉にしては、烏滸がましいにも程が有りますよ……」

 冷静な言葉に、張業と王美が脱力した事は言うまでもない。其れでも二人は、大いに乗り気であった。異存など、全く有る筈はない。

 どんな未来が訪れるかは分からなくても、展望が開けた事には変わりがない。酒杯は、何時の間にか、新たな未来の門出に向けた祝杯へと変わっていた。


 外壁に背を預けていた徐福は、此の会話に自分の存在が無い事が寂しかった。併し、母を思えばおもい切る事は出来ず、背中を丸めて黄大人の屋敷を目指すしか出来なかった。

 背を丸めた徐福の姿は、灯の消えた蝋燭が闇に塗れる様に、襄陽の雑踏へとぼんやりと塗れた。


     ◇     ◇     ◇


 目標を決めれば行動は早い。李光達三人は、飛ぶ様な勢いで江陵を目指した。甘寧が江陵に居ると言う保障は無いが、江湖の中核都市が江陵なら、必ず其処で再会できると考えている。幸か不幸か、孫堅から貰った褒賞が充分に残っていて、一ヶ月や二ヶ月なら十分に滞在できる経済力が有る。

 桂陽から出て直ぐに見た大都市の江陵と襄陽の差が今一つ分からず、人が多いと言う事だけしか分からなかったが、今では特色の差がはっきりと分かる。曾ては楚の国都・郢であった江陵は、長い歴史を育んで来た都市で、水運が経済発展の背景にある。

 江陵に到着した三人だが、都合良く錦帆賊の艦船が有る訳は無い。少年達は、日毎に津に足を運んでは、桟橋に着岸する船に注目している。目を凝らす以外は、特に何かをする訳では無い、会話に興じて退屈を紛らわすのは当たり前の事だろう。

「水賊王に限らずですが、王とは、どんな存在だと思いますか?」

 張業と王媚は、突然に質問に面喰いはしたものの、特に他にする事は無いので真面目に答えを考え始める。

 ――王とは何か?

 漢王朝が支配する海内に生きる者は、当然の様に天子を思い浮かべるものだ。では、天子とは何か、其れを考えれば、必然的に李光の問いの答えが導き出される、と。

「支配者、だろう?」

「その通り、支配、詰りは統治する者こそが王です。では、統治とはなんでしょう」

「力に依って屈服させる事じゃないのか?」

 近年の王朝の支配体勢から鑑みれば、其れが正しい見解と言って良い。併し、本来の王の有り方、帝王の意味する所から考えれば、現在の海内の天子は、王と言う立場からは程遠い。特に、治政に全く意欲を見せない今の天子、劉宏には、果して王としての存在価値が有るか如何かすらも分からない。

「確かに現行の支配体制の背景は、武力に依るものですが、果して其れが正しい王としての姿勢でしょうか。多くの官吏は不正を行って私腹を肥やし、末端の筈の門衛までもが賄賂を要求する有様です。本来の官吏が精勤すべきは国家を守る事です。人の集まりが国であると考えれば、民を守る事が本分である筈です。併し、天子も官吏も放漫で、現状では百姓の上に君臨するだけで、決して統治しているとは言えないでしょう」

 李光は、其処まで話すと津に入港して来た数隻の船に注目する。どれもが、見覚えのある錦帆の旗を帆柱の頂点に掲げていて、その動きは威風堂々の態と言って良い。李光の眼差しに促され、張業と王媚も視線を送る。三人は肯き合って、桟橋へと向かった。

 李光の話は、その間も続く。

「私が考える統治とは、支配地に秩序を齎す事です。簡単に言えば、王は王に与えられた仕事を、官吏は官吏に与えられた仕事を、農夫は農夫の、商賈は商賈の、各々が、各々に与えられた役割を果たす事の出来る環境を整える事が王の役割では無いのでしょうか。其れが統治の大前提にあるものだと考えます」

「じゃあ、水賊王に為るには如何したら良いんだ?」

「勿論、王であるのなら、江湖での秩序を整える事でしょう。航路の制定に加え、津で積み込まれる荷の査察を徹底する事ですね。例えば、船に運び込む前に査察を徹底させれば、官給品の横流しや横領、抜け荷を防ぐ事が出来ます。正規航路が制定されれば、そう言った不正品は正規航路での運航が出来ず、人目を忍ぶ様に為るでしょう」

「其処で、水賊家業を行うと言う事か?」

 李光は肯いた。尤も、此れは机上の空論で、甘寧からの同意が得られなければならないし、何よりもまず、錦帆賊だけで話遂げるのは難しい雲を掴む様な話だと思っている。其れでも他の水賊からの協力が得られ、吟味して熟成すれば、何れは甘寧に持ち掛ける価値が生れるかも知れない、と。

 三人は、話しながら錦帆の艦船が寄港した桟橋に辿り着いた。船を操る面々の顔はそれ程変わらず、偶に面識の無い顔を見かける程度だ。李光は見覚えある顔の中の一人、船を降りる時に銀子を手渡して人情を諭してくれた、副頭領的な存在の男を見止めて会釈した。

 男は、直ぐに気付いた。すると一驚して三人を指差し、何かを言おうと口を開く。併し声には為らず、水面に顔を出した鯉の様に、唯パクパクと開閉するにとどまっている。

 尤も、口の動きで、

『小僧達じゃねェか……』

 と言っている事が李光には分かった。

 もう一度李光が会釈すると、男はその辺に躓きながら駆け出す。暫くして、頭領の甘寧を連れて戻ってくる。久しぶりの再会だ。一年振りであろうか。以前に比べ、甘寧は、頭領としての威厳が増したであろうか。李光は、若者らしい精悍さが増したであろうか。自分で自分の事は判らなくとも、お互いの眼差しは其れを捉えていたに違いない。

 甲板から李光を見下ろす甘寧の瞳は、最初に会った時と同じで冷やかである。其れでも李光には、微笑みを浮かべている様に感じられてならない。其れに後押しされて口を開く。

「又、船に乗せて頂こうと思って」

 甘寧は失笑した。李光も照れ笑いを浮かべる。あれだけの言葉を並べたてたのだ、今更どの面を下げてこの言葉を口にするのか。其れでも甘寧は色を為す事は無く、恰も、駄々を捏ねる弟を見守る姉の様な眼差しに変わっている。

 仕方のない奴だ――、と。

「この船は、商船では無いのだがな……」

 呟く様に独言ちた後、甘寧は失笑を治めた。

「まァ、良いだろう。今度は何処まで乗せてもらいたい? 羅県か?」

「特には決まっていないのですが……」

 甘寧は再び失笑する。何となくだが、李光の貌を見た時から、そんな言葉が出る様な気はしていたのだ。失笑は少年に向けたものでは無く、そうあって欲しい――、と望んでいた甘寧自身へと向けられたものなのだ。

「まァ、好きにするがいいさ。降りたくなったら、そうすれば良い。だが、商船に乗った方が楽かもしれんぞ。何せ、この船は、乗船賃が桁外れに高いからな……」

「男は櫂漕ぎ」

「女は見張りですね」

 三人は、勝手知ったる船、とばかりに乗り込んで荷の上げ下ろしの手伝いを始めている。新たな生活の始まりなのだ。弾ける様な笑顔であっても、何の不思議も無い。喩、其れが人の世の理から外れている水賊であったとしても、なのだ。

 荷を下ろしながら、張業は笑いながら李光に話し掛けた。

「先生、ほら、この間の言葉は如何したんだよ」

「そうだよ、此処で気合を見せなきゃ」

 王媚も、人の悪い笑顔で頻りに見詰めてくる。

 昂った気持ちに後押しされて、と言う事は多分に有ったろう。李光は、大きく息を吸いこんだ。

「俺は、水賊王に為る!」

 決意は、江水の水面に木霊する。甲板では爆笑が起きた。船から漣が起きる位の笑いとは、果してどれ程のものなのか。尤も、この言葉を真に受けた者はどれ程に居たろうか。声を上げた李光ですら信じていないのだ。きっと、一人とて信じる者は居まい。それ程に荒唐無稽な話なのだ。

 併し、夢を夢の儘で終わらせてしまうか如何かは、彼等次第でもある。


 雲一つなく、抜ける様に高い秋空は、上空にも水面にも果てし無く広がっていた。


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