・4 揺籃 (上)
本作は、真名の解釈が原作とは少々異なります。
又、何処かで聞いた事のある名前や、台詞が有るかもしれませんが、きっと気のせいです。全く、関係も御座いません。偶々です。御了承下さい。
年頭の訪れを春とする概念の有る地域は、溜まった煤は年内のうちに落としてしまう風習がある一方で、新規の事業は、一年の始まりに当る新春と共に行う風習があるものだ。
新たに南陽郡の太守として赴任した秦頡は、黄巾の賊徒からの南陽郡の奪回を一大事業と定め、新春を待って攻略に着手する。事業は概ね成功したと言って良いが、主将でもある秦頡にとっては、不満の残る結果と為ったのは確かだ。
確かに南陽郡の白水以南、所謂、後に章陵郡と呼ばれる地域は奪回した。が、其れは秦頡自身が指揮を執った訳では無く、仮の参軍として召し抱えた徐福に依るものだ。因みに、章陵の『章』は、『舂』に置き換える事が出来る。詰り、章陵郡は、白水以南の舂陵を中心とした地域だと思って良い。
其れは扨置き、其ればかりか、今回の事業の中核に当る張曼成の頸は、後方支援をする筈の黄忠の造反に依って奪われている。
秦頡自身に全く武勲が無い訳ではないが、前二者の其れに比べると、新野と育陽の二都市の奪回だけでは庶民の印象に薄い。しかも、其れが武力だけに依るものであれば、尚更の話だ。加えて業腹なのは、西に逃げた筈の張曼成を追った秦頡の間隙を突いて、副官であった趙弘が張曼成の後任と為って起ち、北南陽郡に当る宛、魯陽、析酈、単水を中心にして纏め上げ、未だに威勢を誇っている事だ。
だが、其れが決定的な欠点に為った訳ではない。此処で秦頡が大度を見せて、張曼成を討った黄忠を賞して朝廟に呼べば、多少なりとも面目を保てたろうが、己が手柄と為る筈の獲物を奪い去った女傑の武勲の看過が出来ずに黙殺してしまった。尤も、招聘を受けた所で、彼女は間違い無く固持したろう。だが、此の事実が、南陽に居住する世人からの不興を買った。しかも、今後も黄巾の跋扈を許さないと言う気概を見せず、仮の州府を黄巾の賊徒との戦いの前線に置かず、我が身大事さから一歩下がった舂陵に置いた事で、更なる不評を買う事に為る。結果として、秦頡を補佐する筈の多くの碩学からも見放される事に為った。その中に、徐福の名が有った事は言うまでもない。
扨、一応の目的を遂げた黄忠は、襄陽内に借り受けていた屋敷を引き払い、故郷の舞陰へと戻る準備に勤しんでいる。魏延を含む李光達四人もこれ以上黄忠の屋敷に厄介に為っている訳にはゆかず、やはり、家主と同様に部屋を引き払う準備に忙しい。
尤も、使用人の為の長屋に転がり込んだ四人の準備など、精々数少ない着替えを背嚢に仕舞い込む程度の事だが……。逸早く準備を終えた四人は、今では中庭で焚火を囲んで小さな輪を作っている。
短い期間とは言え、寝食を共にした仲間なのだ。今後の行末は、理屈を抜きにしても、やはり気になるのが人情であろう。
「お前達は、此れから如何すんだ?」
「中原は豫州の潁川郡の襄城に向かいます」
魏延の言葉からも分かる通り、彼等にとって今後の身の振り方は実に身近な事であり、且、重要な問題だ。勿論、其れに対する李光の答えは決まっている。が、其れは心に秘めている、と言う程に強いものではない。抑々、桂陽に住み続ける事で未来を失いたくない彼等には、何処か特定の場所を目指している、と言う様な確固たる目的が有る訳ではないのだ。尤も、其れは李光だけが心に抱くもので、張業と王媚には、生きる為に意志ある李光に従っているに過ぎない事、と言っても過言ではない。
李光には、襄城李家の再興と言う宿願に近いものも有るが、氏族の家に育ったとしても、桂陽と言う土地での流刑の最中の生活で、果して其の思いをどれだけ強く胸に秘す事が出来るだろうか。しかも、李光は士大夫の本来の生活や気概を知らないのだ。喩、日々の生活で、兄や母からその事を告げられていたとしても、現実味は薄いのだ。
中原に向かえば何かはある。唯、其の何かがなんなのかは、深い霧中の先を目指すのと何ら変わらない。確固とした目的は無く、希望の無い暗闇を彷徨うが如く、闇雲に向かっているだけなのだ。
「中原か……」
復唱の様な呟きを漏らす魏延の貌は、明らかに、難しい……――、と語っている。李光は其れに気付き、双眸を言葉に変えてその先を促す。
「今は、潁川郡の殆どが黄巾の支配下に有るから、南陽郡との境に有る博望坡と平頂山の関所の警備が厳しい筈だ。だから、正式な鑑札が無いと、通行が出来ないと思う。間道や山道の警邏も、同じ理由で相当に厳しいと思う」
この言葉は事実である。太平道に依る一斉蜂起は、土地々々の農夫の幇助によって成り立っている。其れだけに各地で起きた反乱でも、横方向の繋がりは薄く、孤立させて各個撃破が、鎮圧の常套手段なのである。当然の事ながら、政府は其れを実践し、各地の反乱が共謀して肥大化しない様に注意を払って鎮圧を行っている。勿論、隣り合う潁川の其れと南陽の其れも、塁から漏れる訳ではないのだ。
現実を知った李光は、愁眉を下げた。桂陽を逃げ出した無宿人の彼等には、如何程に望んだ所で通行鑑札が下りる筈は無い。或る程度の世間の仕組みの判り始めた少年達なら、この襄陽でなら何とか生計を立てる事は出来ようが、其れでは甘寧の言葉に屈する様で、李光の矜持が赦さない。
甘寧の鼻を明かしたい、と言う気持ちが無いと言えば嘘になるが、口から出まかせの言葉も、今では胸裡に秘す真実に近いものに為っているのだ。李光は、自分の心には正直でありたい――、と思う。
湖南地方の時と同じ様に、間道を使って関所を迂回すれば良いと思っていただけに、魏延の言葉を聞き、
――如何したものか……
と、三人の少年が相貌を昏くした時であった。
「応答が無いので、勝手に入らせてもらいました」
この言葉は、南陽の討伐までに何度も顔を合わせている徐福のものである。彼女は四人の応答を待たず、立て続けに口を開く。
「司馬子の学舎に戻る事にしました。其れで、お別れを言いに来ました」
「出仕は為さらないのですか?」
「はい……。心残りが無い訳ではありませんが、秦太守があゝ言う方でしたので……。司馬子の言付けを振り切って飛び出した手前で心苦しいのですが、秦頡に仕えて今以上に不興を買えば、間違い無く破門を言い渡されてしまいます。今の内に改心して謝罪すれば、御咎めを頂いたとしても、お許し頂けるかもしれない、と……」
徐福の貌に寂寥感が見られない訳ではない。が、概ねは清々しく、後悔の大きさよりも正しい判断をしている、と言う自負の大きさが窺える。
――恐らく、考えに考え抜いての判断だろう。
と李光は思う。正しいか如何かは別にして、彼女自身で決めた事なら其れで良い、と思う。己が将来の行方をさて置いても、知人の将来の行方が正しい所にあるのなら、尚更に良い、と自分の事の様に悦んだ。
そんな李光を見て、徐福は微かに頬を赤らめ、はにかむ様な笑顔を見せたのは言うまでもない。勿論、李光以外の三人は、徐福の気持ち等、疾くに心得ている。
「ところで、李先生達は此れからは?」
「魏小姐とも話していたのですが、潁川郡襄城に向かおうと考えているのですが……」
徐福は、其の言葉と同時に貌を曇らせた。理由は言わずもがな、であろう。
魏延ばかりか、徐福にまで表情を曇らせる程の事と為ると、李光は、今迄と同じ様に間道を縫っての関所の回避が、現実的ではない事を悟る。
「差し出がましい事かもしれませんが、中原では太平道の蜂起が夥しく、真面な方法を講じただけでは各関所の通過は儘ならない筈です。太守や刺史の名で発行される鑑札を持っていれば何とか思いますが、今と為っては……」
徐福は、こんな事なら李光に鑑札を発行した後で、南陽郡で与えられる筈だった何らかの役職を辞任すれば良かった――、と思った。併し其れも、既に後の祭りである。方便であろうが、目的の為の一環であろうが、結果を見れば、李光は、彼女の愚行を留まらせた恩人なのである。何としてでも力に為りたい――、そう思うのは、彼女の胸裡に宿る矜持の問題でもある。
「県令から発行される鑑札じゃ、駄目なのか?」
「関所の采配は、直轄の太守の権限の中に有ります。襄陽や江陵の様な大都市の令や、関所の近隣の令ならば、或いは、と言う事もあると思いますが……」
「……じゃあ、樊城の長じゃ、駄目だな……」
魏延の最後の言葉は呟きに近い。だが、李光達三人も、徐福も其の言葉を聞き逃す事は無い。双眸を向けるだけで、何故、魏延の口から樊城の長・蔡瑁の名が出たのかを問うている。
「実は、樊城の衛士として召し上げられたんだ」
照れくさそうに口を開ける魏延の貌は、満更でも無い――、と語っている。元々が、伯父の跡目を継ぐ事が目的の一つの彼女なのだ。此れが千里の彼方へと続く道の第一歩と考えれば、樊城の衛士として召し上げられるのは悪い話では無い。後は、順調に出世が出来るかどうかは、彼女の努力次第と云った所だ。
そして、徐福が、己が道を己が意志で決めた事が李光にとっての悦びなら、魏延の其れも、何一つ変わる事の無い悦びに違いないのだ。
「お祝いをしなければなりませんね」
だから、こんな言葉が出るのは当たり前の事なのである。
どんな事が待っているかも分からない明日の事より、少年達にとっては、今この時の事、広い々々海内で、偶然であっても巡り会えた縁の方が大事なのだ。
若い彼等が、金に飽かして高級な酒家で美禄を煽る事等出来る筈も無い。質の悪い酒を安酒場で飲むのが関の山だ。が、友がいて祝う事が有れば、其れは上等の物へと変わってしまうのが若者の特権の一つだろう。
「魏小姐の夢への第一歩が叶った事を祝って……、乾杯!」
此れはもう、何回目の乾杯の音頭だろうか。既に空になって転がっている瓶子の数の方が、卓子を囲う人数よりも大分に多いのだから、数えるのも嫌になるくらい同じ事を繰り返しているに違いない。其れでも同じ事を何度も繰り返すのは、やはり魏延の出仕が自分の事の様に嬉しいからなのだ。
併し、若者達に如何に体力が有ろうと、度数の低いものであっても限無く飲み続ければ、強かに酔が回るのも当然の話で、しかも酒の質が悪ければ、悪酔いと言う状態に為るのも仕方が無いのだ。尤も、精神状態は、酒の質以上に酔いそのものに影響する。
更に間の悪い事に、徐福にはそうなるべく会話の流れが有った事も確かだ。否、飲まずにはいられない、と言った方が良い。其れは、李光の悪意の無い、こんな一言が始まりであった。
「魏小姐は、幾歳に為ったんですか?」
「漢升様の下に来る直前に加冠を迎えたんだ。成人すれば、何事も自分の責任だろう。だから、両親の反対を押し切って、漢升様の加勢に馳せ参じる事が出来たんだ」
少年達にすれば、一つや二つの年齢差など、有って無いに等しいもので、全く気にはならず、簡単に笑い飛ばせる程度な話なのだ。李光と張業にしたって、未だ十八歳だし、王媚は一つ下の十七歳だ。が、此れが若者の話から女の話になると、一寸意味合いが変わる。
当時の女性の適齢期は、だいたい、芳紀を中心にして前後二歳が普通である。詰り、十五歳から二十歳くらいまでが適正な結婚年齢期と言って良い。
因みに徐福は十九歳でこの中では最も年上なのだ。が、其ればかりか、間も無く二十歳を迎え様としている。普通に考えれば、徐福と魏延の歳の違いは、大騒ぎする程の年齢差ではない筈なのだ。併し、出世を望む彼女であっても、心を通わせた男性と結ばれる事を望んでいない訳ではない。寧ろ、学資に優るだけに女性としての願望も強いのだ。要するに、切羽詰っているのだ。嫁き遅れには為りたくないのだ。況してや、生涯独身を貫きたくは無いのだ。勉学に励んで来た彼女だって、まだまだ夢を見ていたい年頃の乙女なのだ。
笑顔が溢れる卓子で、唯一人、此れまで心のときめきを感じる男性との出会いが無かった己が身空を嘆きながら、黙々と酒杯を重ねるのも仕方が無い事なのだ。否、眉間にクッキリと縦筋が一本走っているところを見ると、寧ろ自棄酒を煽っている、と表現した方が的確かもしれない。
扨、そんな徐福の状態に李光が気付いたのは、隣の張業に肱で突かれ、斜向かいの王媚に爪先で蹴飛ばされ、正面の魏延から眼差しで誘われたからだ。導かれる儘に徐福を見た李光が、上体を逸らす程に〝引いた〟のは言うまでもない。
此処で、他の三人に、何故事服がこうなったのかを図るのが、李光の最も正しい行動だったかもしれない。が、彼は其れを省いて、徐福へと直接に声を掛けた。
「どうかしましたか?」
と。喩、李光がどんなに鈍かろうと、流石に、
「何か、気に障る事が有りましたか?」
とは訊ける筈も無い。五人で会話を続けていて、何時の間にか徐福がこうなっていたのだ。会話の中で、彼女の気に障る何かが有ったのは間違いが無い。其れを穿り返す等、恐ろしくて出来る筈も無いのだ。態々、自ら火の粉を被りに行く莫迦はいないのだ。
併し、李光が気を使ってどんな言葉を投げ掛けた所で、報われない時もある。
双眸を上げた徐福の顔色は蒼く、眼は据わっている。如何見ても悪酔いをしている。薄ら寒いものを感じた李光だが、既に声を掛けてしまっているので後の祭りだ。残りの三人は、我関せず、とそっぽを向いている。尤も、眼差しは件の二人に注目した儘である。
「李先生は、年上の女性を如何思いますか?」
喩、酔眼であっても、否、酔眼であればこそ、品でも作って迫れば、初心な少年には其れなりの効果が有ったろう。事実、徐福は美人の類に入ると言って良いだろう。黄忠の様に馨しい芳香を振り撒く大輪の花の様な華美さや、魏延や王媚の様な陽光の下で大輪を綻ばせるのを待つ蕾の様な闊達さは無い。併し、月光に佇む白花の様な楚々とした美しさが有る。閨房に囲って人目に晒したくない様な美人、とでも言えば良いだろうか。
尤も、今ではそんな例えは必要ない。胸座を掴んで酔眼で睨み付け、酒臭い息を吐き出していれば、仮に徐福に恋心を抱いている者が居たとしても、余りの醜態に其れも消え去ってしまうと言うものだ。喩、千年を掛けた恋であったとしても、だ。
併し、人の反応とは、得てして受け取り方に依って変わるものだ。
「年上の人を如何思いますか?」
この言葉に、魏延達三人は、此れまで以上に耳を欹てる。徐福が李光に対し、恋心にも似た感情を抱いている事は周知の事実なのである。南陽の討伐を行う前に、打ち合わせと称して二人きりで多くの時間を過ごしているのだ。四方山話に為った事は一度も無いが、出会いを初め、徐福が少年を意識するには十分すぎる時間であった。
扨、酒の勢いを借りているとは言え、中々こう言った場面に出くわす事は無い。或る程度の権利が確立していて、あらゆる面で独立している女性が多い御時世に為っているとしても、やはり女性から愛の告白する事は珍しいのだ。
三人は、視線だけはあさってを向いていても、気持ちだけは修羅場を迎えつつある二人に注意を向いている。
扨、李光を除いた傍観者の三人の脳裏は、粗同じ事を考えている。質問をした徐福も、そう言う気持ちが含まれていないと言えば嘘になる。否、多分に其の思いが強いと言った方が良い。唯、姐さん女房は嫌いですか?――、とはっきり聞かなかった事が失態と言えば其れに当るが、其処は未だにねんねで乙女の徐福には難しい事であった。
だが、世の中は広いもので、必ず常識を踏まえていない回答をする者は居るのだ。
李光がそう言う人だとは言わないが、彼は、年上の女性が恋愛対象になるか、と言う風には聞かなかった。代わりに、人として年上の女性と如何向き合うかを考えた。勿論、其れに対する李光の考え方は決まっている。人として向き合う時、
――老若男女は関係ない。
のである。だから李光は、声に出してはっきりとこう言った。
「そんな事を、一寸も意識はしてはおりません」
と。
其の言葉に、徐福は歓喜に頬を赤らめた。或る意味、待ち焦がれた言葉でもあるのだ。出会いが如何言う形であれ、意識した男性からの言葉であれば、心が躍らない筈は無い。
他の三人も驚きの歓声を上げたが、彼等は脳裏の何処かにしこりの様な引っ掛かるものを感じた。果たして、李光の言葉を額面通りに受け取って良いものかどうか――、と。
三人の中で、最も心の置けない張業が、その事を確かめようとしたその時であった。感極まった徐福に一気に酔いが回り、椅子ごとひっくり返って大騒ぎになった。四人は徐福を抱え、そそくさと酒家から退散するしかなかった。李光の本心は酒家からの帰りの夜道に塗れ、遂に有耶無耶と為った。
否、為った筈であった。
扨、酔っぱらって穏やかな寝息を立てる徐福は、今は李光の背中に體を預けている。要するに、背負われている、と思えば良い。困ったのは、李光達だ。既に、南陽郡の官吏を固持した徐福が、依然と同じ官舎を間借りしている筈は無く、何処かの宿屋に一時的に腰を落ち着けている筈だが、その場所を知る筈も無い。
樊城の様な小都市なら、宿屋は精々片手の指の数程度が有るだけなので、一軒ずつ回っても大した手間に為る事は無いが、大都市の襄陽では、三日を掛けても廻り切れない程に多い。結局、黄忠宅の長屋に連れて行き、魏延と王媚の部屋で雑魚寝して貰う事で落ち着いている。
幾つもの縦横に走る小路を抜け、間も無く黄忠の屋敷に到着する、と言う所で徐福は目を覚ました。頬が火照っているのは、先程の醜態と発言が、記憶の何処かに残った儘になっているからに違いない。
「李先生は、如何して襄城を目指しているのですか?」
徐福は潁川郡の出身で、故有って実家を飛び出し、一時は渡世人として過ごした時期が有る。世事にも多少は詳しく、李光の力に為りたいと思うが故に、今は危険な状態にある潁川を態々目指す理由が知りたかった。場合に依っては、力に為りたい――、とも……。
「私は捨て子で、流刑を科せられた襄城李家に拾われました。その恩に報いる覚悟を得る為にも、一度実家を見ておきたいと思ったのです」
これが、李光を中原に向かわせる最も大きな理由だろう。佩を遺族に渡す為、と言うのは飽く迄方便に過ぎず、彼の興味本位を正当化するものに過ぎないものなのだ。其処で、襄城李家の宗家を目の前にした時に自分が如何感じるのかを知りたい。李家の再興を果たそうと思うのか、それとも、そんな気持ちが微塵も湧かないのかは分からない。唯、李家に纏わる形の有る何かを目にした時、初めて自分が何を成すのかが見える気がするのだ。
徐福は、襄城・李家・流刑、其の三つの言葉を聞いただけで、李光の身元と目指すべき所を理解する。嘗ての李家の当主が、多くの官人を輩出した私塾の経営者で、若し、今でも恙無く襄城で営みを続けていたら、徐福も土地では最も高名な李家の私塾の門戸を叩いていたかもしれないのだ。分からぬ筈が無い。
諸家の出の徐福には、士大夫の考えに理解の及ばない所は少なくは無いが、李光が背負おうとするものの大きさを知れば、尚一層の力に為りたいと思うのは、彼女の本性の持つ健気さなのか、それとも婦の持つ強かさなのかは、今の彼女には判断が付かない。只々、李光の力に為りたい――、と思うだけだ。
併し、少年達の持つ力では、譲う様な関署の通行を可能にする通行鑑札を得る事は出来ない。身近な大人の黄忠を頼っても、其れは変わる事の無い事実である。関に縁のある官人か、若しくは彼等に大きな伝手の有る者しか成し得ない事だ。一計を案じる事さえできない自分がもどかしく、情けない……――、と徐福は思う。併し、頼る当てが全く無い訳ではないのだ。
「李先生。私と共に司馬子が居を構える南漳に立ち寄ってみませんか。中原に向かうには逆方向に為ってしまいますが、無理をするよりは確実な方法を、司馬子なら、その知恵を授けてくれるかもしれません。急がば回れ、とも言いますし」
己が力の限界を知った徐福の貌は、闇の中に消えてしまいそうな程に昏かった。出来得るなら、自分の力だけで李光を助けてあげたい、と思っていたのだ。併し、己が力を分かっているだけに、限界が何処にあるかも理解しているのだ。
師弟関係と親子関係は非常に似ている。張業と王媚は、徐女史には其処までの覚悟があったのか――、と誤解し、李光に代って賛意を示したのは言うまでもない。
――唾を付けた人を、今の内に親代わりに紹介しようとしている。
と。
因みに、司馬の後に着く『子』は、孔子や老子の其れと同義である。男性への敬称の意味を持つ先生では無く、『師』と同じと思えば良い。
翌朝、李光達三人は、徐福と共に南漳に向かう為に、本宅の黄忠に暇を告げる為に本宅を訪れている。同じ屋根の下では無いとは言え、四ヶ月も一つの屋敷の中で共に過ごし、同じ目標を掲げて邁進したのだ。感慨は、ひとことでは言い表せない程に深いものであったろう。
「半年は長いと思ったけど、出会ったのはまるで昨日の事の様だし、別れはもっと先だと思っていたのよ。寂しく為るわ。色々あったけど、無事に良人の仇を討てたのは、貴方達の御蔭だわ。有難う」
「出会いも別れも縁です。同じ空の下に居るのですから、きっと、再会も縁なのでしょう」
併し李光は、別れの言葉は短い程に良い、と思った。そして淡泊な程に、別れの辛さが募らず、名残が少なくなるものだ、と。辞を告げた李光達は、振り返る事無く前だけを見て黄家の門戸を潜った。
その直後に、突如として舌足らずな声が李光を追い掛けてくる。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、またね!」
李光は、その声に一度だけ振り向いた。肩の高さで小さく手を振る黄忠の横で、四・五歳の幼女、恐らく娘の璃々が頭よりも高い所まで手を上げて振っているのが見える。こういう光景は、実は珍しい。仕来りは各家で違うが、通常、士大夫の女子は屋敷の中で大事に育てられ、加冠を迎えるまでは人前に姿を晒さないものなのだ。同じ屋敷に住んでいながら、李光達はこの四カ月で二・三度だけ、ちらと璃々の後姿を見た事が有るだけで、はっきりと姿を見たのは此の日が初めてである。
振り向く三人を目の前にして、黄忠は腰を屈めて娘の耳元へと話し掛ける。
「将来、璃々の旦那様に為る方かもしれませんよ。確りと御挨拶をなさい」
耳元で話し掛けているのだから、小声でも良かったかもしれないのに、黄忠は特に声を潜める事はせず、其の言葉は一引程離れている李光の耳朶にまで届いている。しかも、彼女の双眸は李光を捉えた儘で、一向に揺らぐ事が無い。其れに釣られるように、璃々の眼差しも李光だけを捉えるようになった。
「お兄ちゃーん、璃々、待ってるからねー、きっと、お迎えに来てねー」
子供の嫁ぎ先は、親が決めるのがこの時代の常識だが、此れは、寝耳に水も良いところだ。蟒蛇に睨まれた蝦蟇に残された道は、食われるか逃げるかの二択しかない。突如として回れ右をした李光は、挙措を乱し、足を縺れさせながらも駆け出した。「待っている」とか、「迎えに来て」とか言いながら、声は執拗なまでに彼の背中を追い掛けてくる。敢えてもう一度言おう、別れは淡泊な方が良いのだ。李光は、そう思っている。
「李先生! 何で、急に走り出すんだよ」
笑いながら追いかけてくる張業と王媚を置き去りにして、一刻でも早く襄陽を抜け出そうと、李光は懸命に駆けた。遂に、悪戯っぽく微笑む黄忠の貌には気付く事は無かった。
◇ ◇ ◇
南漳県は、襄陽の西南西方向に七十五里ほどの距離にある小都市で、脚の達者な者でなくとも、十分に一日で歩き切る事の出来る場所にある。南門から出立しても、それ程の距離差は無いが、せっかちな若者らしく、西門を待ち合わせ場所とした。
李光達が息を弾ませながら西門に到着すると、徐福は一足早く到着していたようで、手持無沙汰に門脇で佇んでいた。彼女も旅慣れをしているのか、草鞋履きに、荷物は肩掛けの鞄が一つだけだ。李光達も似た様なものである。
新春の陽光は煌く程に眩しく、舞台の袖にも立っていない様な若者達に、ステージの中央に押し上げる様なスポットライトのようだ。新春を歓ぶ野鳥の囀りは、舞台に彩りを添えるBGMへと変わり、若葉が風に揺られて起る葉擦れは、客席からの拍手の様である。若者たちは、一歩、又一歩と、着実に表舞台へと歩み続けている。
四人が南漳に到着したのは、街の灯りが夕闇に彩りを添える頃だ。屋号を水鏡と言う司馬子が主催する私塾は南漳の城郭内では無く、近隣の郷に有り、此処で一泊して翌朝を待ち、改めて出発する算段だ。一日中歩き通しの四人は、宿に着くと早々に寝台に倒れ込み、泥の様に眠った。
南漳から水鏡塾までは、北西に向かって本の二とき程の距離にある。朝、のんびりと出発しても中天の頃には到着する。併し、徐福の足取りは一向に早まる事は無い。立ち止まったかと思うと溜息を吐き、再び気合を入れて歩み出すが、一向に歩幅が広がる事は無い。彼女の心の問題だが、背中を誰かに引っ張られている様にも見える。
其れでも中天を過ぎた頃に到着したのは、徐福の心の何処かに、師からの許しを得て、心を早く楽にしたいと言う気持ちがあったからだろう。
水鏡塾の主催者の姓諱を司馬徽と言い。字は徳操である。門塀と生垣に囲まれた屋敷は広く、数棟の建物が見える。一つは司馬徽の邸宅、一つは学舎、更には門下生の宿舎や下働きの者の長屋と、下手をすれば豪族の住む其れよりも広いのは、司馬徽を慕う者の多さを物語っている。
徐福は、李光達に門外で待つ様に言い置くと、居住まいを正して家門を潜る。
徐福は、先ずは学舎へと足を踏み入れる。数部屋ある内の一つで、通常なら、司馬徽自身が教鞭を執っているからだ。因みに、全ての門下生を司馬徽自身が面倒を見るのではなく、殆どは高弟が師範と為って教鞭を執る。司馬徽が教導を取るのは、それらの者によって基礎教育が終わった者だけだ。
一部屋づつ見て回った徐福は、司馬老師を見つける事が出来ず、安堵と不安の両方を覚える。私邸での謝罪ならば、同じ門下の前で恥を掻かずに済むが、二人きりならば、どれ程の御叱りが有るのか、と言う事だ。
徐福は、複雑な思いを抱きながら司馬徽の屋敷へと向かう。近付くに連れて不安が大きくなり始めたのは、やはり後悔の念の大きさ故だろう。
戸口の前に立った徐福は、大きく深呼吸をした後、もう一度居住まいを正した。そして、訪ないを告げようとしたその刹那、戸口の方が逸早く開かれ、閨秀を絵にした女性が現れる。歳の程は黄忠と同じ位、而立には未だ時が掛かりそうな年齢である。特徴的なのは、思慮の深そうな貌に有る瞳で、深い慈愛の色が其の儘瞳の特徴に為って現れている事だ。
「能くも、戻って来れたものですね」
併し、今の司馬徽の瞳には、言葉と同様にその色が乏しい。それだけに弟子への失望感や憤りの大きさが窺い知れる。尤も、其の言葉は、愛弟子への期待感と心痛の大きさの裏返しでもある。額を擦りつける様にして額ずく徐福を睨む態も、言うなれば弟子への愛情の裏返しなのだ。
「己が浅慮に恥じ入るばかりです。目先の事ばかりを考え、将来の事が、全く念頭に御座いませんでした。本来なら、司馬子の御目に掛かるのも烏滸がましいのですが、今は又、子の御力に縋りたく、恥を忍んで戻ってまいりました」
「好々」
司馬徽は、既に口癖になってしまっている言葉を漏らした。本来の徐福は孝行者で、母親を呼んで楽をして貰いたい一心から焦り、浅慮に奔る事が有るのを知っているからだ。決して、焦りや出世欲から引き起こした行動ではないのだ。が、其れに自分から気付けば訓戒と為り、次からは行動を起こす前に熟考する様に為る。過ちが成功の糧と為れば良いのだ。だから司馬徽は、口癖の言葉を漏らして安堵したのだ。
表情の和らいだ師を巧みに盗み見た徐福は、額ずいた儘で膝を数歩進める。此処からだ、本題なのである。
「実は、師の助力に賜りたいのは私事ばかりでは無く、襄陽で、己が愚行に気付かせてくれた御仁の事も有るのです」
どんな助力が必要なのかを訝ったが、多くの人と出会い、好誼を結ぶ事は決して悪い事では無い――、と司馬徽は思う。人に教えを乞うて成長する人も居れば、教えを請われて成長する人もいる。援け、又、援けられ、お互いを高め合う関係を築く事が、友としての正しい在り方ではないのか、と。
司馬徽は、肯きで話の先を促す。
「その御方は、曾て行われた政治弾圧で流刑を科せられた襄城李家に縁のある方で、実家の有る中原への帰参を望んでおられます。事情が事情だけに鑑札は得られず、荊州と中原との間に有る、博望坡や平頂山の関所を通過出来ずに難儀しておられます」
其の言葉だけで全てを察した司馬徽は鷹揚に肯いた。
襄城李家が曾て行われた政治弾圧では、強権政治の生贄の様に目の敵にされたのは知っている。司馬徽自身は、政争に巻き込まれる事を嫌っていた為に韜晦し、其の難事からは逃れている。己が身の振り方は自分自身で決めるのは当たり前の事であり、司馬徽には何一つ責任がある訳ではないが、其処が、彼女の引け目でもあった。罪滅ぼしとは考えていないが、同じ名士の一員として、悲運の道を辿った李家の生き残りの者に、出来る事はしてあげたいと思った。其れは、直ぐに言葉へと変わった。
「お通ししなさい」
「ですが、男性ですので……」
「でしたら此処に」
司馬徽は、徐福が踵を返して駆け出すのを見送ってから、客人を迎える準備の為に屋内へと戻って行った。
裏木戸から司馬邸内に足を踏み入れた李光達三人は、人目を憚る様に彼女の私邸へと案内される。家の装飾は質素で、家主の性格が其処から窺い知れる。李光達が通されたのは、学舎や宿舎から覗き見る事が出来ない裏庭の亭である。
司馬徽が危坐している亭に通されたのは李光だけで、徐福と張業・王媚の三人は別の四阿で茶を振舞われている。人と人との出会いは様々だが、折り目正しい人との出会いでは、第一印象が最も大事だ、と李光は思っている。お互いの顔がはっきりと確認出来る所で大袈裟に為らない程度の辞儀をし、促されるのを待ってから腰を落ち着ける。
「突然押し掛けたにも拘らず、御初会の場を設けて頂き有難うございます。李光と申します。元服前ですので、堅苦しい名しかありません。『光』とお呼び下さい」
「司馬徳操です。不肖の弟子の徐福を正しい道に導いて頂き有難うございます。師として、道を踏み外し掛けていた弟子を心配していましたので、此の度の事は欣快に堪えません。弟子にとって恩人であるのならば、師にとっても恩人である事には変わりが有りません。どうぞ、お望みを仰って下さい」
李光は、司馬徽の言葉の中に彼女の本性を見た様な気がした。徐福の恩人として何かを望めば、恩人として李光を遇してくれるだろうが、無理な事は無理、と突っぱねられそうな気がしてならない。司馬徽が私塾を主宰していて、更に二人だけで話している事も考慮すれば、全てを任せて見ろ――、と云われている様な気がした。
「先ずは、私の生い立ちから聞いて頂けますか?」
鷹揚に肯く司馬徽を見て、李光は此れまでの事を訥々と話しを始めた。
高々十六・七の少年のものでも、生い立ちから語り始めれば長く為るものだ。話を始めた頃には中天を過ぎたばかりの陽射しも、今では西に大きく傾き、東方からは星影と夕闇が迫りつつある。
薄暮に急かされた訳ではないが、桂陽での生活まで語り終えた李光の貌は、鏡面の様に静かに澄み渡っている。併し、其れも己が胸中を語り始めた頃には徒波が立ち、今では彼の持つ心の起伏そのものと為っている。その貌は、苦悩の色が強い。
「唯、今の私が何をすべきなのかが分かりません。大志は有るのです。覆す事の出来ない貧富に差で不公平が生れる現世を是正したい、李家の様な、王朝の生贄を作ってはいけないと言う気持ちは強いのです。ですが、其の為に手段が分かりません。私が何処へ向うべきなのかも分かりません。本当は李家とは何の関わりの無い私が襄城に向かおうとしているのは、確固とした何か、士大夫と言う立場に縋り付いていたいだけなのかもしれません。ですが、そうでもしないと、李光と言う私がこの海内から消えて無くなりそうで怖いのです。無意味な一生は送りたくないのです」
黙したままで、一方的に李光の独白を聞いていた司馬徽は、
「好々」
と言う、何時もの口癖の言葉を出す事も憚られた。其ればかりか、劉王朝に依って作り出された影の部分ばかりを歩み続けて来た少年を不憫に思った。目的を達成する為の手段が分からず、求める光が見えているにも拘らずに今でも闇の中を彷徨っているのであれば、其れを援けるのは教導に勤しむ者の義務でもある。特に司馬徽は、迷える心を持つ若者を放っては置けないからこそ、私塾の経営に乗り出したのだ。
が、
――最終目標が定まってだけに、歩むべき道を教示するのが難しい……
と、司馬徽は思う。水鏡塾の門戸を叩く者の殆どは、勉学の質の向上を望む者や、己が可能性を模索する者が殆どで、寧ろ、最終的な目標を掲げて学舎を訪れる者の方が少ない。偶に居たとしても、高官を望む者が殆どであり、寧ろ、現実的な目標を掲げる者ばかりで、国政を担う立場に為って初めて叶う目標を掲げる者は皆無だ。
現実離れした目標を抱く事は、非凡と言い換える事が出来るかもしれないが、憧憬と現実の区別が付かない孺子と言えない事も無い。併し、生い立ちを知れば、其れを一笑に付する事は難しい。しかも、李光が求めているのは、経験を積み重ねた中で模索しなければならない事で、几案に噛り付いていては求める事はで出来無いものなのだ。
其れならば、経験を重ねる環境を整える事が、司馬徽のするべき事になる。
併し、司馬徽の弱点は、正に其処である。政争を嫌って韜晦していただけに、開裡して本音を話せる士大夫が多くないのだ。しかも、通行鑑札を発行できる権限の有る者と為ると、皆無と言って良い。が、当てが無い訳ではない。
司馬徽は、徐福に見せた慈愛の眼差しで李光を見詰めてこう言った。
「残念ながら、私では貴方の力には為れそうにありません」
李光は、特に失望する事は無い。己が人生なのだ、道は自分で切り開くのが当然の事であり、他人を当てにするものではないのだ。が、司馬徽の話は其処で終わった訳ではない。
「盥回しをしている様で気が引けますが、必ず貴方の力に為れる人の紹介をしましょう。尤も、其の者から助力が得られるか如何かは貴方次第です。併し、慈悲深い御仁ですので先程の様に、本音で向き合えば大丈夫だと思います」
司馬徽は其れだけを言うと先に立ち上がり、離れた場所から凝と此方の様子を窺っている徐福を呼び、二言三言、何かを言い付けてから屋敷へと引っ込んだ。
○
「襄陽の西に隆中と言う邑が有ります。その外れに黄承彦と言う名士が居を構えています。縁戚には太尉の張温、王家の傍流に当る劉表、樊城の長の蔡瑁等がいます。後者の二人は未だしも、太尉の印顆が推されている通鑑なら、後々に為っても役に立つでしょう」
そう言うと、司馬徽は、当時では高価な紙の書簡を李光へと手渡す。封が施して有り、宛先人である黄承彦にしか開封する事が出来ない。次いで、司馬徽は徐福を呼んだ。
「隆中までは、貴女が案内をなさい。貴女が持ち込んだ問題なのです、最後まで責任を取りなさい。何処まで責任を取るかは、貴女に任せます」
と。
勿論、徐福に異存はない。四人は、翌朝を待って再び襄陽方面、その近郊の隆中を目指す。南漳に向かう時には旭に追われる様にして進発した所為か、陽射しから逃れる様で、心の何処かに後ろめたさを感じたが、今度は逆に旭を目指しての道程である。
――命運が開ける予兆かもしれない。
李光は、そんな気がしてならなかった。
◇ ◇ ◇
南漳から隆中へは、当然の事ながら一日で到達する。隆中は、襄陽の十里ほど西に在る。今回は、その襄陽に立ち寄って厄介に巻き込まれるのを避ける為に、南漳に向かう時以上に足を速めている。息が上がる程の歩様の中でも、必ず会話は有る。
「黄承彦様と言う方は、如何言う御方なのでしょう?」
「この辺りでは、龐徳公様と並ぶ名士として有名です。御息女の月英様が、偶に水鏡塾にも修学の為に御出でになります。心配しておられるのでしょう、月英様が修学なさっている間、必ず何回かは黄大人は、月英様の様子を御覧にいらっしゃいます」
と、徐福は此処まで話して何かを思い出して口許で失笑し、更に話を続ける。
「月英様は、もう直に加冠を迎えるのですが、黄大人の名声を利用して出世を企む者が多いので、婚礼と言うものに失望感を抱いている様です。其処で婚礼の話が来ない様に、自分から醜女だと噂をばら撒いたり、誰かが訊ねてくれば、鬼の面を被ったりて追い払います。初めて水鏡塾にいらっしゃった時も、風聞を悪くする為に鬼の面を被っておいででした。黄大人も、月英様をとても可愛がっているので、彼女の気持ちを慮れば、怒る事も儘ならず、実に痛し痒しと云った所です」
「名士の家柄と言うのも、大変なのですねェ……」
「何を言っているんですか、李先生だって似た様なものですよ。名士に限らず、名家も、豪族も、王家も、身分の有る家柄の人達は、みんな大変ですよ。婚礼の儀の一つも、好き勝手に出来ませんから」
徐福の言葉は、恰も諸家に育った自分なら、そう言った柵が無いと言っている様なものだが、諸家には諸家なりの釣り合いの下で婚礼が行われるので、決して気楽な事では無い。
話が逸れた。李光は、徐福の話を聞き、名士・黄承彦の為人に好印象を抱いた。言うなれば、人の良さそうな人物だ、と。上手くいけば、太尉の印璽の有る通鑑が、手に入るかもしれない――、と気楽に考えた。
○
扨、急いだ甲斐も有り、黄承彦の屋敷の家門の前に立ったのは、茜空が薄暮に追い遣られ始めた頃である。右を見ても左を見ても、生垣に終わりの見えない広大な屋敷を目の前にし、徐福の話で抱いた黄承彦の人物像を改めねばならない、と思った。
これだけの屋敷を持てるだけの采配を持つ人間なのである、娘への優しさが有ったとしても、他人へは厳しい判断をする人物かもしれない、と。
「李光と申します。黄大人の御力に縋りたく、図々しくもまかり越しました。水鏡塾の司馬徳操様からの書簡も御預かりしています」
李光は、取り次ぎに現れた家人に案内され、庭の片隅に有る小さな離れへと通された。
李光が黄承彦にした話は、司馬徽とした時の其れの粗反復である。感情の起伏は抑えられたものの、李光の心の丈を揮ったに過ぎない。
尤も、黄承彦が抱いた感想は、司馬徽の其れとは大きく違う。共に、漢王朝と言う国家の枠組みの中で生計を立てている両者だが、政争を嫌って、政治からは一歩退いた位置にいる司馬徽と、名士と云われ、今の政治形態から其れなりの恩恵を得ている黄承彦では、抑々の立ち位置が違う。第一に、愛娘・月英の万福を望む父親の立場の彼は、今以上に庶民が団結して、此れまでに培って来た国家体制が反転してしまう様な反乱がおきては困るのだ。
併し、少年の言いたい事も能く分かる。王朝は、天子さえいれば、国家が成り立つ、と考えている節が有り、長きに渡って疲弊した民に安寧を与えようとはせず、又、国家が倹約をして乱れた国家と経済体制の立て直しを図ろうとは考えていない。天子と官僚の、自己中心的な国家運営が、現在の海内で行われている政治の全てである。
黄承彦自身も決して今の政府に正義が有るとは考えていないが、其れでも太尉・張温に向けて、通鑑を取り寄せる為の使者を出そうとは思わないのは、娘可愛さだからだ。さりとて、司馬徽からの書簡も有り、蔑ろには出来ない。
「少し、考える時間を頂きたい」
そう言い残し、黄承彦は立ち上がった。年老いて、名士よりも、父親としての保守的な立場の方が目立つ様に為って来たのは、仕方が無い事なのだ。
李光は、去り行く黄承彦の背中を眺めつつ、何処と無く父親の胸中を嗅ぎ取っていた。彼とて、李母から大きな愛情を注がれて育ったのだ。親と子が互助関係に有る事は、善く知っている。
李光が通鑑欲しさにしつこく食い下がらなかったのは、きっと母親から与えられた数多の愛情を思い出したからだろう。
その一方で、李光とは別の場所で待たされている徐福は、同席している張業と王媚に断りを入れ、同窓でもある月英の顔を覗きに行った。
月英の寝起きする棟は、敷地内の最深部に有る。人目からは遠ざけられ、如何に、黄承彦が娘を大事にしているかと言う事が善く分かる立地である。其れでも徐福は月英からこの事を聞き知っており、勝手知ったる他人の家よろしく、迷う事無く月英の元へと至った。
「こんにちは、月英様。お久しぶりです」
徐福は、人好きのする笑顔と共にひょっこりと貌を出す。
月英も、久し振りに学友の貌を目にし、零れる様な笑顔に為った。
「徐姐様、御無沙汰しております。今日は、如何して此処に?」
「知り合いを、黄大人の下に案内して来たんです」
「まァ……、では、私は〝序〟と言う事ですわね」
言葉通り、不機嫌に為った訳ではなく、単なる冗談なのだ。その証拠に、大袈裟に口許を掌で隠した月英と徐福は、コロコロと鈴を転がす様な声で一頻り笑い合う。
「姐様の御朋友は、如何言う御方なのですか?」
物見高いと言えば其れまでだが、何事にも興味が湧くのは、向上心の高さの表れと考えて良い。特に月英は環境に恵まれて育った所為か、何かと首を突っ込みたがるのだ。彼女の欠点ではあるが、最大の長所でもある。尤も、此の時ばかりは単なる興味でしかない。
興味本位で尋ねる月英は、好奇心を瞳から溢れさせて徐福を見詰める。納得できる答えが無ければ、一晩中でも離さない、と言っている様にも窺える。
徐福は、困り顔を浮かべる。頭の良い娘は、こういう時に困るのだ。必ずお茶を濁した答えを見破り、真実かそうでないかを巧みに嗅ぎ分けてしまうのだ。其れでも無駄な努力をしてしまうのは、面映ゆさからくる照れ隠しと心の何処かに驕る手前味噌、と言う事が有るだろう。
「李先生は、司馬子と同様に私の恩人なのです。其の方が、潁川に向かいたいと仰いました。私は、その願いを叶えたいと考えております。恩に報いる為にも、力に為りたいと思うのは当然の事でしょう?」
「徐姐様は、その李先生と言う方が好きなのですね?」
徐福の言葉は短いものだったが、月英は、終始その貌から視線を外す事は無く、丹念に表情に注意を払っていた。その結論が言葉に為ったに過ぎない。尤も、婚姻が間近な現実問題であり、好意を寄せる人の元に嫁ぎたいと素直な気持ちを抱ける徐福への羨望の意識が無いと言えば嘘になる。
子供の婚姻は親が決めるもの、とは既に語っている。黄忠の娘の璃々は、婚姻に対する自我が羨望以外には発達していないから親の言葉を鵜呑みにしたが、聡明な月英は、女性に与えられた権利と自我の下に、この当時の婚礼制度に違和感を抱いている。
家の犠牲になる事自体がおかしいのだ――、と。女性が独立して家を成すだけの権利があるだけに、親から勧められるが儘の婚姻に、素直に同意できないのが彼女なのである。
尤も、月英とて年相応の女子らしい探究心は旺盛である。と言えば聞こえは良いが、好奇に瞳を輝かせる彼女は膝を進めて、徐福へとにじり寄った。
「李先生とは、何時結ばれたのですか?」
「私共は、未だそう言った関係ではありません!」
「未だ、と言う事は、何れは、と言う事ですわよね?」
「今が無いのに、この先の展望がある筈が有りません!」
徐福は貌を赤らめて言下に否定するも、肩を落として自分の言葉に失望する。お互いの気持ちが通いあって初めて成り立つ関係だけに、今の状態の儘では何一つ進展が望めないのは事実なのだ。男女の事に為った途端に奥手に為る自分に、辟易とするしかない。
落ち込む徐福を目にし、月英が自分の無神経さに責任を感じない筈は無い。更に膝を進めた月英は、姐として親しむ者の横に座り、そっと両肩に掌を添える。
「李先生と私を御引き合せ下さい。きっと、お姉様の力に為って差し上げます」
優美な笑顔は、月英の名の儘に月影の様な清涼さがあるものの、徐福は訝った貌をおさめる事が出来ない。果たして月英の言葉は、どちらを意味しているのだろう――、と。
徐福は、遠回しに断りを入れる事にした。
「でも、此処に李先生をお連れしたら、大騒ぎになりますよ」
「大丈夫です。私は、学友との話に興じる為に御姐様の部屋を訪ねるだけですから。其処で、李先生とお会いするのは、単なる偶然に過ぎません。明晩、御伺いします。必ず、李先生を呼んで置いて下さいね。きっと、ですわよ」
念を押した月英は、何時までも徐福と顔を合わせていれば、断りを入れられる事を承知している。だから言いたい事だけ言うと、さっさと部屋の奥へと引っ込んでしまう。
唖然としている徐福は、ぽつねん、と其の場に残された儘だ。
○
いつの時代でも同じだが、特別な階級に有る家柄以外では、食事時に顔を合わせるのは普通の事と言って良い。が、此の日の黄家は違い、娘の月英が、学友の徐福と女子会をする、と言えば窘める事は出来ず、父親の黄承彦は、一人で寂しく食膳に向かい、もそもそと箸を進めたのは言うまでもない。
当の月英は、侍女に酒肴を持たせ、鼻歌でも聞こえて来そうな軽やかな足取りで、意気揚々と徐福に宛がわれている客間へと向かっている。星屑が零れ堕ちそうな程の夜空に照らされ、広大な屋敷の庭園に設えてある夜道は篝火を必要としない程に明るい。
李光達が宿舎として宛がわれたのは、要人を迎える為の舎屋で、司馬徽からの書簡を持っていれば、其れも当然の話と言って良い。李光と徐福は、玄関口に立って月英を出迎えている。徐福の貌には、未だに怪訝さがあるが、李光は其れを気にせずに口を開いた。
「黄大人ばかりか、御息女の月英様にまで御配慮いただき、身に余る僥倖で御座います」
「徐姐様が御心痛に感じている事は、私にとっても同じ事です。何処まで力に為れるかは判りませんが、父の説得に一役買わせて下さいませ」
月英はそう答えると、二人の腕を抱える様に引張り、先立って家屋に入った。
扨、屋内に場を移したものの、三人には会話が無い。と言うのも、月英が、良家の御嬢様とは思えない様な不躾な眼差しで、李光の頭の天辺から爪先までをじっくりと二往復して眺めているからだ。こんな態度を見せられれば、李光に話したい事が有ったとしても、中々に口を開けるものではない。
一頻り李光の事を見詰めていた月英は、不意に視線を外して徐福の耳朶に口唇を寄せる。
「流石に御姐様ですわ。中々にお目が高いですわ」
小々品格は足りないが、人物鑑定眼に優れる黄承彦の息女のお墨付きを貰ったのだ。本来なら慶んでもおかしくは無いが、徐福の貌は飽く迄も複雑である。嬉しく無い訳ではないが、こんな事をしてもらう為に、此処に李光を案内した訳では無く、太尉の印の捺された通鑑を貰う為の助力を請う為に来たのである。寧ろ、月英には、更にその為の助力として、黄承彦への口添えをお願いしたいのである。
併し、思いは通じず、正に暖簾に腕押しで、徐福が脱力をしかけた、其の時である。
「親と言うものは、実に有難いものですね……」
突然の李光の言葉を聞き、きょとんとする月英と徐福を余所に、彼は黄承彦が寝起きをする本宅の方に目を向けながら、掻い摘んで昨日の会話を話した後に、更に言葉を続ける。
「大志と言うのは、胸裡に有る最終目標であり、今の国家形態を覆す様な考えを持つ私は、黄大人に言わせれば、今ある暮らしを乱そうとする危険思想を抱く者なのでしょう。其れだけに、張太尉の印璽の捺された通鑑を取り寄せるには躊躇いがある。愛娘の月英様の未来を脅かす存在かもしれない私に、容易に助力は出来ないのでしょう」
李光は此処まで話した所で自嘲を浮かべたが、口は閉じられる事は無かった。
「でも、其れも致し方ない事なのです。若し、双方の立場が入れ替われば、私の亡母も同じ判断をするでしょう。子共は、親にとっては宝以上の存在であり、子の仕合せを望まない親はいないのですから……。私の望みは飽く迄私事であり、黄大人に無理強いをしたくは有りません。独力で、豫州に向かう方法を模索しようと思います」
こんな言葉を月英の前で話してしまう李光は、若さから来るものなのか、将又、儘ならない現実に、多少なりとも焦燥感が有るからだろうか、どちらにしても、当事者に告げる様な内容では無い事に気付いてはいない。併し、こんな言葉は往々にして効を奏すものだ。
月英は、話を聞いて顔色を変えた。人物鑑定の大家であろうが何であろうが、海内で名士と崇められる者は、喩、娘の大事であったとしても、一個人よりも海内の全ての行末を第一の考慮にしなくてはならない筈なのである。
黄承彦は、月英にとっては自慢の父なのだ。事情は如何あれ、常に公明正大な父であって欲しいのだ。尤も、李光の言葉の中にも真実はあり、其処に幸福を感じない訳ではない。が、今は其れも脇へと除けておかねばならない。
月英にも、今の海内の騒乱の一因が朝廷にある。事はわっている。
「父は間違っています」
だからこそ、こんな言葉が出るのだ。
はっきりと言葉にした月英の貌には、先程までの少女然としたあどけなさは無い。毅然とした表情は、年齢以上の其れに見える。
「子が間違った道を歩もうとした時、其れを正すのが親の役目だとするのならば、親が間違った判断を下そうとした時には、其れを指摘するのは子の役目なのです」
世間体を気にするとか、そんな邪な気持ちは微塵も無い。只々、大好きな父であればこそ、誤った判断をさせてはならない、と月英は思うのだ。
「李先生、明日、私と共にもう一度父と会って下さい。父の間違いを私が正します」
其れだけを言うと、月英は、意を決した貌でその場を後にする。結局、誰も用意した酒肴に手を付ける事は無かった。否、酒杯にぼんやりと浮かんでいる月だけは其れを嗜んだのか、僅かながらに赤みを増していた。
柳暗花明とは善く言ったものだ。柳の緑が暗いまでに茂り、桃の朱い花が、明るく咲いている風景を指す言葉で、深まってきた春の情景を詠った詩の一説に使われている。黄承彦の広大な屋敷には、四季折々の風情を明媚に醸す庭園が有る。春には桃や藤、夏には柳や姫沙羅、秋には楓や桂、冬には椿や山茶花等の様々な花木が庭園を彩り、訪れた者の心を和ませる。
特に庭園の中心に設えられた亭は絶好の場所に有り、四季に咲く花と共に、池や岩を配した景色を全貌出来る。此の場所は黄承彦のお気に入りの場所でもあり、心に憂慮を抱えていても、此処に腰を落ち着ければ、必ずと言って良い程に気分が晴れる。
併し、此の日ばかりは全くその効果が無い。
其れも其の筈で、朝餉の席で、愛娘の月英が態度を改めてこう言ったのだ。
「お父様に話が御座います。一時程後、中庭の亭で」
何時もは花も恥じらう様な微笑みを浮かべる月英が、ニコリともせずに言いたい事だけを言うと、くるりと背を向けて黄承彦の前から辞してしまった。何に対して不機嫌なのかは大方の予想はつくが、其れだけの事で親子の間に亀裂が走るかもしれないと思うと、気が気では無い。さりとて、娘を想う気持ちを止める方法は無いのだ。
――親子の関係が、微風で壊れる事は無い……
とは解っていても、微風に弄ばれる桃の花弁がはらはらと散る様子を目にすれば、子供を大事に思う親心を波立たせたのは言うまでもない。
月英は、時間通りに現れた。李光を連れているのは、予想通りと言って良い。当然、話の内容も予想が付く。扨、如何したものか――、と。
黄承彦の真向かいに座ったのは月英、李光は斜向いである。詰り、今回の話の相手は飽く迄月英であると言う事だ。そう思うと、黄承彦の心を段々と重く為って来る。
「お父様、態々御足労頂き、有難う御座います」
しかも、此の余所々々しい態度である。黄承彦は、話を始める前から心が潰れそうな思いを感じている。しかも、深々とお辞儀する仕草が、尚更に父親の心を追い詰めている。
其れを解かってやっているとすれば、月英と言う娘は、実は相当に強かな女と言えない事も無い。
「何故、張伯父様に通行鑑札を請求する使者をお出しにならないのですか?」
しかも、直球勝負も良い処である。此れでは安易な言葉ではぐらかす事も出来ず、黄承彦は下手な言い訳も出来ず、ぐうの音も出ない。
「李先生が、中原を席巻している農民反乱を増長させる存在になるかもしれないからですか?」
黄承彦が押し黙ってしまったのは、月英の口撃が的を射ているからでは無い。彼とて、名士と言われる存在であり、人物鑑定眼を養う為に様々な見識を修めているのだ。隙あらば、逆転の一手を討つ為に、今は押し黙って其の時を待ち構えているに過ぎない。
併し、其処は親子だ。娘は、誇りにすら感じている父親の性格をよく理解している。勿論、溺愛している事も、なのだ。だから、父親が今、何を考えているかも分かっているし、早々に畳み掛けを実行なくては、逆転の時を与えてしまう事も、なのだ。
「お父様は、私の誇りなのです。何時までも、誇りであって欲しいのです……。何時までも、大好きでいたいのです」
此れまで気丈であった月英は、不意に貌を俯かせて、指先で目尻を拭う。光るものは、都合の良い時に思い通りに出せるのか、将又、本当に悲しいと感じているのかは分からないが、前者だとすれば、相当の狸であり、後者なら、純情可憐な乙女と言う事に為る。同席している李光と黄承彦にはどう見えていたかは、敢えて書き記す必要は無いだろう。
既に、策に嵌った黄承彦は、顔に不安を張り付けて、如何したものかとおろおろとするばかりである。一方に李光は、冷めた眼差しで事の成り行きを見送ろうと考えたのか、二人の様子を一歩下がった位置から眺めている。
「……若し、……若し、お父様が私の誇りでは無くなると仰るなら、……私……」
月英は、其処まで言うと貌を上げ、キッと黄承彦を睨み付ける。下唇を噛締める様子は意地らしく、ある種の決意を窺わせる。其の様子も、見る者によって変わるのは、言うまでも無い。
勿論、策中に有る黄承彦は、娘が何を言い出すのかと、はらはらとしている。一方の李光の目は、益々と冷めていく。
「お父様の事……、嫌いになっちゃうもん!」
言うや否や、月英は、椅子ごと明後日を向く。完全に黄承彦に顔を見せないのではなく、微かに表情が窺える程度に背けているのは、間違い無く彼女の計算の内だろう。余所々々しい態度を見せ、間違いを論いはしたものの糾弾はしない、父親への尊意に加えて愛情を見せつつ、唾棄の態度も見せる。
果たして黄承彦は、まんまと彼女の想定通りの反応をした。挙措を乱して立ち上がり、慌てて月英の元に駈け寄る。不安な表情を隠しもせず、月英の元に跪いて掌を取った。目尻に輝く物は、計算上のものでは無く、本当に流れ出たものだろう。
「月英の気持ちも知らず……、愚かな父を許しておくれ」
膝に縋りつく父親の髪を梳く様に撫でていた月英は、不意に李光を振り向いて微笑みを見せる。元服前の少女が見せる妖艶な貌には、涙の痕は微塵も無かった。
――女って怖い……
李光の感想も、肯けると言うものだ。
○
雒陽にいる太尉・張温への使者が発ったのは、月英の脅迫が行われたその日の事だ。とは言え、当時の交通事情は悪い上に、黄巾の賊徒の蜂起に依り、国内が混乱しているのは事実であり、十日や二十日で使者が任務を果たして戻って来ると言う事は有り得無い。話を円滑に進める為の貢物も驕ったので、早ければ二ヶ月、通常でも三ヶ月、国政が立て込んでいれば、其れ以上の月日であっても不思議ではない。
その間、客人たちは屋敷内に留められるのだから、さんざんな散財と言っても差し支えは無いが、黄大人には其れ以上の杞憂が生れた事は確かだ。
勿論、其れは月英の事であり、客人である李光との距離が狭まりつつある事だ。
李光は、没落しても士大夫の家柄に育っている。元より学ぶ事は嫌いではないし、寧ろ、其処に自分を生かす本質が有ると考えている。そんな思惟を抱く李光に、黄家の豊富な書庫を見せれば、如何為るかは火を見るよりも明らかだ。
李光と月英と徐福の三人は、寝食も忘れて書庫に入り浸り、彼や是やと意見を交すのは仕方が無いと言えば其れまでだ。
唯、もう少し徐福が頑張ってほしい――、と思うのは、黄大人が親ばか……、否、其れを通り越したばか親だからに違いない。
其れは扨置き、光陰矢のごとし、とは能く使われる言葉だ。月日の流れが速い譬えだが、好きな事をして過ごせば、実に納得できる言葉と言って良い。
時は、光が過ぎ去るような速さで三ヶ月を過ごした。あれ程咲き乱れていた桃の花弁は疾うの昔に散り去り、早くも桂花が蕾を綻ばそうとしている。既に晩夏は終わりに近付き、朝夕の冷え込みは、足早な秋の来訪を告げている様でもある。
張太尉からの通鑑を携えた使者が戻ったのは此の頃である。一日々々を千秋が過ぎる思いで過ごした黄大人が、安堵に溜飲を下げたのは言うまでも無い。後は、一刻も早く、李光を譲城に向けて送り出すだけである。
送別の宴まで催して貰った李光達が黄家を出立したのは、鑑札の届いた翌日の事である。
先ずは襄陽を目指す。其処で乗船を手配して樊城に渡り、白水を遡上して博望坡を目指すのが効率の良い行程であろう。
襄陽の西門を潜ったのは昼頃の事で、彼等が曾て犯した失敗を二度も繰り返す様な事は無く、衛士に小銭を渡して平然と街区に入る。
曾て、襄陽には半年ほど滞在していたので、本来なら其れなりの愛着が湧いても不思議ではない。併し、其れが全く湧かないのは、黄忠が屋敷を引き払い、魏延が樊城で仕官した事で、全く顔見知りが居なくなったからだ。李光は、まるで見知らぬ街を歩いているような気持であったが、其れでも躰は船着き場の場所を覚えていて、迷う事無く辿り着いた。
太尉の印の捺された鑑札の威力は大したものである。見せた途端に最優先で乗船権が与えられる。罪悪感が胸を苛んだが、権力に比例して大きく為る権利を知ったのは事実だ。
漢水を渡る船に乗ったのは、此れで二度目である。一度目は、討伐の時であり、再び襄陽に渡る保障の無いものだったが、今回は、別の理由で再び漢水を渡る事は無いと思っている。併し、李光の胸裡は希望に満ち溢れていたのは、然かいとの大きな違いだ。
漢水の流れは豊かである。とは言っても、江水の雄大さには遠く及びはしないが、水源が近い分だけ若々しさを感じるのは気の所為では無いだろう。
当時は、河水や江水に限らず、あらゆる川が人の行く手を遮っていて、交通手段の貧弱な当時は、渡河は決して容易な事では無かった。其れと相俟ってか、人は難関を一つ乗越えると気持ちが高揚する。
「それにしても、黄大人の燥ぎ様は尋常じゃなかったなァ」
こんなかる口を敲いたのは張業だ。躰を動かす方が性分に合っている彼は、黄承彦の屋敷では鬱屈した日々を過ごしている。こうやって手足を伸ばして過ごせる日々が再び訪れれば、不思議と口も軽くなると言うものだ。
「月英様の事が余程に心配だったんだろうなァ……。先生に娶られると思ってさ?」
応じたのは王媚だ。やはり彼女も、張業と同じ様な気持ちで三ヶ月を過ごしている。
二人にすれば、気晴らしの為の本の冗談なのだが、立場に依って受け取り方が変わるのは当然なのだ。勿論、其れが誰なのかを言及する必要があるだろうか。
「そう言う心算で、月英様に近付いたんですか?」
否、待て。能々考えれば、徐福が司馬徽の力に縋る為に紹介し、其れが高じて李光は黄月英に出合った筈である。下心が無いのは、徐福が一番知っていておかしくない筈だ。
涙目で李光の胸座を掴んで迫っているのは、記す必要がある筈も無い徐福である。関所は、太尉の印の捺されている鑑札で、ノーチェックで通過できる事を考えれば、此れが中原に向かう為の最後の試練に為った事は言うまでも無い。
将来を誓い合った訳でも無い徐福に、衆目に晒されながら身に覚えの無い事実の弁明を必死に繰り返す李光であったが、無実の嫌疑は中々に晴れそうにない。無駄に終わりそうな言い訳を繰り返しながら、やっぱり女って怖い――、と李光は思った。
博望坡を越える頃には、機嫌も直るだろう――、と。
尤も、山吹色に染まる山稜は遥かに遠くになだらかな曲腺を描いており、歩いても歩いても近付く様な気がしない。遥か先に有る博望坡は、まだまだ遠い。
―― 揺籃 (下) に続く