・3 胸裡
申し訳ありません。御都合主義満載の話になってしまいました。
李光達三人が、襄陽に住む人々の口の端に上る話題が、粗一つに集約されていると知ったのは、城内の暮色が濃くなり、蒼穹の明るさよりも人の作り出す灯の方が明るくなり始めた頃の飯屋での事である。
襄陽の属する荊州南郡、漢水を挟んでその北東に広がる南陽郡に蔓延った黄巾の賊徒が話題の其れで、新たな南陽郡の太守に任ぜられた秦頡が、首魁張曼成の討伐の為の軍旅を発すると言うものが、大まかな其れだ。
だが、話題の中心に有るのは、軍旅が発せられる事自体では無いし、其の為に募兵を募っている事でも無い。それらの話で始められても、
「其れにしても黄夫人てェのは、偉い人だなァ……」
人々の間で交わされる会話の最後には、必ずこの言葉が付け加える。口さがない話ではあるが、李光達三人が耳を欹てた話の概要とは、概ね次の通りだ。
「未亡人の身空で、亡夫の敵討とは大したものだ」
と。
『黄』姓は、取り立てて珍しい氏姓では無く、現在でも十傑に入る姓である。だからこそ有名人が多いと言う事は無く、其れが女性であれば、尚更の話である。所々で語られる容姿と突き合わせれば、李光は、『黄夫人』と呼ばれる女性が誰であるのか、直ぐに思い当たった。
――城門で助けて頂いた女性に違いない。
と。
李光は、敢えて張業だけに声を掛けた。
「これ程の有名人ですから、他人に尋ねれば、住まいも分かるでしょう。黄女史には一方ならぬ恩を受けました。礼も云わずに済ませるのは、仁義に欠けると思いませんか?」
張業は、一も二も無く賛意を示した。飯屋とは言っても、酒も出る。寧ろ、当時は生水の方が危険で、手間を掛けてその度毎に水を沸かして白湯を作るよりも、米を粉にして水に放り込んで造った漿に、麹をほおり込んだだけで出来る酒の方が、作り置きが出来る分だけ余程に手軽であった。尤も、アルコールの度数も一度程度とお手軽なので、酔うには相当量を胃の腑に収めなければならない。
併し、酒を飲み始めてそれ程の月日が経っていない少年達では、少量の酒であっても酔眼に変わりつつある。あの成熟した女性の残り香は、未だに二人の少年の鼻孔の奥深くに残っており、もう一度あの美女にお目に掛かりたい、と言う下衆な想いを抱くのは、思春期の年頃では仕方が無い。
だが、男子が脳裏に桃色な想像を描いたとしても、女子の場合はその辺りは潔癖な方向の思考になる。況してや、生まれた時からの竹馬の友にも似た存在であれば、尚更の話であろう。今度は、大通りの時とは反対側の向う脛を蹴られたのは言うまでもない。
其れは扨置き、此の時の襄陽では張曼成討伐の話題で持ち切りで、耳を塞いでいたとしても何かしらの情報が集まってくる始末だ。しかも、かなり細かな事まで、なのだ。当然、其処には黄夫人の細かな情報も含まれている。
姓諱を黄忠、字を漢升、其れが黄夫人、若しくは黄女史の通称で知られる、襄陽で話題持ち切りの女性の正式な名である。彼女は芳紀で嫁いだものの、中々に子宝に恵まれず、二十歳を超えて授かった一女の璃々がいるだけだ。待望の授かりものだっただけに、両親の可愛がり様は、正に掌中に玉を抱くかのようであった。
この一家に悲劇が起きたのが、璃々が五歳に成長したこの年の春先の事で、興起した密教の筆頭格の太平道の決起が各地で起こり、南陽郡は張曼成の軍門に降る事に為った。此の時、黄忠の良人は舞陰県の丞で、妻の黄忠や娘の璃々、加えて住民を逃がす為に最後まで城内に残って戦い、全員が逃げ切ったのを見届け、令・尉を含めた県の行政を司る役人と共に力尽きた。
南陽郡は、世祖・劉秀の故郷の舂陵が有る土地で、王家の血筋の者が多く、又、豊潤な土地であるが故に皇太后や王妃、又、王侯の直轄領地と為っている郷邑が多く、各県は租税分の穀物の確保や直轄地と徴租の折衝で苦労していた。
黄忠の良人は、そう言った厄介な問題に一つ一つ真摯に立ち向かい、如何すれば住民への課税を減らせるかに心血を注いで来た人で、黄忠にとっては最愛の良人であるが、李光の様に王朝に積怨を抱える者に言わせれば、敬意を払うべき官人と言って良い。
黄忠の敵討の助力をしたい、と言う気持ちも強いが、其れ以上に、世人に必要な人材を死の淵に追いやった黄巾賊への憤りは強い。本来なら、黄忠の亡夫は、太平道にとっても必要な人材の筈である。新たな世界を作る為に、礼を持って遇すべき人といって良い。
其れを、簡単に死に追い遣ると言う事は、太平道には庶民の為の政治を執る気が無いと言う事であり、仮に太平道が世を治めたとしても、天子を含めた現在の王朝の上層部の刷新が行われるだけで、治政の内容が変る事は無い、と言う事だ。詰りは、庶民の生活は今のままで、何一つ変わらない証左でもある。
太平道を擁護する理由は何一つなく、寧ろ、庶民の害悪として排除した方が良い――、と李光は思う。この辺りは、実に少年らしい正義感と潔癖さがある。
「明日、黄夫人への御礼と共に、助力を申し出ましょう」
張業と王媚にも異存はない。郷里には、住民に温情を掛ける官人がいなかっただけに、そう言う民の為に必要な人材の命を軽率に扱う黄巾賊への憤りは、李光同様に強い。とてもでは無いが、他人事だ――、其の言葉だけで片付ける気持ちにはなれない。純真な少年ならでは、の考え方だ。
朝ぼらけの薄暗い景色は、李光の胸中と同じくらいに不鮮明であった。黄忠に助力をする、と言う事は、黄巾の賊徒の討伐に手を貸す事でもある。李光は、黄忠の助力だけしか考えておらず、秦頡の指揮する討伐隊で働こうとは考えていない。
今一つ、秦頡と言う人物は信用出来ず、黄忠を募兵の広告塔としながら、実を与えようとしない。噂話だから、正確な情報とは言い切れないが、今回の討伐の主役の筈の黄忠を、兵站を担当する後方支援として飼い殺しにしようと言うのだから、秦頡と言う人の邪悪さを感じるのだ。
だが、
「討伐隊に志願しろ」
と黄忠に断られた時に、どうやって彼女を説得するかの材料が全く無く、悩み所の一つである。しかも、その言葉通りにしなければ、余りにも、誠意が足りない――、と呆れられかねない。もう一押し、其の言葉を覆す為の何かが欲しい、と李光は思う。
宿を出て近所の飯屋で朝食を済ませ、人伝で黄忠の住まいを目指す。李光の鼻孔に、所々で蕾を綻ばせる金木犀の甘露にも似た香りが漂ってきた。その匂香に誘われる様に、李光は貌を上げた。双眸は冬に見られる独特の色濃い蒼を含む晩秋の空を捉え、張り詰めた様な冷涼さを含む空気を肌で知る。
李光の五感は、自然をあるが儘に捉えた。其の時、己も自然な儘で良い、と思った。
――思惟を抱かず、所懐だけを語って御願いしよう。
李光は無駄に悩む事をせず、下手な小細工を止めにした。奸計を用いた所で、所詮は少年の浅知恵に過ぎず、甘寧の時と同じ様に、積み重ねた経験には敵う筈がないのだ。正直に胸裡の内を語り、黄忠の心に届く事を信じるしかない。
そう思うと自然と心は軽くなり、瞳は目前に広がる光景を捉える様に為った。足先は、迷う事無く黄忠の住まいに向かっている。
李光が、ふ、と或る事に気づいたのはそんな時だ。
「前の女性とは、進行方向がずっと同じですね」
言葉にしたからなのか如何かは定かでは無い。だが、件の女性は突如として振り向いた。
「キサマら、ワタシの後をずっと付けて来ているな。何の用が有る?」
柳眉を逆立てて、とは正にこの事だろう。短めに切り揃えてある髪も、今にも逆立ちそうな程の勢いである。懐疑の眼差しは、不埒な事をしたら承知しない――、とありありと語っている。棍を持つ右手も、肩幅に開いている脚にも、何時でも動きだせるように不必要な力が入っていない。武技には疎い李光であっても、彼女の持つ其れが、常人よりも遥かに秀でている事は容易に理解出来た。
「我等は、この先に住む黄夫人に用向きが有るだけです」
「黄夫人だと? 漢升様の事か?」
――如何にも、と李光が肯きを見せると、女は憤怒の貌の儘でにじり寄ってきた。
「連れてけ!」
李光達三人は、予想外の言葉に、貌を顰めて訝った。
尤も、女はそんな事は気にせず、息堰切る様に身を乗り出して、更に迫ってくる。
「教えろ! 今朝からこの辺りをぐるぐると探し回っているんだが、漢升様の屋敷が一寸も見つからないんだ」
と。詰りは、彼女も黄夫人の許を訪ねる心算なのだ。そして、迷子になったのだ。
一行は、三人から四人に増えている。歳の頃は近く、懐疑の目で見られるような違和感はない。他人の目からは、元より四人組の一行に見えていた事だろう。尤も四人は、他人の目は気に為らないのか、歩きながらも話に没頭している。
「お前達も、漢升様の敵討の助力に願い出る心算なのか?」
「そうしたいのは山々ですが、黄夫人のお許しが出なければ、其れも叶いません」
「其処が問題だよな……、秦頡の討伐軍に参加しろ、て言われれば返す言葉も無い……」
彼女の姓諱を魏延、字を文長と言う。この年に加冠を迎えたばかりで芳紀にも届いていない。彼女が、此の討伐に参加しようと考えたのは、功名を得ようとする気持ちの強さよりも、伯父が、黄忠の亡夫と並んで舞陰県で尉を務めていたからで、言うなれば黄忠と同様の初志を持っている、と言う事だ。勿論、多少なりとも功名を望む気持ちは有る。伯父の後を継ぎたいのだ。
目的が同じで年齢が近い事も有り、魏延は直ぐに三人に本性を見せている。若しくは、生来の性格が単純で、隠し事が嫌いなだけなのかもしれないが、其れは定かでは無い。
「何か、妙案は無いのか?」
「本懐を告げて、許しを請うしかないでしょう。其れで駄目なら、諦め様と思っています」
李光の素っ気無い言葉に、残りの三人は相貌に深憂を浮かべる。
――目通りさえ叶えば、頼み込みさえすれば何とかなる。
と思っていただけに、失望感は小さくない。李光以外の三人は、何時の間にか肩を落として、とぼとぼと歩いていた。
黄忠の住まいは、魏延と出会った場所から十引(一引=十丈、一丈=十尺、一尺=二十三糎強)程先の、州府の傍に、ひっそりと佇んでいた。家門は、外部の喧騒を遮断するかのように固く閉じられており、其処に彼女の胸中の想いを窺う事が出来る。余人とは必要以上の関わりを持ちたくない――、と。
踵を返したくなる己を必死で抑え、李光は、来訪者の存在を門内へと伝えた。
「黄漢升様は、御在宅でしょうか?」
現れたのは、耳順に近い老人である。訝る眼差しは厳冬の空気の様に冷ややかで、あからさまに、又か……――、と語っている。
黄忠の美貌に魅かれたか、色香に惑わされたか、若しくは、魏延の様に縁者を亡くし、純粋に助力の為に訪れたか如何かは別として、枚挙に暇が無い程に訪れる客人に辟易としている事だけは、李光にははっきりと理解出来た。
「助力の申し出なら断れ」
と、黄忠から言いつかっている事も、老人の所作から分かった。
「昨日、南門で困っている所を、黄夫人に助けて頂きました。本日は、そのお礼に伺いました」
李光は、即座に戦法を変えた。嘘も方便、と言ってしまえば聞こえは良く無いだろうが、目的を煙に巻いてでも黄忠と向かい合って話をしなければ、彼女の心を動かす事すら出来ない。己が心の丈を、黄忠の心にぶつけなくてはならないのだ。
対応に出た老人は、礼を述べに訪れた者に対しては無礼は出来ないと感じ、結局は折れて、李光達四人を門内に引き入れて、庭の片隅に立てられている離れに通した。
対応に訪れた黄忠は、当然の様に不機嫌であった。一見しただけでは優雅な所作に極上の笑顔で、中々に機嫌の良悪の見分けは付かないが、眼差しは冷淡で僅かばかりの温和な色すらも無いのだ。言うなれば騙し討ちの様なものなのだから、不機嫌に為るのも致し方が無い。此れも覚悟の上、であった。
「あら……、昨日のボク達ね。態々礼に来るなんて、随分と律儀だこと……」
言葉の端々に棘が有るのも仕方が無い。此の態度に此の言葉、しかも其れを飛び切りの美女から浴びせ掛けられていると有らば、李光の心は今にもぺしゃんこに拉げそうであった。が、少年は、健気にも気持ちを奮い立たせる。此処で引き下がる訳にはいかないのだ。
「御礼は最後に述べようと思います。先ずは、世間話でもしようではありませんか」
李光は、不敵にも笑顔を見せていた。勿論、眼差しには一片の微笑みも無い。云わば、黄忠との真剣勝負なのだ。
「遠い昔、有る所に一つの国が建てられました。崇高な理念の下に立てられたその国は、当初は農夫に無理強いをしない、国家と民の安泰を慮る、其れを旗頭に掲げた素晴らしい国でした。ですが、誰であっても時の流れには勝つ事が出来ず、建国を果たした当代の英傑も軈ては鬼籍に入り、代を重ねるに従って初代の王が想い描いた理想も徐々に薄れて行きました。税は庶民とって厳しいものに為り、朝廟では闘争が繰り広げられ、国家の乱れは尽きる事が有りません。乱れた朝廟は民の心の拠所では無くなり、多くの密教が乱立して国中が乱れ、民は、人らしい生活すらも送る事が出来なくなりました。その国家の民は、神から見捨てられたのです。ですが、捨てる神がいれば拾う神がいます。民は国の宝である事を理解し、県政が一丸と為って民の暮らしを守ろうとした場所が有ります。漢水の向こう、白水の南にある小さな県は、人の姿を借りた神の治める街でした。私が聞き及んだのは噂話だけですが、民からの感謝が如何程に大きかったのかは計り知れず、恐らく私の想像以上のものなのでしょう。併し、世の理とは非情なものです。地上に住む人同士が争う様に、やはり、天に住む神同士でも争うのです。乱立した密教の神の心は狭く、他の神の存在を認めなかったのです」
李光は此処まで一気に話し、不意に口を閉じて、黄忠の相貌を見詰めた。其処に先程までの不機嫌さは無く、瞳を閉じた儘で話に聞き入っている。相手が話を聞いてくれない事には説得も出来ない、李光は安堵しつつも再び口を開いた。
「私達は、貴女の敵討に僅かでも助力が出来れば良い、と思っています。王朝から遣わされた秦頡は、貴女を手駒として使う事ばかりを考えていて正義を感じられず、とてもではありませんが助力を申し出る気にはなれません。ですが、貴女一人だけの為に、敵討を手伝いたい、と言う訳でもありません。民を守る為に、県城に最後まで残って戦い、命の灯を散らした者達の為でもありません。舞陰で悲しい思いをした多くの民の為に、其の代表の貴女だからこそ、僅かながらでも力に為れれば、と思ったからです」
李光の言葉は、黄忠の胸裡の最も弱い所を突いている。彼女は此れまでに、彼女の為に、と助力を申し出た者の志を気に留める事をしなかった。妻が夫の敵を討つのは当然の事で、其処に余人が口を挿む事ではないのだ。
が、少年は、良人の行ってきた事を理解して賛同し、黄忠と同じ様に悲しい想いをした人の為に起つと言う。そして、秦頡の悪意をはっきりと理解していれば、中々に正規の討伐軍で功を立てろとは言えない。尤も、望んでいるものは功では無い事は、話を聞いただけで容易に理解出来る。
――如何すべきか……
黄忠が思案に暮れている時に、再び李光は口を開いた。当初、魏延を引き合いに出して譲歩案を模索しようとしたが、姑息な考えとした止めにした。その代り、己が胸裡に募る思いだけを言葉にする事にした。
「ですが、私の本心は、別の所にも有るのです。拾い児である私は、桂陽に流された李一族の一員として育てられました。罪過を科せられた経緯を詳しくは知らされませんでしたが、桓帝の御世に二度行われた政治弾圧が原因である事は、話しの端々を繋ぎ合わせれば、容易に推測が出来ます。果たして、今の王朝の治政に正義が存在するのでしょうか? 其れとも、公正な政治を貫こうとする事に問題が有るのでしょうか? 桂陽の片田舎で時を過ごした私には、中央の政治の事は能く解りませんが、中央社会の縮図が末端の治政に顕現するものと考えれば、今の政府に正義が有るとは思えません。其れは、人々の生活や、現在の海内の社会構図を見れば、容易に知れる事です。ですが、世間は捨てたものではありません。正しいと思える社会構図は、意外と近くに有るものなのです。其れが、舞陰での治政と言う事に為りましょう。こういう風潮は潰えさせてはならない、否、もっと世に広めるべきだと考えます。人の死を利用してこんな事を考えるのは不浄な事なのでしょうが、この事を世間に伝えて、少しでも公正な心を持つ人の琴線に触れる事が出来れば良いと思います。不幸の淵に居る貴女には酷な話ですが、私は、今この世に生きている人々の事を優先すべきだ、と考えます」
黄忠が本懐を成し遂げれば、この話は風聞になって海内を駆け巡るだろう。中にはこの話に興味を持ち、何故、女性の黄忠が敵討を胸裡に宿したのかを調べる者もいるだろう。そうすれば、舞陰で行われていた治政を知る事に為る。軈てはその事は人々の口の端に登り、必然的に世に広まるだろう、と言うのだ。
李光が口を閉じるのと同時に、耳に痛い程の静寂が訪れた。死者への冒涜とも取れる言葉も、黄忠の良人や魏延の伯父の意志を理解すればこそのもの、と分かるだけに安易な批判の言葉を口にする事が出来ない。
黄忠は、どんな事を言葉にすれば良いかも判断が付かなかった。彼女は良人の敵討以外を考えていた訳では無く、公明正大が自慢の良人ではあったが、行って来たのは世に誇る事では無く、ごく当たり前の事でしかない、と思っていたのだ。
だが、人と交わる事に依って知らされる事実は有る。黄忠は此処に来て初めて良人の行ってきた業績の偉大さを知り、改めて誇らしく思った。そして、心の丈を吐露した少年の思いの芽を摘んでしまってはいけない、とも。
だが、相手は年少の者である。この先には、輝ける未来が待っていない、とは言い切れないのだ。その芽を摘んでしまう事は、民の為にと生きて来た良人の偉業に反する事でもある。とてもでは無いが、黄忠にはおもい切る事が出来ない。さりとて、少年の思いを無碍にも出来ない。如何したものか――、と思ったが、黄忠は少年達の意思を尊重する事にした。良人は世人の為に生きたのだ。ならば、一心同体の存在の妻も、良人の意志を継がねばならない、と。
「判りました。貴方達四人を私の随行員として認めましょう。ですが、其の為の条件は、はっきりとさせておきます。今回は、民の事を第一に考えていた良人の敵討です。故に、若い身空の貴方達の命を無駄に散らす訳には参りません。此の討伐の間、貴方達は私の目の届く所に近侍する事、其れを随従の為の絶対条件とします」
歓声を上げた四人は、一も二も無くその条件を呑んだ。少年達の弾ける笑顔に、黄忠も何時しか笑顔を浮かべていた。この先はどうなるか分からないが、おもい切って決断をして良かった――、と。
一旦、黄忠に暇を告げた四人は、緊張で乾き切った喉を潤す為に、手頃な酒家を見つけて立ち寄った。店内は程好く混んでおり、卓の全ては埋まっている。併し、此の頃は、相席は当たり前の話で、特に断りを入れる必要は無い。四人は一塊に為り、六人掛けの卓を一人で占領している者の所へと腰を落ち着けた。
人生とは、恰も一本の糸で繋がっている様で、黄忠や魏延との出会いも偶然の様な必然なら、此れから出会う者との其れも同じで、運命と言う言葉に言い換える事が出来るのかもしれない。
運命の者とは、李光達と同席している先客の事で、少年達とは同年代の女だ。容姿から判断すれば、同年か、僅かに年上と云った所だが、加冠を迎えたばかりで最年少の魏延から見ても、片掌の指の数程の年齢差は無いだろう。女は、李光達に然して興味を持つ事は無く、一瞥しただけで、再び盃を傾けている。
李光達も、彼女の存在を特に気にする事は無く、酒瓶と人数分の盃、そして適当に箸休めを頼んだ。が、四人は酒が届いて咽喉を潤わせると同時に額を寄せ合った。酒家が喧騒で満ちていて、顔を突き寄せ合わせないと、お互いの声が上手く聞き取れないからだ。
「取敢えずは、第一関門は突破です。次は、どうやって秦頡に味噌を付けさせるか、です」
そう言った途端に、先客が派手に酒を吹きだした。其れが収まった今では、苦しいそうに咳嗽を繰り返している。
李光達は、額は寄せあったが、特に声を潜めていた訳ではない。先客の耳朶にまで届くのは当たり前の話だが、大袈裟な反応を訝った四人は、怪訝な眼差しを隠そうともせずに先客を見詰める。暫く空咳を繰り返し、やっと一息ついた先客であったが、怪訝な眼差しから逃れられないと判ると、愛想笑いでその場を誤魔化そうとした。が、やはり其れも懐疑の眼差しから逃げ果す手段とは為らなかった。
特に李光の眼差しには厳しさがある。女の大袈裟な反応に、秦頡に縁が有る者かもしれない、と思ったのだ。然らば、女の正体を探り、場合に依っては利用しない手は無い――、と。
少年がそんな事を考えているとも知らず、女は、仕方なく苦し紛れの言い訳をする。
「物騒な話しだったので、吃驚したのですよ……」
「そうでしょうか? 黄夫人の名声を利用しながらも、実を与えようとしない。それどころか、其れを餌にして、秦頡は黄夫人に輿入れを迫っているそうですよ。表現は如何であれ、襄陽内では実しやかに囁かれている噂です。火の無い所に煙は立たないので、根も葉もない噂とは言い切れません。今の話は、其れを阻止する為の企ての一部です。今回の討伐で秦頡が後手を踏めば、その話は無くなるでしょう」
李光は、即座に応答する事で女の退路を塞ぐ。反応が早い分だけ、女には考えるだけの暇が無かった。
其れは扨置き、李光のこの言葉は真実ではない。昨日に為ってやっと襄陽に辿り着いた者が、今回の討伐の話題で城内が持ち切りであったとしても、世事に通じていない彼等がそんな細かな事まで知る筈は無い。貌は明後日の方向を向きながらも、四人が話を始めた途端に耳を欹てて来たので、はったりを掛けただけである。が、其れは図を捉えていた。女の反応で、予想は確信に変わる。
「ええェ?」
女は声を荒げ、其れと分かる位に挙措を乱した。李光の言葉を鵜呑みにしたのだ。
思いも掛けなかった事実を知らされた所為か、頭を両手で抱え込み、絶望も露わの貌で卓子に突っ伏した。其ればかりか、秦頡の、爬虫類の様にねっとりと見詰めてくる双眸を思い出し、思わず身震いを覚える。もしかしたら私にも、邪な気持ちを抱いていたのかも――。と。加えて、年若い女性ゆえの潔癖さや、秦頡の卑劣さに驚いた、と言う事ばかりではなさそうだ。
「こんな事なら、司馬老師の御言葉をしっかりと聞いて、もっと周囲に目を向ければ良かった。出世の為の出仕の筈が、人生初の汚点に為ろうとは……」
この言葉からすれば、李光の全く知らない所で、彼女の出仕を諌める言葉も有ったのだ。しかも、其れが老師、詰りは師からの言葉であれば、彼女のこの醜態にも納得がいく。
大袈裟に嘆いたかと思うと、女は突然に懐から匕首を取り出した。そして鞘から抜くと、咽喉元に切先を突き付ける。鈍く光る刀身が、此れから起ころうとしている惨劇の行方を物語っている。
「母上、福は、やはり駄目な娘でした。先立つ不孝を御許し下さい」
言うや否や、匕首を握る掌に力を込める。刀身が細い首筋に食い込むのと、四人が腰を浮かせるのは同時であった。
勿論、李光達四人が飛び掛かって、女の暴挙を止めたのは言うまでも無い。
先客の女は、再び暴挙に走らない様に匕首を取り上げられ、手練れの魏延と王媚に挟まれて座らされている。肩をこれ以上も無い程に窄ませている様子は、二人に挟まれて狭いから、と言うよりは、己が浅慮が元とは言え、肩身が狭い思いをしているからなのだろう。余りの萎れ様に、事の発端を作り出した李光が気の毒に思った位だから、彼女の姿が如何に哀れだったのかは想像が付くと言うものだ。
因みに、彼女の姓諱を徐福と言う。字は元直だ。福と言う諱は、単家、詰りは士大夫では無い諸家に育った者に多く付けられる名で、言うなれば、一般的な名である。後に徐庶と名乗る様に為るが、其れは今暫く先の話である。
扨、其の徐福の正面に座った李光は、卓子の上で掌を組み、詰問する様な口調で話しを始める。
「先程、出仕したと仰りましたが、直接、秦頡に召し上げられたのですね?」
「私が司馬老師の下で学んでいる事を知っていて、秦頡が破格の待遇で私に出仕を要請したのです。良い話だと思ったんです。参軍として召し抱えられ、其処で力を発揮して、何れは推挙を受けて郡丞に、と皮算用をしていました。安定した職を得れば、年老いた母を呼ぶ事も出来、きっと喜んでくれると思ったんです。今にして思えば、みっともない話です……」
口から出まかせの虚言を信じ切って肩を落とす徐福の様子を目にし、李光は流石に不憫に思えて来た。が、此処で真実を告げようとは思っていない。別の方法で彼女に光明を与えよう、と思ったのだ。
「討伐の軍旅が発せられた訳ではありませんから、汚名返上の機会を諦めるのは早計と言うものでしょう。名誉は回復できるのです、此れからは、その事を考えましょう」
李光の言葉と同時に、徐福は貌を上げる。双眸には、弱々しいながらも希望を宿す光が灯り始める。上体が前のめりになっているのは、一分一秒でも早く救われたい――、と言う彼女の気持ちの表れだろう。
「ですが、其の為にはまず、大まかな討伐計画を聞かなくてはなりません」
言葉にしながらも、少し難しいかもしれない――、と李光は思った。軍事上の機密であるのだから、幾等精神的にまいっている徐福でも、其処までの矜持は捨てきれていないかも――、とも思う。だが、予想は良い意味で裏切られる。
徐福は問われるや否や、卓子の上に乱雑に散らばっている箸や盃、椀を使って漢水沿岸の地図を描き出して、身振り手振りを加えて説明を始める。
「其れでしたら、秦頡は難しい事は考えておりません。高が賊軍――、と侮っていて、新野、育陽を順に攻略して勢いを得、宛の張曼成に決戦を挑む心算です。首魁を斃せば、寄せ集めの残党は迫り寄っただけで散り々々になって逃げ出す、と」
「其処で的確な助言をして、信任を得ようと考えた訳ですね」
おずおずと肯く徐福の貌は、今にも火を吹き出しそうな程に朱い。己が行動の起因が幼稚すぎて、恥ずかしくて仕方が無いのだ。
だが、李光はその事を全く気にしなかった。大き過ぎる慾を持つ人を信用する事は出来ないが、分に見合った欲望を抱く人は信用に足る――、と。彼自身にも慾は有るのだ。
「申し訳ありませんが、徐女史は、秦頡に助言をして功名を得るのは諦めて下さい」
李光の此の言葉は、正に徐福にとっては死刑宣告と同じだったのだろう。見開いた目は瞬きを忘れ、顔からは血の気が引いて蝋の様に白く為っている。流したい涙ですら、一瞬にして枯れてしまったようだ。先刻の言葉を、舌の根も乾かぬ内に反故するのか――、との思いがあるが、李光が怖くて恨み言を口にする事は出来なかった。
だが、世の中は上手く出来ているもので、捨てる神がいれば、必ず拾う神がいる。尤も、今回は、同一人物が其の両方であった。李光は暫くの間を沈思した後、地図に描かれていない場所を確認しながら、話を始める。
「徐参軍は、秦頡には随伴せず、上手く言い包めて白水以南の失地の回復に努めて下さい。張曼成を討つのは黄夫人でなくてはなりませんから、秦頡を其の当て馬に使いたいのです。秦頡が愚直に攻めれば、やはり正規の武装をしている討伐軍の方が、有利に戦局を進めるでしょう。善政を布いていた官人に温情を見せなかった張曼成には正義が無く、戦局が不利と知れば、自分が助かる為だけに兵を囮にして、宛県から遁走するのではないでしょうか。其の時に、徐女史が白水以南の討伐を行っていれば、必ず進路を西に向けるでしょう。後は、武関を通って渭水盆地に向かうか、一度南下して漢中盆地に向うかの二択に絞る事が出来ます。多くの兵を連れていては、脱走は難しいでしょうから兵数は少ないでしょうし、上手く待ち伏せれば、黄夫人が、自らの手で敵討が叶います」
この言葉を聞き、徐福は、李光を見る目が変わった。強引で怖い人から、理を通す人に思えてきた。今回の討伐を果たす人物が誰なのかをしっかりと捉えているばかりか、功名を得たい徐福の希望も忘れていない。
血色を戻した顔の徐福は、李光の瞳を見据えた儘で、はっきりと肯いた。
――この人に従ってみよう、
と。
晩秋の襄陽には、既に冬の佇まいが有る。枯葉が旋風に巻き上げられて踊る態は、冬の到来を待ち侘びている様にも見える。箒で掃き均した様な薄雲が太陽を隠し、大気は早くも冬の其れであった。
酒家を出た時には五人であったが、徐福は直ぐに別れ、再び魏延を含めた四人に戻っている。掌に息を吹きかけて温めたくなる様な陽気であったが、李光以外の三人の様子は、恰も真夏の太陽に照らされている様に熱い。
「秦頡、てのは、ふてえ野郎だ!」
「全くだ。討伐を餌に、黄女史に婚姻を迫るとは!」
「何時か、アタシが成敗してやる!」
李光は、語気荒く息巻く三人を目の前にして唖然とした、と言うよりは呆れた。
――口から出まかせなんだけど……。
とは思ったが、真実を告げた時には怒りの矛先が自分に向くと思い、敢えて黙っている事にした。秦頡が此の三人から恨みを買った所で、李光は一寸も痛くも痒くもないのだ。真実を知られた時には、そんな噂話を聞いた――、と言い張れば良いと思ったし、怒りが力の源になる事は、善くある事だ、と。
同時に三人が、
――錦帆賊の水夫達に似ている、
とも思った。抑々、張業と王媚に関しては、襄陽に到着してからは、常に李光と行動を共にしている筈なのだ。李光の言葉の真偽など、考える以前の話の筈である。にも拘らず、頭に血が上っている二人は、そんな事は疾くに忘れ去ってしまっているのだ。
又、旋風に踊らされる枯葉が、呆れ顔の李光の瞳に映った。その表情は、息巻く三人に向けられているものなのか、それとも、何時までも足が地に着かない風に吹かれるが儘の枯葉の様な自分へ向けられたものなのか……
李光は、木枯らしに身震いをし、逸早く宿に向かって歩き出した。その背後を張業と王媚が追い掛けてくる。何故か、当たり前な顔をした魏延も三人の後に続いていた。
◇ ◇ ◇
張曼成討伐の軍旅が発せられたのは、年明けの正月に為ってからであった。李光達が襄陽に着いたのが晩秋の事なので、四カ月近い月日の開きがあるが、訓練や兵站の確保と云った建前の理由が有ろうが、卜占に依る時期の選定や、大きな事業であるから新年を迎えて、と言う所が最も大きな理由であろう。
此の三つき半、李光は遊んでいた訳ではない。黄忠の屋敷の僕従の長屋に移り住み、黄忠自身から弓の手ほどきを受けると共に、徐福と密会しては情報交換をして、来たるべき時に向けての万端を期す準備に余念がない。
秦頡の為人ばかりか、樊城の県長の蔡瑁の事、その他、徐福の知るありとあらゆる情報を得、共有する事で謀の達成には抜かりがない。
扨、五万の軍旅は順に漢水を渡り、先ずは樊城の城外に橋頭保を築く。樊城は、現在黄巾の賊徒に支配されている南陽郡に属する城郭であるが、州府の襄陽の防衛の為の出城の意味合いが強く、常に五百から千程度の精強な守兵が詰めていて、二方が川に面している事も有り、黄巾の軍門に下る事は無かった。
此処で徐福は、
「白水の南北岸の同時攻略を試みては如何でしょう? 逃げ道を塞がれれば、賊軍は浮足立ちましょう。幾ばかではありますが、張賊の戦力低下を誘発出来るでしょう」
と言い、秦頡を喜ばせた。すぐさま許可は降り、徐福は一万五千を率いて悠々と白水を渡り、第一目標の蔡陽へと進路を取る。黄忠は、彼女の為に集まった舞陰県に縁のある千五百程の兵に加えて、食う為だけに志願した千五百を任され、糧道の確保に努める。秦頡は、残りの三万余を率いて新野へと向かった。
黄忠には広告塔としての役目がある為に、志半ばで斃れてしまっては困る、と言う建前を前面に押し出して彼女の動きを封じた。軍旅を発する前に、黄忠が何度も頼み込んだが、たった一つの言葉だけで懇願を退けている。女は戦場では邪魔だとでも言うのか、若しくは、罷り間違って活躍でもされたら彼女の名声が高まり、其れに依って秦頡の威名に傷が付き、今後の南陽郡の治政に遅滞を来たす、とでも考えているのかは判らないが、恐らく、その全てが理由だろう。
其れは兎も角、李光は杞憂を全く見せない顔で口を開く。
「新野の攻略には、どれ程の時を要すと思いますか?」
「賊徒の数が幾等多いと言っても、南陽郡には三十七城あります。仮に賊徒の数が十万と仮定しても、一ヶ所に三千は居ないでしょう。新野は、宛の玄関口に当りますが、一万を配備するのが精々でしょう。秦頡だって多少は兵法を学んでいるでしょうから、長くても十日が限界でしょう」
三万余の将兵を見送る黄忠の顔には、無念の色が濃い。李光の其れとは正反対だ。本来は、討伐の中心に居るのは黄忠であり、魏延であり、そして黄忠の為に集まった舞陰県に縁の者や他の南陽郡に属する県城に縁の有る者の筈である。其れを蔑ろにした秦頡への怨嗟は、決して小さなものではない。
が、独自で討伐に向かうのも難しい。舞陰に縁の有る者は、指揮は十分に高いが、半数以上は、戦に於いてはまったくの素人に等しい。そして、秦頡から与えられた千五百は、全く話にならない程に士気が低い。
――これでは戦は無理だ……。
どんなに黄忠が嘆いた所で兵士が突然に精鋭に変わる筈は無く、悔やんでみた所で状況が一変する筈は無い、詮方ないのが事実なのだ。こんな事なら敵討など考えなければ良かった――、黄忠が、こんな事を考えて落胆するのも仕方が無いのだ。
李光は、力無く俯く黄忠の掌を取り、殊更明るい表情でこう言った。
「何が起こるのかは分からないのが人の世、と言うものです。何かが起こると信じ、人事だけは尽くしておきましょう」
李光はそう言うと、後方に聳える樊城へと、黄忠の視線を誘う。詰り、弱兵の千五百を預け、県城の守兵五百を借りようと言うのだ。李光と樊城を何度も見返していた。
――まさか、こんな突拍子の無い事を考えていたとは……
黄忠は思わぬ言葉に面喰っていたが、幾分か元気を取り戻して腰を上げた。当たって砕けろ――、成功するかどうかは別にして、上手くいけば儲けものなのだ。
今回は、樊城県長に対しての正式な依頼なのである。先ずは使者を立て、数日を置いて訪問するのが〝筋〟と言うものだろう。主将の黄忠と、従者の李光が樊城に向かったのは、秦頡が新野の攻略を始めた頃である。
収穫が終わり、丸坊主に為った田圃には、刈り終えた水稲の茎と同じ高さの霜柱が立ち、黒々とした大地をいぶし銀の世界に変えている。暦の上では春を迎えていても、頬を撫でる空気にも、川を流れる水にも微かな温もりすら無く、春の気配の訪れは、未だ先の話だ。
樊城は、先にも語った様に、襄陽の防衛の為に築かれた城郭で、軍事施設の意味合いが強い。但し、守兵が常駐している事から行賈の往来や人の生活が有り、其れを当て込んで城下には街が出来ているが、決して大規模なものでは無い。
比較的小ぢんまりとした城門を潜り、些か殺風景な城内を横目に見ながら役府の門をたたく。不思議と役府内には直ぐに通された。樊城の県長に訪ないをいれた二人は、待たされる事無く面会を得られる。因みに大都市の県を治める令は六品官、中級の県の令は七品官、少人数の県の場合は県長と言い、八品官である。
官吏とはよく耳にする言葉だが、中央の役人で、官位を与えられているの者が官人、地方の行政府から直接雇われているのが吏人である。その昔は、吏人と言えば獄吏の事であり、『吏』は『李』に通じ、李姓の者の鼻祖は、恐らく獄吏か何かだったと思われる。
話が横道に逸れた。樊城県長の姓諱を蔡瑁と言う。彼は、にこやかな面差しで二人を迎える。その笑顔に隠された真意は知れなかったが、李光は、早くも守兵を借り受ける手応えを感じていた。寧ろ、徐福の情報通り、野心が強く、常に状況を把握しながら出世を狙う人其の物だ――、と。事実、五百の常駐の守兵と、千五百の志願兵の入替の交渉は、二つ返事で終えている。
「某も、黄夫人の偉業に僅かながらでもお手伝いが出来て本望です。必ず、張賊を退治して、南陽に再び安寧を齎して下さい」
蔡瑁の口から、こんな言葉も添えられたくらいだ。
重ね々々に礼を述べがら低頭する黄忠と李光を送り出した蔡瑁は、一人に為ると共に、此れまで見せていたにこやかな笑みを表情から消し去った。
蔡瑁は、荊州の地方有力豪族、蔡諷の嫡男である。蔡氏は繁栄を望み、伯母は、時の太尉・張温に嫁ぎ、長姉は隆中に居を構える名士・黄承彦の許へ、次姉は後の荊州の牧に出世する劉表の許へと嫁ぐ。氏族社会が形成されている当時は、政略結婚は当然の話で、女性に官職の道が開かれていたとしても、この風潮は変わる事が無かった。
政略結婚を駆使し、或る程度の名を手に入れた蔡氏の次なる目標は、真の名声を手に入れる為の実力である。特に、民衆からの支持を礎とする武力、詰りは民意である。
其の為、良人の敵討を、と胸裡に秘める黄忠からの申し出は、正に渡りに船であった。荊州の世風は、黄忠擁護である。その尻馬に乗り、庶民からの支持を拡大しようという狙いだ。
勿論、全く考えも無く兵士を貸し出した訳ではない。
新野県を経て宛県に向かう討伐軍の進路から鑑みれば、其の背後に当る樊城への奇襲は皆無と言って良いし、あったとしても大軍での侵攻は有り得ない。十日程の籠城が為れば、秦頡が戻って来るか、襄陽からの後詰が有る。黄忠に兵を貸し与えた事も、世風が味方して、州刺使の王叡からは、大きな罪過には問われないと言う目算があるからだ。
微笑みを消し去った蔡瑁の貌は、何時の間にか醜い歪みを見せる様に為っていた。
扨、千五百の弱兵の代わりに五百の強兵を借り受けた黄忠は、早速新野へ向けて軍旅を発せようと気勢を上げた時であった。
「少々御待ちを……」
殊更に冷静を心掛けた声を出したのは李光だ。
「此の儘本隊を追い掛けても、張賊の頸を取るのは難しいでしょう。此処は、張曼成の胸裡を推し量り、行動を先読みした方が良策でしょう」
黄忠は、戦が初体験の筈の李光の口から、思いも寄らない言葉、既に何度か戦を経験している者だけが口にする様な言葉を聞き、一瞬だけ面喰って目を瞬かせたが、直ぐに表情をおさめて李光へと向き直った。
「装備が万全に整った三万余の正規軍に狙われると分かれば、誰しもが逃げたくなるものではないでしょうか?」
「先回りをして、其処で討て、と?」
頷いた李光は、川と都市名だけが記された白布製の地図を引張り出し、簡素な卓子へと広げる。南陽郡を南北に二分する白水、詰りは秦頡の指揮する本隊の進路を指先でなぞりながら言葉を添える。
「本隊は、白水沿いを遡上しながら新野県を攻略し、更に北を目指して宛県の奪回する計画です。張曼成が逃げるに先立ち、手間の掛かる白水を渡る事は考えられません。況してや、白水以南では徐参軍が其れなりの成果を収めるでしょうから、西に向かって逃亡を計るものと考えます」
「では、武関を経由して渭水盆地に向かうか、上庸を経由して漢中に向かう、と言う事に為りますわね」
地図上の宛と書かれた地点から、白く長い指を西方に動かしながらの黄忠の言葉だ。その指は、渭水盆地と漢中方面に分岐する丹水県で止まってしまう。どちらに動かすかに自信が持てずにいるのだ。
李光は掌を添え、黄忠のほっそりとした指を漢中方面へと動かす。
黄忠は、眼差しで理由を問うていた。
「木の葉を隠すなら森の中、と言う言葉が有りますが、同時に公僕も多く、渭水盆地に向かうには危険が付きまといましょう。第一に、渭水盆地に入ってしまっては、その先の行動が制約されてしまいます。一方の漢中盆地ですが、五斗米道と太平道が近いとは聞いた事は有りませんが、張曼成が訪れたとして、災厄を齎す者として誅してしまうか、四川盆地に逃がすかのどちらかしか対処法が有りません。規模の小さい五斗米道は、何処とも敵対せず、甲羅に隠れる亀の様に縮こまる事で生き永らえております。其の五斗米道が、漢王朝ばかりか、太平道とも敵対する道を選ぶとは思えません。張曼成を四川盆地に逃がし、漢王朝に対してはほっかむりをして知らぬ存ぜぬを通す、と思うのです」
李光の言葉に裏付けは無いが、少なくとも自分なら戦わずして逃げるし、逃げるなら王朝の手が及び難い四川盆地に向かうのが順当だ。どちらに逃げるにしても関所は少なくは無いが、賂が効くだけに障害には為り足らない。黄忠が率いているのが二千と言う少ない兵数と言う事も有り、的はどちらかに絞るべきだ――、と李光は思う。
李光の言葉に確信が有った訳ではないが、少なくとも黄忠の決心を促す事に為る。
――張曼性が逃げると言うのも賭けなら、四川に向かうと言うのも賭けだ。
と。分が悪くない賭けなら、乗ってみるのも悪くは無い、と決断する。
「房陵で待ち伏せをしましょう」
黄忠の指揮する後援の部隊は、新野県への攻撃が開始されるのを待ち、烈風に追われる様に樊城から進発した。
○
扨、件の新野県の攻防は、凄惨を極めたと言って良い。攻城戦であるが、攻撃をする側も不慣れなら、防御をする方も不慣れで、愚直な力の押し合いと為ってしまった。攻城兵器の用意は為されたものの、其れに通ずる者の不在も響いた。
新たに南陽郡太守として赴任する秦頡が、先に威勢を轟かせて置こう、と欲を出した事も焦りに繋がり、尚更に悪い方に転がった。
攻城兵器とは、其れを駆使して城壁や城門が破り、目的を果たしたからと言って即座に城内に雪崩込むのでは無く、城内の被害を大きくしたとしても、徹底的に攻城兵器の威力、更にそれを扱う部隊の脅威を常駐の敵の心に刻み込むのが適切な戦い方だ。
だが、秦頡は其処まで辛抱して攻城兵器で痛打を与える事をせず、城門を打ち破るのと同時に兵を突入させた。城壁の上下に分かれて行われていた攻防戦は、城門が破れてからは城内に場を移しただけで、血で血を洗う、狂気じみた戦闘へと変じただけであった。
賊徒に対して中途半端に与えた恐怖は返って発奮材料と為り、凄惨な斬り合いへと変じた。攻め手三万余、守り手一万強、総計四万五千程で行われた戦いは、怪我人を含めて約一万五千の犠牲者を出す素人同士同然の戦いに為った。
○
西方に進路を取る黄忠の部隊に急報が告げられたのは、樊城を発してから二日目の事で、斥侯に出ていた張業から齎される。
「三千規模の別動隊? 樊城を急襲して、兵站線を切ろうと言うのでしょうか」
「他には考えられないでしょうね」
李光の言葉をやんわりと嗜める黄忠の貌は、前哨戦には丁度良い、と語っている。索敵に出ていた張業も、
「恐らく気付かれてはいない」
と言葉を添え、黄忠の心を後押しする。其ればかりか、魏延や王媚の血の気の多く、武技に自信の有る二人は、早速に得物の手入れを始めている。戦闘前の検討の必要を認めようとせず、済崩し的に奇襲論が勝り始めていた。
戦場は、人の持つ本性を具現する場所でもある。好戦派は剣戟を交える事に悦びを感じ、頭脳派は冷静に戦況の分析を始める。今回は、此の極端な二例がくっきりと現れる結果と為った。尤も、黄忠に関しては、焦りと言うものが多分に影響している。
「待って下さい。此方の動きが知られていないと言う保障はないのですよ! 裏をかかれれば、全滅するのは此方です」
自重派の李光の言葉は、声を荒げなければ、好戦派の四人の耳には届かなかったろう。四人の眼差しが、自分に集まるのを充分に待ってから、李光は次の言葉を口にする。
「寧ろ、此方が向うの動きに気付いたと言うなら、向こうも此方に気付いていると考えるのが順当でしょう。何せ、斥侯を放てば、互いの存在を容易に知れる距離に居るのですから。軽率な行動は、部隊の壊滅を招きます。こう言う場合だからこそ、慎重に事を進めねばなりません。其れに、今後の事を考えれば、前哨戦は完勝を収めなければなりません」
李光は床几を用意させた。腰を落ち着ければ、心も落ち着き、人の話に耳を傾ける様に為る、とでも言わんばかりだ。そして、再び近隣の都市と川を記しただけの、簡素な地図を中央に置く。
「先ず、確認して於きたいのは、此の部隊は、飽く迄黄女史の敵討を援助する部隊であると言う事です。ですから、黄女史の本懐を遂げるまでは、一兵たりとも減らしたくは無い、と言う事です」
「では、戦闘を回避する、と言う事か?」
鋭い視線を送る魏延の言葉だ。功を得る事も望みに有る彼女は、其れでは納得が出来ないだろう。戦をして首級を多く討ち取って功を治め、伯父の後を継ぎたいという希望が有る。早く官に取り立てられたい、彼女には彼女なりの野心が有るのだ。
だが、李光は首をやんわりと振り、魏延の期待を違える事は無いと伝える。
「兵站線を切られれば、此の別働隊を含めて全ての討伐軍は瓦解します。張曼成は宛城から逃れる事は無く、我々が房陵で待ち伏せする意味が無くなってしまいます。ですから我々は敵の行動を補足していない振りをし、適当な場所で進路を転じて析酈方面に向かって宛城を挟撃する構えを取ります」
李光の言葉を聞き、特に好戦派の三人は、戦を出来る事に安堵する。李光は其の様子を目の端に収め、更に言葉を続けた。
「本来の目的を遂げる為に、此方の損害は最小に留めたいので、敵を罠に嵌めようと思います。先ずは、正規で無い兵士を先頭にして進軍し、敢えて敵と遭遇します。真面に戦っても勝ち目は薄いですから、戦闘の開始と同時に敵に背を向けて逃亡します。正規の兵も、其れに釣られて一時撤退をします。相手に、此方は弱兵の集団である、と思わせるのです」
タカ派の三人の貌は、これ以上が無い程に不機嫌に為っている。先程の、戦闘の回避をしない、と言う意思表示が無ければ、果して李光は如何為っていた事か。一方の黄忠は、李光が何を考えているのかを察した所為か、注意深く少年の横顔を見詰めている。
「数里逃げ、敵の視界から外れたら、其々の兵装を元に戻し、順列も入れ替えます。敵は、弱兵が目前に居ると思い、侮って襲い掛かって来ないでしょうか? 注意が足りなければ、多少の実力差が有ったとしても、意外な程に脆く崩れ去るのでは無いでしょうか」
三人からは、何時の間にか感嘆の声が上がっている。闘うのであれば、味方の損害は少ない方が良いし、圧勝する方が良いに決まっている。功を収める事を望む者にしてみれば、完勝の方が功績は大きくなるのだ。
実は李光には腹案が有ったが、其れは曖気も出さなかった。強兵を何処かに潜ませ、弱兵を囮にして其処に引き込む、擁するに島津軍や、後に出てくる袁紹配下の麹義が得意とした戦法だが、此れには、或る程度の兵の練度が要求される。加えて、桟を乱して逃げる囮部隊には多数の犠牲が出る恐れがあるし、敵将が注意深ければ乗ってはこない戦法だからだ。
李光の献策は、囮も伏兵も全て同じ部隊で行うので、必ず索敵を繰り返して追撃を行う様な注意深い将が相手でも、伏兵の影が全く見えないのだから乗せ易いと踏んだ訳である。
加えて、囮部隊の指揮は間違い無く黄忠が買って出るだろうし、其の方が成功確率は歴然と変わるのだ。李光は、誰か特定の一個人に危害が及ぶのを嫌ったし、何よりも、此の討伐の象徴でもある黄忠には生き伸びて、敵討を達成して貰わなければならないと思った。
「唯、首級の者を成敗するのは仕方が無いにしても、単なる兵卒は、出来れば降伏をさせ、此方の戦力に組み込みたいですね」
付け足す様に述べられた李光の言葉に、三人は顔を見合わせた。戦場は生き物の様なもので、望めば叶うとは限らない。助命を必要以上に意識する事に依って、逆に窮地が己に訪れないとは言い切れない。三人は、如何返答しようか――、と二の足を踏んでいた様だが、其れも黄忠の後押しに促されて決断に至る。
「無駄な血を流す必要は有りません。首級の頸を取って降伏を促せば、元は農夫である彼等は一斉に武器を捨てるでしょう。最後の一兵に為るまで戦う……、おそらく彼等には其処までの明確な反意は有りませんわ」
話が纏まると同時に銘々は配置に付き、進路を北方に変じ、析酈へと向かう振りをして、別働隊との遭遇の時を待った。
黄忠には、李光の胸裡が理解出来ていたのであろうか。彼を映す眼差しは、徐々に頼もしい者を見詰めるものへと変わりつつある。
「反転!」
黄忠の涼やかな声はまったく別の意志を持ったように、怒号犇く戦場で、静かな湖面に広がる波紋の様に全兵士の耳朶へと届いた。
号令と共に精強な兵士が一斉に振り返り、嵩に掛かって襲い来る賊徒の攻撃を撥ね返して一気に攻勢に転じる。逃げ惑う兵士が弱卒だと思い込んでいた賊徒は、思い掛けない反撃に面喰い、混乱すると共に秩序が霧散して、実力の半分も出せなくなった。
其れからは、一方的な攻勢であった。特に、魏延の活躍は捗々しく、峻烈な気合い声と共に敵中に単騎で飛び込み、斬っては捨て、千切っては投げるを繰り返す。霍去病もあわやと感じる様な獅子奮迅の活躍は、正に圧巻であった。
初戦の滑り出しとしては上々である。教科書にでも残して置きたい様な完勝と言って良い。最初に義勇兵が桟を乱して逃げ出した事が程好く印象に残った所為か、敵兵は注意を全く怠り、兵装を入れ替えた事には気付かず、侮った儘で襲い掛かって来た。
反撃を受ける――、と言う想像は彼等の念頭に無かったのだろう。嵩に掛かって飛び込んで来た所に、鑓先を突き立てる様な厳しい痛撃を与えて主導権を握ってしまえば、後は立て直す事が出来る程の練度を持った兵士では無いのだ。
賊徒は、桟を乱して逃げ出すか、将又不帰の客へと変わり果てるか、若しくは武器を投げ捨てて降伏するしか残された道はない。肝要なのは、この事態を正確な情報として、宛県に留まる張曼成の所にまで持ち帰る者を見逃す事である。
思いのほか、討伐軍が手強い存在である事を印象付けなくてはならない。恐れた張曼成が、宛城から逃走するように仕向けなければならない。
初戦を制して兵数を増やし、黄忠の率いる部隊の士気は上がる一方である。別働隊の兵士は皆、黄忠の敵討の為、と心を一つにしている。負ける要素は、当人達が持つ傲りと油断位しか無い。
初戦を快勝で終えて上機嫌の黄忠は、李光と並んで中軍を歩んでいる。上機嫌なのは戦いに勝った事ばかりでは無く、李光と言う一歩下がった位置から戦いを俯瞰する、軍師に近い存在を得た、と言う事もある。
「兵法を修学なさっているのね」
「修めた訳ではありません。恥ずかしながら、孫子に関しては、単に一節を覚えているだけです」
俯いて照れ入る李光の様子から、強ち嘘では無い――、と黄忠は思う。
「この国に生きようと思うなら、五経は如何しても学ばなければなりません。ですが、この国で生き抜く為には、『孫氏は必ず学ばなければならない』と、兄に教わりました。どちらも難しくて解からない事だらけですが、孫子に関しては唯一節だけ……、『敵を知り、己を知らば、百戦危うからず』この言葉だけは心に残りました」
――成程、と黄忠は思った。
李光の慎重な性格は、頑なに彼の心に留まった言葉を実践しているのだ、と。臆病なだけでは無いのだ、助力をしたいなどと言う実を伴わない言葉よりも、僅かでも兵法の心得があり、其れを実践する事の出来る常に冷静な性格の方が、天と地の差が有る程に頼もしく感じる。御荷物だと思っていた李光と言う人を、始めて黄忠が一端の男として認めた時でもある。
此の後も小規模の鎮圧を各所で行いながら、黄忠率いる別働隊は兵数を着実に増やし、索敵を繰り返して再び進路を西に転じ、決戦の地と目される房陵へと向かう。
此の時の黄忠は、必ず張曼成は、房陵へ向かう――、と信じていた。其れは、李光と言う少年を信じている事でもある。
○
扨、戦いには、必ず其れなりの効果が有る。凄惨なものであれば、その効果は更に大きなものに為るだろう。新野での攻防戦の詳細を聞き及び、少なくとも宛城に立て籠もった張曼成は、最期の一兵に為っても攻撃の手が緩む事は無く、又、降伏しても命の保障が無い事を悟り、千程の供回りと共に、夜陰に乗じて立て籠もる宛城内から遁走した。逆転の為の一手、伏兵部隊による後方攪乱が空振りに終わった事も、小さく無くその事に影響している。
加えて、張曼成に見捨てられた事で、宛城に取り残された者も同様の危機感を抱いた。
そうとも知らず、降伏した賊徒を前方に押し出し、秦頡は宛城に向けて行軍を再開する。五千余の降伏者があったにも拘らず、討伐軍の数は三万弱に減っている。
秦頡が、宛城から張曼成の姿が消えた事を知ったのは、宛県の城郭の威容を遠目に収めた頃である。無駄な戦闘の回避と言うよりは、一刻も早く張曼成の頸と言う名声の欲しい秦頡が、討伐目標の消えた宛城には目もくれず、西方の析酈方面へと進路を転じたのは成り行きであったのだろう。
併し、その直後であった。
「敵襲!」
後軍から怒号と悲鳴が上がる。宛城に取り残された賊軍が奇襲を掛けたのである。数に任せた攻撃であるが、その数が尋常でなければ脅威と為り、とてもでは無いが防ぎ切れるものでは無い。追い立てられる様に其の場から逃げ出す討伐軍は、隊列等と言う秩序は無く、既に壊走に近い状態であった。
其れでも、全ての隊列が完全に崩れずに踏み止まったのは、秦頡の意地と正規軍としての誇りだ。尤も、正規軍と豪語してみた所で、実際は現地採用の庶民が大多数で、名ばかりの正規兵でしかない。其れでも、名が与えられれば実が伴う、なけなしではあってもプライドは生まれるのだ。
声を嗄らしての秦頡の叱咤で、討伐軍は何とか壊走から踏み止まった。数里を後退して隊伍を組み直し、迎撃態勢を整える。何と言っても正規兵だ、賊軍に後れを取っては面目が立たない。秦頡は、首魁張曼成の追撃を後回しにし、目の前の脅威になった残存部隊の壊滅を優先する事にした。
何と言っても正規軍だ。兵装の違いは、数をも凌駕する。大将である秦頡が、多少なりとも兵法に精通している事も大きかった。数を頼みに攻勢を掛ける賊軍を、巧みに川や丘陵を利用して隊列を長く伸ばして戦力差を相殺してゆく。時間は掛かったものの、賊軍の排除は難事とまではいかなかった。
但し、張曼成との距離は大きく開いてしまった事は否めない。此れから追い掛けても、追い付くか如何かは微妙な所となった。
○
扨、宛城を逃れた張曼世は、渭水盆地と漢中盆地に分岐する丹水県にまで到着している。
此処に来て張曼成は、更に追撃部隊の目を眩ませる為に、隊を二分して一方を渭水盆地方面に向かわせ、もう一方を漢中方面に逃がす事にし、自身は漢中方面に向かう部隊に同行しようと考えている。
五斗米道として独立勢力を築いている漢中には、朝廷からの追手が及んでいるとは考え難く、其処から益州を抜けて江水を伝い、華北の本隊と合流すれば良い、と張曼成は考えた。粗、李光の読み通りである。
方針が決まれば、張曼成の行動は早かった。此の行動力が、太平道での彼の現在の地位を築いたのだ。漢中に向かうには、一度南進して房陵に向かわなければならない。
丹水県から南進を始めた張曼成は、奇妙な感覚に捉われていた。目に見えない遠方から、常に誰かに見張られている様な感覚だが、其れは飽く迄直感であり、確たる証拠が有る訳では無い。彼がもう少し周囲の状況に耳目を凝らし、自然豊かな筈なのに山野鳥の囀りが全く聞こえない事に気付けば、不安は確信へと変わり、余命を幾ばかかは長らえる事に為ったろう。
張曼成一行が、一際狭隘の山道に差し掛かった時であった。鬨の声と共に左右からの挟撃を受ける。敵将や兵数、兵装、練度、そう言った情報が全く無い儘で奇襲を受け、僅か五百の張曼成部隊は抗う事も忘れて恐慌状態に陥った。武器を投げ捨てて右往左往する兵士が行き交う戦場は、既に収拾が付かない状態に為っている。
そんな中、張曼成は敵味方が入り混じる戦場を巧みに駆け抜け、まんまと先頭から混乱を脱している。此れまでに何度も修羅場を生き抜き、黄巾党の首魁と為った実力は伊達では無いのだ。
「木偶の坊どもめ」
唾を吐き捨てる様に毒づく言葉は、不甲斐無い味方に向けられてのものか、其れとも、おめおめと首魁を見逃してしまう敵兵に向けられてのものか、苦虫を噛み潰している張曼成の顔からは判断が付かないが、恐らく両者に、だろう。
張曼成は、殺戮が繰り返される後方から目を背け、狐の様に油断なく周囲に目配せをし、猫の様に足音を忍ばせて逃げ去る。
描き掛けのパレットのように、様々な色合いが混じる山野を張曼成は小走りに走る。その足が止まったのは、後方で巻き起こる悲鳴や怒号が、彼の耳朶には届かなくなった頃だ。
「貴方が張曼成ですわね。お待ちしていましたわ」
女の声だ。然程声を高らかにした訳では無かったが、其れには激しい程の憎悪の念が篭り、敵意と共にはっきりと張曼成の耳朶にまで届いた。顔を上げた張曼成の瞳に飛び込んで来たのは、宿意を露わにする若い女の瞳であった。藤色の髪がゆらゆらと寒風に靡いているが、張曼成に向けられた弓矢はピクリとも動かない。勿論、女とは黄忠の事だ。
「残念ながら、人違いだな」
張曼成は、即座に嘯く。名前を騙って生き永らえるのなら、どんな名前であっても良かった。それ程までに、女の弓の構えには隙が無く、矢先は己が額に狙いを清ませた儘で、微動だにしない。背を向けて逃げる等、己の死期を早める様なものだ、とは考える必要も無い。口先で誤魔化す事が、此の場から逃れる最善の手段だと張曼成は感じている。
「貴男の頭に巻いている黄布の印は、太平道の上位の者に与えられるものですね」
「拾いモンだからな。此の印にそんな意味が有るのかなんて、俺は知らねェな」
張曼成は、会話を続けながらも女の隙を誘い、視線を周囲に巡らせて逃げ場を探す。
「下手な言い訳は結構。貴男が自ら手を下した舞陰県の丞は、婦の良人です」
この言葉は最後通告と同じだ。素直に認めれば、苦しむ事無く、一撃の下で黄泉に旅立てたろう。飽く迄も白を切り通すのであれば、地獄の苦しみを味わう事に為る、と。
「何の事だか……、俺には分からねェなァ」
張曼成の濁声と、力強い鞆音の響きは同時であった。直後には、張曼成の絶叫が上がる。放たれた矢は、右足の甲に深々と貫いて地面に縫い付け、容赦なく張曼成を拘束する。
もう一度、弓弦が震えると、左足の甲に矢が付き立ち、躰を捩る事さえできなくなった。今度は、張曼成の絶叫に依って、鞆音は聞こえなかった。
細められた眼の奥の瞳には、血が凍り付く程の怜悧な光が有る。如何しても、本人の口から、張曼成である――、と言わせたいのは、黄忠自身が、敵討の為に人を殺めるのだ――、との言い訳が欲しいからだ。単に、人殺しを愉しみたい訳では無いのだ、と。
「張曼成だと認めますね」
「助けてくれェ……」
壊れた人形の様に、小刻みに首を縦に振っている。張曼成は、己が身に降り掛かる慄然に、身をわななかせるしかなかった。そして次の瞬間、顔を恐怖の色に染めた儘、彼は絶命した。額に突き刺さった矢は、鏃の部分が後頭部に突き抜けていた。
相変わらず寒風が戦ぎ、張曼成の最期の呻き声は、未だ色彩の少ない春の山々へと消えた。黄忠の藤色の髪は、冬の風に弄ばれるが儘だ。
「御見事でした」
近くの茂みから現れた李光は、こんな言葉しか掛ける事が出来ない。敵を討ったとしても、喩、最愛の者だとしても、死者が甦る事は無いのだ。さりとて、其れを為さなければ、孝道に背いたとして陰口で誹られる。
敵討を完遂し、途方も無い程の虚しさに襲われている事は、黄忠の憂い顔を見ずとも、手に取る様に分かるものだ。現に、俯いた貌から延びる睫毛は細かく震えているのは、虚しさに暮れる涙を堪えてのものだろう。本懐を遂げた歓喜など、彼女には微塵も無い筈だ。
其れでも黄忠は顔を上げる。此れからは娘と二人で生きて行かなければならないと言う、母親としての気丈さであろう。
「さ、後始末をして樊城に戻りましょう。今回の事が露見したら、秦太守からの御咎めを受けてしまいますわ」
力無く微笑む黄忠の貌は、冬の蒼空の様な物悲しさが有った。
新春の夕日が、山野溢れる周囲の情景を赤く染めている。李光は、この光景に一瞬だけ不愉快な錯覚を覚える。
――夕日に染まっているのではなく、流れた血に依って朱くなっているのでは無いのか、
と。
今回の事で、多くの討伐軍の者が怪我を負い、又、身罷っている。其れ以上に賊徒に身を染めた者達は不帰の客と為り、白水を赤く染める程の大量の血が流れた。太平道が起こそうとしている革命の為の犠牲で流れた血潮だと、この流血が必要なものだと言うのであれば、何と理不尽な事であろうか。
人とは、互いを理解するために言葉を持ち、様々な事を考え出せる知能を持っている。其れを使わず、腕力だけを使って行う国造り何の意味があるのか。
抑々、王朝が襟を正して治政を行っていれば、こんな悲惨な現実が訪れる事は無かった筈である。言うなれば、此のクーデターは、王朝の在り方そのものに端を発しているのだ。漢王朝は、国家を支える臣民を自らの手で弑す事に依り、己が頸を己が手に依って締め付けている事に為る。
国家を守る為とは言え、世人が鬼籍に入る事には何の意味も無く、言うなれば、犬死と全く変わらない事に為る。如何に黄忠が敵討を果たして正義を世に示したとしても、国家と言う最も大きな枠組みが深淵に沈もうとしていれば、海内にある全てのものが闇の底に沈む可能性を否定できない。当然、世の枠組みから外れている李光だけは例外だ、と言える筈は無い。
消え去った暗雲が再び首を擡げた事で、李光の双眸に宿る光が乏しくなった。
その一方で、当初の目的を果たし、誰しもの顔が歓喜に染まって紅潮している。虚無感に暮れていた黄忠でさえ、演技なのか如何かは別にして、今では祝福の言葉の渦中で達成感に貌を綻ばせている。茜に染まる夕暮れが、彼等の顔を一層赤らめ、興奮で紅潮しているように見える。
唯一人、李光の面相だけが鉄錆色に沈んでいた。
夕暮れは去り、軈て、闇が訪れた。