・19 方略(下)
人には必ず欲求が有る。名誉欲や色欲等と言ったものがそうだが、郭図と言う人物は、とりわけ金銭欲と物欲が強い人物と言って良い。雒陽へと行脚を続ける彼には思惑が有り、勿論ながら其れは前記したものに起因している。
――今回の手柄を一人占めにするには如何したら良いか……
と言うものが其れだが、一定の目処が付いているのは事実だ。
部下の荀彧が袁紹に失望している事は分っているし、一族の誰かと交代をする為に頻りに書簡を送っている事も知っている。詰り、荀彧が南皮から居なくなる公算が高いと言う事だ。そうなれば、自然と荀彧を介して提言を行った李光は伝手を失う事に為り、何を言って来ても無視する事が出来ると言う事だ。
――二月か三月と言った所か……
と郭図は予想を立てた。
其れだけの日数を費やせば、必然的に手柄は郭図一人のものに為る。慾の皮を突っ張らせた彼が歩を緩めたのは言うまでもない。御蔭で雒陽までは、一月以上が掛かっている。
扨、この機会を利用して雒陽で起きた様々な事を、順を追って簡単に記そうと思う。
太平道による一斉蜂起、詰りは『黄巾の乱』が終息して幾歳月を経ているが、この国の騒乱が終息した訳では無く、外が収まれば仲が騒ぐと言うのはこの国の性癖の様なものであり、朝廟内での喧騒が激しく為ったのは『黄巾の乱』の終息の直後からだ。
時の皇帝を劉宏と言い、没後に与えられた諡は『靈帝』であった。王と為った者が最も忌み嫌う諡で『靈』や『厲』を望む者はいない。逆に、誉有る諡と言えば『文』であり、『武』である。話を戻し、職務には怠惰な劉宏であったが、名誉欲は強く、四百年に亘って海内を治めた漢帝國にあって、その一廉を占めた皇帝でありたいとは常日頃に思っていた。その彼が、暗愚を意味する『靈帝』の諡で呼ばれる事に為ろうとは甚だ心外であったろう。功績が全く無かった訳では無いが、其れを優に上回る程に政治姿勢は劣悪であった。宦官に乗せられたとは言え、政務を放り出したばかりか、遊興に耽った皇帝に名誉ある諡号が送られる筈が無いのだ。尤も、当の皇帝の希望が如何あれ、没後に与えられる諡号を知る筈も無く、宦官によるご機嫌取りの言葉に頬を緩ませていたかもしれない、とは容易に想像できてしまう所が恐ろしい。それ程までにこの時の皇帝は、宦官の意のままに、彼等の掌で転がされていた。
その劉宏が今際を彷徨っているのがこの時期だ。皇帝と言う絶対無二の存在を後ろ盾にして朝廟を牛耳る宦官にすれば、劉宏の死に直面する事で全てを失う可能性が有り、死活問題であるが、一手を打たなかった訳では無く、実母の董太后を抱き込み、次子の劉協を擁立しようと暗躍に明け暮れていた。正確に言えば、長子やその周囲を貶める事で劉協が即位できるように謀っていた。
一方、宦官達が構成する派閥、北宮派が次子を押しているのなら、長子の劉辯を推す派閥もある。其方は、義妹が皇后に為った事で大将軍と言う地位を手に入れた何進を頭領に抱いた派閥、南宮派である。
唯、此の頃の派閥の力関係は、圧倒的に何進側にとって有利であった。抑々、皇帝の後ろ盾に依って無道を行っていた宦官達の殆どは卑しい身分の出自が多く、朝廟を運営する程の知識や手腕が無かったのは事実で、理路整然と政治を代行する南宮派に大きな後れを取っていたのが現状である。何進が提唱した国学、詰りは儒教による教え、
「跡目は長子が襲うのが良い」
と言う言葉を、西漢の動乱期になぞられればぐうの音も出ない程に言葉を飲込まねばならず、思いとは裏腹であっても何進の言を容れなければならなかった。
又、其れを打破する唯一無二の手段、
「大王の思し召し」
と言う言葉も、当の皇帝が伏している事から使えず、短絡的な手段に訴える事しか出来ずにいたのが此の頃の北宮派であった。その上、城外の西には漢陽郡太守の董卓を控えさせ、更に東には丁原が控えていて、武力に於いても大きく北宮派を凌駕している。此れで北宮派は進退が窮まり、南宮派の頭領の蹇碩を弑す事で表面上の和睦を試みなければならなかった。
劉宏の崩御は、郭図が雒陽に到着した頃であった。在位二十一年、齢は*四十四で、平均寿命が低かった当時でも、富貴の者としては早逝と言って良い。(*:数え年)
必然的に、皇帝の位に坐すのは劉辯である。劉協は陳留王に為った。が、齢十七の少壮の彼が、即位したからと言って朝廷を意のままに操れる訳では無く、間違い無く派閥の筆頭にある何進の摂政が始まったのは当然の事と言って良く、此れに依って北宮派は存続の窮地にまで立たされた。但し、何進は此の時に間違いを犯した。宦官を弾劾はしたが、絶滅までは追い込まなかった。当時の北宮の最高位に当たる何太后の要請ではあるが、無害と思われる者の存在を認めて仇敵の誅滅を完遂しなかった。此の事が彼の運命を狂わせたと言って良い。結局の所、一を許せば十も許さねばならず、何進に弓を引いた者達は服従の制約書を書く事に依って助命されている。
扨、此の頃に雒陽に達した郭図は、何進が宦官の策略によって横死する事と此の時が好機であると主人の袁紹に進言した。
「何大将軍が歿すれば、再び宦官の世が訪れます。が、宦官は目先ばかりに捉われるので政権が長続きするとは思えません。詰りは、政権の争奪する為の乱世が訪れると言う事です」
この言葉を聞いた袁紹の瞳が妖しく光った。
袁家と言う海内における最大とも言える名家に育った彼女の野心は天上に届く程に堆く積み重ねられていて、人民の最高位たる三公は当然で、隙あらばその上の地位を狙っている。平たく言えば、新たな朝廟を海内に興す事だ。
そんな袁紹にこんな話をすれば興味を持たない訳はないし、彼女の性格を知っている郭図は其処に付け込んだのだ。
妖しい眼差しに晒された郭図は胸裡で北叟笑み、一層に相貌を引き締めては話を再開した。
「乱世が訪れるにせよ、新世界が訪れるにせよ、間違い無く其れに対応せねばならず、勝ち残るには力が必要と為ります。具体的に言えば、兵力を得る為に民意を得ねばなりません」
「其処で、郭図さんは如何した良いと仰いますの?」
「幸か不幸か、袁家の膝下に当たる汝南の西の泗川地域は現在の朝廟から目を掛けられず、雨が降る度に水害に晒されております。その地域の治水を袁家が主導すれば民からの尊崇が得られ、必然的に民意が上がります。其ればかりか、その地域からは先の反乱に参加した者が多く、その地域を安んじれば、泰山に犇く黄巾の残党が挙って姫君の足下に集う事でしょう」
袁紹は、其の言葉に鷹揚に頷いている。細められた双眸からは相変わらず妖気にも似た光が発せられたままで、其れを見た郭図は事の成就を確信していた。それだけに、
「そう言う事でしたら、宗家に掛け合って見ましょう」
との言葉は必然であった。
袁紹の意を携えた使者が汝南に向かったのは其の日の内の事だ。が、本来なら此れで南皮に戻らなければならない郭図は、
「某が近侍する事で御役に立つ事もあるでしょう」
と言い、雒陽から離れようとしなかった。
其れから数日が経ち、何進が義妹の何太后から呼びつけられた。当時は年齢での上下では無く、身分に依ってその優劣が決まる。況してや何太后は現皇帝の生母で、言うなれば国父である皇帝の親で、孝道が重んじられている東漢の世では皇帝以上の実力者と言って良い。其の何太后からの呼び出しなら一も二も無く登城せねばならないし、何進が儒教によって劉辯を即位させたのなら、その教えは体現して世に示さねばならない。其れが罠だと解かっていても、なのだ。
「お控えください」
当然ながら、袁紹は上官である何進の登城を止めに掛かった。何れは海内に君臨したいと言う願望が有ったとしても、出来る事ならば簒奪よりは禅譲の方が良い。徳が認められて即位するなら、其れに越した事はない。又、泗水地域の治水は徳や威を示す為にも使えるし、如何転んでも損は無いのだ。
が、何進は其の言葉を聞き容れなかった。此処で命の灯が潰えるとは感じていただろうが、恐らく何進の胸裡には、
――皇帝には手が出せない。
との過信が有ったのだろう。何進が没しても、皇帝が劉辯から代る事は無いだろう、と。
結局、何進は登城した所で弑された。宦官の恨みは深く、特に張譲からは罵倒され、本人の確認が難しい程に剣刃を突き立てられて絶命している。
但し、今度は北宮派が判断を間違えた。確かに何進は派閥の代表として最右翼に位置するが、絶対政権を握っていた訳では無く、南宮派の中でも鵜の目鷹の目と何進の失脚を望んでいたものは少なくは無く、北宮派の短絡的な報復は、両派が入り乱れての殺戮に変じた。が、結果は日を見るよりも明らかで、南宮派は天子を味方に付けていた北宮派には常識を踏まえた手段での奪権は難しいと考えていただけに、常日頃から武技を備えた客を招いていた。そして予想通り、望むべく展開に為ったのだ。特に、袁紹の従妹に当たる袁術の反応が早く、何進の部曲の呉匡とは肩を並べる様に城内に殺到している。
互角であったのは、城門を境にしての局地戦だけであった。隙を見て南宮派の誰かが城内に踊り入ると力の均等は一気に崩れ、徐々に北宮派は追い込まれてゆく。
結局、宮城は一方的な殺戮の場と為った。不利を悟った張譲は、劉辯と劉協を馬車に乗せ、城外に連れ出す事で覇権を握ろうとしたが、北宮と言う狭い所で生きて来た彼は、
――天子さえいれば、群臣を思い通りに操る事が出来る。
と短慮に至ったが、宮殿の中だけで経験を重ねた宦官特有の理論に違いない。
但し、世間の垢に塗れた者はそうではなく、もっと逞しい考え方をしている。例えば、東漢に限って言えば、三代目の章帝の頃から後継者問題を抱え、世祖自身も儒教を国学と認めながらも郭皇后と共に長子を廃し、第四子の劉荘を嫡子にしている。詰り、東漢に関して言えば、中興した時から世襲問題を抱えていると言う事であり、直系が途絶えれば、傍流の誰かを皇帝に据えれば良いうと言う逞しい考えが蔓延っていると言って良い。
とは言え、皇帝が生きているのなら無碍には出来ない。
袁紹は、城内への突入が一歩遅れた事が功を奏して真先に張譲一味の脱出を知った。袁紹は先行する馬車を追いに追ったが後一歩が及ばず、天子が董卓に保護された事を知ると、地団太を踏む程に悔しがった。
劉家の直系が途絶えれば、己が野望を具現する正当な理由に為っただけに、海内の盟主と言う立場が掌からするりと漏れた様に感じたのは実に肯けると言うものだ。
其れから一月ほどの後、天子を伴った董卓に依り、雒陽に集う文武百官は登城する命令が下された。董卓は朝廟には現れたものの御簾に隠れて姿を晒さず、各官に服従を強要した。嘗ての北宮派や南宮派に籍を置かなかった者達は恐々としながらも其れ言葉に従ったものの、袁紹を始めとする多くは其れに応じず、逃げる様に雒陽を後にした。少なくとも、巡り合わせで幸甚を得た者には従えない、と言うよりは、
――涼州の田舎者には頭を下げたくない。
と言う思いが有ったろう。
兎も角、各人が遺恨を抱えた儘で朝廟の紛争は一層された。
袁術は、何進が没す直前に任ぜられた荊州南陽郡へと、そして袁紹はかねてから任地として与えられていた渤海郡へと足先を向けた。
◇ ◇ ◇
所は変わって南皮県である。時も、郭図が出発した直後に戻る。
李光にせよ、彼を紹介した荀彧にせよ、恩賞を期待しての進言では無い事から、郭図は気を廻し過ぎているだけだ。尤も、李光や荀彧にすれば、郭図が如何勘ぐろうが関係はない。
先にも記しているが、荀彧は袁紹の下を致仕する事を望んでおり、彼女と交代で荀家から寄越される者の到着を待っている。
其の者が訪れたのが二月ほど経った頃であり、荀彧の兄の荀衍であった。当時も後世も同じであるが、海内の各名家は、有力な氏族に誼を通じる事で衰退に備え、又、繁栄を望んでいる。荀家で言えば、荀彧は袁家に、荀攸は世家に、そして後に冀州牧となる韓馥には荀諶が仕える予定である。
其れは扨置き、荀彧と交代で袁紹に仕える荀衍は、
「我侭を言って諝殿の手を煩わせるな。孵ったら、くれぐれも諝殿に礼を申し上げろ」
と言った。
荀彧は深々と頭を下げ、
「その様に致します」
と言いはしたが、くさくさとしていた袁紹の下からの致仕が叶った事の悦びが大きかったから荀衍の言葉に従っただけだろう。
自由に為った荀彧の頭上には青空が広がっている。彼女には閉塞された将来が消え去り、此の時が新たなる人生の門出に為った様に感じられて仕方がない。それ程までに南皮での生活には鬱屈さを感じていたのだ。其れだからこそ、彼女の帰還の日を待って居た李光の、
「潁陰まで送ります」
との言葉に笑顔を向けて、
「あら、私への恩義はその程度なの」
と冗談が出るのも肯けるのだ。
勿論、李光は緩やかに首を横に振った。
南皮を発った一行は数日を掛けて平原に至り、其処から西進して黎陽に、更にそこから流れを利用して渡河し、東郡頓丘県から中原に入った。東郡は、黄巾の乱に於いて最も被害が大きい行政区の一つで、既に一年以上が経過しているにも関わらず、全く復興は進んでいない。其れから再び西進して陽武を経、其処からは南下して官渡、封丘、中牟、長社、許を経て、荀彧の故郷の潁陰まで一月程を要した。
此れまでは他愛のない会話が多かったが、荀一族の邑を目の前にして、荀彧はこんな事を言った。
「ねェ……、良かったら、私と一緒に曹孟徳に仕えない? 今は無官だけど、何れは中原を席巻する人に為るわ。アンタとなら、上手く付き合えそうな気がするのよ」
と。
――有難い話だ。
と李光は思った。大した事が出来る訳では無い自分を、これ程までに買ってくれる人が居ると思うと、目頭が熱くなる程に感動を覚えた。が、李光は南皮で見せたのと同じように、緩やかに首を横に振って遠慮をした。
「この間の恩を此処で返せ、て言っても?」
荀彧の言葉に、今度は頸を引いた李光には、断る理由が有るのだ。一つは曹操の事を名以外は知らないと理由であり、もう一つは、やはり孫策に仕えるのが筋だと考えている。確かに荀彧には恩が有るが、先に恩を受けた孫策に返すのが道理であろう。
李光の胸裡を推し量った荀彧は、小さな溜息を突くと共に顔を伏せた。びっしりとした睫毛が微かに震えているが、李光は心を動かさなかった。
軈て、顔を上げた荀彧は貌を上げて微笑む。
「まァ、良いわ。でも、いずれ貸しは返してもらうからね」
と、踵を返した。李光は、一礼して荀邑を辞し、東へと向かった。
その道すがら、
「李先生ってば、見掛けに寄らず、たらしだよな」
と、蒋欽が言えば、
「本当だよ、女を泣かせるなんて……」
と、陳武が言い、周泰は頻りに肯いては李光を睨んでいる。確かに貌を上げた荀彧の瞳は潤んでいたが、其れを真面に受け取って良いのかは実に迷う所なのだ。誘い切れなかった事への失望なのかもしれないが、其れを成就する為の最後の手段である、
――女の武器と言う可能性も……
と言う思いを捨てきる事が出来ない。少なくとも、黄忠ならばこの位は、屁の河童であろう――、と。井岡山からの脱出の際、魏延を人身御供にした時の黄忠の眼差しは今でも忘れる事が出来ず、二面性を持っている事こそが女の本質なのでは、と思えて仕方がないのだ。
尤も、女の武器を使ってまで李光を引き留めたいと思ったのならば、光栄な事この上ないのは確かだ。詰りは、
――其れだけの価値が自分には有るのだ。
そう思うと足取りが軽くなった李光は、三人の少女の糾弾を無視して東進を重ねた。
東城の魯粛の下に辿り着いたのは、潁陰を発ってから十日目であった。
李光達が魯邑に立ち寄ると、目敏く魯粛が見つけて駆け寄って来た。
「李先生には感謝の言葉も有りません。麋大人が、無償で食料を譲渡して下さいました」
と言う。
麋竺の胸裡を此の時に為って漸く知った。徐州の大商人は、始めから魯邑への援助を決めていたのだ。唯、其れでは人の好意の有難味が分からず、援助を受ける事が当たり前だと思ってしまうかもしれないと思って李光に難題を課したのだ。同時に、人の心を推し量る重要性も教わった。如何に清廉であっても、自分の気持ちばかりを押付けていては人が動く事は無く、賈人を動かすには賈人が望むものを、そして士大夫を動かそうと思えば彼等が望むものを提示しなければならない。
江湖に秩序を齎そうと思っても上手くいかなかったのは、江湖に携わる者達の胸裡を推し量らなかった事が、
――原因なのだ……
と。自然と李光は低頭していた。
が、魯粛の話は此れで終わった訳では無い。
「其ればかりか、汝南の袁家がこの地域の治水に乗り出してくれると……」
既に魯粛は涙声であった。
其れから北上し、琅邪国陽都県の諸葛家を訪ねて事の顛末を報告し、更に東進して朐県に到着したのは十二日後の事であった。
李光は、糜竺を前にした途端に頭を下げた。
「魯邑への御高配、有難う御座います。魯粛からの感謝の言葉を預かりました」
と。
感謝の大きさが頭を下げている時間に変わったが、糜竺は微笑んだだけで、李光に頭を上げる様に促した。
「手前は本少しだけ力を貸したに過ぎません。寧ろ、李先生の努力が実を結んだのです」
と。
自身の力だけでは何一つ出来た訳では無いと理解している李光は、暫く頭を上げられなかった。李光が落ち着いた所で、糜竺は再び口を開いた。
「此れから、李先生は如何なさるのですか?」
「長沙に戻り、吏人と為って郡政を援けようと思います」
と、表情に清々しさを見せる。
「結局、人の役に立とうと思うのなら役人に為らなければなりません。今回は運が良かっただけで、何かを成し遂げようとするのなら、其れなりの立場でなければなりません」
麋竺は、この言葉に微笑みで応えた。
昨今は蓄財の為に官吏を目指す者が多い中、正しい役人に為ろうと思う者は稀有な存在である。そんな存在だから、糜竺は李光を後援したのだ。
「所で、李先生はこの話を御存知ですか?」
と、糜竺は突然に話題を変えた。当然、何の事か予想が付かない李光は首を傾げるしかない。
「錦帆賊が、井岡賊に敗れて壊滅したそうです」
青天の霹靂であった。甘寧と言う指導力の有る頭領が率いる錦帆賊が、まとまりに欠く井岡賊に敗れるとは考え辛かったのだ。が、その答えはやはり糜竺の口から語られる。
「如何やら、反乱が起きたようです。結局は水賊ですから、一攫千金を望む者が居たのでしょう。消息は不明です」
と。
詰り、そう言った不満を持った者が区星の口車に乗ったのだ。錦帆賊の構成員の胸裡を、李光が推し量れなかったのだ。若さ故の失態だが、其れを理由にして善いと言う道理はなく、稚拙なら稚拙なりに気を配るべきだったのだ。其れを考えれば、王媚の死の一因は李光に有ると言う事だ。
焦燥に駆られた李光はいても立っても居られなくなった。その足で南下し、舒県の周異に挨拶を済ませて洞庭湖に向かう船に飛び乗った。
舳に立つ李光の貌は、今迄に無い程に硬かった。




