・2 謦咳に接する
お読み頂き有難う御座います。
此処からが本編になりましょうか。
主人公は、人と出会う事によって様々な事を学ぶのです。
年端のいかない少年三人の旅は、生半なものでは無い。目的が定かでなければ、尚更の事で、言葉で語る以上の苦労が伴う。既に語った事だが、異民族が多く、又、流刑に科せられた者の多い桂陽郡は、余程の事が無い限りは民の移住が認められていない。其れだけに街道筋には取締りの為の関所が多く、巡回は頻繁に行われる。
偶に訪れる行賈には通行手形が渡されるが、役人以外の民は、郡内の移動ですら制限され、郷邑が所属する県城以外は、中々に足を延ばす事が出来ないのが実情なのだ。
三人の少年少女の旅の空は、人目を忍んで山野の獣道を選んでの其れが殆どであった。食糧を携帯してはいないが、食に堪える山野草かどうか位は弁えているし、小川で魚を捕る位は御手のものである。初夏の気候は朝夕が冷え込むとは言え、耐えられない程の寒さでは無い。
三人は、太陽を背負って黙々と北を目指すも、その足取りは遅々として進まない。臨湘までは千里の長の距離とは言え、二つきもの時が掛かったのは、間道ばかりを選んだ旅が過酷だった証左であろう。
臨湘は、長沙郡の郡都に当る。翠巒の中腹に建つ桂陽郡都・琳県とは違い、洞庭湖を中心に広がる平野の南端に有る臨湘は、南方交易の中継地であり、水運の発達した都市なのである。
商業は発達しており、だからこそ、商賈の雇っている住人以外の人の数が多く、運搬される順番を持つ荷の数量は遥かに其れを凌ぐ。必然的に、身元の定かでは無い者でも容易に食を得る事が出来、李光達三人の様な少年であっても、船荷の積み下ろしをする人足として働く事が出来るのだ。
李光達が働かねばならなかったのは、其の為の理由が有ったからで、旅と言うものは、他人からの善意だけで出来る訳ではなければ、少年達は意味も無く金銭を求めた訳では無い。渡江するには其れなりの見返りがいる。詰りは、路銀と言う物が必要だと感じた三人は、此処まで来て初めて人の世の仕組みを知り始めた。生まれてこの方、人の善意の中で育って来た三人は、初めて世間の世知辛さを思い知っていた。
年端のいかない少年に支払われる手当など、高が知れている。況してや、身寄りのない彼等が足元を見られるのは当然の事で、商人に食いものにされるのが関の山なのだ。事実、三人が受け取っている給金は、日々の生活を送るだけで精一杯の、スズメの涙程度の僅かの金額であった。
だが、偶にはそうでない時もあるのは、果たして彼等にとっては幸運な事なのだろうか。
「給金を何時もの三倍を払うから、あの船にこの荷を明朝までに積み込んでくれ。大切なお客様だから、粗相の無いように、な」
金に困っている少年達なのである、だからこそ、雇用主からこんな事を言われれば、一も二も無く快諾するのでなかろうか。しかも、荷物の量は、何時もよりも多くは無い。言うなれば濡れ手に粟の仕事で、三人は嬉々として作業に取り掛かった。
「それにしても、大きな船だなァ……」
個人所有での大型船は珍しく、口を大きく開けた儘の貌で感心して見上げている三人であるが、王媚は帆柱の天辺で、爽やかな秋風に棚引いている小旗が有る事に気付き、其れを指差した。釣られて李光と張業が見上げる様子を確認してから口を開いた。
「先生……、あの旗に書いてある文字は、何て読むんだ?」
「錦帆、ですね」
「如何言う意味なんだ?」
「錦帆とは、読んで字の如く、錦の帆です。帆は船の象徴ですし、其処に錦が有ると考えれば、美しい船、若しくは、誇り高き船と言う意味に転じて解釈が出来るのでしょう」
「詰り、船乗りである事に誇りを持っている、て事か?」
「錦の帆を、旗にして掲げる位に誇りにしているのでしょうから、恐らくは、そう言う事に為ると思います」
「だったら、丁寧に御願いすれば、次に寄津する所まで乗せてくれるんじゃないかな」
「いっその事、先に乗り込んでいて、明朝の出発直前に御願いしたら如何だ。誇り高い船乗りなら多少の無理は聞いてくれるだろうし、置いてけぼりを喰ったら、話にならないぞ」
最後の言葉は張業である。切欠は、間違い無く此の会話であったのだろう。三人は急いで荷物を積み込むと賃金を受け取り、住処に戻って少ない荷物を纏め、夜中の内にこっそりと船に忍び込み、船倉の片隅に身を潜めた。そして、時が過ぎるのと共に、やっと渡江が出来ると言う安堵感と、日頃の激務で溜まった疲れも手伝い、何時の間にか穏やかな寝息を立てていた。
李光達三人が潜んだ船は、払暁と共に湘水の流れに乗り入れた。併し、三人は其れに気付く事は無く、水面を切り裂く音が耳朶に囁き掛けても、船の揺れが三人の肩を優しく揺り動かしてみても、規則正しい寝息は全く乱れる事は無い。
が、其れも束の間の事で、三人は、痛い思いをして目を覚ました。船倉の点検にやって来た者に見つかり、棒切れで強か小突かれたのだ。寝ぼけ眼に溜まっている涙は、間違い無く痛みから来るものだろう。無理矢理に立たされた三人は、背中を小突かれながら甲板に引き摺り出される。
三人の目には、奇妙な光景に見えた。単衣に下帯、腹にはきつく晒を巻き、脛巾に草鞋だけの恰好を見れば、此れまでに何度も見て来た水夫の其れと同じだが、問題は、人相からも窺える人の質の方だ。
野卑た笑いを浮かべながら囃し立てる水夫達は、錦の帆を掲げてる様な誇り高さの有る様子からは程遠く、寧ろ粗野で乱暴な印象に見える。元来、水夫を生業にする者達には乱暴な者は多いが、それにしても度が越していて、李光達三人は、此処に来て初めて視線を泳がせて互いを見やり、貌に戸惑いの色を浮かべる。
「坊ちゃんに嬢ちゃん、この船に何の用が有るのかな?」
敢えて言葉にする必要は有ったのだろうか。無断で船に乗り込めば、どんな事情が有るかを察するのは容易な事だ。船倉に潜んでいた少年たちの心積りなど、敢えて聞く必要は無い筈である。其れでも方々から失笑が漏れたのは、この先、少年たちがどんな言い訳をするかを楽しみにしているからだろう。
少年達の間では役割分担がされていて、考える事を担当するのは、最も見識の高い家に育った李光の仕事である。躰を使う事を得意とする張業と王媚が不安な眼差しを李光に向けると、自然と水夫達の注目が彼の許へと集まる。
李光の考えは既に纏まっている。下手に取り繕う様な答えを口にすれば、此の気の荒そうな連中の逆鱗に触れて、湘水に叩き落とされかねない。否、その位ならましな方で、場合によっては明日の朝日を拝む事すらも、出来なくなるかもしれないのだ。三人の考えた事に脚色を加えて、正直に話すのが良いだろうとの判断だ。
「昨日、船倉に荷を運び込んでいる時にあの旗を見ました」
李光は其処で言葉を区切り、帆柱の天辺に棚引く旗を仰ぎ見る。水夫たち全員が其れに注視するのを待ってから、李光は再び口を開いた。
「錦ある帆が旗印、詰り、船乗りである事に誇りを持っていると考えました。だから、江水を渡りたいと切実に思っている我々の願いを叶えてくれるに違いない、と」
李光は、苦笑を浮かべる水夫達の姿を双眸に映し、此の儘説得出が来るかもしれない――、と手応えを感じている。李光は、更に口を開いて畳み掛けを謀る。
「我々は、桂陽琳県の近くに有る邑の出身です。ですが、初夏の大雨に依って邑の悉くは流され、我ら以外は全ての邑人が鬼籍に入りました。本来なら、其の儘邑に残って父祖の靈を鎮めなければならないのでしょうが、桂陽は徴租が厳しく、如何な理由が有っても既定の租税を治める事が出来なければ、労役に依って賄わねばなりません。井岡山での労役は厳しく、死んだ後でなければ解放されません」
李光は、此処まで一気に喋って僅かながらに俯いた。そして、水夫達の様子を窺う。
神妙な顔をしている者は多く、中には桂陽を出自とする者もいるのだろう、同郷の者だけが知る悲哀を思い出し、人目を憚らずに涙ぐんでいる者もいる。恐らく、李光達と似た様な理由で故郷を抜け出した者なのだろう。
行政基盤の脆弱な土地での生活は厳しい。額に汗して懸命に働いて水稲を育て、秋を迎えてやっと収穫まで漕ぎつけた米穀は、租と称して粗全てを取り上げられる。
加えて賊徒も多く、異民族も多い。収穫の時期には彼等の来襲も頻繁に起る。其ればかりか、桂陽郡内では、農夫の反乱を恐れて武器の類の所持は認めていない事から、各地に点在する邑には防衛手段も少ない。そのくせ、郷邑が彼等に襲われても城郭に住む彼等に災難が及ぶわけでは無いので、ほっかむりをして討伐を行おうとはしない。
地方での生活は、常に死と隣り合わせなのだ。
此の船で水夫をしている者達の殆どは、そんな苦しい生活を強いられる郷邑の出身だ。『錦帆賊』と冠する水賊と息巻いていたとて、元を正せば、李光達とそれ程の差は無い。誰もが似たり寄ったりの境遇であり、何かしらの心当たりが有るのだ。
甲板には、少年達を擁護しよう、と言う空気が流れ始めた。少年達は、安堵の溜息を漏らしそうになったが、物事はそう易々と進むものではない。そんな空気を切り裂く様に一人のうら若い女が一歩踏み出る。周囲の水夫は、邪魔をしないように道を開けて彼女を通した。其の行動だけで、彼女のこの船での立場が分かる。
「それで、貴様達は江水を渡って何処を目指し、如何しようと言うのだ?」
凍てつく程に冷めきった声は、甲板の空気を一変させた。声を出した者の挙措にも、無駄は全く無い。褐色の肌は船乗りの証の様なものだ。菫色の髪は頭頂で結上げ、其れよりも僅かに色の濃い菫の瞳は、切れ長で鋭く、全てのものを凍て付かせる程の怜悧さが有る。
現に、水夫達は此れまでに無い程の緊張を漲らせる。
が、李光と張業、二人の少年は一寸違う反応を示した。
その原因は、女の恰好に有る。水夫の格好と言う物は、概ね短衣に褌、と相場が決まっていて、この女もその類から漏れていない。詰りは、瑞々しい大腿は衆目に晒された儘なのである。女は、そんな事は一向に気にしていない様子だが、女性に慣れていない二人の少年は、肉感の強い大腿を見たお蔭で、頬を赤らめて俯いてしまっている。
それ程までに、女は魅力的なのだ。きっと、この容姿に引き寄せられて言い寄った男は、星の数ほどいるだろう。が、撃退された男の数は、間違い無く言い寄った数と全くの同数なのだろうとは、女の纏う怜悧な雰囲気から想像に難くない。
其れは扨置き、李光は言葉に窮した。三人は、桂陽では暮らせない、暗澹たる未来しか無いと思って別の土地、詰りは新天地を目指していたに過ぎない。江水を渡る事に明確な目的は無く、安住の地を求め様と考えているだけだ。
李光は、何時の間にか俯いていた。
――如何、答えるべきか、
と。
一方の張業と王媚は、李光が悩む様子を見て直ぐに我に返る。隙を突いて水中に飛び込めば、川幅の広くない湘水ならば、十分に岸まで泳ぎつけると考えた。
が、其れも杞憂に終わる。俯いた李光の双眸に、帯からぶら下げている佩が目に入る。此れは李瓉から貰ったもので、今と為っては形見と言い換える事の出来る物だ。弁舌が一本に繋がったと思った時には、李光は佩を掌に載せている。
「襄城李家に名を成す兄は、事実無根の罪過を問われて桂陽に流されました。当時、子を授かったばかりでしたが、養父の徳の御蔭で、三行半を渡す代わりに妻子は罪過から免れました。併し、其れは飽く迄便宜上の事で、喩、今現在の形が如何であっても愛し合う夫婦である事には変わりが有りません。此の佩は、私が兄から頂いた物ですが、形見として内儀か子息が持った方が相応しいと思いました。其の為に、妻子の住む中原に向かう為に江水を渡らねばなりません」
嘘から出た真実だとしても、兄の形見は、持つべき者が持った方が良い、と李光が考えたのは事実だ。其れも、口を閉じた今では、心に固く誓う真実に変わっている。瞳の輝きの強さが、より一層真実味を添えている。
女は閉口した。一聴して口から出まかせだと看破したが、今では真実味の方が強くなっている。腕っ節だけが自慢で単純な思考の水夫達は、少年の話が真実だと思い込んでしまっていて、誰もが縋る様な眼差しで見詰めて来て、少年達の擁護を訴えかけてくる。
――世風には逆らえんな……。
と、彼女は思った。古来、御涙頂戴、特にこの少年の様に親族に関わる悲哀を帯びた話は人の好むものであり、男達が単純なだけに放って置けないのだ。
「明後日の中天には江陵に寄津する。其処までは乗せてやる。が、厚意だけで船に乗っては有難味が分からん。代価は金でも良いが、躰を使った方が尚良いだろう。男二人は櫂を漕げ、女は帆柱に登って見張りだ」
有無を言わせぬ言葉だ。其れだけを言うと、女はさっさと船室に戻って行った。
女の姓諱を甘寧と言う。字は興覇だ。字が有ると言う事は、既に元服、若しくは加冠の儀を迎えていると言う事で、成人していると言う証である。因みに、此の頃の元服は男女に依って年齢が違い、男子は二十歳、女子は十五歳である。皇族に関しては成長が早いと言う理由で、男女共に十二歳である。
扨、此の甘寧、元服を迎えていると言う事は、既に官途に就く年齢を迎えていると言う事だ。現に彼女は、居住地であった巴郡で官に就いている。巴郡の計掾を司る吏として仕えた其の後、推挙されて同郡の丞、詰りは官にまで昇っている。単純に吏とは地方公務員、官とは国家公務員と思えば良い。
詰り、此の甘寧と言う女性は、学識に優れた所が有ると言う事だ。
では、その彼女が、何故今は水夫たちを纏める立場、言うなれば『錦帆賊』と恐れられる水賊に身を落としているのか。其れは実に単純な理由で、時の巴郡の太守に失望し、国家を束ねる劉王朝に失望したのだ。其れからは、江水の水面を吹き抜ける風を肩で切る生活を送っている。暴利を貪る商戦を襲い、艦船を襲撃しては、積み荷を奪って付近の街で贅沢に遊び、ばら撒く、そんな事の繰り返しだ。
民からの人気を得ようとは考えてはいないが、彼女なりの考えが有って始めた事だ。決して自由気侭、風の吹くまま気の向くままの生活をしている訳ではない。尤も、彼女の胸中を知る者は、此の江水の上には一人としていないだろう。
扨、二人でなくては抱えきれない様な櫓が、左右に十五本づつ並んでいる場所に、李光と張業は連れてこられた。尤も、湘水を下っている今は、川の流れに船体を任せている事から仕事は無く、彼等の力が必要に為るのは、流れの無くなる洞庭湖に入ってから、と言う事だ。二人は薄暗い最下層の船室で、仕事の時が訪れるまでまんじりとも出来ずにいる。
一方、王媚は少し肌寒い位の秋風の吹き抜ける帆柱の天辺付近に居る。周囲には、錦帆の旗を掲げる仲間の小型船が五艘ほどいるだけで、他には船舶の姿は全く見えない。生欠伸を繰り返しながら周囲を警戒するが、頭上を鳶が周回するだけで、秋の湖南地方は穏やかそのものであった。
王媚の瞳が別の船を認めたのは、東から夕闇が迫り始めた頃である。茜の空を背景に、大型船が鈍重な動きで北に向かっている。
「前方に大型船。この船より大きいです」
王媚は声を張り上げた。
「巴丘に向かう船だろう。彼女は目が良いな……」
甘寧は、苦笑交じりに口を開いた。運が良いのか悪いのか、まさか部外者を同乗させている時に獲物に遭遇するとは思わなかった。潔癖そうな少年の前で水賊行為をすれば、後々にどんな非難の言葉を受けるかも知れないとは思ったが、其れが躊躇いには為り足らない。彼女は、錦帆の旗を冠する水賊なのだ。
彼女の瞳には、件の大型船の姿は見えていない。が、其れが虚言だとは思えず、間違い無く船は居るのだろう、と思う。此れまで水賊として過ごしてきた経験が、王媚の言葉の後押しをしている。同時に、甘寧の脳裏にこの近辺の航路図が描き出される。
本来、商船にせよ、御用船にせよ、水賊の多いこの地域では、もっと日の高い時間に目的の津に到着する。水賊からの襲撃を恐れ、一日の航行距離は気にせずに航行するのが通常だ。
――はてさて、罠に嵌める為に我等を誘っているのか、何かの手違いがあったのか、だな……。
甘寧は、焦りを抑えて件の艦船が目視出来るように為るのを待った。
甘寧の瞳がはっきりと件の艦船が捉えたのは、王媚が見つけて四半刻経つ頃だ。夕闇は更に迫り、船影は夕闇を映す湖上の景色と同化しつつある。
「様子は如何だ?」
「櫂が忙しく動いている」
「他の艦船は?」
「有りません」
王媚の返答を聞いた甘寧は、何かしらの事情で出航が遅れて、今頃になってこんな所を航行していると判断した。
「襲撃準備!」
甘寧にすれば当然の言葉だろうが、王媚は、荒っぽい連中が多くても、水賊では無いと思っていただけに耳を疑い、思わずにして帆柱から滑り落ちそうになった。
一方、李光と張業がまんじりとも出来ずにいる船室に、二人の屈強な男がどやどやと降りてくる。一人は、二つの槌を持ち、櫂を握る者達の正面に座った。もう一人は、その横に起立している。其の時、李光の前で櫂を握る男が振り向いた。
「あの鎚の音に合わせて櫂を漕ぐんだぞ」
と。
甲板の状況を知らない李光と張業は、何が何やらサッパリと分からなかったが、櫂を漕ぐ代価として江陵まで乗せてもらっていると思うと、黙って指示に従うしかなかった。
槌を持つ男が、櫂を漕ぐ者の真正面にどっかと胡坐をかく。そして、ゆっくりと一抱えも有りそうな丸太の小口に槌を打ち付け始める。堅木同士を打ち合わせる音が、子気味良いテンポを保ちながら船内に響く。最初は鼓動と同じリズムだった。が、其れは徐々に速度を増し、今では心臓の打つ其れよりもかなり早く為っている。尤も、李光の鼓動も、漕ぎ始めた最初の頃と比べれば、倍以上の速さで打っていて、木槌の其れと大差は無い。同時に、胸が大量の空気を求めていて呼吸は荒く為り、腕は早くも鉛のように重い。
其れでも李光は、歯を喰いしばって櫂を漕いだ。こんな事に挫けて仕舞えば、甘寧から、口から出まかせを吐いた時と同じ侮蔑の篭った眼差しを向けられる。其れだけは如何しても耐えられず、歯を喰いしばってでも、櫂にしがみ付いてでも避けたい事であった。少なくとも、人としての意地だけは失いたくなかった。
どれ程時間、櫂を漕いだろうか。軈て、槌を持っていない者が大声を張り上げた。
「左舷、櫂、抜け!」
其の言葉と同時に、李光と張業の前で櫂を漕いでいた者達が、室内に櫂を引き入れはじめる。何故そんな事をしているのかは分からなかったが、二人は前に倣って丸太の様に重い櫂を室内に引き入れた。
其れと同時に起る衝撃、重い者同士がぶつかり、太い材木が裂ける音、次には甲板から勇壮な歓声が沸いた。李光と張業は、貌を見合わせた。二人は全く同じ事を考えており、しかもその予想は間違いでは無い。
商船の横腹に食い込む様にして、甘寧の船は停船した。今では鳶口が次々に掛けられ、道板が渡されて二艘の船は一つになって洞庭湖の中央付近で停船している。軈て、腕と同じ位の長さの棍を持った水夫たちが、歓声と共に商船に飛び移って行く。
戦局は一方的だ。如何しても、戦い馴れしている者の方が有利に戦況を制して行く。商船の水夫にも偶に蛮勇を発揮する者もいるが、組織的に囲まれれば、あっと言う間に船の端に追い詰められ、洞庭湖に突き落とされる。
商船の制圧には、一刻も要さなかった。其れからは荷物の運び出しであるが、李光や張業、王媚と言った、新たに船に乗り込んだ面々には声が掛かる事は無かった。
何時しか闇が訪れた。甘寧の船は近辺の津に拠らず、掠奪を行った所から僅かに離れ、其処に錨を下ろして停泊した。
李光は、掠奪が行われて、初めて甘寧が水賊の頭目である事を知った。勿論、荒っぽそうな水夫を見れば、そうかも――、とは思ったが、得てして水夫の気は荒く、そう言う者達ばかりが集った船だと思いたかった。
掠奪の片棒を担がされた――、と思うと、純真を弄ばれた様に感じた李光の腸は恥辱で煮えくり返りそうであった。だからこそ勇む足を止める事が出来ず、張業と王媚の制止を振り切って、枢が壊れるのではないか、と思う程に荒々しく扉を開けて、甘寧の部屋へと踏み込んでいた。
が、間の悪い時には、とことん間が悪い。踏み込んだ李光の視界は、赤銅色の細い背中で一杯になった。
甘寧は、扉に背を向けていた。そして、血で汚れた服から着替えている最中であったのか、下帯以外は何も身に着けていない裸体だ。贅肉の無い背中は筋張っているが、なだらかな括れやふくよかな腰の膨らみは、間違い無く魅惑の女性の其れである。余分な肉が少ないだけに、女性のふくよかな部分がよりいっそう強調されている。
「何の用だ?」
絹を引き裂く様な、恥じらいの悲鳴でも上げれば良かっただろうか――、等と言う日寄った戸惑いは無い。鋭さが一層増した瞳の甘寧は、射殺す勢いで不躾な訪問者を肩越しに睨み付けた。
此処で李光が、
「押し倒しに来た」
とでも言えば、少しは気が利いていただろうか。其れとも、翌日の旭を拝む事が出来なかったろうか。其れはどちらでも良いとして、やはり女性馴れしていない李光が、背中越しとは言え、女性の裸を眺めて平然としていられる筈は無い。入るや否や、くるりと背を向け、
「……は、は、話が有ります」
と裏返った声を絞り出す様子は、如何にも〝しまり〟と言うものが感じらず、先程までの怒髪天を突くような怒りは、すっかり影を細めてしまっている。が、其れも仕方が無い事であろう。
甘寧には、李光の存在が全く気にならないのか、着替えの手を止める様子は全く無い。
背中から聞こえて来る衣擦れの音は、果してどれ程の時間であったろうか。恐らく、それ程に長い時間では無かったろう。だが、警鐘の様に速い鼓動の李光には、昼夜が逆転する程に長い時間に思えてならなかった。
「もう、良いぞ」
其の言葉で呪術が解けた様に振り返った李光だが、俯いた儘の顔を上げる事が出来ない。後ろ姿とは言え、なめかましい女性の裸体を見てしまった後では、何度も見ている筈の単衣から覗く健康的な大腿ですら直視する事が出来ない。火照る顔を冷ます術は、今の彼は持ち得ておらず、話が有ると言ったにも拘らず、彼は甘寧の姿を見る事は叶わず、声を出す事も出来ない。
甘寧は、業を煮やした。
「話が有るのだろう?」
押し殺した声音は、李光に冷静さを取り戻させる。同時に、掠奪の片棒を担がされた恥辱よりも、何故、彼女が掠奪行為に身を委ねなければならなかったのか、と疑問に感じた。言うなれば、素人目に見ても、先程の襲撃の手際は見事そのものであった。人より卓越した技術が有ると言うのに、何故、其れを非道な事で開花させねばならないのか、と。
「何故、水賊を?」
と言う月並みな問い掛けの言葉も、声色に依って、意味合いは少々違って聞こえる。訝る眼差しは、真実を見通そうと目を凝らしている様にも窺える。単純に匪賊に身を染めている事を中傷しようと言うよりは、その経緯を知りたい、と李光は思った。が、併し其処は相手の方が人生経験は豊富で、此れまでに沢山の修羅場を踏み越えてきた海千山千の水賊の頭領なのである。
「良かぬか?」
開き直ったと言うよりは、はぐらかす様な甘寧の答えは、恰も木で鼻を括った様で、真面に相手すらしていない。罪悪感どころか、一切の感情が含まれてはいない。要するに、大人の事情を解せぬ李光を、孺子だ、と小莫迦にしているのだ。
だが、李光は若いだけに、甘寧の幼稚な誘導に乗ってしまった。頭に血を登らせ、歯止めのきかない自分に後悔をしながらも、口を閉じる事は出来なかった。
「商船や御用船には、民が生活に必要とする物も含まれているのですよ」
「民からただ同然で翳め取り、民に無法な値で売り付け、搾取をする為だけの商品が、な」
そんな話なら続ける必要が無い、とでも思ったか、甘寧は椅子に腰掛けて文机に向かい、此の日の収穫の目録を作り始めた。抑々甘寧は、仕方なく、とか、他人から祭り上げられて、と言う理由で水賊に身を窶した訳では無い。自ら屈強な水夫を集めて水賊を名乗っている。
なった当初は、世を正す、と言う崇高な理念が無かった訳では無い。不正を繰り返す御用船に鉄槌を下し、忠節を怠る商船に、身の程を弁えさせようと言う気持ちは、確かに有った。迷走を続ける王朝に警告を与えよう、と言う思いは心の何処かに有ったのだ。
が、幾等甘寧が孤軍奮闘した所で世間は何一つ変わる事は無く、商船も御用船も、相も変わらず江湖を我物顔で行き交う毎日である。況してや、迷走する王朝が襟を正し、善政を心掛けようと言う気配は皆無であった。言うなれば、甘寧の行いは自己満足でしかなかったのだ。但し、その理念が胸裡から全く消え去ってしまった訳では無く、未だに心の深い所で燻り続けてはいる。
今の王朝に目にものを言わせようと思うのなら、たった一人で起つのではなく、多くの民の決起が必要なのだ。しかも、意志を一つにする必要がある、と。何時かは――、と言う思いは確かにあるのだ。
甘寧には其れが解かった。だからこそ、今は無為の日々の中なのである。敢えて言えば、何もせずに待つ時なのだ、と。雌伏している訳では無く、唯、暗澹と一日一日を過ごしているに過ぎない。略奪を行うのは、単に食う為だけに過ぎない。其れでも、民には多少の余禄が有る。
「貴女には、見識も常識も行動力も有る様に窺えます。其れを無為の時に埋没させて、如何しようと言うのでしょう」
――知った風な口を……。
甘寧は貌を上げた。逆鱗に触れた訳ではないが、憎悪が浮かぶその表情からは、小さからず憤りを窺い知る事が出来る。李光の言葉は、偶然にも甘寧の心の弱気の部分を逆撫でしていた。
「貴女にも、今の世の中が理不尽な事は判っている筈です。額に汗して働く者が食うや食わずの生活しか送れないと言うのに、その上でのうのうと胡坐をかく者が贅沢をする。人が生れる時には誰であっても裸一貫で何も持っておらず、平等な立場な筈なのに……」
「人は生まれた時から身分差がある。士大夫の子は士大夫の子で、農夫の子は農夫の子なのだ。此れは、遥か過去から続く不文律で、其れを覆す事を目的に起ったとても、成功と共に皇帝を名乗り、其れまでの貧しい生活から目を背けるのが関の山だ。歴史と言うものが、其れを証明しているのだ。断じて言う、世の中には、平等など有りはしない。小石がどんなに足掻いてみた所で、江水の流れを変える事は出来ないのだ」
甘寧は、躰ごと李光に向き直った。此れまでの余裕の態度から見れば、瞳に憎悪を浮かべての此の態度は、言うなれば、挙措を乱した、と言い換える事が出来る程の慌てようだ。
一方の李光には、そんな甘寧の細かな仕草を気に留める余裕は無く、言い負かされた自分に、そして、正邪が分かっていながらも言葉に出来ない自分に臍を噛む思いであった。
甘寧が言っているのは漢王朝の高祖・劉邦の事で、農夫をせずに放蕩を繰り返していた彼は、周囲から持ち上げられて一軍の将に為り、多くの助力を得て信念を貫き通し、そして一つの時代を築く。兄・李瓉の指導の下で故事を学んだ李光がその事を知らぬ筈は無く、それどころか、其れに纏わる様々な事とて知らぬ筈はない。人は慾に勝つ事は出来ず、地位を得ると共に心変わりしてしまう良い手本だ。得てして、人とはそう言う者なのだ――、と。
李光は、何時の間にか俯いていた。先程までの俯いていた訳とは全く違う理由からだ。
――悔しい。
唯、其の思いだけが李光の胸中に有る。甘寧に言い負かされたからではない。矮小な己が存在を思い知らされたからではない。不条理が看過される世間、生きとし生ける者の摂理が通じない人の世の中、そして、其れが分かっているにも拘らず、手を拱く事しか出来ない己が無力さが、そんな様々な思いが李光の胸裡に重く圧し掛かったからだ。
今にも涙を流しそうな李光を見て、甘寧はやっと冷静さを取り戻して立ち上がった。表情からは、先程の険はすっかり消え去っている。
「人生なんて、儘ならない事ばかりさ。願っても叶わず、乞うても与えられる事はない。世の中なんて不条理な事だらけなのさ。だが、其れだけで世間を嘆いて世捨て人に為ってはいけない。自分を信じ、来たるべき時の到来を願って雌伏の時に堪えねばならない。残念ながら、私には其れまで我慢する事が出来なかったがね……」
諭す様な眼差しの甘寧は、ひょろりと背ばかりが高い少年の頭を両手で抱え、肩へと抱き寄せた。純心で、向こう見ずで、傷付き易い少年が、今の気持ちを忘れる事無く、健やかな日々を過ごして様々な経験を積み重ね、そして一人前の男に成長して貰いたいと思う。
軈て、こう言った少年を必要とする世の中が訪れる――、と信じているのだ。
甘寧の許を辞した李光は、夜風の吹き抜ける甲板に寝転がった。夜空を飾る銀漢は数知れず瞬き、手を伸ばせば掌で掴む事が出来るのではないかと思える程に近く感じる。時が経ると共に、銀漢は李光へと降り注いでくる。が、どんなに手を伸ばした所で星に手が届く筈は無く、心に想い描く希望と然程に差が無い。
今の海内では、胸中に希望を宿したとしても、訪れるのは絶望ばかりだ。夢を抱く事でさえ、赦されない世の中なのだ。自由を求める等、以ての外だ。併し、全てが例外と言う訳ではない。要は、何らかの力を有すれば良いのだ。
何かを成そうと思えば、必ず力を得なければならない。力とは様々な形があり、単純な腕力も有れば、知識や権力も其れに当る。場合によっては数も其れであり、財力も類から漏れる事は無い。そして、実力とは、必ず何かの力に伴うものだ。
――自分には何が有るのだろう?
腕力が有る訳でも無ければ、知恵が足りている訳でも無い。更には、その他の物からは程遠い所に居る自分には、何の力も無い様に思えた。己が無力さに挫けそうな、そんな時であった。
「如何したんだよ?」
「甘姐さんに、言い負かされたのか?」
李光の左右から覗きこんで来た張業と王媚は、躰を投げ出している少年の眦に涙の痕が有るのを目敏く見つけると、其れには目を瞑って彼に倣って甲板に寝転んで夜空を見上げた。
「まさか、水賊だとは思わなかったよな……」
張業の呟きは、残りの二人の胸中を代弁している。李光も王媚も顎を引いて、其れを肯定している。『錦帆』の小旗の有る船なのだから、想像を巡らせた当初は、さぞや立派な生業の其れだろうと思っていた。が、甘寧と僅かの間言葉を交した李光の今の胸中は、
――思う儘に生きる事の出来る水賊だからこそ、船乗りである事に誇りを持ち続ける事が出来るのだろう。
其の思いに変わっていた。寧ろ、御用船や商船の方が、余程に渡世の仁義からは欠けている、と。
相変わらず、星影は降り注ぐ様に三人を包んでいる。微かな波に揺れる甲板は、まるで今の李光自身の立場の様で、恰も水の流れに身を任せる浮草の様に不安定である。
「力を得る為には如何したら良いのだろう……」
中断した思考を再開させた李光の呟きに応える者は誰も居なかった。代わりに、左右の友からは静かな寝息が聞こえて来るばかりだ。李光は、左右の安らかな寝顔を見た。
――友がいるだけでも、私は恵まれている。
と。
何時しか睡魔に囁かれ、その誘惑に挫けつつある李光は微睡に身を任せながら、先程の挙措を乱した時の甘寧の言葉を思い出していた。確かに江水の流れを小石で変える事は出来ない。だが何故、彼女程に実力の有る者が、
――今以上に多くの石を集めようとしなかったのか。
と。一度は集め始めたのだから、流れを変えたい意志を持っている筈なのに……。そして、其れを手放そうとはしないのだから、何かをしたい気持ちを捨て去った訳では無い筈なのに、と……。
江陵に着いたのは、臨湘を発った翌々日の昼下がりであった。停泊場所から再び出航して、二人の少年は強張った貌で櫂を漕ぎ、少女は無表情の儘で見張り台に立った。三人は、他の水夫達との交流を断っていた。が、人生とは、本人の想いとは別に進むものだ。
彼等が如何に心に垣根を設けてみても、時間を共有した水夫達には名残と言うものが生れるのだ。彼らが単純なだけに、仲間意識を強く感じる。
本の三日、長い人生から鑑みれば、束の間の付き合いではあったが、荒々しくも気の良い水夫達は、口々に別れを惜しんでいる。粗野な面ばかりが目立つ彼等ではあるが、一皮むけば、裏表の無い純朴な人物なのである。たった二晩でも寝食を共にすれば、経緯は如何であれ、立派な仲間なのである。特に相手が年少の李光達なのだ、彼等にすれば弟であり、妹の様な存在なのである。
「食えなくなったら、何時でも此処に戻って来いよ」
そんな言葉が多かったのは、身寄りのない李光達三人への気遣いと言える。人とは、帰る場所が有るからこそ自由でいられる。浮草と自由は違い、心の拠所、帰る場所が有る状態で、初めて自由を得る事が出来る。勿論、自由である事を追い求める思いが強過ぎれば、その意味が理解できない。
別れの言葉は其れだけでは無い。
「小僧達は、そのてんでんばらばらの恰好を何とかしないと、役人から余計に怪しまれるぞ」
こんな助言をする者も居る。
三人は、改めてお互いの身形に目をやった。旅を共にする面々にも拘らず、統一感はまるで無い。御揃いにする必要は無いが、此れでは如何にも、着の身着の儘で郷里から逃げて来た無宿人です――、と言っている様なものであり、怪しまれても何ら不思議はない。他人を判断するのは先ずは第一印象であり、当然、躰に纏う着衣からと言う事に為る。
「此れで、古着でも買いな」
男は、李光達三人の掌に、銀子を一粒づつ握らせた。銀子一粒あれば、慎めば一家族が一月は楽に暮らせると言う位の価値がある。少年が持つには余りにも高価だし、言うなれば分不相応だ。
併し、少年達は悦ばなかった。李光に限らず、三人の背筋に怖気が走ったのは言うまでもない。彼等は、此れまでの十数年の人生を、只々正直に生き、他人に害を為さず、そして傷付けずに生きて来た。確かに故郷を出奔はしたが、人の道から外れずに生きて来た事が誇りなのだ。
敢えて言う迄も無いが、少年達は、この銀子が水賊の手伝いの代償だと思ったのだ。人を殺し、傷つけ、財産を奪い、人の道から外れた事への代償に金を渡された、と思った。思った時には金を地面に敲きつけ、憎悪の篭った瞳で睨み付けていた。文句を言おうにも、頭に血が上り過ぎて言葉にならない。
が、男の相貌には余裕がある。尤も、子供に睨まれても、蚊程にも痛みを感じる筈が無いのだ。其れでも、純真な少年達の気持ちを解してやろう、とは思っていた。
男は、面倒がる様子も無く膝を織り、投げ捨てられた銀子を丁寧に拾って、再び少年達の掌に乗せ、諭す様に話し始める。
「勘違いをするな。その銀子は、姐御の懐から出たものだ。櫂を漕いで見張り台に立っただけの者が、如何して水賊として一人前の分け前を貰えるものか。お前達は、船に乗り合わせた客に過ぎん。櫂を漕ぎ、見張りをした分は江陵まで船代の御足として貰って置く。其れは姐御からの餞別だ。姐御からのものとは言わず、他人からの心遣いは有難く頂戴するもんだ。今は分からなくとも、何れ、人の世の情と言うものの本当の有難味が分かるようになる。其れを考えながら、銀子は大事に使うんだぞ」
そう言うと、李光の掌を包み込みながら、しっかりと握らせた。
李光は、目頭に熱いものを覚えた。水賊であれ何であれ、人である事には変わりがない。寧ろ、他人に誇れる生業では無いからこそ人のもつ本来の結びつきが強く、篤い人情を持ち得ているのかもしれない。桂陽の片隅での温かい生活が失われて未だ三つきしか経っていないが、望郷の念にも近い、久しく忘れていた人の温もりをこれ程にも強く感じたのは、浮草の様な生活を始めてから、此れが初めての事であった。
何時の間にか、三人は大きく頭を下げていた。
「姐さんの手から渡してやった方が、良かったんじゃあねェですかい?」
甘寧は、その問い掛けには応えず、少年達の歩む背中に双眸を向けた儘でいる。相変わらず貌に表情は無いが、剣呑な空気は無い。
「最近の餓鬼にしちゃあ、中々に筋が通っていると思うんですがねェ……。真面目だし、一寸仕込んでやって化けりゃあ、面白いと思うんですよ。あゝ言う連中が船乗り為りゃあ、俺達も安心出来るんですがねェ……」
「あゝ言う孺子どもは、もっと苦労した方が良いのさ。厳しい世間の目に晒されて、世の中の荒波に揉まれた方が良い。其れで再び出会うか如何かは……、まァ……、縁だな」
甘寧は、話しながらも目を細めていた。その表情からは、己が最後の言葉に失望しているのか、将又、何時しか果たすかもしれない再会の時を、今から待ち焦がれているのかは分からない。が、今は其れもどちらでも良い、人の出会いとは、正に『縁』なのだ。
秋の陽射しはまだ高く、秋風には夏草の薫りが残っている。甘寧自身は、疾くに人らしい感覚等忘れた心算でいた。だのに、そんな微妙な自然の移ろいを感じる事の出来る自分に、彼女は多少なりとも驚きを覚える。が、其れも不快なものではなかった。
甘寧の穏やかな貌は、秋の陽射しの其れと能く似ている。
甘寧が錦帆賊と息巻いた所で、水賊家業だけで生計を立てている訳ではない。この先、彼等は激流の三峡を遡り、益州の巴郡・江州へと向かう予定だ。益州と言えば、云わずと知れた茶葉の原産地であり、代表する産出物である。
高価な茶葉の運賃は割が良く、水賊を行う彼等であっても充分な報酬を得る事が出来る。当然であるが、危険が伴う水賊よりは、運搬を手掛けた方が良いに決まっている。何より、如何に高価な茶葉の輸送を行っているとは言え、錦帆賊の彼等を襲う命知らずは居ないのだ。
同じ理由で、賈人も彼等に大事な荷物の運搬を依頼する。多少輸送料が高くとも、確実に目的地に届いた方が、彼等への実入りが大きく、信用を損なわないからだ。
世の中とは、持ちつ持たれつ、なのである。
○
津から江陵の本城までは、本の二刻程であろう。人の背丈の何倍も有る様な江陵の城門を潜ったのは、未だに陽の高い頃である。
江陵は歴史ある都市で、漢末のこの時期で、既に千年以上の歴史を積み重ねている。元々江陵は、城郭が一国家である時代には『楚』と言う名の国家であり、軈て国の規模が大きくなると『郢』と言う名の国都に変わった。紀元前八世紀末に王国を称したが、国家制度が確固とし始めた殷代には既に存在しており、長しなえから繁栄を重ねた都市としても知られている。要するに、人や物を始めとする様々なものが集まる大都市と言って良い。
当然、田舎者で御上りさんの三人組は肩を寄せ合って一塊に為り、人の波に押されて揉まれて、キョロキョロと城内の彼方此方を見て回ったのは言うまでも無い。古着屋を見つけて手頃な服を買おうとするも、銀子が古着を扱う程度の店でそのまま使える筈は無く、
「両替に行って来い」
と蹴り飛ばされ、彼方此方で散々にぼられたのは言うまでも無い。金銭と言う貴重な代価を払い、人生経験を重ねながらの三人の旅は続き、嘘から出た真と為った想いを果たす為に、中原を目指す事に為る。
◇ ◇ ◇
江陵から次に向かうのは、襄陽であろう。江陵から一旦は北西に進路を取り、長坂坡を越えて襄陽に向かうのが通常である。その間に当陽や宜と言った県の付近を通り、襄陽の城門に辿り着いたのは六日目の事である。
襄陽は、江陵に劣らない程の大都市で、郡都・江陵には歴史と防衛の両面を有する機能が置かれているのに対し、比較的歴史の浅い州府・襄陽には遊子が立ち寄り易い立地に置かれている。荊州南郡は、二つの大都市を抱えていると言う事だ。
張業と王媚、そして李光、三人の前に、再び背丈の何倍も有りそうな巨大な城門が現れた。もう、田舎者を簸た隠しにしよう、と言う思いは疾の昔に消え去っている。彼等に出来るのは、大口を開けて感心する事位だ。
そして得てして、こういう田舎者然としている者は、必ずと言って良い程に食い物にされる運命にある。
「貴様達! 無宿人であろう」
怒鳴り声と共に三人を誰何したのは、官吏の一員の門衛である。当時、各地では反乱が相次ぎ、無宿の者は反乱分子の予備軍として厳しく取り締まりを受けていた。
が、目溢しが無い訳では無い。然るべきもの、詰りは賄賂を渡せば良いのである。この当時、朝廷の威信は地に落ち、政治腐敗は極限に有る。至極尤もな事であるが、トップが腐れば末端も其れに倣って腐って行くものだ。中央政府で賄賂がものを言う御時世であれば、当然、こんな一地方都市の出入り口でも賄賂がものを言うのである。
目溢しが有る事で、庶民の暮らしが円滑に為るかどうかは別にして、中には単に賄賂を強請る為に、門を潜る通行人に片端から嫌疑を掛ける者とていただろう。偶々李光達を呼び止めたのは、そんな強欲な者であった。
此処で三人に生活の知恵が有れば、即座に袖の下を忍ばせて危機を回避したろうが、残念ながら、此れまでの経緯から後ろ暗さが手伝い、城郭が有っても横目で見て素通りし、間道を使って関所を回避する旅を続けて来たのでその知恵は無い。事実、故郷を出奔して来た彼等が詮議を受ければ、間違い無く捕縛の憂き目に遭う。
おろおろと途方に暮れる三人と、早く賂を袖の下に忍ばせよと待ち侘びている役人、この光景は、城門を潜る者達の目にはどう見えていただろう。恐らく、風変わりなコントだと思った者が大多数だろう。
相変わらず賄賂を渡せば済む事に気付かない李光は、心底困って視線を泳がせて往来する人々に助けを求めた。張業と王媚も似た様なものである。が、都会ともなれば世間は薄情なもので、困っている人が目に止まっても、見て見ぬふりをしては通り過ぎてしまう。
――神も仏も無いものか……。
と李光は思ったろう。
併し、捨てる神がいれば拾う神がいる。藤色の髪を優雅に靡かせ、迷える子羊の三人の少年の前に、一人の女神が降臨した。
「こんな所に居たのね」
と言うや、さり気無い動きで役人の袖に賂を滑り込ませて、こんな言葉を添えた。
「御免なさいね、この子達は私の知り合いなのよ」
そう言って婦人は優雅な微笑みを浮かべつつ役人に一礼した。更に李光に向き直って言葉を続ける。
「人の言う事を聞かないでふらふらして! 門の外で待ってなさい、て言ったのに……」
「黄女史の知り合いでしたか。其れでしたら、身元が保障されているのも同然ですね」
黄女史と呼ばれた女性は、貰うものを貰ってホクホク顔の役人に向けて再び愛想笑いを浮かべ、李光の掌を取ってさっさとその場を離れた。そして、往来の激しい所で李光の掌を離し、こう言った。
「ボク達は、もう少しだけ上手な世渡りを覚えないと、この先苦労するわよ」
と。彼女にすれば、困った少年達を目に留めたので助けてやった程度で、本の気紛れの様なものなのだろう。尤も、恩を施す者と受ける者では感じ方が違うものなのだ。施した者が大した事では無いと思っていても、受けた者は大恩に感じる場合は少なく無いのだ。勿論、黄女史と呼ばれた女性は、そんな風に為るとは露程にも思ってはいない。
注意とも取れる言葉を与えるや、黄女史は長くて柔らかい髪を翻し、余裕の微笑みを浮かべると共に足早に雑踏に塗れてしまう。二言三言の言葉を交すだけの間も無い、僅かな時間の出来事であった。
「礼を言う暇も有りませんでしたね」
「あゝ……」
二人の少年の呟きは、人の波の織り成す喧騒に塗れてあっと言う間に消えた。
「綺麗な女性でしたねェ……」
声を合わせたその呟きは、間近の王媚の耳朶にも届いたかどうか……。
扨、女性と言えば、成熟した女性には程遠い容姿の王媚しか身近に居ない二人の少年は、何時までも薫る成熟した女性の残り香に呆けた儘であった。勿論、船上の事でも、今回の事でも、どれも此れもが気に入らない王媚に、思いっきり向う脛を蹴り飛ばされたのは言うまでもない。
二人の少年の絶叫が襄陽の大通りに響き渡ったたが、其れも何時しか人の波に呑みこまれて消え去っていた。