・15 壮途
――如何するべきか……
李光の偽らざる気持ちが此れだ。抑々、周家では学識を高めたいと言う思いがあったからこそ往訪を承諾したのだが、周異の言葉は明らかに正鵠を射ている。正しいからこそ李光の心を惑わすのであって、彼自身が此れまでに多くの経験を得たからこそ今があると考えている証である。やはり、経験は、文書だけでは得難い何かを教授してくれるのは事実なのだ。
併し其ればかりを主眼を置くのは危険な事であり、経験の伴わない知識は薄っぺらで説得力に欠けるが、知識が無ければ他人を諭す事すらできないのは事実だ。兎に角、故事を多く知り、其れを引き合いに出して論ずるのは当時の主流であり、学識を求める者としては、やはり文献を重要視しない訳にはいかない。知識を活かすには経験が必要であり、経験を積むには学資が求められる。お互いは相関の立場にあるのだ。
今一つ決めきれずにいた李光であるが、時間が永遠では無い事は承知している。焦燥感に駆られる程に切羽詰っていると言う訳ではないが、人生には何があるか分からないと解かっているだけに、判断は早い方が良いとは考えていた。其れでも容易に決められないのは、李光が双方を求めているからに違いない。
数日が経ち、
「五日ほどで戻る」
と言って周異は廬県へと出かけて行った。
李光は多少の余裕が出来たと胸を撫で下ろしたが、状況は全く変わっていない。相変わらず決める事は出来ず、書庫から借り出した史記の写本を持ち出し、中庭の亭で広げてみたまでは良いが、様々な知識が詰まっている筈の木簡は、単なる文字の羅列にしか見えなかった。
李光の頬を中庭の涼気を纏った微風が撫でた。
元から漫ろであった李光は其れだけで気を乱し、誘われるが儘に天を仰ぐ。瞳が捉えた雲は、風が為すが儘に形を変え、或いは流されていく。
――雲は気侭で良い……
風に身を任せていれば生きて行けるのだから、と自然と溜息を漏らしていた。
そんな時だ。
「きっとあの子がそうだわよ」
と、如何にも場にそぐわない銅鑼声が聞こえて来る。多少の不快感を覚えた李光は、声の正体を見て絶句した。遠目に見ても二人は特徴のある体系であり、一人は肩幅が有ってガッチリとしているし、もう一人は非常に恰幅が良い。そして、共に背の高い所が共通している。其ればかりか、徐々に近付いてきて顔がはっきりと判る様に為り、能々と見れば、貌には白粉を叩いているし、眉や眼を強調する様に輪郭ははっきりとしているばかりか、唇は血で塗れた様に紅を差しているのも共通している。
目が合うとニタッと笑い、脇目も振らずに亭に向かって来る様子に李光は息を呑んだ。
尤も、当の二人は李光の様子などお構いなしなのだ。
「貴方が李少年ね」
と声を掛けてくるも、二人は李光のあやふやな反応を目に入れる事無く、顔を寄せ合う。
「一寸ォ、結構可愛いじゃない。如何するゥ?」
「少し位なら味見しても良いかしら」
と言葉を交し、舌舐めずりをして李光の品定めをしている。が、二人には、周異の客、と言う認識がある為に、当然の様に李光がそっち方面の人間だと言う誤解がある。
其ればかりか、既に及び腰に為っている李光の様子を一顧だにする事無く、突如として現れた二人は断りを入れずに同席するも、二人の行動は其れだけに留まらずに椅子を動かして恐慌状態寸前の少年を挟み込んで腰を落ち着けている。しかも、體を密着させるだけでは飽き足らず、今では不躾に少年の太腿や腰、項と言った所に掌を這わせている。
李光は突然に訪れた恐怖に全身を泡立たせた。余りの恐怖に声を上げる事も出来ず、其ればかりか体は固まってしまったかのように動かず、逃げ出す事も儘ならない。言うなれば、初めて痴漢に遭遇した内気な少女の様だ。只々、今の恐怖の時間が直ぐに過ぎ去れば良いと祈るのが精一杯だ。
李光からの抵抗が無いのを良い事に、二人のおさわりは更に加速し、襟の合わせから掌を差し入れるばかりか、大腿におかれた掌は、今では内股にまで達している。
李光の無反応を余所目に見て、自分に都合の良い解釈を始めた二人は、
――まだまだイケる♡
と、北叟笑んだ。
「ひょっとしてこの子、ワタシに気があるんじゃないかしら」
「莫迦言ってんじゃないわよ。ワタシの方が好きなのよォ」
暫くして一寸した口論が始まっても、二人の掌の動きは休まる事は無かったが、愈々掌が酒の玉にまで差し掛かろうと言った時になってやっと、
「ど、ど、ど、どちら様でしょうか?」
李光は、荒い息と共に何とか声を荒げて二人の手の動きを辞めさせる事に成功する。
二人は、李光の眼前で目を瞬かせてお互いを見合うと、興醒めしたと言った貌を見せ、血の色の唇を開いた。
「名乗らないと言うのも不躾だわね」
「確かにそうだわねェ」
と。尤も、二人が口を開くのと同時に揃って舌なめずりをして見せたのは、事がエスカレートする、と言う伏線であろう。身分を明らかにしさえすれば、あの周異の客人ならば、所詮は同好乃士なのだから、
――悦んで受け入れる筈だ。
と。
其の様子を目の端に捉えた李光には二人の想像の予想が出来た所為か、余りの恐怖に地震いが起きるのではないかと思う程に落ち着きを無くした。
其の様子を余所目に、先ずは太っちょの方が口を開いた。
「ワタシは、姓諱が周昕、字が泰明よ。ヨロシクお願いするわ」
「ワタシは、周魴ね。字は子魚よ。可愛いから特別に、紅樹林、て名も教えとくわ。覚えないと酷いわよ」
「一寸ォ! アンタばっかり狡いじゃない! ワタシは豪華よ。忘れたら、承知しないからな、コノヤロー」
と言うや、李光の頭部を鷲掴みにした豪華が大きな顔を寄せ、李光の頬に血の跡を思わせる唇型の紅の跡を残す。すると、
「アンタこそ勝手に何やってんのよ!」
と言うと、紅樹林も唇を尖らせ、先程とは反対側にくっきりと紅の跡を残した。恐らくだが、二人にすれば手付の証の様なものだったのだろう。
併し、常人と変人とでは認識が違う。解釈が異なる。変人にとっては単なる挨拶だとしても、常人にすれば度し難い行為なのだ。
が、だからと言って現実を受け入れるのは難しいもので、其の行為と同時に李光の心には、消す事の出来ない痕が残った。当然であろう。
――甘女史なら良かったのに……
とは、少年なら図らずも至った想いであろうが、残念ながらそんな余裕がある筈も無いのだ。我慢か恐怖かは定かではないが、遂に李光の限界が訪れた。巨漢の筈の二人を押し退け、幼子の様に涙をボロボロと流しながらその場を逃げ去ったのだ。椅子を蹴飛ばし、卓子を踏み越え、四つん這いに為る程の勢いで駆けたくらいだから、その慌てようと言ったら例えようも無い。
李光は、一刻も早く此の場を、二人の視界から居なくなりたかっただけだ。
「こっちの真名を聞いたんだから、アンタだって名乗りなさいよ!」
直ぐに紅樹林と豪華の罵声が追い掛けて来たが、貞操の危機を乗り越えた李光は懸命に駆けてその声を振り切った。如何もこうも無い、
――周家に居ては危ない。
唯、此の思いを強く抱いただけだった。一刻も速く退散せねば――
と。
翌日、周泰を呼んだ李光の貌は鬼気迫っていた。
「やはり、一ヶ所に止まらずに学資を深めようと思います」
と言うと、訳を問う少女を振り切るようにして周家を飛び出した。来た時と同じ、背嚢を一つ背負っただけの居住いであった。
因みに周昕と周魴は、周異の遠縁に当る。偶にこうやって顔を出すのだが、今回は好物を見付けた所為か、箍が外れた様である。
翌々日、李光の姿が見えない事に気付いた周異は、客人の身の回りの世話を言い付けた筈の周泰を呼んだ。
「李少年は如何したのだ?」
「……其の、学資を高める、と言って出て行ってしまいました」
訳が分からなかっただけに、周泰が口に出来たのは結果としての事実だけである。過程が分かればもう少し引き留めようも有ったろうが、彼女は周昕と周魴の来訪を知らなかったのだ。
唯、遊学を勧めた周異とすれば、
――過程は兎も角、見聞を広める為に遊学に出たのならその方が良い。
と思っただけだ、が、面相は其の想いを曖気にも出さなかった。その代りに、眉間に深く皺を寄せて、怒りを露わにしたのだ。
「私は、李少年の面倒を見よ、と其方に言い付けた筈だが……」
「ですが、出て行かれてしまわれたので……」
上目使いで当主を眺める周泰に言わせれば、いない人間の世話は出来ません、と言いたい訳だが、残念ながら周異は其の期待に応える事が無いばかりか、
「馬鹿者! 面倒を見よ、と言う事は、御預かりした先方の下に帰着するまで行うものだ。其れが、士大夫としての礼儀であろう」
と怒鳴りつける。更には懐に掌を差し入れ、
ズシリ。
と音がする程に中身の詰まった銭入れをの目の前に投げ出すと、キッと彼女を睨んで言葉を続ける。
「此れを持って直ぐに李殿を追い掛けよ。我が家に戻るか、孫太守の元に戻るか迄、此の家の敷居を跨いではならぬ」
と。
黄巾の乱の終結が宣言されたとは言え、其れは飽く迄上辺だけの話だ。寧ろ、帰農した者の少なさを考えれば、中原は偸盗で溢れている筈である。李光が北に向かうか如何かは分からないが、保険を掛けておいた方が良いのだ。多少は問題があったとしても、腕に覚えの有る周泰が共をした方が、李光が生き残る確率は上がるだろう、と考えたのだ。尤も、
――其れを覆す強運の持ち主かもしれぬ。
とは思った。
周泰は、銭入れを掴むとその場から瞬時に消えた。忍者宜しく屋根裏まで飛び退ったのだ。当時の家屋には天井は無く、見上げれば、薄暗い闇の中に梁が縦横に組まれている。その梁を伝って隣室に移動した彼女は華麗に飛び降り、聞き込みをしながら李光の後を追った。
一方の周異は筆を取って書案に向かおうとしたが、
「そう言えば、祝賀の言葉も送ってはいなかったな…… 直接、孫太守に断りを入れた方が良いだろう」
其の方が話は早いと思い直して家僕に馬車の準備をさせる事にした。孫堅の股肱の家臣、韓当と陵操を思いだして顔をだらしなくさせ、
――両手に華も悪くない。
と、翌日を待って長沙へと向かう事にした。
○
周家を飛び出した李光は、当主に挨拶をしなかった事に心苦しさを覚えはしたものの、晴れ渡った五月晴の空の下では其れも長続きがする筈も無く、今では爽やかな空を満喫しながらのんびりと北に向かっている。
南に向かって江水を渡るのも悪くは無いと思ったが、どうせなら未知の土地の方が良いと思った。周異の言葉に従い、見聞を広めるのなら、
――新たな土地に向かうべきだ。
と。其の方が贖罪に為ると言う思いも有った。
先ずは近隣の主要都市、四百里先に有る合肥を目指して歩み始める。足の達者な者なら四・五日と言う所だが、のんびりとした足取りの李光なら、その倍位は掛かるであろう。
合肥は、中級の都市ながらその存在意義は高く、中原では襄城と同様に重要視されている都市で、存在理由は粗同じである。と言う事は、常駐している軍が存在していると言う事であり、西方の要所の襄城に対し、合肥は東方の要所、と言う事だ。
一方の周泰である。彼女は李光の足跡を辿りながらの行脚だった事も有り、遅々として足取りを進める事が出来なかったが、各所で尋ね、有る所で李光が合肥に向かったとの目算を立てると、一気に足を延ばして目的地に先回りをした。
合肥に到着した周泰は、蒋欽と言う者を訊ねた。
蒋欽は元々は九江郡壽春県の人だが、硬骨の父が職業軍人を生業としていた為に、黄巾の乱の勃発を契機に家族共々父が勤める合肥へと移住してきている。唯、当時は戸籍の変更が難しかった為に、近隣の有力者の周異の力を借りており、其の時に周泰と蒋欽は出会い、同姓で歳の頃が近かったお蔭で昵懇と為った。
もう少し蒋欽に付いて説明すれば、彼女は父を尊敬している所為か、軍人として身を立てたいと言う思いがある。
周泰は再会の喜びも早々に切り上げ、
「李光と言う人を探しています」
と言い、身形と特徴を口にした。
蒋欽は首を捻ったが、
「旅人なら、飯店をあたった方が早い」
と言い、連立って人混みに姿を消した。
扨、中級の都市と言っても、少女に毛の生えた程度の歳の二人にとっては途轍もなく広い都市と言って良い。おまけに要所であるが故に人の往来は激しく、宿と為る飯店は、大小合わせて数多ある。二人居れば二手に分かれるのと言う手段はあるが、合肥が不慣れな周泰と別れ、木乃伊取りが木乃伊ならぬ、迷子探しが迷子に為っては手間が二重に増える事に為りえない。蒋欽は、其処で一計を案じた。
「私の知り合いに陳武と言う者が居るから、そいつにも手伝って貰おう」
と。
因みに蒋欽と陳武は同じ境遇で、やはり年齢が近い事から昵懇となった。
友達の友達は皆友達だ、とい言葉が当時で流行していよう筈が無い。だが、そう言った気風は有ったろう。周泰と陳武は、蒋欽と言う共通の友を介して直ぐに打ち解けている。
探して手が三人に為った事で、一気に効率が上がった。半日を駆けて合肥中を駆けずり回ったものの、収穫は無かった。唯、李光が合肥には到着していない、と言う事が事実と為り、周泰は一息を突いた。
蒋欽の世話で一夜を明かし、周泰はのんびりと城門で李光を待ち構えている。其の日の夕刻に為って李光が現れたのは、彼女にすれば案の定の事であった。
寧ろ、目を真ん丸している李光の双眸は新鮮であった。
「……周小姐、何故、此処に?」
「私は、李先生の御世話を言い遣っていますので」
南西にある舒県方向に振り向いた李光は頭を下げ、周異へ感謝を顕わにした。
門衛に心付けを渡し、李光と周泰は誰憚る事無く連れだって合肥に足を踏み入れた。
「所で、李先生はこれからどこに向かおうと?」
「先ずは、徐州を通って河北に向かおうか、と。兗州や豫洲は黄巾の乱の戦禍に見舞われて、未だ収まっていないでしょうが、徐州はそうは騒がしくないと聞いています」
応えた李光であったが、視線は街中を彷徨わせている。言うなれば、何かを探しているのだ。
「とは言え、先ずは寝床の確保です」
「其れでしたら御心配なく、わたしの友で蒋欽と言う者がこの街に住んでいて、既に話が付いています」
言葉で制した周泰は、先に立って案内を始める。
その一方で蒋欽は、陳武を訪ねて何やらと談義をしていた。話を終えた二人は、にんまりと北叟笑んだ。
蒋欽の家は街外れに有る。庭園を有する様な豪華な作りではないが、数人の親子が家僕と共に暮らすには充分過ぎる広さが有る。
周泰が戻ると、蒋欽は直ぐに迎えに出た。
「今日の夕餉は豪華だぞ。なんせ、親父に頼んで陳武の家族も呼んでもらったからな」
と言うや、視線を李光に向けて、ピョコンと一礼する。
「蒋欽です。公奕とお呼び下さい。末永くお見知りおきを」
貌を上げ、この言葉を口にした時の貌に李光は妙に引っ掛かった。如何見ても何かを企んでいる、如何にも悪戯っ子の其れであった。
一時程して陳武親子が現れた。
当然ではあるが、李光にも夕餉は振舞われ、其の時に陳武の父母が挨拶をし、最期に口を開いた彼女の表情は、錯覚を覚える程に蒋欽に似ている。否、顔の造りが似ていると言う事は無いが、表情が全く同じなのだ。印象として、瓜二つと言う事だ。
「陳武です。子烈とお呼び下さい。末永くお見知りおきを」
と。
夕餉は厳かに始まった。豪勢な山海の珍味と言う事は無いが、南方に位置する合肥は自然に恵まれていて、普通の食事であっても北方の其れと比べれば、格段に豪勢だ。しかも、蒋家の料理人の腕は良く、箸を止める時間すら勿体無く感じる程に美味であった。
食と酒が進めば自然と会話は進み、何時の間にか興味の矛先は李光に移りつつあった。そんな時を見計らって蒋欽が口を開いたのだ。相貌は、始めて挨拶をした時のあの顔だ。
「李先生は、何故、合肥に?」
と、こんな具合である。
「研鑽を深めようと……」
美味い酒と食事で上機嫌に為った李光は、先程に引掛かった二人の少女の貌も忘れて会話も楽しんでいる。
「周大人も進めてくれましたが、やはり経験を重ねるのは大事だと考えます。其処で、各地を回って見識を深めようと思います」
この言葉を放った時、蒋欽と陳武の瞳が光った。が、其れには誰も気付かなかった。当然ながら李光も気付かず、相変わらず喋り続けてる。
「既に、豫州の潁川郡付近は訊ねたので、今度は徐州から河北に向かおうかと思っています。見た事の無い世界を知れば、得難い経験と為りましょう」
と言うと、蒋欽や陳武の父母は、
「経験は若い内に積むものだ」
と、李光を褒めそやす。
此の会話の行方は、瞳を光らせる二人の少女にとっては如何であったろうか。
その後も会話は続き、李光は此れまでの経験を掻い摘んで面白おかしく話し、蒋欽と陳武の父母は手を叩いて喜んだ。娯楽の少ない時代だけに、李光の話は漫談の様に聞こえたのだ。
食事が終わっても李光の話は尽きる事無く、春宵の織り成す薄闇は、あっと言う間に朧月夜に変わった。
翌朝、李光は蒋欽の父母に暇を乞うた。
「もう二・三日は……」
別れを惜しむ父母に丁寧に頭を下げ、蒋家を後にする。蒋欽が別れの挨拶に出て来なかった事を寂しく思いつつ、周泰は李光の背を追った。
合肥の城門を潜り、もう二時が経つ。
別れの挨拶が出来なかった寂しさが有るものの、未知の旅に立ち向かうに所為か、周泰の心も次第に高揚し始める様に為った。
――別れが友との間を引き裂く訳ではない。
と思えば、尚更に心は軽くなる。が、その心を再び引き戻す声が響いた。
「待てよー、幼平」
と。
振り向けば、蒋欽と陳武である。二人が旅装を整えている事に訝った周泰だったが、別れの言葉を残せなかった悔恨が有った所為か、振り向いて迎えて蒋欽の掌を取った。
「別れの言葉も告げられないのかと思いました」
と。
が、当の二人は貌を見合わせて昨夜の相貌に為った。
「何を言ってるんだ? 別れないんだから、そんな言葉は必要ないだろ」
「其れって……、如何言う意味ですか?」
「此れからは旅の友、て事だよ」
と言うや、豆鉄砲を食らっている鳩の様な周泰を置き去りにして、今度は目を瞬かせている李光の前に来るなり、二人は大きく頭を下げた。
「李先生、お聞きの通りです。此れからは宜しくお願いします」
と。
蒋欽と陳武は、周泰が李光を迎えている時に密会し、如何すれば付いて行けるかを話し合った。共に父を尊敬し、何れは追い付き、更には追い越して武家として身を立てたいと願っている。その為には父の指南では足りず、厳しい環境に身を置くべきだと言う結論に達したのだ。
その時に現れたのが李光であり、後の説明は必要あるまい。
扨、李光は昨晩の蒋家での会話を思い出していた。褒められる心算は毛頭なかったが、やはり厳しい環境を経験してきた李光を、二人の親は絶賛している。他人の李光なら研鑽を重ねてるために、危険を顧みずに遊学の身に為るのは良いが、
「娘は別だ」
とは、武家だけに難しかったのだ。両親は渋々と肯いたのだ。
――詰り、私が二人の遊歴の後押しをしてしまった、と言う事か……
と思い当たるとがっくりと肩を落とす。
唯、喜んで掌を取り合っている三人の少女を見れば、
――其れも悪くは無いだろう……
と、余計な苦労を二つも背負い込んだ事で頭痛を訴える頭を抱えるしかない。染み一つ無い青空と、申し訳なさそうな周泰の眼差しが李光に優しかった。
合肥の城郭は、もう豆粒の様に小さく為っていた。




