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飛湍の中  作者: GOLDMUND
15/22

・14 幻惑

水天髣髴(ほうふつ)、荊州の春を表す言葉として、これ程までに的を射ているものはあるまい。この言葉は北宋に生きた蘇軾(そしょく)の詩の一説に使われていて、本来なら此の後には青一髪と続く。唯、この詩は荊州で詠まれた山水詩では無く、江水の河口付近であろうし、時代は遥かに後世である。

 船上に身を置く李光に瞳に映る景色は正にこの詩の通りで、広い洞庭湖と霞が掛かった春の青空は、遥か彼方の水際の辺りが判然とせずにぼんやりとしていて、壮大な景色を詠ったこの詩の通りであったろう。

 李光の脳裏にこの様な詩の一節が浮かばなかったのは、やはり彼には詩歌を嗜む心が無かったからだろう。

 唯、景色が判然としないのは春の霞に依る所も有ったろうが、やはり李光の心情に依る所が大きい。後悔はすまいと心に決めても、心と頭の足並みは全く揃わないものなのだ。

 憂苦の種であった張業の事は強引であっても解決した、揚州の周家に向かう事も納得している筈なのだ。にも拘らず、心に迷いがあるのは、そして胸裡に後悔の念が沸き立つのは、間違い無く錦帆賊の事があるからだ。放出された原因は李光に有り、その事は頭では理解しているし、仕方がない事と納得はしている。が、受けた恩が大きいだけに物事を途中で投げ出した、と言う後悔は、頭では割り切っても受け入れる事が難しいのだ。

 たった一言でも良い、甘寧に思いの丈を、李光の本心を吐露したかった。が、其れも叶わなくなった。後悔は、李光の胸裡にしこりとして残された儘だ。

 湖面に反射する採光が漣に依って乱される様子を眺める李光は、心此処に有らずと言った様子だ。江湖に忘れ物をしてしまった所為か、ぼんやりと水景を眺めて気を紛らわせていた。景色は李光の心の思いを知る筈は無く、時刻によって様々な姿に情景を変えるが、どれも溜息が出るほどに美しく、李光の感傷をかまってくれる筈は無い。

 何時まで経っても美しい情景を見せられ続けている李光の瞳は、寧ろ物憂げになっていた。

 ――何故、私の心を察してくれぬのだ……

 と。

 其の時だ。思念に耽っていた李光は気付かなかったが、ぼんやりと眺めていた景色とは反対側に、此のうららかな陽気とは真逆の暴悪な、と言うよりは人が近寄る事を嫌うと表現した方が良かろうか、寧ろ、敢えて孤高と言った方が良く似合う船艇が並走する。

 其の事に李光が気付いたのは、他の乗客が悲鳴にも近い声を上げ、大騒ぎを始めた時だ。理子はやっと首を巡らせて周囲を見回した。李光とは反対の船べりに、商船よりも一回り大きな艦船が近づいてくる。

 遂に手を伸ばせば届きそうな距離に為ると次々に船縁に鳶口が掛けられ、二艘の船は一体に為って並走する様に為った。此のやり口から見れば、当然の事ながら水賊である。

 軈て、どやどやと水賊が乗船を始めると、多くの乗客は恐れて逃げ惑い、水賊船との距離を取ろうと逆側に密集した。一般の客たちは恐慌状態に陥ったが、李光は馴染親しんだ顔を数多く見て、微笑みさえ浮かべて自分から近付いていた。

「御無沙汰をしております。御健勝そうで何よりです」

 拝礼して常套句を口にする李光を見止めた水賊達は、忽ちばつ(・・)が悪く為ったのか、敢えて強面を作り出して怒声を上げる。きっと、一寸位は怖がる素振りを見せれば可愛げがあると思ったに違いない。其れは、口から飛び出した言葉を聞けば分かる。

「馬鹿野郎! 俺達は、水賊だぞ。一寸は怖がってくれねェと、他の客に示し(・・)が付かねェじゃねェか!」

「其れは気付かず、失礼をしました。では、改めまして」

 と大袈裟に応じた李光は、掌を胸の前で組み合わせると膝を折って命乞いをする姿勢を見せ、更には子羊の様に震えて見せる。

「如何か命だけは……」

「もういい!」

 大袈裟な李光の演技を遮ったのは、やはり真先に乗り込んで強面を作った男だ。相変わらずばつが悪そうだが、その質は明らかに別なものへと変わっている。恐らく、恥ずかしく為ったのだ。

 其の様子を見た李光は再び立ち上がり、懐かしさを笑顔に替えた。

 軈て、水賊の群を搔き分ける様に、一層大柄な男が李光の前に立ちはだかる。甘寧の片腕、錦帆賊の副長だ。彼は、比較的長身の李光よりも頭一つは大きく、腕は女性の胴囲は有ろうかと言う程に太い。更には、その腕の先に有る掌は、拳を作れば小柄の女性の頭部ほどは有ろう。

 その掌を李光の頭に置くと、乱暴に撫でまわした。

(おとこ)(つら)に為って来たな」

 其の言葉と共に、目尻に皺を寄せる。其の皺には優しさが宿っている。此の男は、李光を気に入っている。否、気に入っているのは李光だけでは無く、張業も王媚も気に入っているのだ。此の男は、王媚の死を人知れずに悲しんだのは想像に難くない。

 李光にすれば、此の男には恩義しかない。海内で生きる為の道理を教えてくれたのは、間違い無く此の男に依るものが大きい。大きな掌が乗せられていたからでは無く、李光の頭は、此れまでの恩義の大きさに自然と深く下がっていた。此の男への感謝は、頭を下げるだけで言い表せる程に小さくは無いが、心が伴っているかどうかの方が問題だと思った。だから、李光の頭は何時までも上がる事が無かったのだ。

 どれ程の時間をそうしていたろうか、指折りでもして数えてみれば大した時間では無い事が分かったろう。が、其れに感けている事は出来ず、李光はもう一人の重要人物を思い起こす。勿論、甘寧の事だ。彼女にも、副長と同様以上の恩義がある。

 そう思った途端、李光は発条仕掛けの人形のように頭を上げて副長の掌を撥ね退けて甘寧の姿を探す。きょろきょろと彷徨う李光の視線は、彼を取り囲んでいる水賊達の群を搔き分け、其処彼処へと向けられた。軈て視線が接舷している船に向けられる。

 ――居た。

 甘寧は、船上での何時もの場所に何時もと同じ恰好であった。李光との視線が交わった時、ほんの少しだけ口端が上がった様に見えたのは、彼の見間違いではない。感情の起伏が少なく、其れが表情に為って現れないので心情を察するのは難しいが、李光が自分の進路を自分で決めた事を悦んでいる様に思える。否、足踏みをしていない事だろうか。

 希望が多分に混じっているだろうが、其れを見た瞬間に、彼は甘寧の下へと駆け出していた。

 甘寧と対峙しても、心中に積もる思いを言葉に出来た訳ではない。有り余る感謝も、度重なる謝罪も、言葉だけで済ませる程に小さなものではないのだ。甘寧に気持ちを伝えるのに、如何すれば良いのか分からない李光は、勢いに身を任せていた。衆目の前であるにも拘らず、自然と甘寧を抱きすくめていた。

「おォッ?!」

 水賊達から沸き上がったどよめきも関係無い。好奇の眼差しも全く気に為らなかった。李光は、単に感謝の気持ちを伝えているだけなのだ。

 併し、甘寧にすれば、そうではない。江湖では、

「泣く子も黙る甘寧」

 と言われて江湖の風を肩で切って来たのだ。錦帆賊を主宰し、頭領を続けて来た事は伊達ではないのだ。何時までも年下の孺子の為すが儘にされている訳には行かないが、体格では有に優る李光の抱擁を解く事は出来ず、もどかしげに躰を動かす事しか出来ずにいる。余りの体裁の悪さに、珍しく甘寧の顔色も変わり気味であった。

 但し、その時間が長かった訳ではない。別に甘寧が憤っていた事を悟って気を使った訳では無く、単に李光が思いの丈が伝わったと満足したに過ぎない。甘寧を開放した李光は、一歩下がって深々と一礼をした。そして直ぐに商船へと戻った。

 甘寧は其の様子を見詰め、やはり口端を上げたに過ぎず、何の報復も無かった。と言うよりは、爽やかな李光の顔を見て毒気を抜かれたのだ。やはり甘寧も、李光を可愛がっていたのだ。

 肩を敲いたり背中を敲いたりと、水賊達がなぜ囃し立てて来るのか、大それた事をした心算の無い李光には理解出来なかったが、最期に副長がもう一度立ちはだかった。

「孺子、此れからお前が何をしたいのかは俺には分かんねェが、上手くいかなかったら又、やり直せばいい。お前は若いんだから、何度でもやり直せるんだぞ。傷付いた心を癒したいのなら江湖に戻って来い。お前はもう錦帆賊じゃあねェが、俺達の家族である事はだけは違わねェ。其れだけは忘れるなよ」

 副長は肩を軽く叩いて居るべき所へと戻って行った。

 ――何時でも戻って来い。

 と励まされた気がした。

 取り残された訳ではない。置いてけぼりをくらわせている訳ではない。この世界はどこもかしこもつながっているのだ、と聞こえた。

 逃げるのではなく、戻る場所がある心強さは、何事にも勝る勇気を与えられてように感じた。特に、故郷を失った李光には、格別の言葉であった。

 軈て鳶口が外され、錦帆賊の船は離れていく。李光は名残惜し気に其の様子を眺めていたが、甘寧は未練を残す事無く、舳のその先だけを見詰めていて、李光を一寸も見ようとしなかった。

 李光は最後に又、何かを教えられた気持に為った。


 一方、錦帆賊である。

 副長は、何時もの様に頭領である甘寧の横に立った。そして、全く視線を動かさずに口を開いたのだ。

「あっしゃァね、……悪くねェと思うんですよ。(あね)さんは、如何見ても美人の部類だ。豪華なおべべでも身に着けりゃあ、そりゃあ輝きが変わるってもんだ。そこいらの町娘なんざァ、皆、裸足で逃げ出すに決まってまさァ。その姐さんが添い遂げるのが孺……」

(子ってのも、悪い話じゃねェと思うですよ)

 と続く筈であった。

 併し、其の言葉は最後まで実を結ぶ事は無く、甘寧の耳朶にも心にも届かなかった。巨大な風船でも破裂したかの様な音と共に喋っていた筈の副長は忽然と姿を消し、その直後、滑らかな水面には巨大な水柱が上がっていた。

 今更書き記す必要があるか如何かは不明だが、甘寧が、全てが語られる前に蹴り飛ばしていたからに相違ない。唯、その甘寧の頬が、僅かに色づいていたのは注視する点だ。

 が、直後に付随する艦船に副長が回収されている様子を横目に眺める甘寧の顔色は、もう、何時もと同じに戻っていた。副長が余計な事を言ったと思って笑い飛ばしていた水夫(かこ)達は、甘寧の変化には全く気付いていなかった。

 甘寧はまた、舳のその先だけに視線を投げ掛けていた。

 荊州の春の空は、何時もと同じ様に霞が掛かって遥か彼方の水際と判然としていなかった。


     ○


 李光を乗せた商船が廬江郡舒県に程近い安慶県に到着したのは、羅県を出港してから七日目の事だ。其処からは徒歩による移動だが、舒県は巣湖の南西に有り、大別山脈の南東の麓あたりで、安慶からは百里ほどの距離だ。足の達者な者なら一日で到着する。

 廬江郡舒県は、周家があるから人の口の端に上る様な行政区分で、基本的には鄙びている。官位で言っても八品官が領する県なので小規模であり、行政区分内の住民は一万人には達していないだろう。

 扨、陽が高い内に舒県に到着した李光は、当然の様に城門を潜らなかった。士大夫の多くは城郭に居を構えず、一族や僕人で一つの邑を形成している事が多く、周家も御多分に漏れずにその形態をとっているからだ。舒県から周家までは近く、一(とき)程であった。

 訪ないを入れた李光は直ぐに屋敷内に通されたが、挨拶は翌日を待ってからと言う事に為った。本来なら、何を置いても当主に挨拶を済ませるのが礼節であるが、旅の疲れも有り、この申し出は実に有難いものだと感じていた。

 柔らかな臥所に身を横たえると、李光は直ぐに夢の世界へと誘われた。


 寝苦しさを感じたのは何時頃からだろうか。泥の様に眠っていた李光は鶏鳴にも気付かなかったのだからはっきりとした事が判る筈は無いが、瞼を刺激する朝日がうっとおしく感じる様に為った頃には妙な気配を感じていたのだ。が、疲れから来る気怠さの方が強く、躰を休めていたいと言う欲求には抗えずにいる。

 併し、ねめつけて来る様な空気に次第に不快感を覚えた李光は、意を決して瞼を開けた。室内が旭日に支配されていた所為か、李光の目が眩んで視界の全てが白一色に為る。ようやっと周囲の明るさに慣れて視界が戻って来たのは、閉じようとする瞼を強引に押し開けようと細目に為っていた時だ。

 未だ頼りない光景しか映し出されない瞳が見たものは、有り得ない光景であった。否、認めたくないと言った方が正解かも知れない。手を伸ばせば届きそうな所、極々間近に誰かが横たわっている。

 ――何故、男が?!

 李光は気怠さも忘れて飛び起きた。余りに急な動作だったせいか、足腰が付いて行かずに尻餅を突いてエンコ座りに為った。視界がはっきりとすると、実態が明らかに為る。李光が横たわっていた臥所に、歳の頃は知命を疾くに過ぎているか、ないしは間も無く耳順を迎え様かと言う年齢の、否、老齢と言った方が良い男が横たわっている。

 にっこりとほほ笑んでくる様子に言い知れない恐怖を覚えた李光は、尻餅を突いた儘で後退りを始めたが、其れも直ぐに壁に阻まれて、今では膝を抱えてでも男から遠ざかろうとしている。

 李光の行為に多少は傷ついたのか、溜息を交えた男は其の様子を眺めながら上体を起こすと、凝と李光を見詰めた。そして、

「其処まで驚かずとも好いではないか……」

と言うと、よよと泣き崩れる。御丁寧に袂で貌を覆い隠す素方には全く可憐さが見られず、寧ろ気色が悪い。

 但し、この場合は李光の方が正しい。何処の誰とも知らない男が臥所に潜り込んでくれば、腰を抜かすほど驚くに決まっている。敢えて継ぎ足せば、李光が直ぐに暴力に訴える人間でなくて良かったのは、此の男にとっては僥倖でもある。

 一方の李光は、苦情も文句も有り過ぎたが故に其れが言葉には為らなかった。パクパクと口を開けはするが、水面に顔を出した鯉の様に口唇の開閉を繰り返すしか出来ない。

 其の様子を見た男は朗笑した。

「ハ、ハ、ハ、…… 此れは単なる冗談だ。此処までとは思わなんだが、驚かせて済まぬ」

 と、たいして悪びれた風も無い。

「実は、李少年を起しに来たのだが、余りにも気持ち良さ気に寝息を立てておったのでな…… 此処の臥所の方が寝心地が良いのかと試してみたのだ。が、残念ながら、儂の臥所とそうは変わらなかった。如何やら儂の眠りが浅いのは、歳の所為のようだ。年寄の茶目気と思って、許せよ」

 と。

 李光は唖然としたが、其れで怒りが収まった訳ではない。くだらない事とは言え、訳を知れば余計に腹立たしい。今度こそ文句を並び立ててやろうと意気込んだ。

 が、この意気込みは空振りに終わる。男が畳み掛けるように口を開いたのだ。

「先にも言ったが、儂は李少年を起しに来たのだ。間も無く朝餉で、我が家では食事は皆が揃ってから食すものと決まっている。旅の疲れは有ろうが、そういう時こそ普段と同様の生活を心掛けた方が、疲れが抜けるのが早くなるのだ」

 と言うと、豊齢線と目尻の皺を深くして李光に微笑み掛けた。

「急いで着替えて、広間まで来ると良い」

 其の言葉を残すと、男はツイと踵を返して女性の様な科の有る後ろ姿を見せ、腰を左右に揺すりながら李光の目の前から立ち去った。

 李光は、唖然とした儘で取り残されたが、軈てモソモソと起き上がると着替えを始めた。


 半刻は待たせなかったろう。

 李光が広間に顔を出すと、其処には二十人以上の人間が向かい合う様に座っていて、その前には膳が整えある。

「李少年の膳は此方に用意してある」

 上座に程近い所に主の居ない膳が有って、其処を指しての言葉を掛けた声の主を見て、李光は唖然とした。当然の事ながら、臥所に忍び込んでいた老爺だったからだ。同時に彼が上座に鎮座している所から考えれば、当然ながら彼が当主であると分かるが、朝の奇行を周家の当主が行ったのかと思うと、頭を抱え込みたくなる衝動を抑える方に苦労をした。

 李光が食膳の前に腰を落ち着けると、直ぐに周異に依って紹介がされる。

 李光は促される儘に皆に一礼した。

「李光です。若輩者ゆえ、ものの道理を弁えませぬ。宜しく御教導の程を賜りたく存じます」

 頬笑みを湛えた儘の周異は満足そうに肯き、次いで一人の者の名を呼んだ。

「泰」

 と。

 すると、李光の直ぐ右隣の少女が顔を上げる。小柄だが、長く黒い髪が美しい。瞳は大きく、鋭いと言うよりは寧ろ、愛嬌の方を強く感じるだけに、穏やかな性格なのだろう、と思った。

 李光へと膝を向けた少女は、丁寧に辞儀をして口を開いた。

「周泰です。お困りの事が御座いましたら、何なりとお申し付け下さい」

「李光です。御迷惑を掛けるやもしれませんが、宜しくお願いします」

 やはり、二人が頭を下げ合う様子を微笑んで眺めていた周異であったが、其れが済んだと思うと、

「其れでは食事を頂く事にしよう」

 と締めくくった。

 軈て食事は終わり、下座で粗食を繰り返していた者達が立ち上がると、広間は慌ただしさを帯びる。李光も其れに倣って立ち上がろうとしたが、

「李少年には話がある故、暫し待たれよ」

 と、周異が呼び止めた。

 

 広大な周家の中庭は、山水が豊かな事が自慢の種であり、訪れた客人を案内すれば、必ず感嘆の声を上げ、中には涙する者もいる程に美しい。

 李光と周異、二人の姿はこの中庭へと移っていた。

 唯、残念ながら客人の李光は中庭の壮麗さに感嘆声を上げるどころか、能々様子を見れば、二人は掌を繋いでいるのだが、其々の表情を注視すれば、心境の違いは一目瞭然であろう。嬉々と弾む足取りの周異に対し、李光には明らかに戸惑いがあり、足を引き摺っている。何への戸惑いなのかは敢えて書き記す迄も無いだろうが、少なくとも中庭に目を奪われる様な心の余裕はなかった。

 中庭を散策していた二人は、軈て樹木に覆われた場所に有る(ちん)へ腰を落ち着けている。庭園の中央に有る池を渡った微風が騒がせる葉擦れの音が耳朶に心地良く、枝葉の合間を縫って卓子に落す採光は、枝葉の動きによって常に形や色を変えて面白い。

 緊張していた李光の心は、此の自然が織り成す悪戯に和みさえも感じる様に落ち着く様に為っていた。

 周異は、其の時を待っていたのだろう。

「李少年は、何故、水賊に身を置いていたのかな?」

 孫策の依頼で周瑜は此の事を調べていたが、最終的には此の周異の名を出さねば動いて貰えない事は多々あったろう。李光の事は自然と周異の耳朶にも届いていたし、周瑜や孫策から伝え聞いた李光の為人(ひととなり)からは、水賊とは結びつかないと感じていたのだろう。

 孫堅からの依頼ばかりではなく、興味があったから李光の面倒を見ても良いと思ったし、場合に依っては縁者と為っても良いと思った。

 唯、一介の少年の事を知ろうと思えば容易な事では無いのは当たり前で、表面上の事は行動を追いさえすれば知る事が出来ても、その胸裡までをも見透かす事が出来る筈が無いのだ。

 李光にすれば、水賊に身を置く決心を語るには、生い立ちから話さねばならない。詰りは、彼が逃戸を犯して罪人である事も語らねばならないし、無宿人である事も語らねばならない。

 唯、周異の為人は如何であれ、周家と言う大家を取仕切っているのなら、その事実を知ったとしても、行き成り役人に付き出す事は無いだろうし、良い知恵を授けてくれるかもしれないと思えば、

 ――やはり話すべきだろう。

 と李光は思ったし、此れから世話に為るのに黙秘するのは誠意が足りない事だと思った。

 李光は生い立ちから話し始めたが、周異は直ぐに話の腰を折った。

「……襄城の李家の縁でしたか」

 絞り出す様な声を上げた周異の相貌は、苦渋に歪んでいた。

 李光とは直接の面識はないにせよ、彼の義父である李膺は、年齢は違えど周異と同年代を生きた人である。しかも、李膺が河南尹であった時に周異は雒陽県令であった。太守と令は、役職上での直接の上下関係と言う訳は無いが、密接な関わり合いがある事は確かだ。

 李膺とは何度となく意見を言い交しているし、二人の施政方針は似通っていた。李膺は硬骨とも言える志士ではあったが、其れだけに意志も強く、道理を重んじていた。だからこそ、尊敬もしていたのだ。

 獄死したと聞いた時には、随分と悲しみもしたし、この国の行末を按じたものだ。国の将来を考えれば、義士が居なくなって漢奸ばかりに為れば、先が見えたのと同じだ。光り輝く未来など有る筈が無いのだ。

 併し、周異は其の事を告げる事が出来なかった。

 彼とて清流派と言われる派閥を構成する士大夫の一員ではあったが、若い事も有り、其れだけに拘る事が出来なかった。一族の未来を棒に振る事が出来なかったのだ。党錮の禁と言われる弾圧が始まった時に、周異は身の危険を感じて真先に韜晦したのだ。家族の事を思えば、間違った判断では無いと今でも思うが、決して正しい事とは思えない。盛年の頃であり、朝廟にも自身にも失望した周異は、其れからは官職に付かなかった。致仕を待つ事無く下野したのだ。

 そして、弾圧を受けた者達が正しいと思いながらも彼等に協力が出来なかった、加えて行動を起こせなかった自分をもどかしいと感じていただけに、目の前の少年に畏怖を覚えたのだ。

 ――真実を知った時、此の少年は如何思うだろうか……

 と。

 が、其れと同時に此の少年が水賊に身を窶した訳が益々と分からなくなった。錦帆賊で彼が心を砕いていた事を考えれば、単に水賊家業を好んだから身を投じた訳ではないのだ。義父の功績とて知っているだろうし、誇らしく感じていよう。だからこそ秩序から逸脱した水賊と言う存在に身を投じた其の訳を、

 ――知りたい。

 と。

 周異の呟きに、李光は僅かに言葉を止めたが、彼が再び押し黙ったのを機に話を再開している。その中には、李光が水賊に身を染めようと思った経緯も心構えも全て語られていた。

 ――壮絶な人生だ……

 口を閉じた李光への正直な感想が此れだ。とても二十歳やそこいらの年齢の少年が歩んできた人生とは思えない。各所に幸運がちりばめられてはいるが、逆に言えば、壮絶だからこそ、幸運と言う運命が味方をしているのだ。

 が、其れ以上に羨ましいと思ったのは、此れだけの苦難を乗り越える機知を養える機会を得た事だ。此処までとは言わないが、我子にもそう言った経験を得る機会が有れば良いと思うのだ。

 其の事を常に思う周異は、好きで男色家を通している訳ではない。無論、今では若くて可愛らしい男の子が、嫌い、と言う訳ではない。寧ろ、演じていたと言い換えた方が正しいだろうが、其れで多少は目覚めてもいる。但し、人並みに妻も娘も愛しているのだ。でなければ、やはり子供は設けず、継子なり養子なりで解決を図ったろう。

 話を戻し、但し此れは、海内の仕組みが大きく関係している。年齢というものには別称があり、一例を上げれば、十五歳は志学、二十歳は弱冠、三十歳は而立、四十歳は不惑と言うものだ。字を見れば分かるが、而立とは、即ち自立の事である。学問が具わる事で世に立つ事が出来る年齢と言う意味になる。詰り、裏を返せば、其れまでは一族の庇護下に有ると言う意味だ。

 併し、周異は此れでは良くないと感じていた。世に出るのは早いに越した事はないと考えているが、親が子を追い出すのでは世間から誹りを受ける。士大夫は人々を教導する立場であるが故に、人の手本に為る事を実践しなければならない。もっと都会ならば適齢を待たずに経験を積ませる事が出来たろうが、片田舎の舒県では其れが難しかった。

 本を読みたければ何処ででも読めるし、学ぼうと思えば其れは何時でも良いのだ。併し、年老いてからでは積めない経験は多いのだ。どんなに深い知識を持っていようが、経験が伴わねば活かせないのだ。其ればかりか、経験が有れば、知識が無くとも的確な判断が出来る。

 人に必要なものとは、経験に勝るものは無いと考えているのだ。

 だからこそ、周瑜が父親を嫌って外界に目を向ける様に為れば良いと思ったのだ。自由奔放な性格の孫策と言う友人が出来たのも僥倖であった。甲斐あって周瑜は外で過ごす事の方が多くなり、周異の狙い通りに数多の経験を重ねる様に為った。

 併し、時が悪かった。黄巾の動乱が激しく、流石に一粒種の周瑜を野放図にさせて置く事は出来なかった。何かの予兆が有れば直ぐに呼び戻したし、向かうべき方向を限定させたりした。

 が、この配慮は結果的には裏目に出た。李光と比べれば、経験値が圧倒的に足りないと言わざるを得ない。抑々、そんな経験をしてきたからこそ、江湖に秩序を齎しないと言う大それた希望を抱く事が出来たのだ。

 謂わば、王の器、王の所業だ。若しくは大悪党の其れかもしれない。唯、李光が並の器では無い事だけは確かだ。

 李光と言う少年を見せられ、周異は此れまでを後悔した。だからと言って、李光の足を引っ張ろうとは思わなかったのは、周瑜が並々ならぬ茂才だと思っているからだ。

「はっきりと断言は出来ませんが、李少年が我が家で学ぶ事は何一つないかもしれません。寧ろ、遊学を重ねて見識を深めた方が良いかもしれません。勿論、此の家に留まってくれても構いませんが、私としてはお奨め出来ません。孫太守へは私が口添えします故、今後の事は、確りと考えて決断すると宜しい」

 周異はこの言葉を残して亭から去った。

 李光は突然の周異の言葉に戸惑っていた。孫堅の要請に依り、此の家で李光を養育する事は了承済みの筈である。其れが何故、

 ――掌を返した様な言葉を口にしたのか?

 と。

 去り行く周異の背中は何一つ語ってはくれなかった。哀愁を帯びたその背は、今朝に見せた背とは全く違っていた。


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