・13 転機
色々な事情はありましたが、怠けていた事をお詫びしつつも投稿に至りました。実に二年ぶりですが、果たして読んで頂けるのか、心配で仕方が有りません。其ればかりか書き方を忘れていたり、設定を忘れていたりと、今回はリハビリと思って頂ければ幸いです。
李光は、大凡拉致されるような格好で本拠を長沙に移した。とは言っても、羅県で缶詰に為って孫家軍に与している訳ではないし、此れまでと生活の様相が変わった訳ではない。当然の事ながら、孫堅は李光を監視下に置きたかっただけだし、程普を始めとする彼女の臣下は、孺子である李光の賛助が無くとも、遅滞なく治世を全うするだけの実力があるのだ。
其れはそうと、抑々李光の職は当時で言えば何でも屋と言って差支えは無いが、今で言う所の行政書士に類似したもので、其れに弁護士が行う仕事の一部分がまざっている様なものだ。
詰りは、人々が必要とする彼への陳情の代筆の要請は、依然と全く変わらずに江水を渡って何処からでもやって来ると言う事だし、代筆に当たって現状の見分が必要なら、彼自身が舟に乗って現地に赴き、陳情を依頼した人と直接に意見を交し合うと言う事だ。
太守と為った孫堅が、民に必要とされる李光と言う存在を、民達から取り上げてしまう筈が無いのだ。当然、李光もその事は弁えている。結局、役府に身を置いていては客が訪れ難いと感じた事から仕事への支障を嫌い、李光は郡都と為る羅県の県城には身を置かず、城郭からは程近い邑に一軒家を借りて其処で此れまでと同様の仕事に勤しんでいる。
扨、李光の暮らしぶりが変わらなければ、此の人の其れも変わる事は無い。やはり、孫策は日を開けずに李光の下を訪れる日々を続けている。そして飽きもせず、同じ言葉を口にするのだ。
「この長沙に孫家有りと人々に思わせるには、如何すれば良いかしらねェ……」
と。
とは言え、李光が此の問い掛けに取合った訳ではない。相変わらず書案に向けられた顔が上げられる事は無いし、筆の動きは些かでも澱む様子はない。
勿論、無視される事が嫌いな孫策が此の行為を許す筈は無く、やおら李光の顔を両掌で挿むと強引に視線を合させ、口角から泡を飛ばすのも、相も変わらずの日課の様なものだ。
「何度同じ質問をさせれば気が済むのよ!」
と。
尤も、孫策にこんな風に応じられても、当の李光は涼しい顔を崩さずに、やはり同じ回答をするだけだ。
「貴女が此処を訪れるのが今日で五日目ですから、未だ五度目ですねェ……」
「回数を訊いてるんじゃないのよ! 手段を聞いてるの!」
「自分で考えようとは思わないんですか? 孫太守に何かが有れば、貴女が跡目を襲うのですよ。それに事情があって城を空ければ、やはり貴女が采配を取るのでしょう?」
「面倒は嫌なのよ。喩、当主に政治的な采配が乏しくても、其れが出来る誰かを身近に置けば良いだけの話じゃない。適材適所に人を割り振る事が出来れば、当主としては申し分が無いじゃない」
と。
会話の内容に多少の差異が有ったとしても、此の二人の間では何時も通りの問答であるし、敢えて孫策の判断は的確と言った方が良い。例えば、帝王学を学んでいる天子ならば政治的な采配に優れていると言う事は無い。漢代における文帝や景帝と言った異色の存在も居るが、多くはそんな事の無い凡人であったと言った方が良い。寧ろ、春秋時代に彩りを添えた管仲や子産と言った傑物を得た王の方が一般的だろう。寧ろ、そう言った者達を疎漏なく使いこなした者が、名君として君臨した事実の方が一般的だ。正に孫策は其れを言いたかった。
尤も、そんな引き合いを出されたところで李光が取り合うはずもないのだが、何時もと少しだけ違っていたのは、彼が此の続きを口にしたところだ。
此れには、孫堅の口から周家への養子の話を聞いたからに他ならないが、李光にすれば、李姓を捨てる気は毛頭ない。だから養子に為ろうとは考えていないが、賢人の揃う周家に赴く事は悪くないと考えているし、様々な事を学び、学資を高める機会はあると思っている。
そう思うには、現在の海内の状勢が大きく影響している。
李光にすれば、各地で内乱が頻発する今、朝廷への依存が甚だしく低く為ったと感じていて、再興する可能性は低いとしか思えない。仮に有ったとしても、一度潰えてから中興する、と言った具合の世祖と同じ場合だけだと思っている。詰り、現王朝は斃れ、新たな王朝が起こる事であり、其れが世家である劉姓なのか他なのかと言う違いしかない。
そう言った予想はさて置き、黄巾の乱よりは、特に土地の有力者が反乱を起こした涼州の乱が大きな要因である。此れこそが、現王朝が求心力を失った証である。
そう言った乱世が訪れた時に必要なのは、形は変わっても力だ。武力や知力と言った解り易いものも有れば、時宜を見逃さずに行動が出来る様にする決断力や慧眼など、其れは多岐に渡るものだろう。勿論、李光は知識を手に知れて其れに対抗しようと言うのだ。
尤も、こう言った初見は李光だけが持ち合わせていた訳ではないし、孫策とて持ち前の勘の良さで、その事は弁えている。
養子問題に関しては、周家に関わりの有る者、と言う所で折り合いが付けば良いと思っているが、相手が居るので、その辺りは上手くいけば良いと思っているが、やはり、李姓を捨てる事には抵抗があるし、当然の事ながら、孫堅の顔に泥を塗ろうとは考えていない。やはり、上手く折り合いを付けたいと言うのが本心だ。
李光にすれば、迷惑が半分、感謝が半分と言った所だが、感謝する所があるだけに自分の意見を口にしようと思ったのだ。
「伯符殿も考えている事でしょうが、孫家が長沙に於いて名を上げるには、井岡山を始めとする各所の賊徒を駆逐、平定をする事が早道です」
李光が推察する通り、その事は孫策も考えていたし、孫堅も孫家の治政を根付かせる為の踏み台として考えている。其れだけに思考に明察さが見受けられず、多少の失望が有ったのは確かで、其の想いは如実に彼女の相貌に現れた。其れでも話の腰を折らかったのは、李光は必ず其の根拠を口にするからだ。
案の定、李光は口を閉じなかった。
「併し、駆逐や平定と言っても賊徒の全てを討ち取ってしまう訳では無く、帰農させる事に重きを置く事が肝要です。確かに、君主は律令に対して厳正であるのは大切な事ですが、人の上に立つ者は、其れ以上に大度を示す事が重要なのです。仮に全員を討ち取った場合、後に災害が起きて納税できなくなった郷邑が多発したら如何がしましょう。恐らく邑人は納税の義務を破った罪を恐れ、挙って山野に逃げ散ってしまい、郡内は悪循環に苛まれる様に為ります。併し、大度を見せれば、訳を話して許しを請い、邑の再建に勤しむ事でしょう。恩を受ければ其れに報いるのが海内の民の心根です。其れを見越し、駆逐をしても、帰農させる事に大事を置くべきなのです」
孫策は納得した。彼女は悪事を犯した者は罰せられるべきだと考えていたし、駆逐して皆殺しにする心算であったが、其れを改める事にした。
唯併し、李光にすれば、人を信じただけなのだ。事情があったにせよ、李光自身も結局の所は戸籍から逃れた罪人なのだ。喩え、井岡山で労役をさせられていた罪人であったとしても、生活苦から罪科に身を投じた者の方が多い筈だ、と。
結局は、青臭さの残る李光の恣意だとしても、人の上に立とうとしている孫策にすれば、受け入るべき所は少なくは無いのだ。抑々彼女は、庶民の生活の実態を知らないのだ。
李光の言葉には見張るべき利があると、孫策がそう思った時には李光は再び口を開いていた。
「人を御すと言う事は、途方もない苦労が付き纏うものです。人の思想は様々であるばかりか多岐に渡り、性格は百人が頸を揃えれば、全てが違います。其処から考察すれば、仕事に悦びを覚える者もいれば、そうでない者も居て、恐らく後者の方が多数派でしょう。其れでも働くのは生きる為であって、国を支えると言う気持ちは少ない筈です。そんな彼等に対し、納税させる為に労働を強い、その苦労の賜を税として徴収しなければならないと言う事は、其れだけで憎悪の対象に為ります。納税を強要する為に、恐怖で人を縛ってしまえば簡単なのかもしれませんが、何れはそう言った恨みや辛みの積み重ねが数倍に為って己に返って来るものであり、上手く事が運ばないのは歴史が証明しています。人の上に立つ者は、何事に於いても真摯で有り、謙虚でなくてはならないと考えます」
数日後、孫策はこの言葉に脚色に加える事無く、母であり長沙郡太守である孫堅に進言した。古参も新参も揃う、長沙郡の政治方針を決める朝廟での事だ。孫堅は此の意見を入れ、郡の司馬に抜擢された黄蓋に井岡賊駆逐の軍旅を発すると明言した。
当面の施政方針が決まり、各官は忙しく走り回る様になった。孫堅は其れを余所目に、得意満面の孫策を手招きして身近に呼寄せると、
「李少年の言葉だね」
と言いながら、娘の碧眼を覗き込む。
孫策は見透かされていると思いながらも最初の内こそ視線を泳がせて誤魔化す努力をしていたが、其れも無駄だと観念すると、軈て不貞腐れた様に肯いた。
孫堅は其れを見て鷹揚に肯き、最愛の娘を下がらせると、今度は友であり最愛の家臣の程普に顔を寄せる。
「策は、中々に見所があるね」
と。
当然、この言葉は孫策を褒めた言葉だが、単純に其れだけを意味している訳ではない。孫堅に似ている孫策は、その性格までをも受け継いでいて、知略を用いるよりは強攻を得意としているし、持って回った様な言葉を好んでいない。其れが悪いと言う事では無いが、大きな欠点に為り得る事は確かだ。其処に柔軟な思考を持つ者の意見を入れる寛容さを見せたのは良い事であるが、孫堅が評価したのは此の事では無い。
孫堅は、喩、己が意志にそぐわずとも黙って意見を聞く事の出来る者を身近に置く大度を持てる様に為った事を評価した。やはり、頭の切れる者として娘の盟友に周瑜はいるが、彼女の言葉に理があったとしても、孫策が我を押し通してしまう事は少なくは無い。寧ろ周瑜は、孫策に振り回されても仕方がないと思っている節があるのだ。
孫策は周瑜に甘えるのが当たり前であるし、周瑜は孫策を当たり前に思っている節が見受けられる。此の二人の関係では、場合に依っては共倒れする場合がある。併し其処に李光が加われば二人を取り持つ格好に為り、相乗効果が現れるかもしれない。
孫堅は、娘の孫策が人を見る目がある、として見所があると言ったのだ。又、孫策の性格にはそぐわなくとも、李光には其れを肯かせる何かがある。言い換えれば、二人の相性が良いと言う事だ。
――本当に縁組を考えても良い。
と。
勿論、程普は其れに同意した。異存など有る筈が無い。少なくとも薄っぺらの孫策に、人としての厚みが増してきた、と思ったからだ。李光と行動を共にする事で、孫策が当主として進化を遂げれば、其れが一番に良い事だと考えた。
○
一方の李光は、仕事が一段落した折を見計らって、黄忠が令を務めている攸県に向かった。この春から孫堅が長沙郡太守として着任したのと同じ様に、黄忠も攸県令として着任している。その祝辞を述べる為に向かう訳ではないが、揚州に向かうに当たって断りを入れる必要はあるだろうし、又、其れをしなければ為らない人物と会う為だ。
此れは余談だが、黄忠は先日の井岡山での悪戯の罪滅ぼしと思ってか、魏延を県司馬として引き抜いている。余所の土地であった攸県は、知り合いが起居する事に為り、李光にとっては格別の感慨を持つ土地と為った。
併し李光は城郭に立ち寄る事無く、更に時間を掛けて攸県の外れにぽつんと建つ一軒家の戸を敲く。返事を待たずして家屋の鴨居を潜ると、其処には薄暗い闇があるだけだった。薄闇以外には何も無く、人が生活する痕跡すらも見受けられない程にガランとしていた。
溜息を突いた李光は戸を閉め、今度は家の裏手に回った。其処には開墾の途中と言うよりは、始めて直ぐに投げ出された様な畑が有り、畷を通って更に奥に進むと未だ花を付けていない石楠花の林がある。其処を通り過ぎた所に、男は蹲って嗚咽を漏らしていた。
男の先には、石楠花の幼木が植えてある。其処が、王媚の墓だ。当時、庶民の墓は土を盛ってはならないし、碑や標と言ったものを建ててもいけない。但し、草木は植えても良いので、王媚の面影を石楠花に宿して植えてあるのだ。
あれから既に一月が過ぎているが、彼は王媚の死から立ち直れずにいる。愛する者の死に直面すれば仕方がない事なのかもしれないし、況してや其処に己も関わっていたのなら仕様が無いのかも知れないが、永眠に付いた王媚ならば、今の張業の姿を望まないだろうし、張業自身も心の何処かで理解している筈である。でなければ、疾くに死に絶えているに違いない。分かっているからこそ食べ物を口にし、こうやって今でも墓前で涙を流す事が出来ているのだ。
だから、李光は単純な励ましの言葉を口にしなかった。張業が、己が力で克服しなければならない事だし、王媚も其れを望んでいよう――、と。単に今は時宜が悪異だけの事で、友の声ですら届かないだけなのだろうと、少なくとも李光はそう考えた。が、伝えるべき事柄は伝えねばならない。
「私は、廬江郡舒県にある周家の厄介に為る事にしました」
結局、張業はその言葉に反応しなかった。
李光もそれ以上は声を掛けようとはせずに踵を返し、来た時と同じ様に静かに立ち去った。張業の姿を見ていたくない自分が何処かに居る。少なくとも、王媚も今の張業を見ていたくはないだろう。其れを言葉として伝えたい気持ちは多分にあるが、張業自身で理解して貰い、行動に変えて欲しいと望むしかない。友達甲斐が無いと蔑まれても、李光が張業に必要以上の叱咤激励してはいけないと考えている。其れは、悲しみの元と為っている王媚も、であろう。
春を迎えたばかりの青空が、李光の瞳に寂しげに映っていた。
帰路は真直ぐに羅県を目指さず、攸県に立ち寄っている。既に夕闇は押し寄せていて、李光は役府では無く、直接に黄忠の屋敷に立ち寄った。
李光を迎えた黄忠は、その顔を見て直ぐに愁眉を下げた。友である張業が、最愛の者の死から立ち直っていない事を悟ったからだ。
「私は、情が乏しいのでしょうか?」
お互いが向かい合い、李光が真先に口にした言葉だ。気丈では有っても李光も悩んでいる。王媚の死に直面し、酷い悲しみに苛まれはしたが、生活には変わりが無かった。打ちひしがれている張業を見れば、余計に感じる事であろうし、未だ少年と言って良い歳の頃の李光にすれば、やはり悩む所である。
「貴方は、既に大事な人の死に直面しているから、その分だけ強くなっているだけです。人は、誰かと共に生きる事に依って強くなり、別れる事に依って逞しく為ります。何れ、張業も逞しく為った姿で貴方の前に現れるでしょう」
李光は低頭した。感謝の表れとして、自然と頭が下がったのだ。恐らく黄忠自身が良人の死を迎え、同じ様にして乗越えたのだと思うと、勇気さえ感じた。
憂慮が散り去った気がした李光は、自然と肩の荷が下りた様に感じた。
此れが張業との決別だとしても後悔はない――、
何れは張業も立ち為るし、理解するだろう、と。
李光は、周家での新たな生活の決意を固くした。
黄忠の屋敷の客屋で朝を迎えた李光は、張業の世話の継続を頼み、その代価として銀子を渡して攸県を後にした。
李光が見詰める虚空の先には、まだ何も映し出されてはいない。唯一つの進歩と言えば、張業を按ずる心は、この攸県に於いて行くと決意した事だ。
結局の所、憂慮に捉われていては、足を進める事は出来ないのだ。李光はもう振り返らなかった。
○
春の終わりが近い。桃の花が綻び、枝木ばかりの山を賑やかしている。後悔の念にある程度の決着を付けた李光の心も、花の季節の到来と同様に僅かながらに軽くなっている。
扨、周家に向かう事を承諾した李光だが、書簡を出して直ぐにと言う事では無く、当然双方の意志を確かめた上でと言う事であろうし、現在の様に優れた郵便事情が無い当時は、その遣り取りに多くの日々を費やすのが当たり前なのだ。
結局、李光が出立するまで二月近い日数を要したと言う事だ。返答の書簡を持って現れたのは周瑜であり、彼女の何か言いたげでありながら口にする事が出来ないと言う様な、如何にも奥歯にものの挟まった様子が気に為った。
数日後、先方が了承した事も有り、李光は意気揚々と船に乗り込んだ。幾度となく試練を経験した事で表情こそ乏しく為ったが、新天地へと向けて出立する心は高揚気味だ。その気持ちを証明するかのように、李光は見送りに現れた孫策と周瑜に深々と頭を下げ、感謝の大きさを示した。
船が桟橋を離れた時刻は、疾くに中天を過ぎていた頃であった。
扨、船が洞庭湖の翳みになるまで見送っていた孫策と周瑜であるが、孫策は、何時まで経っても表情の冴えない周瑜が気に為った。
屋敷へとも戻る足取りを緩める事無く、孫策は、周瑜に目をくれずに口を開いた。
「どうしたのよ?」
と。
言い淀んでいる周瑜は、一層に表情を曇らせた。其れでも二人の歩調は澱む事無く、郡都羅県に併設される津から遥かに離れて外城門を潜りぬけている。やっと周瑜の口が開かれたのは、人通りの多い大通りに為ってからの事だ。
「実は、家の父は少し変わった趣味の持ち主でな……」
と、言い淀みながらも言葉にした。周瑜は此れだけを口にすると、再び口を噤んでしまう。やはり、この事は他人に話してはいけない――、と言う引け目があるし、禁忌にしていると言う思いもある、其れが昵懇にしている孫策であっても変わる事はない。
因みに孫策は気が長くは無い、と言うよりは、頗る短気と言った方が当を得た言葉だろう。当然、周瑜のこの行動が、短気な孫策の癇に障った。
「だから、何だって言うのよ?!」
と、声を荒げるのは自然な流れだ。が、周瑜は益々相貌に翳を宿した。その所為か、周瑜の歩様はもどかしい程に遅くなり、孫策の我慢ももう限界が近付いている。そうなれば、力尽くでも盟友の口を割らせるに決まっている。
其れが解った周瑜は訳を話す決心をしたが、今度は大通りで他人の耳目がある事を気に掛けた。近くの路地を折れて裏通りに入り、ようやっと周瑜が口を開いたのは、大通りからは随分と離れて人通りの無くなった場所であった。
「実は父には変わった趣味があってな……」
もう一度先程の言葉を繰り返した周瑜の貌は、逡巡の見られた其れから鬼気迫るものへと変じていた。大事な事だと判断した孫策は、必然的に息を呑み、何を告げられても驚かない様にと備えている。
「此れは我家にとっては禁忌に当たる事なのだが、……実は父は、女子より、男子の方に興味があるらしいのだ…… 要するにだな、……女色より男色を好むと言うか、……詰り、そう言う事なのだ……」
孫策の目が点に為った。次には盛大に吹き出し、今では大爆笑している。
其れはそうだ、まさかこんな身近にそんな変人が居るとは思いもしなかった。確かに武帝にはそう言った特殊な趣味がある事は伝え聞いているが、まさか、そんな変態が本当に居るとは思いもしなかったのだ。
併し、能々と周家での日々を思い出してみれば、盟友の父である周異は、一度として孫策達姉妹に親しげに声を掛けなかったばかりか、余程の事が無い限りは孫策たちの目の前には顔を見せなかったのだ。
特に関心が無かったのだろう、と当時の孫策は思っていたが、そんな事を独白されれば、周異が言葉を掛けてこず、顔を見せなかった訳は他に有ると思わざるを得ない。
恐らく婚姻して周瑜をもうけたのは、明らかに歴史ある周家の為だと思っての事だろうし、周瑜が盆暗で無かったのは彼の運が良い証拠であり、彼女の出来が悪ければ、望む事ではなくとも女体と何度でも交わらねばならなかったはずだ。
周家の恥部を晒した所為か、周瑜が無くなってしまうのではないかと思う程に縮こまっているのを余所に、爆笑を続けていた孫策だが、はたと周瑜が本当に伝えたかった大事に気付いた。
「……其れって、若い男子の李光に手を出すかもしれないって事? 仮に、孫家からの大事な客人であったとしても、て事?」
孫策に詰め寄られた周瑜は視線を逸らし、軈て観念した様に微かに顎を引いた。
堪えるとか我慢するとか、老いを迎えている父にそう言った節度があるとは思えないし、期待する事ですら難しい。敢えて、
――その可能性は十二分にある。
と。
周瑜の真剣な面持を目の前にし、流石に孫策も真顔に戻った。と言うより、突如として降って湧いた災難に頭を抱えた。
――こっちに李光が戻った時、罷り間違って男色家に為っていたらどうしよう……
そんなになっては部下に示しがつかなくなる、と。
李光との婚礼を本気で考えている訳ではないが、彼女の下に集う将兵は、如何あっても膂力の強い男子の方が多くなるだろうし、若者の方が多いのは当たり前の話だ。当然の事ながら、直臣になる旗本に関しても大差はないだろう。その彼等の下を、男色に染まった李光が喜び勇び、夜な々々徘徊している様が想像されると、流石の孫策の貌も蒼白に転じた。
――此れは拙い……
家臣に対して威信が示せなくなる、と。
併し、送り出してしまった手前、まさか、今直ぐに李光を呼び戻す訳には行かない。そんな不躾な事をすれば、孫家周家共に面子が潰れ、両家の関係に軋轢が生れるかも知れないのだ。養子の話が有耶無耶に為ったとしても如何と言う事はないが、孫家と周家の関係は現状以上が望ましいと考えているだけに、最悪の事態に為っては困るのだ。
当然の事ながら、母の孫堅にも話せる筈が無い。今は、無事を祈るしかない孫策の頭上には、何時の間にか暗雲が広がっているばかりか、軈て、大地を敲き付ける雨が降り出していた。驟雨に追われて二人は為すが儘に濡鼠に為ったが、其れと同様に、今の孫策には現状を打開する手段が何も無かった。
人の行き違いが激しい大通りに戻っても南方特有のスコールは弱まるばかりか激しさを増し、酒家に一時的に避難した孫策の視界を雨煙で覆い隠した。
結局の所、出来る事は一つであり、二人して胸の前で掌を合わせて瞑目し、
――如何か、李光が無事であります様に……
と、神頼みをしたのは言うまでもない。
尚、周異にはこう言った事実は有りません。武帝はそうらしいです。




