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飛湍の中  作者: GOLDMUND
13/22

・12 落葉の如く(閑話)

基本的には同じ話なので、似た内容になって申し訳ない。

 朔風が吹いた。北から吹き付ける其れは、山頂に積もった雪が織り成す冷気を運び、身を切り裂く程に寒々としている。山頂とは言え、初冬の内の降雪は、この荊州では珍しい事なのだ。

 李光は、悴む掌に息を吹きかける。指の隙間から漏れた吐息が一瞬で白濁して、視界を曇らせる。併し、現実の視界ばかりでは無く、今の彼には将来への展望も無い。親友の王媚の救出に向かった事で、彼は多くのものを失ったのだ。

 帰着した李光に、錦帆賊からの罷免が言い渡された。友の救出とは言え、李光達が捕縛されれば、更に錦帆賊を窮地に陥れる事に為る。人道上では同情できる所が有っても、錦帆賊と言う集団から見れば、浅慮な行動でしかないのだ。

 尤も、其れを理解している李光は、不平を漏らす事無く甘寧の裁定に甘んじた。こうなる事は判っていたし、自分が甘寧の立場に有れば、やはり同様の采配をしただろう。悔いも怨恨も無い。

 更には、王媚の死去である。

 この時代の医療技術は低く、病に伏せると中々に快方に向かう事が無い。しかも、元々栄養状態が悪い躰で絶食を行えば、健康を害すのは当たり前の話だ。薬師は少なく、滋養の高い食事の提供も出来ない。加えて衛生状態も悪ければ、治る病気も快方に向かう筈が無いのだ。訳の分からない密教の祈祷など、何の意味も無い。

 唯一つ、張業に抱かれ、王媚が安らかな顔で旅だった事が、唯一の救いと言って良い。

 ――無駄な事をした……

 とは思っていないが、遣る瀬無さは残る。何故、もっと早く救出に向かえなかったのか、他にも方法が有ったのではないか、と。併し、其れも今と為っては後の祭りだ。流れ去った時間が、戻る事は無いのだ。

 結局、李光は此の事で全てを失った、と言って良い。

 唯、全くの霧中に居ると言う訳では無い。光明は有るのだ。


     ○


 李光は、相変わらず江陵に有る任侠頭の邸宅で起居している。地域の住民から陳情される意見を元にした上申書の作成、手紙の代筆と、相変わらず便利屋の儘だ。時には行政機関から物価調査などの依頼も有るし、荒事の依頼は錦帆賊に任せる事は多い。

 自由の身に為った今でも、錦帆賊に属していた頃の生活と大差がない。

 唯、錦帆賊の船上に身を置く事が無く為ったに過ぎない。

 書案に向かってばかりの李光の耳朶に、高らかな靴音が届く。此れは、井岡山から戻ってからは毎日の事で、迷惑に思いつつも、何処か心待ちにしている所が有る。

 足音は徐々に大きくなる。

 李光は、瞼を下げてその足音を耳で追う。

 ――母屋を、もの凄い勢いで歩いている……、其処で左に曲がって離れに繋がる回廊に進路を変える……、太鼓橋を渡りながら中庭を左手に見て、もう彼女(・・)は直ぐ其処だ。

 其処まで靴音に集中していた李光は、再び書案に向かって筆を滑らし、高らかな靴音に、全く気付いていない振りを始める。

 その直後に、(とぼそ)が弾け飛ぶのではないかと思える様な勢いで、扉が開け放たれる。

 其の儘の勢いでずかずかと室内に入り込み、裾を巻き上げる程な勢いで李光の前に座り込んだ。

 李光の飛界の端に、瑞々しく張りの有る大腿が、ちらりと横切った様な気がする。が、其れもそこそこに、若い声が、感情を爆発させて迫ってくる。

「いい加減にしてよねッ‼」

 と、書案を敲く様な勢いで両手を突いて身を乗り出し、柳眉を逆立てて貌を近付ける。上気した顔が目前に迫り、今にも、李光の鼻に噛み付いてきそうな程だ。その勢いの儘に、更に捲し立ててくる。

「孫伯符からの要請よ。長沙郡太守に為る、孫文台の娘よ。その孫伯符からの要請なら、名誉な事でしょう? そうよね? だったら、何で其れに応じないのよ? この私に、何回同じ手間を掛けさせれば気が済むのよ‼」

「未だ、四日目ですよ」

 と。

 必要に迫る孫策だが、李光は全く動じる事は無い。それどころか、視線を合わせる事も無く、涼しい顔の儘で書案に噛り付き、相変わらず筆を滑らせながら応じる李光が憎たらしいと孫策は思った。

 せめて、顔を突き合わせて話をさせようと考えた孫策は、筆を執り上げて木簡を折り畳んでしまおうと思った。其れを実行しようと思った時、木簡の表題の『上』の文字が目に入る。勿論、『上』とは上申書の事、目上の者に当られた書簡を示す言葉だ。

 孫策は不機嫌を露わにした貌の儘、李光の隣に座り直して筆を追う。

 内容は、微々たるものだ。近隣の邑長から県令に宛てられたもので、邑に引き込まれている灌漑の源流の整備の依頼だ。

 孫策にとっては、全く関係の無い事である。其れでも彼女は、李光が筆を置くのを大人しく待つ事にした。李光の此れまでの行動の足跡を追えば、彼がどれ程に人と其の生活を大事にしているかが分かる。

 黄巾の占拠された許県の奪回の才には、人的被害が少なくなる手段を提示したし、この江陵では、江湖の秩序を作って人々の生活に役立てようとした。正否は兎も角、単なる書生の様に、机上だけでものを考える輩では無い事を、孫策は能く知っている。

 そう言う所を含めて、孫策は配下として李光を迎えたいと思ったのだ。彼女には、軍事面を周瑜に任せ、民政面を李光に任せる、と言う将来設計が有るのだ。

 上申書と言うものは、要請する事柄を記して終わりと言う訳では無い。行政区への利得を記し、故事を引き合いに出して説得をするのだ。だから、文面も其れなりに長くなり、知性が必要と為る。住民の相談役の任侠頭が、文人を客として迎えるには、其れなりの訳が有ると言う事だ。

 孫策は、相変わらず筆の跡を追う。引き合いに出された故事は、西門豹に纏わる話であった。西門豹は、所謂戦国時代に生きた人で、孔門十哲の一人の卜商・子夏に学んだ魏国の政治家である。その彼が、鄴県に赴任した際の故事を引き合いに出したのだが、内容を呼んで、孫策は唖然とした。

 ――役人が、平然とした顔で受け取っている賂も批判している。

 と。

 伯符は此の故事を詳しくは知らなかったが、李光の為人(ひととなり)が文面から知れた。他県への出入りをする時に門衛に其れなりに握らせているのを見れば、彼が賄賂と言うものの全てを否定している訳では無い事は容易に知れる。

 詰り李光は、税を過剰に徴収して、其れを懐に収める不正を許せないのだ。

 孫策は、益々李光に興味を持った。

 ――こう言った義士が欲しい。何れ、孫家の、否、私の力に為る。

 と。

 長沙と言う新たな土地で、白紙の状態から治政を始めねばならない孫家には、李光の様な純心を抱いた吏人が必要なのだ。そして、唯、我武者羅なだけでは、決してこの者を部下にする事は出来ない、とも。

 李光が筆を置き、木簡に印を施すのを待ってから、孫策は口を開いた。

「私は、如何しても貴方を招聘したいわ。如何したら良いの? 格別の礼を以って迎えろと言うのならそうするし、銀子や地位が欲しいと言うなら、私の出来る限りで何とかする」

 静かな相貌であった。其れだけに、意志が固いと言う事でもある。

 孫策は、口が上手い、と言う事では無い。李光が、格別の礼で迎えられる事や、銭、地位と言うものを望んでいない事は判っている。だが、他に言葉が思い浮かばなかった。李光の思考をなぞれば、彼の望むものに見当が付いたのかもしれないが、特殊すぎて想像できない。だが、何かを言葉にしなければならないと言う思いが、言葉に為ってしまったのだ。

 若気の至りなのだ。それが解かっているだけに、孫策は汗顔に為った。恥ずかしくて仕方が無く、頬が上気して来る。顔を隠したい衝動に駆られるも、伯符は、己が思いを双眸に変え、李光を見据える。

 中庭から涼気が流れ込んでくる。室内は深と冷え込んで来たが、心の昂っている孫策の躰は、其れを撥ね退ける位に熱くなっていた。

 李光の眼差しが緩んだ。

 ――思いが通じた。

 と孫策は思った。

 事実、李光は居住まいを正し、温顔で孫策を見詰め、次いで口を開く。

「愚生は、金も名誉も求めては居りません。唯、一つだけご理解を頂き、一つだけ約束頂ければ、結構です」

 孫策は、慎重に顎を引いて先を促す。

「どちらも容易な事ではありません。一つは、愚生が仕えるのは、貴女では無く、海内におけるすべての民に、であると言う事と、もう一つは、貴女が必ず海内の盟主に為る、と言う事です」

 彼の足跡から考えれば、ある程度は、想像が出来た条件だ。孫策が即断出来なかったのは、仕方が無い事なのだ。

 李光も、孫策が悩む事は織り込み済みだったのだろう。

「即答する必要はありません。決断できたら、又、此処に足を御運び下さい」

 と、孫策を送り出した。


 李光との隠れ家から帰宅した孫策は、あれから悶々とした日々を過ごしている。出された条件が、余りにも常識から外れているのだ。皇帝に為れ、と言うのも無体な話だし、家臣であるにも拘らず、民の為なら口幅ったく諫言すると言う条件にも、今一つ納得が出来ない。

 其れでも返事をするのは簡単な事だ。上辺で了承の言葉を口にし、後は適当に誤魔化して便利に使えば良いのだ。が、其れが出来ないのは、孫策が未だ若い事、そして、大それた事を口にした李光への、彼女の敬意だ。其れだけ、海内の事を考えているのだ――、と。

 少なくとも、李光は真剣に話をしている――、と孫策は判断したのだ。

 臥所で仰向けに転がった。

 ――皇帝に為るには如何したら良いか?

 真剣にこんな事を考えるのは、底抜けの馬鹿のする事であろうか。其れでも孫策は、思案を続ける。

 黄巾賊の反乱が起きた事で朝廷は弱体化を始め、御誂え向きの乱世が訪れ様としている。そう思えば、決して現実離れしている願望では無い。其れでも、孫策の一代だけで並み居る強豪を退け、天下を統一するのは難しい。母・孫堅を唆してでも世界に目を向けさせて下地を作り、一族の協力を取り付けなければ、難しい事だろう。其れも、途方も無い運が味方して、という条件付きだ。

 確証も無いのに、軽々しく約束の言葉を口に出来る筈も無い。

 孫策は、起き上がって行動するよりも、臥所で寝転がって過ごす時間の方が長く為った。

 その伯符に、声を掛けた者が居る。

「姉様、如何したのですか? 御気分が、優れないとか? 間も無く母様が到着しますし、薬師を呼びましょうか?」

「大丈夫よ。病気な訳じゃないわ……、唯、人と真剣に向き合うのは、難しいな……、て思ってね。心配してくれて、有難う」

 声を掛けたのは、孫策の妹の孫権だ。傍目に見ても、二人は姉妹にしか見えないだろう。孫権を見せられた後で、直ぐに孫策を見せられれば、誰もが狐に抓まれている様に感じるだろう。其れほどに二人は似ているが、年齢差は隠し切れない。

 孫策はその後の日々も自室に篭り気味であった。結局、日を開けずに李光の下を訪れていた彼女は、あの日から仮屋を一歩も離れる事は無かった。


     ○


 孫堅が江陵に到着したのは、初冬も半ばに差し掛かっての頃だ。

 李光が用意した屋敷は、元は江陵県の官僚の住んでいた屋敷で、孫堅を始め、彼女の幕僚が起居しても、未だ部屋が余る程に広い。当然、母屋にある広間は、孫策を始めとする孫家縁の者が額ずいた上に、孫堅と幕僚の全てを飲込む程に広い。

「母様、永の遠征、お疲れ様でした。無事な御帰還、心よりお慶び申し上げます」

「皆、息災の様で何よりだ。策は、良く家族を守ってくれた。礼を言う」

 こんな儀礼的な挨拶が終わると、此の日の為にと雇った侍女が、酒肴と共に宴席を賑わせる仕組みだ。勿論、こう言う采配は、留守を預かっている孫策が行うのでは無く、仮屋の手配をした李光が代行する。

 だからこの日は、李光は裏方として仮屋に姿を見せていたし、孫策の計らいで、孫堅の下に召されるのも当然の事だ。

「許県以来ね。李少年には、世話になるばかりで申し訳ないわ」

「大した事をした訳では御座いません。きっと、孫家と愚生とは、何らかの縁が有るので御座いましょう」

「……縁、ね。きっと、その通りだわ」

 と、孫堅が返答した時であった。彼女の部下の筆頭格の、程普が立ち上がると、一連の動きで発言を求める。

 必然的に程普と、その隣に畏まる黄蓋に注目が集まる。

 孫堅は、双眸の仕草で其れを許した。

「主上、此処な黄蓋が申しあげたい事が有るとか」

「堅殿……、否、主上よ。其処な李光と儂は、将来を誓い合った仲じゃ。だが、身分が違い過ぎて、其れが叶わぬ。其処で李光を、孫家の養子にして貰えんじゃろうか」

 言ってしまえば、此れは茶番劇である。黄蓋を問い詰め、事情を知った程普が孫堅に提案し、こう言う猿芝居に為ったのだ。同僚を大事に思う程普と、部下を大事に思う孫堅の親心と言って良い。だが、誤算と言うものは必ず起きるのだ。

 扨、当事者の李光は、唖然として言葉を発す事も出来なかった。少なくとも、黄蓋と将来を誓い合った覚えはない。寝耳に水も良い処だし、結婚詐欺なら随分と性質が悪い。

 だが、話は一方の当事者をそっちのけにして、あらぬ方向に進んだのだ。

「駄目よ‼」

 孫堅が了承の言葉を口にしようとした矢先の事だ。

 其の言葉は、歓待側の列の上座から上がった。詰り、孫策が叫んだのだ。

「李光は、私の大事な人なの! 初めての人なのよ!」

 と。

 否、そんな事が有る筈はない。孫策は単に、『初めて』の後に、

(私が惚れ込んで、部下にしようと思っている)

 を省略してしまったのだ。が、この物言いでは、明らかに誤解を招く。今回の茶番劇の幕を開いた程普、其れに母親の孫堅ですら、誤解をしてしまったのだから。

(堅殿の娘だしなァ……)

 とか、

(私の娘だしなァ……)

 と言った具合に、だ。この二人が納得してしまう程なのだ、他の者が誤解をしない筈はない。この突然の孫策の発言に、華やかな筈の宴席は、急に空寂が訪れてしんと静まり返る。

 場を盛り上げる筈の侍女達は顔を見合わせ、一人二人と広間から姿を消す始末だ。

 このしらけきった空気の中、孫策だけは、昂った気持ちを抑えられない。

「好きとか、そんな軽い言葉じゃ言い表せないのよ……。 何て言うか……」

「愛している、なの?」

 因みに、今、黄色い声で茶々を入れたのは、孫家の末席に座っている尚香だ。最近になって色恋に目覚めた彼女は、こういう話に飢えているのだ。だから、知っている単語を口にしたに過ぎない。過ぎないのだが、興奮している孫策は胸中を言葉で言い表す事が出来ず、茶々で耳朶に届いた言葉を其の侭使う事にし、当を得た、と言わんばかりに膝を敲いた。

「其れよッ! 愛していると言っても過言じゃないわ。正に、此処で会ったが百年目、て奴よ。だから、絶対に李光は渡さないわ」

 と。

 孫家軍の面々は、孫策の性格を能く知っている。言い出したら、梃子でも動かないし、後にも引かない、と。孫堅の諦め顔を見た程普は、黄蓋の肩を優しく叩いて、首を振った。諦めろ――、と。

 黄蓋は、肩に頸が隠れてしまう程に項垂れる。主人の娘では、太刀打ちのしようが無いのだ。女っぷりを下げない為にも、諦めるしかなかった。

 孫堅の家臣の程普や黄蓋なら、孫家の者を立てなくてはならないのだ。もう、有無は無い。

 程普は、孫堅の隣りに移動して跪き、耳朶に口を寄せた。

「此れは、李少年の養子受けの先を真面目に考えませんと……」

「何処が良いかしらねェ……」

「揚州の周家が妥当でしょう。周景や周忠が、太尉を務めています」

「早速、打診しましょう。勿論、私の名で、ね」

「御意に御座います」

 其の日の内に江陵の孫家の仮屋から発った使者は、揚州周家に向けて江水を下降している。

 李光は拉致されて長沙に移り、済崩し的に孫家軍の一員になっていた。


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