・11 放出
多勢に無勢では作戦などある筈はない。
出来るのは、運に身を任せる事だけだ。
と言う事で、是は間違い無く御都合主義満載の話だ。
湖南地方の晩秋は、秋と言う言葉から連想させる言葉からは考えられない程に華やかだ。山野は、沢山の絵具を落としたパレットの様に鮮やかだし、湖面も一対の景色を映し出す。水底の様に深く蒼い大空は、竹串で引搔いた様な雲や、南へと回帰する渡り鳥が賑やかせている。
その一方で、夕暮れ時は余りにも侘しい。煌々と紅く染まる夕焼けは、闇夜の訪れの早さの裏返しだ。夕日を見て、寂寥感を感じるのは、時の流れの速さを実感できるからだろう。
唯、洞庭湖からの風景を眺める李光の胸中に漂う寂寥感は、秋の情景が齎したものではないだろう。
脇目を振らず、全力で走って来た日々であった。江湖の為に心血を注いだ歳月と言い換えても良い。江湖より齎される恵みに生きる者が、如何すれば、安定した生活を送る事が出来るのか、と。
併し、其れも今と為っては昔日の夢だ。
本来なら、周朝からの打診は、錦帆賊頭領の甘寧に報告すべき事柄だ。頭領の判断を仰ぎ、然るべき行動をするのが妥当な判断だ。が、頭領が誰であったとしても、公の立場である以上は下す判断に大差は無い。次は、周朝が裏切ったと言う決定的な情報を流布し、井岡賊に不安を与え、内部からの崩壊を促すのが常套手段だろう。
当然、人質になっている王媚は見殺しにする。非情さに欠ける李光ですら、公の立場では下さねばならない判断なのだから、非常に徹し切れる甘寧なら他の選択肢は無い。
李光にとって、井岡賊に捕縛されている王媚は親友であり、とてもでは無いが、見殺しには出来ない。未熟と言われてしまえばそれまでの話だが、非常に徹し切る事が出来なかった彼は、頭領に報告すべき情報を隠匿し、王媚の救出を決意する。其れで、錦帆賊から放逐される事は覚悟の上だ。
併し、納得している事とは言え、中々に割り切る事が出来ないのが人というものであろうし、其れが性でもあろう。
錦帆賊に在籍していた此れまで間に、己が実力の全てを出し切れた訳ではない。やりたい事は幾等でもあった。其れでも、全てを諦めねばならない事はある。人である以上、少なくとも人情だけは失いたくは無かった。夢を諦めるには十分な理由かもしれないが、止め処も無く去来する寂寥感は、幾ばかのものかは測り知れない。
唯、去る鳥は、後を濁してはいけない――、と。
扨、場所は違えど、李光と同じ様に、船縁に肘を掛け、洞庭湖からの風景を眺めている者が居る。表情は乏しく、何を考えているのかは窺い知れないが、小さく漏らした溜息から察すれば、何かしらの憂いを抱えている事は明らかだ。
此の女の名を甘寧と言う。件の錦帆賊の頭領だ。
「孺子達と初めて会って、船を降りた時にもこんな風に姐御と話をしましたねェ」
この言葉は、甘寧が錦帆賊を名乗った時から彼女の片腕を務める部下のもので、云わば、副長と言っても差支えの無い存在だ。甘寧から少し離れた所の船縁に肘掛けた彼は、同じ方向に視線を向けながら話し掛ける。
「やはり、放逐するんですかい?」
「其れが、順当だろう」
「あっしは、悪くないと思うんですがねェ……。危ない橋を渡って掠奪するより、安全の対価として渡江賃を受け取った方が……。何より、官吏から目を付けられませんから、枕を高くして眠れる、てのが良い」
「全員が全員、お前と同じ様な考え方をすれば良いのだがな」
甘寧の微笑みは、自嘲の様にも見える。甘寧にも、何処か副長と同じ風に考える所があるのだろう。商船の渡江料で生業を立てるのは、水賊としては堕落と言って差支えが無い。錦帆賊の永続的な安定を考えれば優れた手段だが、明らかに水賊としての本質を忘れてしまっている生き方だ。
「確かに収入は安定している。危険な賭けもしなくて良くなった。が、水賊が望む、一攫千金の夢は無くなった。心を震わせる様な、博打も無くなった。其れを不満に思う連中は少なく無いのだ」
副長は押し黙る。その気持ちは、彼にも多分に有る。泣く子も黙る錦帆賊として、江湖の風を肩で切っていた昔日の事は、そう簡単に忘れられる筈がない。其れでも李光が提唱する方法が優れていると感じるのは、甘寧と同様に、彼も人の上に立つ立場に有るからだ。
「其れにな……、江湖に安定と秩序を齎すのは、水賊がすべき事か? すべきは、王だろう。そんな事を考える奴を、水賊として引き留めて置くべきなのか? そろそろ解き放してやろう……。彼奴はもっと、人の役に立てる所で辣腕を活かした方が良いんだ……」
副長は、強く断言できない所に甘寧の口惜しさを感じた。
――そうだ。
と、強く肯定出来ない自分をもどかしく感じるも、甘寧の言葉が的を射ているとしか思えない。反論する事が、全く出来ないのだ。
「私達が開放してやらねば、彼奴は何時まで経っても成長できない」
――良い機会だ。
その通りだ、と認めるしか選択肢は無い。甘寧の言葉に、黙って肯くしかなかった。
○
李光達が攸県に到着したのは、間も無く煩雑時を迎える夕刻に為ってからだ。人の波に塗れる様にして城門を潜り、城内に一件しか無い酒家に足を向ける。
店内は人で賑わっていたが、目当ての人物は直ぐに判った。明らかに、場違いなのだ。鋭い目付きで周囲を探っているばかりか、粗野な雰囲気では周囲の善良な人と馴染める筈は無い。其れにも気付かないマイペースな男なのか、全く態度を改めようと言う素振りは無い。
苦笑した李光は、護衛として孫策だけを連れて男に近付く。残りの三人は、少し離れた卓子に陣取って様子を窺う。
「周将軍の代理ですね?」
男が小さく顎を引く様子を確認してから、李光は椅子に腰掛ける。
「李景仲です。この件に関しては、頭領より一任されています」
李光が字を名乗ったのは、これが初めてだ。『景』は、彼の希望が篭った文字であり、『仲』は、兄・李瓉の弟である事を誇りに思っているからだ。
其れは扨置き、李光は、故意に孫策の紹介をしなかった。李光の容姿は、何時もと同じ様に、短衣に軽衫風のズボンと、江湖の付近では何処にでもいそうな格好だが、孫策の其れは、外套と頭巾に隠されていて全く正体が知れない。
勝手に甘寧だと勘違いしてくれれば、依り良い条件が引き出される、との李光の思惑があったが、其れは全くの空振りに終わる。李光が口を閉じるや否や、孫策は外套の下から剣を取り出し、卓子の下から其れを男に突き付けて脅しに掛かった。
「アンタ達が捉えた王媚の下に案内しなさい。さもなくば……」
孫策は、其の言葉と同時に剣先を男の躰にめり込ませる。もう少し力を込めれば、男の外皮を突き破る所だ。
こんな交渉に為るとは思いもしなかった男は、顔を蒼白に変えている。孫策は、そんな事は全く気にせず、頭巾を外してにっこりと李光に笑みを向ける。
「此れで、余計な手間が省けたわ」
と。
李光が頭を抱えたのは言うまでもない。
攸県から井岡山までは、二日掛かる。船を使って茶陵県を経由し、更に遡上して途中で船を降り、其処からは徒歩である。突然の事に怖気付いていた男も、二日も有れば、冷静さを取り戻すには充分な時間だ。
「小娘の救出に協力すれば、頭領の立場は保障されるんだろうな?」
この男は、周朝の腹心だ。信頼されているからこそ、交渉を任されたのだ。だからこそ、周朝の心を察している。小さいながらも独立していた彼等は、他人に媚びる事無く人生を謳歌してきた。
其れが、井岡賊に吸収されてからは、まるで針の筵に包まれている様な生活に為った。誰もが不満を募らせていた。この窮状を抜け出す事が出来るのなら、活路を見出すのは錦帆賊でも何処でも良かったのだ。
此処で、王媚の救出に手を貸せば、恩を着せる事が出来る。錦帆賊での立場が上がる。間違い無く、陸上の事は任せて貰えるようになる、そんな打算が一瞬で為された。
彼等は零陵の片田舎の盗賊団なのだ。盗賊らしい慾心は有ったが、人としては純朴であったと言って良い。若しくは、それ程に切羽詰っていたのだろう。
果たして李光は、大きく肯いた。信頼には程遠いが、信用は出来る――、と。
「良いでしょう。今は甘頭領の言葉を得る事は出来ませんが、私が口添えをします」
李光は、声に力を込めた。でなければ、慙愧に堪える事が出来ない。盗賊では有っても、信用を寄せて来る男を騙す事に、李光の良心が痛んだのだ。
男は、満足な表情と共に肯いた、李光の胸中を知る筈は無い。
井岡賊の巣窟を目にしたのは、攸県を出発して二日目の昼過ぎの事だ。
巣窟とは言っても、関所の様に応行なものではなく、元々は囚人が起居する為の粗末な小屋が集まる収容所なのだから、防衛力は皆無に等しい。立地が自然の要害と為っていて、官吏は手出しが出来なかっただけだ。
其れを遠望する所に立った李光は、張業に居直った。
「お前は此処までだ。確率は低くとも、面相が知られている張業を連れて行く訳にはいかない」
張業は、李光の言葉の強さに押し黙った訳ではない。己が不甲斐無さを恥じたのだ。だから、無理強いはしなかった。唯、何かの役に立ちたいとは思った。其れは言葉に為った。
「俺には何が出来る。逃走経路の確保だけか?」
「騒ぎが起きたら、侵入口から遠い所に火を掛けろ。騒ぎが起きれば、逃走が楽に為る」
勢い込んで肯く張業に、王媚よりも、助人の三人の命を優先するとは言える筈もない。しかも、捉えられて十日目の今日、王媚が生存しているか如何かの保障も出来ない。張業の希望を弄ぶ様な事をしている自分が、酷く薄汚れている様に思えてならなかった。いっその事、
「王媚は死んだと思え」
と言えた方が、どれほど楽な事か。尤も、李光自身が希望を捨てきれていないのだから、其の言葉が吐き出される事は無い。
一縷の希望、此れだけが今の李光の行動の礎だ。
扨、潜入の為の段取りは簡単なものだ。
「茶陵県で興行を行っていた白拍子を攫って来た。区星に献上するから、其れまでは取敢えず、獄舎に繋いで置く」
これ以上の理由はいらない。井岡賊の誰かが美女を三人連れていれば良いのだ。李光の存在は、其れだけで翳む。現に、李光は、孫策、黄忠、魏延の三人の陰に隠れ、易々と砦に足を踏み入れている。
併し、疑われる事を恐れた三人は、衣服の目立たない所に隠せる小刀以外に、殺傷能力の高い得物を持ち込む事が出来なかった。仕方なく、得物は砦で現地調達である。但し、剣技に未熟な李光だけは短弓を所持している。短弓と言っても簡素なもので、弦を張らなければ、二尺程度の竹箆の様にしか見えない。矢も、弩に据える箭に毛が生えた程度の長さで、袋に入れれば目に留まる事は無い。
唯、持ち込む事は出来ても、殺傷能力は極めて低い。竹箆を何かに押し当てて反らし、その反対側に弦を張るのだから、耐久性も極端に低い。剣や戟の類は持ち込めず、弓も持ち込めないと有っては、其れしか能の無い李光にとっては窮余の一策なのだ。
其れは扨置き、三人の美女が足を踏み入れた瞬間に、砦の中の空気が変わった。
女日照りの男達なら、美女が三人も登場すれば、異常な程に興奮するのも仕方が無いのだ。砦の中は、一寸したもの所か、大騒ぎになった。騒ぎを聞き付ければ人が集まり、更に悪循環に為る。笠でも被せて顔を隠せば良かった――、との後悔も今更遅い。
「見目麗し過ぎる」
等と言う文句は、的を射ていないにも程がある。
併し、予想外の事は必ず起こる。
其の騒ぎを蘇馬は聞き付けた。迷う事無く、獄舎に向かう様子を見て、錦帆賊の密偵が捕えた小娘を助けに来た――、と直感した。此の時には、二つの案が天秤に掛けられる。
小娘を逃がす事に協力して錦帆賊で地位を得るか、周朝の事を告発して、井岡賊で今以上の地位を得るか、と言う事だ。決着は直ぐについた。如何有っても、数に優る井岡賊の方が、此れからの抗争を有利に進める事が出来る、と。
蘇馬は、息堰切って走り出した。
――俺はツいている。
区星の下に辿り着いた蘇馬は、郭石の存在を認めてこう思った。此の男が居れば、相手が多少は腕に覚えの有る者だったとしても、確実に錦帆賊が送り込んだ者達を捕縛できる、と。周朝の事を密告するだけの心算だったが、更なる功名が得られると思うと、零れる笑いを抑えるのが大変な程であった。
大騒ぎを余所に、李光達は獄舎へと足を踏み入れる。獄舎と言っても堅牢な建物では無く、やはり、以前は囚人の宿者として使われていたもので、後から格子が填められただけで、特別な施設では無い。
物見高い眼差しを向けて来た王媚の獄守を斃し、李光は牢内に足を踏み入れる。
果たして、王媚は生きている。併し、呼吸は極端に弱く、背負って運び出す事も躊躇われる程に衰弱している。が、迷っている暇はない。全て運任せでここまで来たのだ。王媚の生死も、運に任せるしかない。
李光は王媚を背負い、手早く紐を使って背中に固定する。
後は、どれだけ迅速に此処を脱するかだ。
「此の娘は、頭領の言葉を信じなかったんだ……」
案内をして来た男の言葉が追い打ちを掛ける。自業自得なんだ、と。実際、周朝は、此の場に何度か訪れて、食糧を運ぶと共に脱出の計画を告げている。唯、人質として囚われている王媚に、其の言葉を信じろと言うのは難しい。
李光は押し黙った。
――これも因果だ。
と。
区星が井岡賊を作って桂陽で暴れ回る事を予想できた者は、皆無と言って良い。其れと同じ様に、望郷の念に駆られた王媚を圧し留める事も難しいのだ。言うなれば仕方が無い事だ。
唯、李光が決め打ちで計画を立てていなければ、随所で修正が出来た筈だ。知識が足りない、経験が足りないと言えば其れまでだが、後悔をするな、と言うのも難しい。
結局、荀彧の方が正しかったか……――、と。其れを口惜しいとは思わなかったが、未熟な自分の所為で、王媚を窮地に追い遣るばかりか、孫策に黄忠、魏延にも片棒を担がせなければならない事態に、因果、と言う言葉だけで片付け様とする自分に辟易とする。
大事を前に、足元を見詰めるばかりの李光の胸中に去来するものは後悔ばかりであった。
その李光に、孫策が顔を寄せる。
「私達は、私達の意志で此処に居るのよ。私達を逃がす事なんて考えず、貴男は、王媚を連れて帰る事だけを考えなさい。全ては上手くいく。希望を持つ事は、大切な事だわ。皆、無事に此の場を脱するわ。私は、貴男を救う為に此処に居るんだから」
李光は、言葉を発する事が出来ない。有るのは、孫策への、そして黄忠と魏延への感謝の気持ちと、此処から五人で無事に逃げる――、と言う決意だけだ。
用が済めば、獄舎に留まる必要は無い。後は、此の騒ぎに乗じて、逃げ切る事が出来るかだ。獄舎を飛び出して白昼へと戻るや否や、六人の目の前を黒塊が横薙ぎに迫る。
王媚を背負っている李光は、数歩遅れていた為に難を逃れた。問題は、残りの四人だ。孫策と黄忠、魏延の三人は、元より戦う覚悟で此処に来ている。王媚を救う事が目的だが、敵中に飛び込むのだから、戦いを抜きにして語る事は出来ないと思っていた。
故に、三人は常に臨戦態勢であった。周囲への注意を怠る事は無く、横薙ぎに払われてくる黒塊を逸早く察知し、其々に伏せ、又、飛退って避けている。
が、案内をした男には、そう言った覚悟は無かった。寧ろ、錦帆賊に恩を売った事で、気を抜いていた。其れが仇と為り、男は頭部を吹き飛ばされて肉塊と為った。
李光達の行く手を阻んだのは郭石だ。九尺(一尺:当時で約23㎝)はある身長だけでも圧巻なのに、右手には、平均的な男の身長程がある石頭を持っている。先端の鎚の部分は、大人の頭部ほどの大きさで、重さは、優に百斤(一斤:当時で約220g)は有ろうか。何よりも特徴的なのは、その顔だ。人間離れしていて、恰も原始人の様である。
そんな男が獄舎の前で仁王立ちしていれば、誰もが戦う気力が萎えてしまっても仕方が無い。現に、先頭の三人は、その異様に立ち竦んだ。が、其れだけで闘気が萎える事は無い。特に、孫策に至っては、逆に昂ったほどだ。
「お、お、俺は、どの女にしようかな」
舌舐めずりをしながらの郭石の言葉が、孫策の癇を逆撫でした。此れを計算で行っていれば、郭石は恐ろしい程の策士だ。が、彼には明晰な頭脳は無く、単に本心を口にしたに過ぎない。
頭に血が上った孫策は、獄守から奪った戟を大上段に振り上げ、果敢にも大男の懐へと飛び込む。膂力では敵に一歩も二歩も譲るが、小回りでは彼女の方が上回る。現に孫策は、俊敏さを武器にして、得物を大振りに扱う郭石を翻弄する。
だが、問題は、郭石の振う得物の軌道の広さに有る。長さ七尺の武器に加え、郭石の腕の長さが四尺を越えている。躰を回転軸にすれば、軌道の半径は、十三尺を越えるだろう。
如何に孫策が俊敏な動きをしたとしても、此れだけの距離の瞬時の往復は容易な事では無い。隙を見出して攻め込む事も儘ならない。況してや、案内の男の頭部を吹き飛ばした破壊力から鑑みれば、石頭の軌道を受け流す等、どんな豪傑であっても叶わない事の様にしか思えない。
それどころか、余分に動き回らねばならない孫策は、次第に追い込まれてゆく。
勿論、状況を見て黄忠と魏延が直ぐに加勢に入るが、体格からは考えられない俊敏な動きをする郭石の剣技に翻弄される。如何あっても人間の脚力には限界が有り、鳥の様に一足飛びに相手に近付く事は出来ない。
遠巻きにしていた李光には、其れがはっきりと分かった。如何すれば郭石の動きを止める事が出来るか、そう考えた時には、腰から竹箆を取り出し、即席の短弓を手にしていた。
弓を引き絞ると、脆弱な弓に結わえた弦は直ぐにキリキリと悲鳴を上げる。
前衛の三人のリズムを計り、タイミングを合わせ様と努める。とは言え、前衛は即席のトリオで、彼女等の呼吸が合わないのだから、李光の様に戦い馴れしていない者がそのタイミングに合わせるのは更に難しい。李光は、今一つタイミングを計れずにいたが、孫策が視線を投げ掛けて来ている事に気付く。彼女の瞳が、私の合図で矢を射よ――、と語っているのが直ぐに判った。
今の孫策は、所見の時の様にこまっしゃくれているだけの餓鬼では無い。再会した時の様に御節介なだけの小娘でも無い。
今の孫策は、人を思い遣る事の出来る、友にも近い存在に成長している。友なら、信頼に足る。全てを任せても良いと思った李光は、微かに顎を引いて承諾する。
其れを見た孫策は、戦いの最中であるにも拘らず、秋風の様な爽やかな微笑みを浮かべる。とは言え、規格外の敵である。直接対決が三対一であっても、状況は一進一退だ。否、寧ろ力任せの石頭の威力は絶大で、三人の方が、圧され気味と言った方が良い。が、戦いには必ず転機が訪れる。三人が攻勢に転じないのは、明らかにその時を待っているからだ。
一方、戦いを有利に進めている、と実感した郭石は、嵩にかかって攻撃に拍車を掛ける。眼前の敵に集中するのとは裏腹に、周囲への注意を怠る様に為った。得物の描く軌道は、今まで以上に速く、そして広くなった。
併し、三人が感じる脅威は減った。一つは、郭石が嵩に掛かった事で、軌道が単調に為り始めた。そして何より、孫策達は避ける事に重きを置く様になり、動きが少なく為った事で多少なりとも負担が減った。後は、頃合いを見計らって李光に合図多くるだけだ。
照準が甘く、射速が低い短弓の効果がどれ程あるかは分からないが、孫策は、そして彼女の意図を読み取った黄忠と魏延は、何かしらの隙を作り出す事が出来れば良いと思っている。元より、李光には武門の面では大きな期待を寄せてはいない。そう割り切っていれば、失敗したとしても失望も少なく、気持ちの切り替えも楽になる。
嵩に掛かる郭石の攻撃は、先程よりも更に大振りに為っている。石頭は唸りを上げて空気を薙ぎ払う態は、戦いの素人から見れば竦み上がる程の恐怖だろうが、戦い馴れしている者にとっては何の脅威でも無い。寧ろ、重い石頭に振り回され気味に見えている。
郭石が感じる以上に、疲労が蓄積されているのかもしれない。其れが証拠に、足捌きが怪しく為って来ているのだ。
何度目かの攻撃を後退って避けた孫策は、頃合いと判断して、李光に向けて合図のウィンクをする。
其れと同時に、弓弦が震えて空気を動かす。孫策は、その微かな疎密波をはっきりと頬に感じた。まるで、当れ、と願う李光の気持ちが伝わる様な錯覚を感じた。
箭の様に短い矢は、孫策の頬を翳めるようにして、郭石へと吸い込まれてゆく。当人にすれば、孫策の陰から突然に矢が現れた様に見えたろう。孫策は、命中するとの確信を得ると、即座に行動を起こしている。黄忠と魏延も同じだ。
果たして、李光の射た矢は、見事に郭石を捉えた。鍛え様の無い眼球に突き刺さったのは、間違い無く運の良さだ。李光は、大きな的に正確な狙いを付けるより、孫策の行動に注意を払っていた。巌の様な躰に、短弓で放った鏃が致命傷を与えるとは思いもしなかったが、何処かに突き立って、行動の妨げに為れば良いと思っただけだ。
併し、矢は、運よく人間の弱点に突き立った。その効果は絶大だ。
郭石は、野獣の様な、と言うより、太古の恐竜の様な悲鳴を上げ、武器を放り出して、その場でのたうち回った。普段から手傷を負った事が無く、未経験の痛みが身の上に訪れ、痛感ばかりか、其れが原因で恐慌状態に為っている。
尋常な仕合ではないのだ。孫策が、こんな好機を見逃す筈はない。彼女は果敢に飛び掛かって頸動脈を切り裂くのと、黄忠と魏延が脇の下に剣先を突き立てるのは同時であった。
郭石は、大量の血を吹き出しながら悶え苦しんだが、軈て動かなくなる。自身の躰から噴き出した血で造られた赤い池に沈んだのだ。
最大の窮地は脱したが、此れで事態が好転した訳ではない。
郭石と言う脅威が取り払われたものの、五人は、獄舎を背にした儘で、井岡賊から十重二十重に取り囲まれた儘だ。唯、郭石の死を目の当たりにして、無造作に飛び込み、身の危険を顧みずに三人の上玉を捕え様と言う蛮勇はいなかった。
息が詰まる様な対峙に為った。
李光の額を大きな汗粒が垂れる。焦る気持ちは隠し様も無い。時間が掛かれば、其れだけ逃亡が難しくなる。包囲する賊徒は増えはしても、決して減る事は無いのだ。仮に三人の女傑が、千の兵士を相手にしても引けを取らない様な剣技を有していたとしても、飽く迄一度に、と言う訳ではない。囲まれた上で一斉攻撃を受けては、どうにもならない可能性の方が高い。自身の剣技への過信は、容易に身を滅ぼす結果になる。
其れも、目の前に横たわる躯が、良い教訓である。
誰もが焦燥感に駆られる中、孫策だけは冷静に周囲を見回している。賊徒がどよめく様な隙を作れば、大人数だけに混乱も甚だしく、逃亡も可能に為る、と。そして、孫策が目の端で有る物を捉えると共に名案が浮かぶ。
其の時には行動を起こしていた。
にゅっ、と伸びた孫策の腕が李光の目の前を通り過ぎ、魏延の胸元に伸びる。否や、目にも留まらぬ素早さで、魏延の豊満な胸元を抑える金具を器用に外した。
扨、芳紀を迎える頃と言えば、女性は体型が一段と女性らしく変わる時期だ。魏延もその類から漏れる事は無く、胸も腰も今まで以上に成長を遂げている。言うなれば、今では服の胸の部位や輿の部位が、きつく為って来ていた。そろそろ新調せねば――、と思いつつ、其れを、無理矢理に服の中に押し込んでいたのだ。
孫策が、其処まで見抜いていたのかは不明だが、彼女の掌に依って、胸の部分の抑制が一つ解かれた。当然、胸への圧力が弱まった事で、此れまで均等を保っていた力が不釣り合いに為る。
詰り、結局の所は如何なったかと言うと、魏延の胸は、締め付けていた衣服の留め金の全てを順番に弾き飛ばした。当然、胸が露わになると同時に、抑制から開放されて激しく上下左右に揺れる。
「ウオォー!」
大地を揺るがす様な雄叫びが上がった。
どよめきと共に、男達の注意が魏延の胸へと集中する。直ぐ隣にいる孫策や黄忠は、彼等の視界から外れる程に、だ。重囲を作っている男達の脂下がった顔が、魏延の胸の揺れに合わせて上下左右に揺れている。
これを千余の男共が息を合わせた様に、全く同じ行動をしている。エグザイルも、日体大の集団行動も如何や、なのだ。
孫策が、其の間隙を見逃す筈が無い。李光の腕を取るや否や、戟を振って重囲に突進する。不意を突かれた男共に為す術は無かった。敢え無く孫策の剣戟に掛かって斃れ、逃走の進路を作る。
「ま……、待って……」
其れを追おうとした魏延は、もたもたと自分の胸を隠す事に必死で、足元には注意が及ばなかった。何かに蹴躓いて派手に転んだのだ。
黄忠は、転ぶ姿を脇目に、魏延の横を悠々と駆け抜けて李光に追い付いた。
魏延だけが、逃げ遅れたのだ。
唯、李光は、魏延が転ぶ瞬間を、両の眼で確りと見ていた。魏延が胸から掌を離した為に、桃色の乳頭がはっきりと見えた事では無く、転ぶ直前に、黄忠が転がっていた石頭を蹴飛ばして、魏延が転ぶ様に仕掛けた事を……、だ。
李光達には目も呉れず、男衆の重囲の輪が、魏延を中心にして窄まる。遠くで黒煙が何ヶ所も上がっているが、下卑た笑いを浮かべる男達の目には魏延しか捉えていない。
「助けなくて良いんですか?」
李光がこの言葉を口にする前に、孫策は此れまで以上に腕を強く引いて速度を上げる。黄忠も、後ろから押して先を急かしてくる。
其れでも李光には、魏延の安否――、と言う未練がある。振り向いた彼の視界に映ったのは、黄忠の妖艶な貌であった。李光を安心させる様な笑顔である。但し、眼差しは笑っていなかった。
李光は、未曽有の迫力に気圧されて口を噤んだ。唯、黙々と脚を動かす事だけしか出来なくなった。
「ゥ男なんてェ!」
遠くから聞こえて来る魏延の怒声が、虚しく砦の中で谺する。
途中で、騒ぎを聞きつけて急行した何人かと剣を交したが、孫策や黄忠の敵では無い。四人は、易々と井岡賊の砦から脱した。少し離れた森の中で張業と合流すると、背負っていた王媚を下ろして楽な体制にする。
相変わらず王媚の呼吸は浅いが、張業が声を掛けると、薄く目を開けて、健気に微笑んで其れに応える。衰弱しきっている今の王媚には、人に背負われて移動する事も重労働で、無理をすれば万が一の事も有る様にしか思えない。
李光は、王媚を休ませる為に、一つの提案を口にする。
「魏女史が来るまで、せめて一刻は待ちましょう」
「冗談じゃないわよ。此処は、敵の真只中なのよ。無理をしてでも、脱出を急ぐべきだわ」
直ぐに異を唱ええたのは孫策だ。王媚の身を案じる張業も、直ぐにでも暖かい場所に連れて行きたい、出来れば、薬師に診せたいと思っているからか、積極的ではないにしても孫策に賛同の立場である。
だが、李光は、孫策が急ぐ、他の理由に思い当たる。
――魏延を人身御供にしたのは孫策だしな……
流石に、ばれてはいないと言う楽観はしないか、と。李光の探る様な眼差しに、孫策は、明後日を向いて口笛を吹いて誤魔化す。孫家の御嬢様だと言うのに、余りにもはしたない振舞だ。彼女の横顔は、弱肉強食の世の中なのだら仕方が無い、と言っている様にも見える。
其れは扨置き、此の儘では多数決で、魏延を見捨てなければならない。李光は、最期の防衛戦の黄忠を見詰める。常識ある大人なら、良人の同僚の姪を見捨てる事はしないだろう、と。
「魏延ちゃんを置いて行くのも不憫だわ。とは言え、此処が敵中だと言う事も考慮しなければならないわ。だから、一刻は長いから、半刻で如何かしら」
黄忠の言葉を聞いた李光は、思わず天を仰ぎたくなった。
――黄女史、貴女の良心はその程度ですか?
と。若しくは、自分の悪行が露見していない、と言う自信を持つ事が出ないかの、どちらかだ。
李光の恨みがましい眼差しに、やはり黄忠もそっぽを向いた。自分の悪行を反省する、と言う気持ちは皆目無さそうだ。
李光は呆れ果てていたが、結局、折衷案で、黄忠の言葉が取り上げられる事に為った。
扨、果して魏延は、半刻を待たずして集合場所に登場した、身形はボロボロで、井岡賊の砦に乗り込む時の精悍さは、何処にも見当たらない。問題の胸の部分は、上着で固く結んで、何とか誤魔化している。頭髪の一部が白髪に変わっている所を見ると、数多の男が虚ろな目をして迫ってくる恐怖が、生半なものでは無かった事を証言している。
そして何よりも特徴的なのは、般若の様な表情だ。怒気を露わに、孫策を睨み付けている。下手な言葉を口にでもしたら、間違い無く食って掛かるだろうし、刃傷沙汰に発展するのは必至だ。
「今回の武勲の全ては、魏女史のものですね。あそこで機転を利かせて衆目を引いて下さった御蔭で、こうして皆が無事な姿で再開する事が出来ました」
李光は、魏延への孫策の所業も、黄忠の所業も、全く気付いていない振りをする事にした。後は無事に逃走するだけのこの面子の輪に、余分な波風を立てる必要は無いのだ。其れに、少なくとも彼には、後ろ暗い所が無いのだ。
唯、此の言葉は、魏延の怒りの機先を制す格好と為った。
元より彼女は、勲功や武功と言った言葉に弱い。功を得て出世し、早く伯父と同じ県尉に為りたいと願って仕官したのだ。其れを強く欲しているが故に、この言葉に極端に弱いのは仕方が無いのだ。
喜色満面の魏延の様子を見れば、誰もが今の内に持ち上げて置けば、誤魔化すのは容易な事だと思ったに違いない。事実、李光が口を閉じると直ぐに、黄忠が其の後に続いた。
「魏延ちゃんは、人の上に立つ器ね。県尉どころか、騎都尉も夢じゃないわ。きっと、お亡くなりになった魏大人も、草葉の陰で、さぞや喜んでいる事でしょうね」
と。
この言葉に、魏延は其れと分かる位ににやけた。先にも触れたが、黄忠の亡夫と、魏延の伯父は同僚であった。彼女の伯父の事も能く知る黄忠からの言葉は、魏延にとっては格別である。
此れで出世も夢ではない――、と思った。
得意満面の魏延の鼻が高くなり始めた様に感じたのは、李光だけでは無かったろう。
「本当、黒鷲勲章を上げたいくらいだわ。さ、王媚の呼吸も落ち着いて来たわ、さっさと出発しましょう。こんな所で掴まっては、王媚を救い出した意味が無くなるわ」
其の言葉を残して孫策が立ち上がると、張業が王媚を背負って立ち上がり、李光、黄忠も其れに続く。魏延は、一行の最後方に付いた。
「殿は、ワタシに任せろ!」
と。
魏延の前を歩く李光と孫策、黄忠の舌は、三寸もあり、人よりも長い所為か、先端が口の中には納まり切らずにはみ出た儘だ。恰も、アッカンベー、である。
――魏延が扱い易くて良かった。
と。
千古、此の地に興った『楚』と言う国は、中原の諸国の文化とは異質の文化を積み重ねていた。通常、一年の始まりを春と定める国家が多かった中、楚は、一年の始まりを冬と定めていた。
湖南地方では、未だに年頭を冬に定める風習が廃れてしまった訳ではない。
もう、晩秋も終わりに近い。此の地では、間も無く新たな年の始まりでもあるのだ。
雨が降ったお蔭で、仕事が休みになりましたとさ。
と言う事で、文章に起こしてみました。
時間を掛けないから、良いものが書けないんだよ。




