・1 開闢
お読み頂き有難う御座います。この話は転生・再構成もので、同タイトルでは御座いませんが、依然、「TINAMI」にて投稿していたものに大幅に手を加えたものになります。ですから、話の内容とは関係の無い細やかな所は変更を加えておりません。宜しくお願いします。
尚、縦読みの方が読み易いかもしれません。
運命とは、一体なんなのであろう。辞書の言葉を引用すれば、人間の意志には関わりなく、身の上に巡って来る吉凶禍福、と出る。
では、其れを踏まえた上での人生とは何なのか。極端な見方すれば、誕生した時から定められた運命に従って時を過ごし、軈て運命の儘に死に行く事なのであろう。そう書いてしまうと実に侘しいものだが、小生はそうは考えない。
人生とは、定められた運命に抗い、新たな運命を切り開く努力を続ける事ではなかろうか、と思う。喩、運命に依って自分の将来が決められていたとしても、だ。其れが生きる証であり、其れこそが人間としての本分では無いだろうか、と。
だが、如何に努力を惜しまずとも、逃れ得ぬ運命と言うものは有る。何れは誰もが迎えるもの、人としての消滅、詰りは死である。
死には様々な形が有る。本来、人として与えられる寿命を全うする大往生も有れば、不慮の事故に依る早逝もある。自然死、病死、事故死、自殺、様々な形が有る其れは、どれであれ、必ず人の身に平等に訪れる運命なのである。
誰の身にも訪れるこの運命は、弱冠にも満たない少年の許にも訪れた。
原因はありふれたもので、昨今では珍しくも無い交通事故だ。が、突発的な事で、少年には何一つ過失は無く、彼の此れまでの人生から考えれば殺生な話であった。少なくとも彼が過ごした是までの人生から鑑みれば、神から賜う運命で、こんな無体な仕打ちを受ける覚えはない。
痛感を与える暇さえなかったのが、神たる者の慈悲とでも言うのか。其れとも、身罷ってしまっているとは思えない様な、傷一つ無い穏やかな顔が其れだとでも言うのだろうか。
今にも瞳を開けて微笑みを浮かべそうな少年の顔を見れば、彼自身にも家族にも、余りにも酷い仕打ちだ、としか言いようがない。
亡骸が納められている柩を囲い、泣き崩れる者達の口の端々から、
「……一刀……」
と少年の名前を呼ぶ声が、無念の滲んだ呻き声に聞こえる。其れだけでも、親族の胸裡に募る未練は小さなものでは無かった事が理解出来る。彼が遺族に残したものと言えば、二十年にも満たない幾ばかの思い出と、深い哀しみだけであった。
だが、彼は神から見捨てられた訳では無い。闇の奥の深淵の彼方に消えた筈の少年の命の灯は、全く別の所で再び炎を燈した。
言うなれば、新たに生まれ出でた世界こそが彼の存在を必要としている、と言う事であろうか。
■ ■ ■
紀元前三世紀末から紀元三世紀初頭までの四百二十年余、亜細亜大陸の東端では漢王朝が、栄枯盛衰の時を過ごしていた。此の王朝の特徴は、二度の勃興を繰り返した事に有り、高祖劉邦の興した長安に帝都を持つ王朝を西漢、世祖劉秀の興した雒陽に帝都を持つ王朝を東漢と。帝都との位置で呼び分けている。
前漢・後漢との言い方もあるが、大唐帝國滅亡後の動乱の時代・五代十国の頃に劉知遠の興した国が、正式に『後漢』と為っている事から、誤認を避ける為に前者の呼び方が現在の主流だ。
過去に興った王朝の衰退の原因は、概ね二分類して良いだろう。一つは敗戦に依る没国、もう一つは朝廟での内紛に起因する衰退だ。
漢王朝もその類から漏れる事は無い。特に、紀元前に隆盛を極めた西漢の時代を紐解いて見れば、波瀾万丈であった。帝國を興した劉邦の治政の頃から、既に深刻なインフレで危機的な状況であった王朝ではあるが、一度目の大きな危機の到来は、高祖・劉邦の薨去と共に訪れる。
簡単に言えば、皇后であった呂雉の専横が原因であろうが、専横をした呂皇太后にだけ問題が有る訳では無く、劉邦にも多分に責任は有る。呂雉は、皇后でありながらも、高祖・劉邦からの寵愛を受けていない。一男一女を儲けているが、本当に劉邦との間に出来た子供なのか、との疑問もある。専横の蔭には復讐心が有り、其れはさぞや強い事だったろう。
扨、詳細は省くが、呂雉に依る専横も陳平や周勃らの漢王朝の元勲によるクーデターで終息する。恵帝、少帝恭、少帝弘の代は、呂氏の専横に依って国内の疲弊が激しかったが、其の後の文帝・景帝と辣腕を揮った二人の皇帝の主導に依って国家再生が成ると共に、内紛である呉楚七国の乱の終結を機に中央集権化が一気に加速する。
西漢が最盛期を迎えたのは、間違い無く次代の武帝が治政を行った時代と言って良い。即位当初は、太皇太后の竇氏に専権を握られていたが、瞑目の後には実権を取り返し、多くの国家事業を推進し始める。
例えば軍事力を強化して帝都の北に広がる河套、所謂オルドス地方の奪回を果たす。南越への遠征勝利、朝鮮半島の北部を征して漢四郡を置き、更には、大宛の征服、国家の保全と西方交易保護の為の長城の延長を行う。加えて広大な陵墓の建造、宮城の増築、先代の皇帝や古代の王侯貴族が手掛けてきた河水に於ける治水事業と、国家繁栄事業を手広く手掛けた。特に軍事費は膨大であり、当時の国家予算の半分は其れであったと言う。
此れに依り、王朝の領土は格段に広がった。東は朝鮮半島の北半分から始まり、南は所謂ベトナムである南越、西は大宛、今で言う所のキルギスやタジキスタンの東端、北は匈奴の地に居延を建造するまでになった。正に東西の漢王朝を通じての全盛期がこの頃だ。
併し、此れだけの事業を一手に執行すれば歳出は膨大なものと為り、文景時代に潤った財源が底を突くのも肯ける話だ。但し、其れで国家が破綻する事は無く、再び倹約を行って歳出を抑えれば良いだけだ。
だが、間の悪い事に王朝の内部でも問題が発生する。所謂『巫蠱の獄』と呼ばれる事変だ。これにより、断罪される者が万余に及び、南北宮は共々に空洞化して機能しなくなる。老いぼれて猜疑心が強くなった武帝を利用しての、己が地位の安泰を望んだ江充の謀略である。
これを機に、西漢は一気に滅亡への道へと転がり始める。
其の後、霍光が国家再生に尽力するも、彼の眷属が放漫に為り、思惑とは逆の方向に国家状勢は進む事に為る。結局衰退に歯止めが掛かる事は無く、成帝の頃から補佐を始めた王莽に依って国家を乗っ取られ、最終的には廟堂に幕を閉じる事に為る。
王莽の興した新王朝は、朝廟を開いた時から滅尽の危機に有った。孺子嬰の時代には摂皇帝として政治の舵取りした王莽であったが、疲弊した国家に懐古政治を導入して更に混乱を呼込む事に為る。理想としていた社会形態とは言え、一国の摂政をしていたとは思えない様な政治センスの無さと言って良い。
既に中央集権化が確立した国家に、千年も昔の政治手法を導入した所で円滑な治政が成る筈は無く、正に『安漢の詭譎』と云われても仕方が無い程の政治主導であった。尤も、長い年月を掛けて疲弊した国家が、本の数年を掛けただけの政策で復興を遂げる筈は無いだろうし、其の為には余程に効率の良い治政を行わなければならないか、若しくは国家体制を根本から見直す必要が有った筈である。
腐敗した王朝から、新たな王朝への転換は、海内の人々に大きな希望を与える筈であった。だが、訪れた世界は彼等の望んだ其れでは無かった。其の時の失望感は、如何程に大きかった事か。
求めた理想と訪れた現実の差に、混乱した人々は、時を置かずして国家に嘆く様に為る。すると、瑯邪郡海曲県で起きた『呂母の乱』を皮切りに、海内の各地では反乱が頻発する。特に大きな二つが、呂母の乱から派生した赤眉軍、南陽郡の南で起った緑林軍が起こした其れが代表的なものであろうが、緑林軍は、後に分裂して下江軍と新市軍になる。
尤も前者の二軍は、正規軍では無いだけに常に兵站線に問題を抱えており、軍と言うよりは、寧ろ賊徒として意味合いの方が強く、徴発の名を借りた略奪は日常茶飯事であった。
当然の様に海内は戦乱、掠奪、偸盗、拐帯が頻発して其れに悩まされ、人々の暮らしが此れまで以上に不安定に為ると、益々と新たなる時代の到来を切望する様に為る。こんな時代が到来するなら、
――劉王朝の方が幾分にもマシであった。
と。
その声に推される様にして起ったのが、景帝の血筋に有る舂陵の劉氏だ。時の与党の新王朝を斃したのは更始帝・劉玄と言う事になるが、実際に各地を転戦してその原動力と為り、民から絶大な信任と名声を得たたのは、東漢の世祖、光武帝の諡で知られる劉秀だ。
だが、その劉秀とて、在世の間に西漢時代の領土の全ての平定を為し得た訳では無い。先に語った様に海内は果てし無い程に広大で、様々な民族や人種が入り交ざっており、真の平定をするには途方も無い時間が必要であった。
其れでも劉秀が失意に呉れる事は無く、『中原を制せし者が、海内を制す』と言う言葉が有ったとしても、そんな甘い言葉で皮算用をする程に楽天家では無かった。
何よりも、劉秀は、西漢時代を最盛期にまで押し上げた『文景の治』を知っている。詰りは、海内にはそう為るべく耐力が有る事を。
そしてもう一つ、劉秀自身には、文帝や景帝の様な辣腕を持ち得ていない事も、だ。
が、劉秀と言う人の人生を紐解いて見れば分かる事だが、彼は逆説の人であり、常に前向きな人でもある。己には偉大な皇帝達の様な治政能力が無いとしても、其れも三代、四代に掛けて事業を継続すれば、決して引けを取るものでは無いと考えていたろう。
その裏付けと言う事は無いが、皇后・陰麗華との間に生まれた嫡子の劉荘は、十歳にして儒学の教本とも言える春秋を諳んじている。それ程の才能を見せているのだ、愛する者との間に出来た子供と言う事も相まって、過分な期待を掛けてしまったとしても仕方が無い事だ。
劉秀自身が千年帝國の礎を築き、劉荘が安定させて確固なものとし、さらに後世で徐々に発展をさせて行く、そんな未来図を描いたとしても、仕方が無い事なのだ。
が、劉秀の目論見の頓挫は、劉荘の夭折と共に訪れる。三十歳で即位した劉荘は、五十の声を聞く前に薨去し、在位期間は十八年であった。が、儒学に精通した劉荘と言う人が、父母の死に際して服喪していないとは考え辛い。四年余の月日は、朝政が滞ったと考えた方が良い。寧ろ、漢王朝が儒教を国学としている国家だけに、親の死に際して国父が喪に服すのが当然と言って良い。
加えて劉秀の在位期間が三十二年だが、その大半は騒乱の平定に費やされている事から、内政に本腰を入れたのは、果して何年だったのか。世界に名を馳せる一大帝國の礎を築き上げるには、五十年では間違い無く足りなかったろう。
此の事から考えても漢王朝の国家基盤が、脆弱さを残した儘で発展を続けたと考えて良い。
国父の夭逝は、悪循環の始まりでもある。劉荘の次代を担った劉炟は、弱冠にも満たない十九の齢であった。劉炟の治政の前半は、劉荘の皇后、時の馬皇太后が後見人として補佐した事から安泰であった。が、問題が起きたのは馬皇太后の崩御した後だ。
馬夫人の存命中は、皇太后の権限で、外戚の増長に楔が打たれていたが、没後は骨肉の権力争いと為り、其の後の時代も培われていく様に為る。
その一つが、執政と言う形で行われている。一人の皇帝が夭折すれば、次代を担う皇帝が若年で即位をしなければならないとは、既に語っている事だし、云わば常識だと言っても良い。
当然の様に、幼くすれば廟堂を制す事が出来ず、悪意を持った佞臣に利用されるのが関の山だ。国家運営の場所が私欲の為に使われてはならず、其れを阻止する為にも政治に精通した者を、天子の補佐、詰りは摂政を付けるのは常識であろう。
唯、其れも摂政を行う者に私欲が無ければ、という話である。
事実、東漢の時代には、幾人も天子に代って政治を執った者がいる。最も有名なのが、冲帝、質帝、桓帝の御世に恐怖政治を布いた粱冀であろう。そして次に名が知られているのが、和帝の皇后であった鄧夫人である事は疑い様も無い。
併し、共に問題は有り、粱冀は先にも語った様に恐怖政治を布き、鄧皇太后は、殤帝、安帝と摂政を歴任したが、眷属の専横が他族からの怨嗟を買い、安帝の妃である閻氏に失脚させられ、一族として没落する。
が、其れで彼女の政治生活が終わった訳では無い。少帝懿の時代に専横を行った閻氏も、後の順帝の時代の直前に、宦官・孫程のクーデターに依って孤城落日を迎え、第一次宦官時代の到来と為る。が、其の宦官時代も呆気ない終焉を告げる事に為る。三十で崩御した順帝の次代を襲ったのが、当時二歳の冲帝である。
此の時から摂政に就いたのが、時の大将軍の粱商の跡目を継ぎ、後に恐怖政治を布く粱冀だ。彼は、宦官が支配する時代に眷属の出世と共に徐々に力を付け、混乱に乗じて政権を奪取した。冲帝は翌年には崩御し、次に起ったのは、七歳の質帝であるが、彼の在位期間も僅かに二年であった。
時の権力者である粱冀の放漫さは止まる事は無く、次代の桓帝の御世には登庁すらしなくなった。桓帝が即位したのが十五の歳で、決して独り立ちが出来る様な歳では無い。此の時に政治の代行を担う者として呼ばれたのが、過去に実績の有る鄧皇太后である。
が、鄧皇太后の政治手腕が如何に優れていたとは言え、既に七十を超している老齢である。若かりし頃には二日でも三日でも政務に没頭できた彼女であったが、老いに勝つ術は無く、今では半日の時でも心労は底知れない程に大きい。
しかも以前の様に眷属からの後援は無く、又、専横や暴政を行っている宦官や官人の手を借りようとは思わず、今では孤軍奮闘するしかない。が、それにも限界はある。一計を案じなければ国政は遅滞を来たし、高祖・劉邦の興した漢王朝の三百五十年の輝かしい歴史に幕を閉じなければならない事に為る。其れだけは絶対に避けなければならず、彼女のプライドが其れを赦す筈は無い。
併し、年老いた躰を思う様には動かず、誰かの力を借りねば、とてもでは無いが政務に遅滞を期さない事は出来ない。官人でも宦官でも無く、それどころか分不相応な欲を出さない誰かに、である。心当たりが無かった訳ではないが、国家形態が其れを赦すかは、甚だしく疑問であった。勿論、彼女が登用しようと考えたのは、自分と同じ様な政務の出来る女性である。
当時は、女性の社会進出は許されてはいない。女性は、氏族社会を堅持する為の道具でしか無く、権力を持つにしても、権力者に寄生する様な存在であるしかなかった。其れも、粱冀の妻、孫寿を見ればよく解る。
その女性に権力を与えるのは、時勢には適わない。が、そう言った権力に程遠い存在が無くして、国家再生が叶わないのが時の漢王朝であった。
結局、鄧皇太后は、女性の官途をごり押しする。無駄な争いを避ける為に、登用した女性には官位を与えない様にしたのも、鄧皇太后の頭が切れると言う証左であろう。その代わりに、彼女の私財を叩いて恩を報いる事とした。
――彼女等が実績を重ねれば風潮は変わり、何れは官として迎え入れる時代は訪れる。
と信じて。
鄧皇太后は、早速この案件を承認させる為に、朝廟に百官を招集した。
時の第一権力者は粱冀であっても、第二の権力者は鄧皇太后なのである。粱冀の居ない朝廟で、鄧皇太后に対して異見の出来る者が居ないのも当時の朝廟なのである。獅子吼した鄧皇太后に異論を唱える事の出来る様な気骨のある者は、唯の一人もいなかったのが現実だ。
一つの歴史が、向かうべき方向から外れた時であった。
○
時代の流れが多少なりとも変わったとしても、漢王朝の衰退に歯止めが掛かった訳では無い。
喩、実害が庶民に及ぶ事の無い、闘争劇が朝廷内部だけの事だったとしても、迷走する王朝は庶民からの信認を失いつつある。その証拠が、海内の各地での密教の乱立だろう。政治不安に駆られた民が何かに縋ろうと考えるのは、決しておかしな事ではない。寧ろ、弱者である彼等が、力の強い何かに頼ろうと考えるのは、自然な流れと言って良い。力の弱い草食獣は、群れを成して自衛に勤めるのが自然の摂理なのだ。其れが、漢王朝と言う政治団体から、何処の誰とも知れない怪しげな密教に変わったに過ぎない。
其れは扨置き、鄧皇太后は、女性登用制度を定めて直ぐに薨去している。時の皇帝である劉志が、粱冀から実権を取り戻そうと画策を始めたのも此の頃だ。が、此れが一筋縄では達成出来そうにないのが、此の時の劉志を取り巻く状況である。
此の時の政権を制しているのは粱冀である。彼に諂う者は当然として、そうでは無い者も、無用な災禍を恐れて劉志に翼賛を与えようとする者は居ない。否、全く居ない訳では無いが、身近の世話をする宦官の多くが同調したとしても、果たしてどれだけの助力が得られるのか、と言う事だ。
この時代の宦官は、後の時代の彼等と違って節度が無い訳ではないが、口減らしの為に宦官に出されているだけに、教養の有る者は多くない。後の三国時代を形成する一国の魏、その太祖・曹操の祖父に当る曹騰も、天災の多かった順帝の時代に誕生し、運よく黄門の従官、詰りは宦官に為った一人だ。先の言葉からも判る様に、曹騰の時代には天災が多かった事から、食糧事情は良く無かったと考察出来る。要するに、曹騰も口減らしの為に宦官に出されたのだろうし、宮中に出仕した時には教養が豊かでなかったのは事実だろう。
其れは扨置き、運は劉志にあった。粱冀は驕っていたのだ。欲しい物は何でも手に入り、したい事は何でも出来る。世間も官人も自分の思う様に動いた事から、自身の権力を過信していた。だが、其れが故に油断し、隙を見せた所で自宅を囲まれ、結局は横死する事に為る。
眷属を含め、断罪された者の数は三百余に上ったと言う。西漢王朝で起きた、『巫蠱の獄』に似ていなくも無い。その轍を踏むかの様に、東漢王朝は同じ衰退の道を辿り始める。唯一つ違うとすれば、混乱を起したのが皇帝自身で有ると言う事だ。王朝内から三百余の人員が一度に消え去れば、朝廷は機能低下する。云わばクーデターの発起人の劉志は、その事変で功績を上げた宦官や、鄧皇太后の定めた女性官人に依って、人材の補填を始めた。
更に宦官には特権を与える。順帝の頃に許された蓄財に加え、養子を認めた上で世襲も許す。宦官と卑下されていた時代は過ぎ去り、一般の官人と同じ扱いを受ける様に為り、云わば、宦官の時代の到来した、と言う事である。が、此れも仕方が無い事で、粱冀と鄧皇太后に実権を奪われ、百官からの嘲弄の眼差しは、彼の心に大きな傷を拵えたに違いない。猜疑心が強い、と言うだけでは片付けられない問題だったのだろうが、一国の未来を示さねばならない皇帝と言う立場の者としては、些か狭量な人物と言って良い。
扨、身に余る特権を得た宦官は、如何したであろうか。無論、性別を捨てた彼等に性欲がある筈は無く、蓄財や権力の掌握に矛先が向いたのは想像に難くは無い。と為れば、当面の敵に為り得る者達を弾圧する事であろう。『党錮の禁』と呼ばれる事変が其れに当る。
党錮の禁と呼ばれる其れは、二度行われている。云わば、外戚や豪族と、宦官の対立が其れであるが、一度目は劉志の中期、二度目は晩年である。だが、外戚や豪族が如何に力を持っているとは言え、皇帝を後ろ盾にしている宦官に敵う筈はない。結果は多くの者が投獄され、犬死にしている。世間から識者の排除を行えば、果たして如何なるのかは目に見えている。其れを赦した劉志と言う人の政治的センスの欠落は如何であろうか。併し、其れも朝政の場を粱冀に、そして鄧皇太后に奪われていたのだから、其れが培われて来なかったのも仕方が無いと言えば仕方が無い話だ。
軈て劉志は崩御したが、宦官の時代が止む事は無かった。
時代は劉宏の御世に移った。相変わらず宦官は、我が世の春を謳歌している。が、其れに斜陽を告げる事件として起ったのが、張角が指導する太平道の大規模な反乱である。
元より学識が高くない宦官は、政治に依る反乱の解決を図る事が出来ない。軍旅を発して物理的に障害を除く事しか出来ず、二次的な災害にはさっぱり思考が巡らない。此の時、帝都の守備をする皇甫嵩や呂強に依り、党錮の禁を解いていなければ、清流派と称した面々は、漢王朝打倒の為だけに太平道に合流しただろう。
後に黄巾党との戦いで、常勝を重ねる皇甫嵩の勲功が戦いの中にあると考える者は多いと思うが、恐らく、此の献策を皇帝に認めさせた事こそが一番の業績ではなかろうか。喩、どんなに張角の指導力が高かったとしても、国家を運営するには多くの人材、特に見識の高い者を必要とする。恐らく、張角が決起した時には地方の豪族、特に党錮の禁に依って弾圧された多くの士族の支援が有る、と皮算用を胸中に秘めていた筈である。
後に沈静化する黄巾の乱も、皇甫嵩と言う一人の傑物に依って鎮圧されたと言って良い。
唯、時代は否応なく戦乱の世に移ろうとしている。其れも、漢王朝の建立前、大秦末期を思い浮かべて貰えば容易な事で、『黄巾の乱』を『陳勝・呉広の乱』になぞれば、おのずとその先が知れて来ると言うものだろう。
敢えて言葉にするなら、時代とは繰り返すものなのである。
◇ ◇ ◇
此処で少し、この話に彩りを添える登場人物の事も語っておこうと思う。
農民反乱が頻発する少し以前に、王朝に仕える為に洛陽に登城した者がいる。当然、郷挙里選に依って選ばれた者で、姓諱を曹操、字を孟徳と言う。
この頃は、桓帝の治政が朝廷内で色濃く残っており、官に就いても出世できないと言う世風が強く、多くの賢人や傑人達は地方に活躍の場を求めるか、若しくは悲観して野に埋もれか、又は韜晦して隠棲する者達の方が多かった。
が、曹操は其処を好機と見た。ある意味、他人が避けて通る轍を態々踏もうというのだから、反骨の人といって良い。敢えて言えば、逆説で物事を考察する人物であると考えてよく、東漢の鼻祖に当る劉秀の人物像を能く解かっていたのかもしれない。
併し、冷静に考えてみれば、官職に就く者が少なければ出世の機会が増えるのは道理であり、穿ったものの見方と真実を見通す目を持っていた、と言える。
結果から言えば、曹操の行動は明察を得ていた。雑役係とも言える朗中と言う誰もが通らなければならない地味な役職ではあったが、持ち前の目端の鋭さを生かして早々に頭角を現すと、半年も経たない内に洛陽北部尉へと出世する。そこで起きた一つの事件が、曹操と言う人物の為人を世間に知らしめる事になる。
劉宏の寵愛を受けていた宦官の蹇碩の叔父を、夜間通行の禁令を犯したとして捕え、即座に刎頸に処している。誰もが曹操への意趣返しに戦慄し、同情したが、当の本人はそんな事も何処吹く風で飄々としており、結局は、職務に遅滞の無かった曹操を貶める事が出来ず、栄転の名を借りた地方への転出で厄介払いをするしかなかった。
先にも語っているが、当時は宦官に向かって世風が吹いていた時代である。たった一言の讒言で僻地に左遷される事は珍しくは無く、誰もが其れを恐れ、疑心暗鬼で窮屈な生活を強いられていた。そんな時代の事である、宦官の顔とも言うべき蹇碩に煮え湯を飲ませ、一つの光明を齎した曹操と言う人物に向け、世間から多くの喝采が贈られたのは言うまでもない。
最も、当の本人が其れで天狗には為らなかったし、悦ぶ事は無かった。曹操は抑々の考え方が常人と掛け離れていただけで、当人に言わせれば、
「当たり前の事をしただけ」
なのである。
併し、悪意のある余人に言わせれば、祖父の曹騰が宦官職の筆頭に当る大長秋で有った事や、父の曹嵩が三公の一つの太尉であるのだから、怖いものがある筈が無いと陰口を敲き、曹操を貶める事に依って己が体裁を固持した。
が、事実は、曹操と言う人物が、正鵠にものを見詰める心眼が優れていたからに他ならないだけだ。
――誰もが委縮している時に正義を貫いて職務に携われば、間違いなく報われる。
と。
結局、栄転の名目で地方に転出した曹操は、兗州東郡にある頓丘の長ないし令となり、再び活躍して議朗として中央に返り咲く事になる。
因みに一般的な県単位の行政長官には三つの階級があり、比較的大きな県は六品官の県令、中級の県は七品官の県令、小規模の県は県長と呼ばれ、八品官になる。その下の行政区に亭長が置かれるが、これは地方行政長官に依って選出されるので、中央の官位からは外れる。
何処の部署かは分からないが、復帰した役職の議朗が七品官よりも上である事から、頓丘県は、中級か小規模の県であると考えられる。
扨、再び中央に復帰した曹操を、忌々しい思いと共に迎えた者がいる。姓諱を袁紹、字を本初と言い、曹操とは同年の者である。
辣腕を振るって出世した曹操とは対照的に、袁紹は豫州汝南郡に本拠を置く良家、三公九卿を多く輩出した袁家の出自と言う事実を背景にして時の大将軍の何進に仕え、そのまま官に就いた。両雌相対した瞬間、互いに敵意を感じたか如何かは、当の本人達だけが知る事である。
因みに同じ袁家には袁術と言う者も居るが、曹操と袁紹の二人は洟も引掛けなかった。
と、言うのも理由がある。当時、名家の子女は、挙って任侠を気取った。今も昔も人の本質は変わる事無く、流行には敏感であった。特に、若者はその傾向が顕著である。その流行が、任侠を気取った事なのである。
発端は実に些細な事で、沛県で任侠として名を馳せ、漢王朝の鼻祖となった劉邦を見習う事で英雄に為れる、
――任侠を真似れば、劉邦に肖れる。
と。
詰りは、容から入る、と言う事だ。
唯、劉邦かぶれの任侠ごっこも、概ね二種類の人種に分かれた。劉邦と言う人の本質を見抜く事をせず、表面だけを真似て、単に放蕩を繰り返した人種が一つ。もう一つは、何故、劉邦と言う一介の任侠が漢王朝の高祖として名を遺したのか、と内面を探究した人である。
前者の典型は袁術である。となれば、後者の典型は曹操であり、袁紹と言う事であろう。劉邦が天下を掌中に収めたのは、己が分を弁え、他人との好誼を大切にしたからだ、と言う事に着目したのだ。
当然の様に、曹操や袁紹は好誼を交わす者を選び、それが更なる名声へと繋がる。
対して、耳に心地よい甘言を吐く者とばかり付き合う袁術の名声は一向に上がる事は無く、自分よりも名声が上がる一方の、特に袁紹への怨嗟は日を追う毎に増して行くばかりだ。袁家と言う同じ一族であるが故に、憎悪や確執、軋轢と云った負の感情は、深く険しいものへと変わっていく。
三人が深く交わる様な好誼を交わした事はない。が、同年代と言う事も有り、意識した事は間違いない。少なくとも、曹操と袁紹は、表面上の付き合いを続けながらも、互いを警戒した事は容易に知れる。そして袁術は、二人を必要以上に敵視した、と言う事も。
三人は、奇妙な関係を保った儘で朝廷に仕え、洛陽での日々を過ごす。
◇ ◆ ◇
洞庭湖の南、所謂湖南地方の最南端に当る桂陽郡は、文明を築くには具合の良い程の温暖な気候とは裏腹に、開発の手を拒む自然と峻嶺が犇く立地から、古来より流刑地とされている場所である。
比較的罪科の軽い者達がこの地に送られ、今では世界遺産としても知られる丹霞山付近の鉄山に閉じ込められ、労役に従事させられていた。又、刑罰に連座させられた者達の流刑地も、比較的軽微であれば、やはり此の地であった。
湘水が郡を東西に二分する様に中央を流れる桂陽郡と言う地方行政区は、漢王朝の最南端に近い所であっても、口数は百万を超えている。その割に県城は十一と少ない事から、郷邑と言った比較的小さな部落が数多く点在していた土地であると言う事が分かる。
其れも、先の言葉から、どんな性質をもった部落かは語る必要はないだろうし、土地柄、南蛮と蔑まれて呼ばれる先住民や異民族の数が多い事も、有る程度は察しが付くと言うものだろう。
そんな地域であるが故に治水は進んでおらず、同様に街道の整備も進んでいない。抑々、冤罪によって流刑に処せられた者達が多い桂陽と言う土地は、南方交易の往来が有る湘水沿いに設けられている主街道以外は、労役者や流刑者の逃亡を防ぐ必要が有り、更に反乱の規模を大きくさせ無い為に、街道の整備は極力行わないのが治政方針であった。
加えて郡の大半は山岳地帯であり、それ故に人々の生活を支える農耕は発展していない。主要穀物である米穀は、翌年の植え付け分を残して粗全てを租として徴収され、彼等が口に出来るのは、成長が早く、雨の多い湖南でも水害や冷害に強い黍などの、今では飼料としてしか使われない様な雑穀である。
春には梅花が薫り、夏には青葉が咽び、秋には桂花が芳しく、冬には枯葉が寂然と舞う。千紫万紅、柳暗花明、水村山郭、自然美を言い表す言葉を欲しい侭にしていたとしても、利便性の低い桂陽と言う土地は、人が日常の生活を送るのには厳しい土地なのであった。
〇
大地を敲きつける雨音は、虎の喉奥から響く唸り声の様に恐怖心を煽りたてる。山の木々を薙ぎ倒す程に激しく吹きすさぶ風は、龍の口腔から吐き出される荒々しい息吹の様だ。
間断なく降り注ぐ雨は色濃い闇空と、更に闇の中でも一際に黒い稜線を一つに繋げる程に激しい。時より光る雷光は、夜空に舞う龍が荒れ狂う姿そのものであり、霹靂は放たれた咆哮の様に人々に未曽有の恐怖を与える。
時を追う毎に風雨は激しくなる一方だ。山から搾れてきた水は、易々と人家を隔てる垣根を越え、戸口から染み出して、三和土に糸の様に細い川を幾つも作っている。暴風に依って折られた枝葉は、容赦なくの土壁や屋根瓦を敲き、風雨を防ぐ為の開き戸を閉めている閂は、悪鬼が無理矢理抉じ開け様とでもしているのか、弓の様にひん曲がっている。
其の時である。耳朶を劈く様な、一際大きな咆哮が起きた。併し、暗闇に電閃が浮かぶ事は無かった。咆哮の直後に起こった地震いは、人類が終焉の時を迎えた時のように激しい。
天変地異は、人の手に依って如何にかなるものでは無く、人々は家屋の隅で固まって震え、悲鳴を上げる事も出来なかった。躰を一つに寄せ合い、恐怖が過ぎ去るのを唯只管に待つ事しか出来なかった。徐々に近づく地鳴りと地振いは、怒り狂う龍の到来を告げている様でもあった。
翌朝は、真新しいカンバスに殴り描きした様な一面の青が広がっている。昨夜の暴風雨は去り、其れからは考えられない様な、穏やかな晴天であったが、下界である大地には、悪夢の様な嵐の爪痕が、はっきりと残っていた。
昨日まで田畑であった所は泥土に押し流され、薙倒された齢数百年の樹木が処々に突き刺さっている。屋根だけが残った家屋の下は壁や柱などの築造物は無く、自然災害の猛威の激しさを物語っており、同時に自然を前にした文明の脆弱さを露呈している。
夜が明けた今でも、未だに土石流は方々で起こり、生々しい傷跡は未だに広がりを見せ続けている。昨日までの平和な邑とは打って変わった光景を目の前にすれば、抜ける様に高く広い青空と穏やかに降り注ぐ陽射し、万人へ平等に与えられる自然の恩恵其の物が虚しく感じるばかりだ。
一晩を境にして変わり果ててしまった邑の光景を目の前にし、呆然と立ち荒む、未だ若年の三人の男女がいる。
――運が良かった……。
等と言う感慨が浮かぶ筈も無い。三人の内の一人、粗末な身なりの少年は孤児で、雨露がようやっと凌げるだけの掘立小屋で一人で暮らしている。残りの二人は彼とは親友であり、暴風雨で掘立小屋が飛ばされないかと心配し、我が家で一晩を過ごせば良いと思って迎えに行った。
併し、小屋に辿り着く直前に、暴風は尚一層強くなり、返って小屋から離れられなくなった。仕方なしに三人は、天候が落ち着くまで狭い小屋で時を凌ぐ事に為ったが、風雨は一向に弱まる事は無く、其れどころか三和土しか無い小屋は、染み込んで来た雨水で溢れかえり、暖を取るどころか、躰を休める事すらも出来なくなった。
そして、直後には耳を劈く様な地鳴りである。少年の家が邑の外れに有ったから、災禍から免れたとは言え、其処に幸運が有ったとは言い切れまい。若い身空でで独り立ちしていない者が居ないとは言わないが、まだまだ若年の彼等なのだ。この先、真面な生活が送れるとは限らない。生き延びる事が出来るか如何かは分からないのだ。
三人は、目の前の光景を信じる事が出来ず、唯呆然と立ち尽くすしか出来ないでいる。柔らかな緑風が山河の薫りを運び、拳の様な入道雲が、音も無く夏空の青を侵食している。三人は、そんな光景も目に入らず、事に依ると、目の前の惨状すらも見えていないのかもしれない。
扨、三人の歳の頃は似通っている。が、貧しい邑に住む三人であっても身なりは大きく違い、細身の少年が身に纏っているものは整っており、瀟洒では無いが育ちの良さを感じさせる。少女は一般的な庶民の其れであるが、町娘の、と言うよりは少年の纏う其れに近いのは、本人の好みの問題だろう。もう一人の少年の身なりは、如何にも貧しい。
三人の内、二人は少年で、一人は少女である。少年の其々の名は李光、そしてもう一人は張業、残った少女の名を王媚という。
身形は三人の生活の貧富の差其のものであり、細身の少年の家は、本来は中原で名を成した名家の一員とされていて、喩、彼の出生に纏わるものが如何であったにせよ、『襄城李家』の一員として迎え入れられた。詰り、彼は名家の一員である、喩、没落した士大夫だとしても、だ。が、其れにも多少の経緯が有る。
◇ ◇ ◇
時は前後し、劉志の御世の末年の事である。
既に語った事ではあるが、所謂『党錮の禁』と言われる政治弾圧は二度行われている。併し、一度目も二度目も拘束の理由は御粗末なものが殆どであり、罪過が無いにも拘らず、捉えた上に拷問を科した。併し、元より無罪の者を犯罪者として罪科に貶めるのは難しく、罪状すらも明確にせずに逮捕した為に、有る筈の無い罪の自白を強要するものでしかなかった。
其れが故に、多くの者は拷問に屈する事は無かった。否、抑々罪過に問われる筈の無い者達なのだ、自白する事に依って、無実の罪を認める事が出来なかった、と言うのが事実だ。併し、凄惨を極めた拷問に耐え切る事は出来ずに躰を害し、冤罪であったにも拘らず、無念の内に獄死した者は多かった。運良く生き残ったとしても、獄舎の最も深い所に押し込められ、決して生きているとは言えない様な状況で拘束した。
次に目を向けたのが、罪人の家族だ。怨嗟を恐れ、一族の者を無実の罪に貶めて流刑を科し、物理的に遠ざけて難を逃れた。唯、多くの者は罪過を認めなかったが為に、一族郎党を極刑に問う事は出来ず、流刑でも比較的軽微な桂陽や零陵へ流す事しか出来なった。
最も、李家に関して言えば、家長に落ち度が無かった訳ではない。
この政治弾圧の最大の目的は、清流派と言われる面々を、政治の表舞台に上げない事である。賞金を懸ける等の厳しい探索がなされた訳ではなく、要領の良い者達は、隠棲する等して、世間から身を隠す事で難を逃れている。
言うなれば、李家の家長が清廉過ぎた事も、この一族の不幸であった、と言って良い。
結局、少年の兄を含め、襄城李家の一族の者は靴の底を擦り減らし、引き摺る様な足取りで豫州潁川郡襄城から、遙か南の桂陽へ向かう羽目になる。
襄城李家と言う一族の未来が、昏く深い闇に閉ざされた時でもある。
扨、その道中での事である。少年の兄・李瓉の母は何かに気付いた。何処から聞こえる微かな声に耳を欹て、周囲を見渡した。
「何処かで赤子の泣き声がしませぬか」
空耳では無い声を聞いた、年老いた李瓉の母の言葉だ。
博望坡を越えて南陽郡を過ぎ、漢水を渡って襄陽、更に長坂坡を通過して江陵を経由の後に今度は江水を渡り、洞庭湖を東に望みながらの最中、一行が故郷の襄城を発ち、早くも二十日を過ぎようと言う頃の事であった。
――確かに聞こえる。
母の言葉に、周囲を探る様に目を動かしていた李瓉の耳朶が、何処からとも無く聞こえてくる、擦れた様な泣き声を捉えた。弱々しいものでありながらも、野鳥の囀りや川のせせらぎと云った喧騒の間隙を巧みに縫い、其れは意志を持つ何ものかの様にはっきりと聞こえてくる。
老母に命じられる迄も無く、李瓉は、泣き声に引き寄せられる様に街道を外れ、人の背丈ほども有りそうな草叢へと足を踏みいれた。些かも泣き声が止む事は無く、李瓉は背後を草に閉ざされても声の正体を求めて前進を続ける。
街道からは随分と離れた様に思えたが、朽ち葉色の草に阻まれた視界からは定かでは無く、どれ程に街道から分け入ったのかは確信を得ない。其れなのに、李瓉は周囲の世界から隔絶されたような錯覚を覚える。
相変わらず泣き声は耳朶まで届き、李瓉の到着を待ち焦がれている様に聞こえる。野鳥の囀りも小川のせせらぎも無く、この世界には、李瓉と姿の見えない赤子の二人だけしか居ない様な不思議な感覚であった。
草叢が開けた所に彼はいた。雲霞の隙間から零れる光帯に照らされ、横たわる女に抱かれている嬰児は、弱々しく体を捩りながらも、懸命に生きる努力をしている。嬰児の懸命な態が、李瓉には眩しく映った。
流罪を科せられた李瓉は、己が不幸のどん底に有るものと思っていた。この当時、飢えに耐え切れず、又、偸盗に襲われる、非業に斃れた躯は珍しいものでは無い。主街道から外れれば、其処此処に不気味な笑いを浮かべたしゃれこうべが語り掛けてくるし、目を凝らせば、往来の激しい主街道にも其れは転がっている。人の居住する城郭の外で鴉が屯していれば、その中心には、必ずと言って良い程に亡骸が野に晒されている、そんな時代なのだ。
加えて、遺児の数は其れと同様に多い。大抵は物乞いに身を窶していたり、偸盗と為ってその日を強かに生き抜く者が殆どであり、誰かに引き取られ、恙無い暮らしを送る事が出来る者は、本の一握りにも満たない極少数であるのが現実だ。現に李瓉は、此れまでに立ち寄った城郭や郷邑、街道でそんな年少者達を、嫌と言う程に見かけて来たし、一切の無視を決め込んで来た。
――不幸な境遇に有る我等こそが救いを求めているのだ。
そう言った気持ちが強かった。
嬰児に明確な意志は無いかもしれない。
だが、其れでも懸命に手足を動かしてもがき、何とか生きようとしている。相貌からは生気が失せつつあるものの、双眸には漲る程の光が有る。死の淵と言う泥沼から抜け出そうと抗い、懸命に生にしがみ付こうとしている泣き声であった。
直向に生き延びようとするその姿を両の眼に収め、李瓉は、この嬰児が、己が一族の希望の光と為るのではないか、と思わずにいられなかった。そう感じる程にこの嬰児は、生と言う形の無いものに溢れていたのだ。
横たわっているだけと思われた女は、既に躯と化している。怨嗟も苦痛も無い、さりとて安堵している訳では無い。静かな相貌は、見様に依っては達観している態であり、憂慮である己が児の未来が如何なるのかを解かっている様であった。
女に祈りを捧げ、李瓉は躯に守られていた嬰児を抱き上げた。此の嬰児を立派に育て上げる事こそが、李瓉を始めとする李家の未来に光を齎す様に思えたのだ。
嬰児の泣き声が、一際大きくなった。
――この児の成長こそが我等の未来だ。
これぞ、神が給もうた運命なのだ――、嬰児を抱き上げた李瓉は、そう心に刻み付けた。
李家に引き取られた嬰児は、直ぐに李家の者として迎えられ、『光』と言う諱と、『一刀』と言う童名が与えられており、然る年齢に達すれば、正式な字が与えられる事に為る。諱の『光』は、李家に新たな光を齎す物としての期待が込められている。一方の、童名の『一刀』の由来は軽いもので、嬰児にしては珍しく背中に小さな痣が有り、見ように依っては、其れが“一刀”と読めない事は無い、と言う程度だ。
李瓉には、既に妻と子が有った為、嬰児は老母の子、李瓉の弟として育てられる。尤も、李瓉の内儀は出産して間もなかった為、形式上の三行半を渡し、流刑に先だって郷里に帰され、厳しい僻地での生活と言う難を逃れている。
先の事を含め、私塾を開いていた老父の許で学んでいた者は多く、彼等の同情が様々な目溢しと為り、嬰児や出産直後の妻の流罪の免除、加えて全財産の没収等を免れている。
其れは扨置き、李光は、李瓉や老母、家人の愛情を一身に受け、溌溂とした人生の一歩を踏み出している。苦しい環境であるが故に遊び呆けていた訳ではないが、幼児であっても出来る事を手伝い、士大夫の家柄の児らしく、年齢が片手の指の数に為る頃には、少しずつでは有ったものの勉学と弓術を敲き込まれた。其れを不平一つ言わず、不満の欠片すらも表情に浮かべなかったのが李光と言う子であり、自分の立場を弁えているのは、年齢に見合わぬ利発さと言うものだ。
さりとて、快活なだけでは居られないのが、流罪と言う業を背負わされた者達の宿命だ。桂陽にさえ行けば、何処にでも自由に定住して安穏と暮らせば良い訳では無く、然るべき住む場所が宛がわれ、常に監視と言う目に晒される。監視の者と言えば邑長であり、彼等が亭長を兼ねている事は多い。
そう言う者達の底意地が悪ければ、何かに付けて様々な嫌疑を掛けられる。窃盗、器物破損、そう言った細々とした軽犯罪は全て流刑者の罪にされ、その上、無理難題を吹掛けられる事も屡だ。
賊徒の襲来が有れば、必ず矢面に立たされる事も稀では無い。李一族が腰を落ち着けた邑は、決して住み心地の良い処では無かったが、彼等は、其れに不満を漏らす事無く従った。事実無根の報告をされでもすれば、今以上に重い罪が科せられ、更に生活の厳しい南の交州に流されないとも限らない。
交州は、漢王朝十三州に数えられてはいるものの、異民族は桂陽とは比べるまでも無く多く、言うなれば『外国』と言い替える事の出来る土地なのである。今でも心の折れそうな李家の面々なのである、これ以上の無実の罪を受けるなら、いっその事、自害を選んだ方が良いと思う様になるかもしれない。
謂れの無い罪過には屈したくないが、人であるが故に其れにも限度はあるのだ。
扨、季節毎に情景を様々なものに変える桂陽の一年は、平穏な暮らしを送る者にとっては、心が躍る程の明媚であったろう。そんな自然美が幾度となく繰り返され、江水の流れの様に緩やかに時は流れた。
だが、李家の桂陽での暮らしは、苦労の連続であった。絶望まで至らなかったのは、李光の存在が有ったから、と言って良い。
年に数度有る賊徒の襲来はマシな方だ。農耕に勤しむ者達から略奪する事に依って糧を得ている彼等である、農耕者を根絶やしにしてしまっては、彼ら自身が生きる事が出来なくなる。反抗を試みれば、見せしめに凶行には及ぶ事は有るものの、其の対象は決まって年寄に、である。
子供は後々に労働力に為るのだから殺さないし、壮年、青年の域に有る者達も同じだ。女には凌辱を加えるが殺さない。必ず生かし、子供でも出来れば後の労働力と為り、彼等の腹を満たしてくれるのだ。床下に隠した、最低限の生活を送る為の備蓄食糧には手を出す事も無い。利己的な彼等ではあるが、端から食料を差し出せば、大人しく帰って行く場合もあるのだ。
本当に恐ろしいのは、自然災害と役人に依る徴発である。自然災害は、其れこそ根こそぎ持って行ってしまうし、徴発は、食糧の全て、働き盛りの者は兵役と称して駆り出され、女が凌辱されるのは当然の行為なのだ。
其れでも、流刑の咎に有っても士大夫の李家には若い娘がおらず、兵役が及ばなかったのは不幸中の幸いだ。
流刑地での李家を襲った最大の不幸と言えば、老母が生涯を閉じた事だろう。
李光が、間も無く両掌の指の数の年齢に為ろうと言う頃で、人生五十年と言われる時代の事である。齢五十五年の老母であれば、大往生と言う訳にはいかないが、若過ぎる死、と言う事は無い。其れでも、李家が哀しみの深淵に沈んだ事は言うまでもない。
李家の当主は李瓉であっても、一族の中心であり、皆の心の支えは老母であった。儒教が国学のこの国である。親への孝行は子の務めであり、此れまで育て導いて貰った恩義、この事から考えれば、孝行する事に終わりは無いのだ。
況してや、流罪を科せられている李家では、老母の靈を鎮める為に墓を建造する事が赦されてない。士大夫の家では、父祖を廟に祀る事が出来ないのは、最大の不孝なのだ。特に、老母から言葉では言い表せない程の愛情を注がれた李光の悲しみは、洞庭湖の様に広く深かった。
併し、自分の立場を知っている李光が自暴自棄に為る事は無かった。此れまで以上に李瓉の言葉に従い、家事に精を出したのは言うまでもない。少なくとも、哀しみに暮れて無為に時を過ごすよりは、身体を動かしている方が、気が紛れる事を知っていた。
其れでも、無実の咎を責められた事への憤りは有る。罪人の正妻とは言え、四十五と言う老齢と言っても差支えの無い齢の、しかも女を流刑を科す必要が有ったのだろうか。他の者への見せしめと言うのであれば、余りにも酷い仕打ちではないか。
少なくとも、此の時の中央政府・漢王朝に対し、幼い李光の心に、激しい憤りとやり場の無い怒り、強い反感が芽生えたのは確かだ。
それでも時は過ぎてゆく。李家に訪れた哀しみを癒す様に、時は緩やかに流れて行った。
何時の間にか、李光の歳は両掌の指の数では足りなくなる程に為っていた。
李家が流された邑は、本の百人程の部落ではあったが、李光の世代の子供が少なくはなかった。いつの時代も同じであるが、子供と言うものは、大抵一カ所に集められている事が多く、邑長の家畜の世話等、簡単な仕事が与えられる。
此の時も李光を始め、両掌の指の数に満たない年齢の子供ばかりが集まっていた。当時は、口減らしが行われるのは決まって子供であり、長子は大事にされるが、次子以降は育てば儲けものと言う程度でしかなかったし、敢えて言ってしまえば、労働力以外の何物とも考えられていない。
だから、彼等は何時でも腹を空かせているし、病気に臥せっても大事にされる事は無い。親が食べる物を我慢して子供に分け与えると言うのは、貧しい時代には有り得なかった事だ。此の頃の子供達の身近な夢と言えば、
「腹一杯何かを喰いたい」
そんなあどけなくも切実なものでしかなかった。
だからこそ、細やかな悪戯や反抗、そう言った事への罰と言えば、決まって飯を抜く事である。体罰を加えるよりも、余程に効果があるからであり、そして、此の日の朝に限って、そんな子供が多かった。
「そんなに腹が減ったのか?」
呆れとも取れる苦笑を浮かべる李光の言葉は、同年代のしょんぼりと俯く少年達へと向けられていた。
李光は次子であっても、李家では一番の年少である。加えて李家は、初めから其れなりに田畑は割譲されているし、何よりも老母からは目に入れても痛くない程に可愛がられていた事から、腹がくちくなる程にものを食した事は無いにしても、ひもじい思いをした事は無い。
「李先生は、飯抜き、なんて言われた事が無いだろう」
李光とは違う意味を持つ苦笑を浮かべている、李光と同年代の張業と言う者の言葉だ。彼は孤児であり、邑の下働きをして、日々の生活の糧を得ている。それだけに食うや食わずの生活を普段から続けており、空腹は常の事だ。
では何故、士大夫の末端に名を為す様な李光と肩を並べているのかと言うと、常日頃から士大夫としての身分を鼻に掛けない李光の朗らかな性格が幸いして、と言う事だろう。
李光は、皆に文字と算術を教えている。だから、〝先生〟と渾名されている。当時は、名前を書けず、簡単な計算法すら知らない者が多かった。租税は、土地の収穫高に対して一定割合が課せられていたものの、規定以上の法外な税率を課したり、計算を誤魔化したりして必要以上に徴租するのが普通であった。
其れを指摘すれば、無用の嫌疑を掛けられて投獄される。そんな不条理な世の中なのだ。
庶民の生活は苦労の連続であり、日々の食事すらも儘ならず、困窮から抜け出す術が無い、と言うよりは、最低限の暮らしをする庶民は、其れすらも知らなかった。唯、支配者の食い物にされるしかなかったのだ。
李光は、法外な徴租に対抗する術の一つとして、簡単な計算法を教え、簡単な文字を覚えさせた。唯、其れが無法な徴租に歯止めを掛ける方法には為り足らなかったし、残念ながら、何の役にも立たなかったのが現実だ。
漢王朝の、と言うよりは、階級制度に依って治められている国家は、上層階級の者に都合が良い様に律令が制定されている。其れは末端に為っても変わる事の無い不文律で、郡太守、県令や県長、邑長、郷主、地主、必ずと言って良い程に身分の高い者、詰りは支配者層が優遇を受けるシステムに為っている。
但し、李光の行った事が全くの徒労に終わった訳では無く、商人から勘定を誤魔化される事は無くなったし、文字と商品を偽る詐欺まがいの商法に引掛かる事は無くなっている。
張業達は、十二分に感謝をしているが、李光に言わせれば、己が浅慮をひけらかしただけだと悔いている。
其れは扨置き、張業の言葉に表情を曇らせた李光は、一計を案じた。尤も其れは、
「桃や栗を植えれば良い」
と言う簡単な事だ。桃や栗は、一年目から実を付け、三年もすれば成木に為って多くの恩恵を齎す。其れを他の何かと交換すれば、多少は生活に潤いを添えてくれるし、目先では無い将来を見据えるのは、この時代の国学である儒教、孔子の教えにも合致している。
併し李光は胸裡では、
――今、この時の彼等に手を差し伸べてやりたい。
と言う思いを抱いている。困窮に喘いでいる者達は、今のこの時が最も大切なのだ。一年後の展望を教授されたとて、明日をも知れぬ我身であるのなら、今直ぐに救いの手を差し伸べる事の方が大切であるし、又、彼等も其れを求めているのだ。
其れが、幼いながらの李光の考え方であり、儒教国家に育ちながらも孔子に傾倒していると言うよりは、寧ろ、李姓の鼻祖にあたる老子・李耳に傾倒した考え方である。敢えて言うのであれば、若さゆえの視野の狭さ、もしくは若さゆえの純心、と言って良い。
李光は、先の言葉を飲込み、上面だけで朗らかに笑い、代案を口にする。
「魚でも釣るしかないか……」
少年の風貌には似合わない、もの寂しげな貌であった。己に失望する声の響きであった。
この言葉からも知れる様に、己が力の無さ、知恵の足りなさ、そう言った数々の思いが李光の胸裡に忸怩たる思いとして蟠った。
本当ならば、李光達が世話を任されている畜生を解体し、皆に振舞ってしまいたいと言う思いが過ぎったものの、彼は、開き直ってしまえる程に思い切りの良い性格では無い。
こんな事をしたとしても、兄の李瓉ならば何も言わずに許してくれる、否、困り顔を浮かべつつも、
「善くやった」
と、褒めてくれるかもしれない。併し、此の事が露見した時に家へ掛ける迷惑や、己が出生から来る立場を考えれば、とてもでは無いが、決断に至る事が出来なかった。
晴天の陽射しは、李光の胸中に出来た蔭りの様に、大地に黒々とした影を作り出す。少年の気持ちを知らずして、時はゆっくりと流れた。
◇ ◇ ◇
自然からの恩恵は、誰に対しても分け隔てが無い様に、災害と言うものも分け隔てが無いのだ。
――……。
目前の光景を瞳に映して言葉が出ない事は、能く有る事だ。併し、現実を目の当たりにし、感慨も浮かばない程の衝撃とは如何程のものであろうか。
山間部に有る邑の人々は、斜面に設けられた棚田に依る水稲作で恩恵を受けている場合が多く、此処もその類に漏れる事は無い。その棚田が、昨夜の轟音と共に起きた土砂崩れに依って消え去れば、この先の生活への不安や喪失感、そう言った絶望を感じるよりも、先ずは、現実を受け入れる事の方が難しいだろう。
李家だけの田畑ばかりか、全ては土砂に埋もれ去り、邑は壊滅状態と言った方が良い。全ての棚田が泥土に飲み込まれているだけではなく、邑人の住む家屋も無残な姿に為り果てている。再建をするよりは、移住を考えた方が現実的な状況と言って良い。
併し、桂陽と言う土地は、脆弱な管理体制の上に成り立っている行政区分であるが故に、如何なる理由が有ったとしても移住が認められていない。移住が行われれば、郡民の数を掌握出来なくなり、延いては、既定の税収を見込む事が出来なくなるからだ。
律を破れば、当然の様に罰則が与えられる。詰りは、賊徒と見做される。況してや、刑罰で桂陽に流されている李家が禁を犯せば脱走と見做され、即座に討伐隊が編成され、見つけ次第、その場で死罪を科せられる。
三人の誰もがその事を理解していたからこそ、自然と絶望が滲み出ていた。虚ろな瞳に映しだされていた夢現であった光景は次第に現実のものに為り、彼等の胸裡には絶望だけが宿った。
併し、絶望に歪む貌の李光であっても、他の二人とは少しだけ表情が違っている。
――老母を失った時ほどの絶望では無い。
と思っている。少なくとも、人の手に依って死に追いやられた養母とは違い、自然災害、いわば人の手に依ってでは如何にもならないもので落命しているのだ。敢えて言えば、此れが天運と言い替える事が出来るかも知れないが、無念が無い訳ではない。
――事実無根の罪を雪ぐ機会すらも与えて貰えなかった。
と。闇に閉ざされた李家が、再び旭光を浴びる事は叶わず、天とは、なんと非情なものなのであろうか、と李光は思う。
が、其れも僅かな暇だけだ。死者が再び陽光の下に甦る筈は無く、本当の血縁が無かったとしても、李姓を与えられた少年に失地回復の希望が託されただけなのだ。敢えて言えば、死と言うものが間近に有る世の中であるが為に、死と言うものを受け入れ易く、そして淡泊なのかもしれない。
李光は、敢えて初夏の空を見上げた。抜ける様な青空は、仰ぎ見る者の全てに希望を与えているように輝いて見える。空を覆う雲は徐々に風に流されて場所を移し、時が確実に流れている事が分かる。
李光は、深淵の奥に落ち込んでしまいそうな心を、無理に奮い立たせた。
「此処でこうして悲しんでいても、何かが変わる訳ではない。悲しんでいても死者は生き返る事は無く、どんなに辛くとも、残された者は生きる定めに有る。身罷った者達も、我等には生を全うして欲しいと思っている筈だ。立ち上がって、生きる事を考えよう」
空元気を絞り出す言葉だ。
李家を照らす筈の陽光を遮っているものがあの雲の様なものなら、何れ新たな風が吹き飛ばしてくれるかもしれない――、と。そうすれば、再び李家に陽が当たる世の中がやってくる、と。
軈て、少年と少女は、李光の声に励まされる様に立ち上がった。少年・張業の方は元より孤児だし、絶望に打ちひしがれていただけだから、涙を振り払えば、気持ちを新たな未来に切り替える事は容易であったが、両親を亡くした少女・王媚は、なかなかそうはいかない。
其れでも涙を拭い去ったのは、気の知れた仲間が身近にいたからだろう。
「如何するんだ?」
「無論、生きる為の場所を探す」
生きなければ何も出来ない。生きる希望が無ければ無為の時間を過ごすのと同じであり、喩生きて動き回っていたとしても、死んでいるのと何ら変わりがないのだ。
張業の問いに答えた李光は、家の有った筈の場所に向けて胸を敲いて膝を織り、大地に激しく拳を敲き付けて叫び声を上げて一度だけ慟哭をし、既にこの世の人では無い家族に向けて今生の別れを告げると共に、無理矢理に哀しみを振り払った。その間、襄城李家の再興を強く誓い、胸裡の奥深くに仕舞い込んだ。
「北に向かおう。南に向かって琳県に出ては、最悪は浮浪児として捕らえられて、井岡鉄山で終身労働を科せられるかもしれない。新たな土地、中原を目指そう。きっと、新しい何かが待っている」
既に先程の悲しみの貌は無い。何時もの朗らかな表情の李光であった。新たな土地を目指したところで、楽な生活が待っている訳ではなく、張業にも王媚にも、納得できない気持ちは多々有ったろう。だが、此処で悲観に呉れていても、如何にもならない事だけは理解出来る。それどころか、警邏の役人が巡回に来て捉えられれば、下手をすれば鉱山採掘の為の人足にされる可能性は捨てきれない。
桂陽に住む者の間では、其処こそが地上での最悪の場所であるとは周知の事実であり、人足として送られれば、生きて戻って来れない事は誰でも知っている。警備は完璧で逃亡は叶わず、絶望と落涙だけの余生と為る。
王媚にすれば、親の亡骸を弔ってやりたい気持ちは強かったろう。国家が儒学を国学として数世紀、その元に為った儒教が、孝行を子の務めにしているのだ。子として、親に出来る最後の務めを果たしたかったに違いない。だが、同じ立場の、否、其れを重んじる名家の末端に名を成す李光が其れを諦め、早くも未来に目を向けているのだ。その姿を見せられれば、遺憾に思ったとしても、王媚とて其れに倣うしかない。
「うわーっ!」
王媚は、我が家が有った筈のその場所に向け、声にもならない様な叫びを上げた。眦に溜まっていた涙は、ボロボロと頬を伝う。叫び声が山野に飲み込まれる時には、頬を伝って落ちた涙も大地に吸い込まれていた。
涙で貌をくしゃくしゃにした王媚は、二人の少年を振り向いて、無理に笑顔を作った。
お読み頂き有難う御座います。
硬い文章、どう考えても三国志色の強くなりそうな出だし、果たして拙作が「恋姫✝無双」の2次創作と為り足るのか?
と問われれば、筆者は『是』答えるであろう。理由は様々だが、話に華を添える事が出来る、のです。本来なら、南北朝時代や大唐滅亡後の混乱期などがにあう話なのでしょうが、英雄ばかりで進む話は、如何にも筆者の筆力が堪えません。
上記の通り、当然三国志色が強くなるため、恋姫色は薄くなります。それでも、出来得る限りキャラクターの歩み寄りは試みる心算ですが、如何なる事やら……。
何はともあれ、宜しくお願いします。