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 彼は、ひそり、と顔を上げた。


 目の前にあるのは、海獣のとげで作られた頑丈な格子。狭い檻の中には、彼の前にここにいたであろう誰かの流した汗や尿の匂いが籠もっている。

 怒りや絶望の叫びもまた。

 床板や格子にしみついた、彼の知らない誰かが確かにここにいた証。それらの響きを鈍く精神の底に感じながら、彼はざんばらになった髪の合間から、一つの方向に視線を投げた。



 来タ。



 小さくつぶやく。

 彼方を見透かすような表情を浮かべ、しかしすぐに顔を伏せる。誰かの足音が近づいてきた。


「餌だ、おまえら。おい、騒ぐんじゃねえ。ちっ。臭いったらありゃしない」


 近づいてきたのは、粗暴な雰囲気の男だった。残飯を入れたバケツを下げている。周囲の檻から叫び声が上がった。男は檻から碗を引っ張りだしては、バケツから中身を入れ、乱暴に檻に戻している。


 がちゃん、がちゃんと飛びつく音や、急いで碗を取ろうとしてひっくり返してしまうもの。それを怒鳴りつける男。


 ついに面倒になったのか、男は途中から碗を取り出すことすらせず、檻の外から残飯をぶちまけるようにして投げつけるようになった。床にこぼれた食事にしかし、飢えたものたちは必死になって、腹這いになって食べ始める。


 彼の所まで来ると、男はがん、と檻を足で蹴飛ばした。


「なんだその面は! 相変わらずうすっきみわるい。こっちを見るんじゃねえ!」


 その言葉と共に、上から残飯が降ってくる。

 売り物である彼らは、最低限の食事はもらえることになっている。暴力や折檻も、商品を傷物にしてしまうので、一応はしてはならないことになっている。


 けれども、ここにいる見張りの男たちは、そんなものはおかまいなしだった。隣の檻に入れられていた頑丈そうな男が、引き出されて殴る蹴るの暴行を受け、息を引き取ったのは三日前のことだ。元は自由民だったとかで、見張りに反抗的な態度を取り続けた挙げ句のことだった。


 ここでは檻の中にいるものは、人ではない。ただの品物だ。壊そうがどうしようが咎められることはない。檻の外にいる者は圧倒的な強者であり、中にいるものは従うしかない弱者だった。


 毎日、誰かが死んでいる。衰弱して。絶望して。そのたびに男たちは、死体の処理が面倒だと文句を言い、生き延びている者に八つ当たりをしてから、運び出して行った。


 身を縮めるようにしていた彼は、降ってきた残飯をちらりと見た。ついている。亀蛇の肉のかけらが入っていた。骨の方が多いが、しゃぶれば腹の足しになるだろう。泥にまみれてはいるものの、食べられそうなものもある。


 男が立ち去った後、そっと動いて、ぶちまけられた残飯に手を伸ばす。飢えていた。けれど、這いつくばって食べることだけはしたくなかった。


 床から残飯を拾い上げ、できる限り汚れを落とすと、口に運ぶ。



 モウスグダ。




 つぶやいた言葉は、誰にも聞きとがめられることなく、大気に溶けて消えた。


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