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「航海には良い風でしたが、港近くでは、操船に注意がいりますね。ミメイが何か言いましたか?」
ケルニは肩をすくめた。
「アルド・ナ(※船長からの、副長の呼び名)。いや。風読みは静かなものだよ。
にぎやかだったので、様子を見にきただけだ。はしゃぎすぎて、〈海〉に落ちるお調子者がいたりしないかと思ってね。前にいただろう……」
「セアラですか。あの時は大騒ぎでした。引き上げるのに時間がかかって」
〈海〉に張り出した帆に取りつく船員たちに視線をやって、テサは言った。
翅を持つ女たちは、飛んではいる。しかし、船からそれほど離れることはなく、浮いている時間も長くはない。
ある程度飛ぶと船のどこかに取りつき、脚力でもってまた飛び、しばらく浮いてから足場を探す、という事を繰り返している。
自身の能力ではなく、船に刻まれた浮遊の呪文の力を利用しているのだ。
「〈短か翅〉は船から落ちれば、這い上がるのが難しい」
「しばらくは恐怖で、甲板に立てなかったな。だが回復した。強い娘だよ」
ケルニが見上げた先には、見張り台に立つ娘がいた。見習い水夫のセアラ。
〈海〉に落ちて、その恐怖に苛まれながらも、己の責務を果たすことを選んだ娘。まだ十五周期の若さだが、それでも一人前の顔をしつつある。
「ケルニ・カヴーラ。今年生まれた娘には、翅のない者がいました」
「ああ。あれでは、船は動かせない。しばらくは母親と共にいさせるが」
「どこかの島で、養女に出しますか?」
「そうだな。哀れではあるが……、翅も持たずに海を行くのは、危険すぎる」
船ノ人には今、深刻な問題があった。飛べる者が、減ってきているのだ。
生まれてくる娘たちの翅が小さくなり始めたのは、記録によれば、二百周期ほど前の事らしい。その頃はしかし、まだ、さほど問題にはならなかった。
数が少なかったので、彼女たちには比較的軽い仕事をあてがい、複雑な操船は他の者が担った。それで問題はなかったのだ。
百の周期が過ぎるころ。小さな翅の娘たちの数は、さらに増えた。〈短か翅〉と呼ばれるようになった彼女たちは、宙に長く留まる事が難しかった。
彼女たちのために、操船の技術を工夫する者たちが現れ、それはあちこちの船で採用された。なんと言っても、〈短か翅〉は家族の一人であり、船に住む女たちの子であり、姉妹であったからだ。それにより、船は〈海〉を渡り続けた。
百五十の周期が過ぎると、〈短か翅〉はさらに増え、通常の大きさの翅の者の方が少なくなっていた。彼女たちは、〈短か翅〉と区別するため〈大き翅〉と呼ばれるようになった。
同時に、この問題を深刻に受け止める者たちが現れた。なぜなのかと、理由を研究する者も。しかし、これといった対策は見つからず、船ノ人の翅の大きさは、小さくなり続けた。
そうして、今。あちこちの船で、翅なしの娘たちが生まれるようになっている。操船できる者が減った船のいくつかは、航海を断念。多くの船の系統が消えた。
拠り所をなくした者たちは別の船の群れに吸収され、氏族の系統が乱れ、あるいは消える、といった事態が繰り返されている。
「ケルニ。〈紅き輝き〉が、航海を断念したと聞きました」
「ミメイから連絡を受けた。生まれてくる娘のほとんどが〈翅なし〉で、船を動かせる者がいなくなったらしい。
老マイラが、歯ぎしりしながら船員を頼むと言ってきたよ。プライドの高いあの女性が」
「受け入れるのですか。あそこの者は、長い歴史を誇るばかりで、頭の固い者が多いでしょう。第一、うちとは系統が違う。あそこは〈紅〉で、うちは〈風〉じゃないですか」
「〈紅〉の系統で、大人数を収容できる船は、もうほとんどないそうだ。みんな〈短か翅〉用の小型船になってしまっていると。
そちらに頼むと、家族がばらばらになってしまう。うちぐらいなら、全員を引き受けてもどうにかなるからな。
そんな顔をするな。放っておくわけにもゆかないだろう。船員は、船という群れの家族。面倒を見るのは、群れの首たる船長のつとめ。
まったく、最後まで誇り高くあられたよ。同じヴェッラの血筋ゆえ、頼むと頭を下げられた。こちらを睨んでいたが」
「古の竜の血筋ですか……こんな時にだけ、都合よく持ち出すとは」
テサは顔をしかめた。ケルニは息をついた。
「血筋至上主義の老マイラの事だ。他に頼むのは嫌だったのだろうよ。
ここ百周期ほどで、ロ・ヴェレの船長が増えた。
ヴェッラの血筋を誇る老マイラにとって、僕たる氏族は、どうあっても対等とは言えない。格下の相手に頭を下げるのは、我慢できなかったらしい」
そう言うケルニに、テサは彼女の翅と出自を思った。
ケルニの正式名は、〈風〉の系統たる〈疾き風槍〉の船ノ長、ケルニ・マイ・チェスラ・ア・ミヴェラである。
古の嵐の竜の直系にして、〈直系氏族〉と呼ばれる、七つと四つの血筋、イの氏族の女を母と持つ。〈直系氏族〉は航海を始めた始源の氏族とも呼ばれ、竜の娘たちにとっては、王族に等しい存在だ。
今では数が少なくなってしまった〈大き翅〉、本来の船ノ人の大きさの翅も、背に持っている。彼女の八枚の翅は他の船員たちよりも一回り以上大きく、広げれば、人の身長ほどもある。
けれどその分、彼女には苦しみも背負わされた。物心つくかつかないかの内から、氏族の長老たちにより、強制的に子を生ませようと画策され、そういった教育を受けたのだ。
『本来の竜人の姿を留め、尊い血筋を絶やさないために』
その言い分により、彼女はわずか十二で婚姻を結ばされ、十三で娘を産んだ。話によると、その娘は〈翅なし〉だったらしい。
娘は彼女の手から奪われ、戻ることはなかった。
『本来の竜人の姿』を強く求める長老たちにより、外聞が悪いとされた為だ。『失敗作』と呼ばれた赤子は、生まれてまもなく母親から引き離され、闇に消えた。
『間違いを正すために、命の大樹の元にお帰しする』という理由のもと、〈海〉に落とされたのだ。
そうして娘を失ったケルニは、まだ体も回復しきっていない状態で、やってきた長老たちに、次の娘を産めと命じられた。
彼女の夫となったのは、古き血筋の母から生まれた男で、寄生することしか知らないような人間だった。氏族の存続のために『飼われている』男たちの一人である。贅沢に慣れ、遊び暮らし、けれどもプライドだけは高い。
〈翅なし〉を産んだケルニは、男から不貞を疑われた。血筋正しい自分の子が、〈翅なし〉になるなど、彼には考えられなかったのだ。そうして子を失って傷ついているケルニを、男は散々になじった。時には暴力も振るわれたらしい。
その後、夫が死に、これで解放されるかと思いきや、同じような男を新たな夫としてあてがわれそうになった。
彼女は氏族を飛び出し、新しい船を自力で作り、その船長に収まった。かつて所属していた〈雷〉の系統を離れ、はぐれ者が集まる〈風〉の系統を、あえて選んで。
今でも長老たちは、ケルニに戻って子を産めと言い続けているが、彼女は滅多なことがない限り、自分の氏族に近寄ろうとはしない。
「僕たる氏族出身でも、有能な者は有能なのですがね。直系氏族でも、無能は無能だ」
テサの口調に棘が混じった。もはや船として機能していないのに、それでも船を名乗る、〈雷の大宮〉。ケルニが所属していた船。
過去の栄光にすがり、自分たちが支配者であると振る舞う長老たちの姿は、自由に〈海〉を行く自分たちにはもはや、滑稽なものにしか見えない。
ケルニは軽く眉をあげた。
「おや、アルド・ナ。わたしは、無能か?」
「あなたの話ではありませんよ、カヴーラ。若い内から〈海〉を行き、稼いだ財で新たな船を作り、その主におさまったあなたの偉業は伝説になっています。そんなあなたを無能と言えるはずがない……普段の散財はすごいですが」
「人生は短いんだ。これぐらい、楽しんでも良いだろう」
見せつけるように高級品のシャツの袖をひらひらさせ、ケルニは笑った。
「それに、虫よけにもなるぞ。『血筋の正しい』婿が寄りつかなくなるからな。〈風〉のケルニは金遣いが荒く、破産寸前になっても気にしないとの噂のおかげで、お行儀の良い婿たちは、つがい候補からとっとと外してくれる」
「ダニのようなあれらに、行儀の良い者などいましたか。働きもせず、遊び暮らしているだけではないですか」
「金を渡しさえしていれば、十分に行儀が良いさ。こちらを放っておいてくれるからな。最初の夫は、稼ぎの八割をこちらによこせと言うほどに、お行儀が良かったぞ。酒の飲み過ぎで亡くなってくれた時には、祝杯をあげたさ」
軽い口調で言うと、ケルニはテサに背を向けた。
「船長室に戻る。後は任せる」
「ヤー、カヴーラ」
答えたテサにひらひらと手を振って見せてから、ケルニはその場を後にした。
残されたテサは、小さく息をついた。
「由緒正しい氏族の中で大切に育てられるのと、異端だとののしられて、半ば捨てられるように育つのと……どちらが幸せだったのか」
青い髪に手をやる。この色彩は、明るい色彩が常である船ノ人としては異端だった。
子どものころの記憶は、狭い船底しかない。彼女の母もまた、ケルニと同じように、由緒正しい氏族の娘だったらしい。
名は知らないし、顔も知らない。ただ、そうであったらしいとだけは聞いている。
母もケルニと同じように、若いころに夫をあてがわれ、自分を産んだ。しかし生まれてきたのは、船ノ人としてはありえざる色彩を持つ娘だった。
この色彩を持って生まれたが為に、テサは船底で、家畜のような扱われ方をして育った。食事も、衣服も、最低限。いつも腹を減らしていた。
汚い色彩だと言われた。おまえのその色は、古の竜への罪だと。理由もなく言われたそれを、素直に信じていた。みなが自分につらく当たるのは、その理由があるから、当然なのだと。
あのころの自分の、世界の狭さにぞっとする。
〈短か翅〉や、〈翅なし〉の娘が増えていたおかげで、翅を切られずにすんだのは幸運だった。下働きとして使えるので、見逃されたのだ。
そうでなければ幼いころに、翅を切られた上で、〈海〉に落とされていただろう。ケルニの娘がたどった運命のように。
ケルニには感謝している。人目につかないよう、いつも夜に働いていたテサに気づき、話しかけてくれた。
そうして根気よく、常識を教えてくれ、世界を教えてくれ、一緒に逃げようと誘ってくれたのだ。
今では自分は、〈疾き風槍〉の一員だ。
風が吹き過ぎ、耳元の飾りが揺れた。テサはそっと、それに触れた。それは、この船の一員になるにあたり、自分の身許引受人として、養女にしてくれた恩人のくれたものだった。
数周期前に海賊との戦いで命を落とした女戦士は、豪快で、それでいて細やかな心遣いをしてくれる人だった。
イアラ。
ケルニの教育係もつとめていた、戦士長だった女性。
「テサ・マイ・イエリ・ロ・イーネヴェレ(イアラの娘、僕たる氏族のイーネのテサ)。この名をわたしは今も、誇りに思う」
つぶやいてからテサは、たん、と甲板を蹴った。舞い上がる。
黒い翅がきらめいた。八枚の翅が大きく広がる。
翅は大きく、力強さも備えていた。彼女もまた、〈大き翅〉の持ち主だったからだ。常の船ノ人にはあり得ない漆黒に、青い髪の色が映える。
その色彩から彼女は、仲間からは〈黒の竜人〉、敵対する海賊たちからは、〈死神〉と呼ばれて恐れられている。
テサは船のはるか上まで昇り、悠々と上空の風に乗った。空を行く〈竜人〉の姿に、縮帆作業中の船員たちはみな、目を奪われ、天を仰いだ。




