6.保健室に行こう
今回は前作のあの二人が出てきます。
英語の授業を終えて空き時間が取れた祥子は、真っ先にある場所に向かった。
目的地に辿り着いて、ドアの前で深呼吸する。
よし
ノックを二回すると中から「どうぞ」と間延びしたあの人の声がした。
「失礼します」
ドアを引いて開けた祥子に、あの人とは違う柔らかな声が掛けられる。
「あれ?祥子先生じゃないですか。お久し振りです」
ふわりと笑みを浮かべて出迎えたのは――
「桐原さん。またここに遊びに来ていたのね」
祥子はほっと安堵の息を漏らしていた。
良かった。桐原さんがいてくれて
彼女はここの卒業生で、ここからさほど離れていない華里大学に通う女子生徒だ。
卒業してからも、彼女は度々この母校を訪ねている。
桐原に勧められて椅子に腰掛けた祥子は、落ち着き無く周囲を見回す。
すると簡易キッチンから出てきたあの人と目が合った。
「何だ。阿久津先生だったのか」
祥子と同時期にここに赴任してきた、養護教諭の小埜雪生だ。
彼は薄赤色のコップと、何の変哲も無いコップを手にしていた。
「ほら、ご希望通り入れてやったぞ」
「わーい」
小埜は迷うことなく薄赤色の方を桐原に渡し、祥子にはもう一方のコップを差し出す。
「どうぞ。ただのコーヒーですけど」
「ありがとうございます」
「それで?今日はどうかしたんですか」
桐原の隣、つまり祥子と向かい合わせの椅子に腰掛けた小埜は単刀直入に切り出した。
やる気の無さそうな瞳がじっと祥子を捉える。
やっぱり苦手だわ、この人
いつも無表情で、何を考えているのかさっぱり読めない。
権田先生とは正反対なのよね
答えあぐねている祥子を見ていた小埜の視線が、ふっと隣に向けられた。
そこにいるのは薄赤色のコップの中身を吹き冷まして口につける桐原。
「ん!こ、これは!」
何かに驚いたように声を上げた桐原を、小埜は頬杖をついて可笑しそうに見遣る。
「やっと気づいたのか。相変わらずとろいな、お前は」
「手に入ったのなら言って下さいよ!見た目じゃ分かりませんから!」
「あー五月蝿い。黙れ黙れ」
突き放す口調の小埜だが、眼鏡越しの瞳は冷たさよりも温かさを持っているように見える。
場の空気が和やかなものになったことで、祥子は固く閉じていた口を開いた。
「あの。実は、折り入って相談がありまして……」
「相談、ですか」
小埜の顔が祥子に向けられる。
「席外していましょうか?」
自分の鞄に手を伸ばす桐原を、祥子は首を振って引き止める。
「あなたにも聞いてもらいたいの。同じ猫愛好家として」
祥子の言葉に、桐原は首を傾げながらも「はい」と頷いた。
居住まいを正した祥子は咳払いをして、冷静に努める。
「実は…猫が人間になるんです」
「……どうやら聞き違えたみたいなので、もう一度言ってくれませんか」
小埜は表情を変えることなくそう言った。
「だから猫が男になったり、その男がまた猫になったりするんです」
「……」
小埜はまたも表情を変えることなく、今度は立ち上がって事務机の引き出しから黒いファイルを取り出した。
ぱらぱらとめくって、受話器を手にする。
「小埜先生、どちらに電話を?」
行動の一連を見守っていた祥子が尋ねると
「良い精神科医を紹介する。やっぱりあなたには治療が必要だったようだ」
電話番号を確認しながら、小埜は「今まで放置していて申し訳なかった」と淡々と謝罪の言葉を述べてくる。
何とかしてくれると思ってたのに…!
祥子はテーブルに両手をついて立ち上がる。
「私の頭はおかしくありません!」
「いや、頭じゃなくて心が…」
「雪先生、失礼ですよ。私は祥子先生の言っていること分かります」
桐原の発言に、小埜は険しい表情を浮かべる。
「み……桐原。お前までそんな馬鹿げたことを言うのか」
祥子は期待に満ちた面持ちで桐原と向かい合う。
「桐原さん、分かってくれるのね」
流石、猫愛好家だわ
自分はおかしくなかったのだと安堵している祥子に、桐原はにこりと
「はい。猫って時々、妙に人間ぽいですよね。大福がだらしないおじさんに見えることありますもん」
違う
「…ああ、そっちか。驚かせるなよ」
勘違いして損した、と小埜は呆れたように受話器を元に戻す。
ただの猫好きの戯言だと思われたようだ。
「……違います」
がくりと項垂れた祥子に、
「きっと疲れているんでしょう。夏バテには気をつけることですね」
黒いファイルを片付けて戻ってきた小埜は、ついでのように桐原の頭を軽く叩いて腰掛ける。
「祥子先生、今度一緒にウナギの蒲焼きを食べに行きましょうよ。私、美味しいお店知ってますから」
誇らしげに左手の人差し指を天に向けて突き出す桐原。
「またあの店か」
なぜか嫌そうな顔をする小埜は頬杖をつく。
そんな二人が左手の薬指にお揃いのシルバーリングを着けている事を――。
「…だから、そうじゃないんですってば!!」
悲痛な叫びを上げる祥子は、気づくはずもなかった。
小埜だけだと、祥子も私も間が持たないのでした。
桐原未亜は本当に良い子です。よしよし。