猫時々狼
「おとうさん、おかあさんはまだお仕事?」
リビングのソファで、華里大学附属図書館から借りてきた料理本を眺めていた彼は、遠慮がちに届いた声に顔を上げた。目の前には先日2歳になったばかりの息子、英秋が立っていた。壁にかけてある時計に目をやると、短い針が6を指している。英秋は既に夕飯を済ませたところだ。
「そうだね。今日も遅くなるのかもしれないなぁ」
「……ふぅん」
癖のない黒髪で、顔立ちも目の色も、母親である祥子によく似ている愛すべき我が子。その表情が心なしか暗く見えるのは気のせいではない。祥子の勤める高校は養護教諭が男1人のため、修学旅行の養護補佐として引率を務めることになった祥子は最近その準備で忙しく、家に帰ってくるのが遅い。6時までには帰ってきていたのが8時過ぎになり、阿久津家の子育て方針によって英秋に昼寝は毎日させているものの、まだまだ幼いので7時には眠りについてしまう。そのため、平日に英秋が祥子と接することのできる時間が大幅に減った。母親に甘えたい気持ちを抑えて静かに耐える英秋の姿に、彼は目を細めた。
「英秋、こっちおいで」
彼は開いていた料理本を閉じると英秋のわきの下に手を差し込んで抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。
「祥子がいなくて淋しい?」
「…べつに。淋しくなんかないよ」
そうは言っていても、強がっているのだということは顔を見ればすぐに分かる。なかなか素直になれない強情なところも母親譲りだなと心の中で呟いていると、そばに置いていた携帯がメールの着信を知らせた。送り主を確認した彼は素早くそれを手にとって中身を目で追う。
腕の中で大人しくしている英秋は眠そうに目を擦っている。もうお休みしようか、そう言いかけた彼の口は閉じられ、目を伏せて考え込み始めた。逡巡した後に再び口が開かれ、紡がれた言葉は―――
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
「阿久津先生、気をつけて帰ってくださいね」
「ええ、ありがとう」
権田や菅野達の計らいにより修学旅行の打ち合わせが空いた時間や昼休みに充てられたことで、今日は早く帰れることになった。いつもより手早く雑務を終わらせた祥子は、教職員達に挨拶を済ませ、職員室を出る前に彼にメールを送った。こういう日に限って自転車で来なかったことが悔やまれる。
英秋、まだ起きているかしら。遊び疲れてもう寝てしまったかも
間に合え間に合え、と念じながら校門を出た瞬間、祥子は目を見開いて立ち止まった。
「お疲れさま、祥子。すれ違いにならなくて良かった。な?」
彼が嬉しそうに後ろに声をかけた。すると明るい茶色の頭に隠れていた小さな黒色の頭が、ひょこりと現れる。英秋は寝巻きの上から厚手の上着を羽織り、赤色のマフラーに顔を埋め、彼に負ぶわれていた。大きな瞳を絶えず揺らしながら。
「英秋も一緒に迎えに来てくれたのね。……英秋、眠いの?」
「眠く、ない…」
「もう寝させようかと思ってたんだけど、祥子からのメール見てさ。英秋、祥子に会いたそうにしてたから連れて来ちゃった」
英秋が?私に会いたい?
彼の背中に張りついている英秋の顔を覗き込もうとしたら、ぷいと反対方向に顔を向けられてしまった。育児休暇を終えた祥子が学校に復職した時からこうだ。英秋は祥子に対して常にどこか遠慮しているというか、甘えたがらないというか。むしろ嫌われているのではないかと思っていた。
「こら、英秋。ついさっきまで、おかあさんに会えるって喜んでいたじゃないか。ミイラパンダの歌まで歌って」
からかい混じりの口調で言った彼は困ったように祥子を見る。灰色の瞳と目を合わせ、彼の意思を汲み取った祥子は頷き、そっぽを向く小さな頭を優しく撫でた。
英秋はびくりと肩を震わせたが、嫌がりはせず、祥子の手を黙って受け入れた。
「……おとうさん、下ろして」
「はいはい。気をつけて足つけるんだよ」
しゃがんだ彼が英秋の身体を支えて地面に着地させる。ひとつ欠伸をし、目を擦った英秋は「おかあさん」と両腕を祥子に向かって伸ばした。
「抱っこして欲しいんだよ。きっと」
そう彼に耳打ちされた祥子は口元を緩ませ、肩にかけていたバッグを彼に持ってもらって英秋を抱き上げた。しっかりとした重みに、成長しているのだとつくづく実感する。
「おかあさん、僕重くない?疲れてるのに平気?」
心配そうに何度も尋ねてくる英秋に、祥子は首を横に振った。
「大丈夫に決まってるじゃない。お母さんそんなにやわじゃないわ。まだまだ元気いっぱいよ」
だから力を抜きなさい、と背中をぽんぽんと軽く叩く。できるだけ母親に負担をかけないようにと気遣っているため、英秋の身体が不自然に強張っていたのだ。
祥子の言葉とあやしに安心したのか、英秋は全身の力を抜き、祥子の首に腕を伸ばしてぎゅっとしがみついた。祥子も抱きしめ返す。
「じゃ、帰ろうか。そうだ英秋、お家に着くまでお母さんに今日一日あったこと教えてあげて」
「うん。あのね、今日おとうさんがお仕事している間、圭おにいちゃん達がだいがくに連れて行ってくれて、すごくキレイなお花が咲いてるお部屋で、眼鏡をかけたまほう使いがまほうを見せてくれて花が大きくなったんだよ。それとね――」
止まることなく話し続ける英秋の表情は生き生きとしていて、眠気も吹き飛ばしてしまったようだ。祥子は相槌を打ちながら、英秋の話に耳を傾ける。
そんな仲睦まじい二人を、隣に並んで歩く彼は愛おしそうに見守っていた。
「祥子、ご飯の用意できたけど……」
子供部屋のドアの隙間から顔を出し、声を潜める彼はシングルベッドですやすや眠る英秋に目を留めた。音を立てないように注意を払ってドアを開け、部屋の中に入った彼はベッドの端に腰掛けて息子を見つめている祥子に歩み寄り、そっと肩を抱き寄せる。
「よく寝てる。そういえば今日ね、スーパーで会ったおばさん達が英秋にミイラパンダのオマケつきお菓子くれたんだ。これってウチの子が格別に可愛いからってことだよね」
「英ったら、相変わらず親バカなんだから。親子揃ってミイラパンダのグッズ身につけていれば目立つに決まってるでしょ」
英秋はミイラパンダのリュックサック、彼は携帯にミイラパンダのストラップをつけている。もともとこの奇想天外なパンダが好きなのは彼だけだったのだが、人気キャラであり、ヒーローものになった。なぜか分からないがアニメがイギリスでも放送され、英語版DVDが出るというので彼が購入し、英秋と観始めたのがきっかけとなった。なかなか味のあるキャラなのだ。
『僕、大きくなったらミイラパンダになる』
目を輝かせて言っていた英秋を思い出し、祥子はくすりと笑った。
「ん?どうしたの、急に笑いだして」
「ううん、ちょっと思い出し笑いしただけ。英、今日はありがとう。英秋を連れてきてくれて」
「どういたしまして。英秋もそうだったけど、祥子も会いたいだろうなって思ったから。俺すごく良い子でしょ?褒めて褒めて」
後ろから抱きついてきた彼は祥子の顔を覗きこんで催促する。英秋が寝返りを打った。
「ちょっと静かにして。英秋が起きちゃうじゃない」
祥子にきっと睨みつけられた彼は「ちぇ」と肩を竦めてみせ、毛布を整えてやり、英秋の額にキスを落とした。
「Good night,sweet dreams」
滑らかな発音で紡ぎだされた言葉。彼曰く、よく眠れるおまじないのだという。英秋の寝顔を眺める彼の横顔は、ただの居候でもなく、恋人でもなく、家族を持つ父親のものだった。
今でも時々、彼は猫になることがあるが、英秋は英をたまに遊びに来る野良猫だと思っているようだ。父親としての自覚はあるのか、英秋と二人きりの時には猫にならない。休日、祥子が家にいる時だけだ。
どうして猫になるのか、と尋ねたら彼は
『だって祥子、俺がずっと人間のままでいたら別の猫飼っちゃうかもしれないでしょ?祥子の愛をこれ以上分割されるのは嫌だし』
愛の分割って何なの。そんな心配しなくてもあなたへの対応をないがしろにするつもりはないわ
祥子がそう言うと彼は途端複雑そうな顔になり、
『それは分かってるよ。でも祥子が飼っていいのは俺だけなの。俺の目の前で他の雄を撫で回してるところなんて見たくない。雌でも我慢できない』
嫉妬心剥きだしの彼に根負けし、これからいかなるペットも飼わないと約束させられた。
「そうだ英。今日ね、校舎の中に子犬が迷い込んできてちょっとした騒動になったのよ」
風呂上がりの祥子は髪を乾かし、対面式のキッチンに立つ彼に言った。
「…子犬?」
低い声で呟き、洗っていた皿を放置して水を止めた。彼の背後から黒いオーラが漂っているのは気のせいか、いや、気のせいではない。
「まさか、飼うことになったとか?」
「違うわよ。捨て犬じゃなくて迷子だったの。首輪もちゃんとついていて、その後、飼い主が引き取りにきたわ。小さい豆柴で可愛くて……」
「祥子」
彼に呼ばれて言葉を切った。その声音に彼が少し怒っていることに気づいた。濡れた手をハンドタオルで拭きながら、彼はキッチンを出て祥子の前に立った。灰色の瞳に真っ直ぐに射られて身動きできなくなる。背の高い彼が腰を曲げ、祥子に目線を合わせ、
「もう俺以外、拾ったらダメ」
返す言葉を発する前に、彼に唇を塞がれてしまう。逞しい腕に腰を引き寄せられ、火照った身体に更なる熱が灯る。
祥子の抵抗がないと見るやいなや、彼の舌と手は大胆な動きを見せ始めた。
「猫だけで足りないなら、狼になってあげるよ」
耳元で甘く囁かれた言葉に思わず震えると、彼の唇は妖しく弧を描いた。
「二人目は女の子がいいな。祥子そっくりの可愛い女の子、ね?」
楽しげに笑う彼の目は冗談ではないことを知らせていた。
顔を耳まで真っ赤にした祥子は反抗することも叶わず、獰猛な狼に攫われるように、寝室へと連れて行かれてしまったとさ。
fin.
お久し振りな番外編です。
今日はハロゥインということで、彼に狼になってもらいました。
ツンデレ長男を書けて良かったです。
ではまたの機会に。




