4.その猫、策士
「猫に戻って!」
「イ・ヤ」
さっきからこのやり取りを何回繰り返しているのだろう。
もう9時過ぎだ。
いい加減疲れてきた
そんな祥子の思いを考慮してか、彼は何年も暮らしてきたかのように慣れた手つきで緑茶を入れて渡してきた。
「はい。取りあえずこれ飲んで」
渋々受け取った祥子を満足そうに見て、彼は再びキッチンに入って行く。
「ち、ちょっと。あなた他人の台所で勝手に何をしているのよ」
すぐに追い出さなければ、と意気込む祥子。
すると彼は、キッチンに現れた彼女に
「朝何も食べていかなかったから、お腹空いてるだろ?冷蔵庫にあったもので勝手に作っちゃった」
にこりと料理が載ったお盆を手渡す。
勝手なことしないで
喉まで出かけていた言葉が、腹の底に戻るどころか、消えうせた。
彼が用意した夕食は、まさに祥子の好物ばかり。
豚の生姜焼きと千切りにされたキャベツ。
里芋の煮っ転がし。
玉ねぎと厚揚げが入ったお味噌汁。
真っ白なご飯。
そしてキュウリの浅漬けまで。
最近時間がなくて簡単なもので済ませることが多かった祥子は、耐えがたい誘惑に襲われる。
「さ、食べて食べて」
お盆を持ったまま直立不動の祥子を、彼は居間のローテーブルまで誘導した。
されるがままワインレッドのカーペットに座ると、すぐ背後でソファに腰かけた彼が「口に合うかどうかは保証できないけど」と自信がなさそうに呟く。
「…いただきます」
手を合わせて、お味噌汁に手を伸ばす。
お椀を両手で持って傾ける祥子を、彼はじっと見ている。
「……美味しい」
「本当?生姜焼きも食べてみて。自信作だから」
彼が作った夕飯は、優しい味付けだった。
胃がもたれることのない満腹感を味わい、祥子の心は緩みきっていた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。はい、お茶」
全て食べ終えると、彼は緑茶のお代わりを持って現れ、お盆を下げようとする。
「片付けは私が…」
「いいから座ってて。せっかく入れたのに、冷めちゃうよ」
やんわりと制され、上げかけていた腰をカーペットに落ち着ける。
神経を尖らせていた祥子の心は、ほんわりと温かいものに包まれて、いつになく素直な気持ちになれた。
「…ありがとう」
聞こえるか聞こえないかの微かな呟きを、彼は聞きもらさなかった。
「こんなの当然のことだよ。これからお世話になるんだからさ」
頷きかけた祥子は、我に返る。
おかしい
どうしてあの男が部屋に居座っているのを容認しているの
確かに料理の腕は良い
心なしか部屋が綺麗に片付いているのも、彼が掃除をしてくれたのだろう
「祥子、お風呂入ったら?お湯はもう張ってあるよ」
キッチンの奥から声がした。
お風呂
その単語に、祥子は昨夜のことを思い出す。
確か、私昨日……
……!!
飲み終わっていたコップを、ローテーブルに叩きつける。
割れなかったのは奇跡だ。
「あの男…!」
激しい怒りとともにキッチンに向かう。
「昨日はよくも騙してくれたわね!あなたをセクハラの容疑で通報す……」
尻すぼみになっていく声に同調して、視線も下がった。
「にゃあ?」
小首を傾げて佇む英。
こいつ…!
「卑怯者!今猫に戻るなんて!」
「にゃあご」
英が顔を向けた先を見ると、ピカピカに洗われた食器が。
やることはやったとでも言いたいのかしら
とにかく猫に戻ってしまわれては為す術もない。
「覚えてなさい。絶対許さないんだから」
冷やかに告げた祥子に、英は怯えを感じたのか肩を震わせる。
とは言え、無類の猫好きである祥子に英を責め立てることもできず、結局そのまま家に置くことになった。
それからというものの、祥子があれこれと考えを巡らせて追い出そうとするたびに、彼は英(あの男が英だなんて私は認めたくない)になって愛らしい瞳でじっと見つめてくるのだ。
見た目に惑わされては駄目。中身は男なんだから
だが、祥子は英を追い出すことができなかった。
英を捨てるということは、実家にいる五匹の猫たちをも裏切ることになるからだ。
ともかくその日から、祥子は英とお風呂に入ることはもちろん、身体を洗ってやることも拒否するようになった。
『これからは別々よ』
「……にゃぁ」
かなり気落ちしたような鳴き声を漏らしながら、風呂場に通じるキッチンで今日も一匹、英は項垂れていた。
英は祥子に洗われるのが気に入ったんだと思います。
別に変な意味はないですよ、ええ。