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猫時々彼  作者: mia
本編
47/58

20.ただいま


 彼が田宮沢家に行ってしまってから2週間と3日が経った。

 帰宅した祥子は化粧を落とし、居間のソファに腰掛けて夕飯をどうしようかと考えていた。

 昨日の残りといっても肉じゃがで使った具材の余りしかない。

 そして今手に持っているのは先ほど入れたばかりで熱々のブラックコーヒー。


 『祥子ってコーヒー好きだよね。似合ってて格好良いけど』


 からかい混じりの声が、暖かい笑顔が、頭の中に浮かんだ。


 こんな、夕飯の献立に悩んでいる場合なのだろうか


 ため息を濁すようにコーヒーを一口すすって、目を閉じる。



 目の前に背を向けて座る彼は険しい顔をしているに違いない。

 ローテーブルに置かれたままのマグカップは我関せずと湯気を立てていた。

 ソファに座って彼を見下ろす祥子はコーヒーを悠々と飲む。

 『やっぱり猫だけに猫舌なのね。予想を裏切らないのは良いことよ』

 『熱すぎるよ、これ。俺飲めないんだけど』

 振り返って祥子を見上げる彼の目は心なしか潤んでいた。

 コーヒーを飲もうとキッチンでごそごそしていた祥子に彼が自分も飲みたいと言ってきたのは数分前のことだ。

 ギャルソンをしている彼に入れてもらおうかと思ったが、休みの日くらい些細な事で扱き使うのは止めようと思い直した。

 祥子としてはいつも通りにしたつもりだった。

 『私が悪かったわ。無理して飲まなくても――』

 『飲む。せっかく祥子が俺の為に入れてくれたんだから』

 彼のマグカップを回収しようとした手は広い背中に素早く遮られた。


 別にあなたの為に入れたんじゃないけど。自分のついでに入れたんだけど


 マグカップを持つのにも悪戦苦闘しているようだ。恐る恐る口をつけて『…熱っ』と小声で零す。

 『火傷するわよ。冷めるまで待ちなさい』

 『やだ。今すぐ飲みたい』

 『氷でも入れたら?』

 『やだ。味が薄くなる』


 この頑固で我がままなのはどうしたものか


 ため息とともにコーヒーを啜り、祥子はソファから彼の隣へと腰を下ろした。

 自分のマグカップをローテーブルの上に置き、

 『貸しなさい』

 彼の手からマグカップを半ば強引に掻っ攫った。何を勘違いしたのか彼は『祥子待って!』と悲愴な面持ちで祥子に縋る。

 それに構わず祥子はマグカップの中身に息を吹きかけだした。

 祥子の腕を掴んで揺さぶりかけていた彼の手が固まる。

 時々マグカップを回しながら、程よい温度になった所で彼に返した。だいぶかかったが。

 『これでもう飲めるでしょ』

 返されたマグカップを手にした彼は黙り込む。

 『どうしたの。もしかしてまだ熱いの?』

 『ううん、ちょうどいい。……ありがとう』

 照れくさそうにもごもごと礼を述べた彼が意外で、調子が狂ってしまう。

 『…どういたしまして』


 こっちまで恥ずかしくなる


 猫舌にとっては適温であるコーヒーを一口飲み、彼は嬉しげに

 『ん。祥子が冷ましてくれたから格別に美味しいよ。今度からこうしてもらおうかな』

 大きい図体で圧し掛かってくる彼を祥子はそのまま放置する。

 今度は“構って攻撃”に悩まされることになるとはつゆ知らず。



 今は自分一人しかいない部屋で祥子は冷え切ったコーヒーを飲み干した。

 「もう8時じゃない。夕飯作って、お風呂入って、洗濯して……」

 するべきことを挙げていく。何だか無性に虚しくなってきた。

 「…味気ない」

 明日は金曜日だ。ちゃんとご飯を食べなければ身体がもたない。

 けれど気力が湧いてこない。


 こんな駄目な人間だったかしら、私


 学校ではそつなくこなしているつもりだったが、文月に元気がないと心配されてしまった。権田からも言われたがそれはスルーだ。いつも言われている。

 蛍光灯を見上げてぼんやりとする。うとうとしかけていたその時、玄関の方からチャイムが聞こえた。


 誰よ、こんな夜遅くに

 先日断った新聞の購読販売だろうか。それとも昨日のセールスマンがまた来たのだろうか

 どっちにしろ今は誰にも会いたくない

 居留守を使おう


 再度チャイムが鳴る。しばらくしてまた鳴った。


 しつこいわね


 やけに腹が立って玄関に直行し、相手も確かめずにチェーンロックも外して思い切りドアを開け、

 「何度も何度も五月蝿いのよ!何も要らないから帰ってください!」

 一気に言ってやった。近所迷惑になったかもしれないが、もうどうでもいい。


 「……ごめん。俺、帰ってきちゃいけなかった?」


 耳慣れた声に顔を上げる。そこにいたのは苦笑して頭を掻く彼だった。

 なぜかスーツ姿で上着は脱いで腕にかけている。

 「すぐ、る…」

 トゲトゲしていた心が解けていく。込み上げる衝動に任せて彼に抱きついた。

 確かな温もりと、優しく頭を撫でてくる手に胸が一杯になる。

 「…待たせてごめん。あと、ドア開ける前に誰なのか確認しないと危ないから駄目だよって俺言ったよね?」

 こんな時でも面倒見がいい彼を笑いたかった。

 けれど口から零れ出てきたのは笑い声とは程遠い、泣き声だ。

 「ごめんな、さい…笑って出迎えるつもり、だったのに……」

 顔を押し当てた白いシャツに涙の染みが浮かび上がる。

 「いいよ。無理に笑わなくてもいいから」

 彼は気にせずに祥子の背中に腕を回して力強く抱き締めた。


 「ただいま」


 そう耳元で囁いて、彼は涙に濡れた唇を塞いだ。



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