19.離さないで
「え……?」
今、彼は何て言った?
彼の目は真剣だ。ぎこちなく強張っている表情から、固い決心なのだと察した。
「どう、して…」
「1週間前に鶴沢さんから電話があったんだ。色々と話し合う必要があるから、一度戻ってきて欲しいって」
雨音が私の思考を掻き乱す。冷静さを失わせる。
「仕事はどうするの?明日は営業日じゃない」
「オーナと蘭さん、バイトの皆にもちゃんと言ったよ。3週間ほど休みを――」
「待って。どうしてすぐに帰ってこれないの?それに明日行くとか、どうして電話が来たことを教えてくれなかったの?」
詰め寄る私に彼は辛そうに顔を歪める。
これじゃ私が悪者みたいじゃない
私だって苦しいのに、嫌なのに
「戻ってきて、くれるの…?」
目尻に浮かんだ涙を、彼はそっと指で拭い取った。俯いていた私が顔を上げると、瞼に唇が押し当てられる。
「お願いだから泣かないで。戻ってくるよ、絶対に」
お互いの唇が触れるか触れないか曖昧な距離を取ったまま彼は呟いた。
彼の腕を強く掴む。その強さに不安と動揺が隠しようもなく表れていたのか、宥めるように彼は私の頭を胸に抱き寄せて撫でる。
「手続きに必要な書類を用意しなきゃいけないんだ。そのために行くだけだから、ね?」
それでも私は横に首を振った。
怖い。彼がいなくなるのが
離れたくない。そばにいたい
彼はここに帰って来るんだと頭では理解できても、心が追いつけない
言葉だけでは足りない
言葉だけでは――
「……抱いて」
微かな呟きに彼は怪訝な顔をする。やがて意味を理解したのか眉間に皺を寄せた。
「何言ってるのか自分で分かってる?分かってないよね。今のは聞かなかったことにするから…」
「そんなの、言われなくても分かってるわよ!ちゃんと帰ってくるって、言葉以外で証明してよ!口では何とでも言えるじゃない!私を――!」
「いい加減にしろ!」
荒げた怒声に肩が飛び上がった。
「…それ以上言ったら本気で怒るよ」
彼の灰色の瞳の鋭さに身が竦んでしまう。頭から冷水を浴びさせられたみたいだ。
軽蔑された。はしたない女だと思われた
喉の奥が引きつり、嗚咽が漏れる。
子供のように泣いている弱い自分を罵りたい。これ以上彼を困らせたくはない。
私は鼻をすすって彼から離れる。そのまま後ずさっていく私を、彼は腕を掴んで引きとめた。
「……怒鳴ってごめん。でも分かって欲しいんだ。俺は今だけじゃなくてこの先もずっと、キミのそばにいたいと思ってる。だから俺なりにケジメをつけたいんだ」
真摯な態度で語る彼に目を合わせられない。
雨が少し止んできたようだ。
もう何も言えなかった。もう口を閉ざすしかなかった。
私まで彼を縛ろうとしていた。
彼は彼で考えていて、それを黙って見ていてあげる事が私のすべきことだったのに。なんて利己主義な人間なのだろう。
自分の醜さを、愚かさを、呪いたかった




