17.ずっと待ってた
田宮沢秋
何の意味も無く与えられた名前は、俺にとって鎖でしかなかった。
「誠人は田宮沢家の宝ですよ。あなたはお父さまの跡を継ぐのですから」
2歳上の兄は母親に可愛がられ、周囲から惜しみない愛情を与えられた。
俺はいつもひとりぼっちで、遠く離れた所から母親と兄を見ていた。
名の知られた財閥の家の次男として生まれた俺は、実の母親に忌み嫌われ、全てにおいて兄を超えることを許されなかった。
勉強においても、身体面においても、人望においても。
親に褒められたことなんか一度も無い。笑いかけてくれたことなんか一度も無い。
自分という存在を否定され続け、感覚も麻痺していた俺は洗脳されたかのように感情を失くし、誰からも必要とされなかった。
けれども高校卒業を控えたある日、産まれて初めて父親から個人で呼び出された。
完璧に整えられた仕事部屋の中央のデスクに座る父親は逆らいようのない威圧感を滲ませ、俺にこう言った。
「イギリスに留学してきなさい。そこで執事としての教養を身につけてくるんだ。田宮沢家の未来のために、お前が必要だ」
やっと俺に目を向けてくれた。必要としてくれた
誰からも求められず空虚だった心が大きく満たされ、目の前が一気に開けたような気分だった。
卒業して1年後、手続きを済ませてイギリスの執事養成学校に留学した俺は慣れない英語と環境に苦しみながら父親の期待に応えようと励んだ。
場所は外国だったけれど、外の世界で自由に行動できるのは楽しかったし、何より親友と呼べる人たちと出会うことができた。
こうして3年間の留学を終え、日本に帰国した俺は田宮沢家で見習い執事として働くことになった。
常に感情を表に出さないことを求められる仕事は決して楽なものではなかったけれど、やりがいはあった。
俺はこの家にいてもいいんだと思えたから。
でも、本当はそうじゃなかった。
「初めまして秋様。私、栄宝院麗菜と申します」
父親は俺を、最初から商談相手との取引として婿養子に出すつもりだった。
俺の婚約者だと名乗った彼女はまだ高校生で、どこにでもいる夢見がちなお嬢さん。だと会った当初は思っていた。
だが田宮沢家の客間に二人きりになって鬱屈とした空気に包まれる中、彼女は俺に微笑みながらこう言ったのだ。
「明日催される婚約発表式、とても楽しみにしております。明日から秋様は私だけのもの。私だけの執事。ですから私の命令には絶対従ってくださいますよね?」
言葉を失くす俺に構わず彼女は続けた。
「私の言うことには全て“かしこまりました、お嬢様”と」
狂っている
このままこの世界にいたら、俺は俺でいられなくなる
留学前の俺だったらもう諦めていたかもしれない。結局俺の人生はこんなもんなんだと。しょうがないんだと。
けれど違う。誰かと違う道を歩くことを怯えていた昔の自分はもういない。
『ねえ、シュウ。君はもっと自分を大切にするべきだよ。こんな僕が言うのも何だけど、君は本当に良い奴なんだから』
太陽も嫉妬するほど輝く金髪を風になびかせ、目の前に立つその人は言った。
穏やかな優しさをたたえた紫の瞳が今も目に浮かぶ。
執事養成学校の授業でカリキュラムの後半に、実際に邸で研修するプログラムがあり、俺の研修先の主人は20代後半の貴族だった。
俺より7歳も上なのに、その人は子供みたいに我がままで気紛れで暴君だった。
その人のそばにはいつも赤髪の若い従者が控え、彼から邸のことや業務内容についてよく学ばせてもらっていた。
『心から自分がお仕えしたいと思える主人でなければ、この仕事は勤まりません。主人のためなら自らの命を捨てても守り通す覚悟を持つことです』
そう告げた彼の濃い藍色の瞳は本気だった。そこまで忠誠を誓える主人に仕えられるなんて、心底羨ましいとも思った。
『ああ、二人ともここにいたのか。僕の愛する彼女からの贈り物はまだ来ないのかい?メールではもう送ったと書いてあるのに届くのが遅過ぎる。きっと配達の奴らが仕事をサボっているに違いないね。国際郵便を脅してでも奪取してくるぞ、今すぐにだ。そうだシュウ、君も来るといい。今後の役に立つよ』
こんな無茶苦茶なことばかり言う主人だったことは何年経っても忘れないが。
無事全てのプログラムを修了し、日本に帰る俺を見送りにわざわざ空港にまで来てくれた彼ら。
赤髪の従者は相変わらず冷静沈着だったけれど『これでも寂しがっているんだよ』と可笑しそうにしている主人を横目に『勝手に人の心を説明しないで頂けませんか』と不満げに睨みつけていた。
別れの最後に、男でも見惚れるような麗しい微笑を浮かべ、あの人はこう言った。
『シュウ。君らしさを奪う人たちから逃げる勇気を、君は持たなければいけない。それはいつか君のことを誰よりも大切に思ってくれる人たちと出会うためにだ。僕がそうだったように君にも、自分自身よりも大切にしたい、守りたいと思える人が現れるはずだよ、必ずね』
俺はこの家から逃げることを決意した。
だが田宮沢家の屋敷は常に警備が万全な状態で、広大な庭、よじ登ることも不可能な厚く高い塀に行く手を阻まれる。
明日になったら、俺は
明日なんか来なければいいんだ。こうなったらいっそのこと……
何度も試みようとして、その度にあの人が別れ際に言ったことが頭の中を木霊し、結局は終わらせられなかった。
俺は、逃げることすらできないのか
どうしようもない絶望感を抱えて眠りにつき、翌朝目が覚めたら――
猫になっていた。
………は?
毛むくじゃらの短い前足。ふにふにの肉球をじっと見下ろす。顔を撫で回してみるとヒゲがあり、首を後ろに向けると長い尻尾があった。
……俺は、猫になったのか?
広い部屋の中をぐるぐると歩き回っていると、メイドがノックをして入ってきた。咄嗟にベッドの下に隠れた俺に気づかず、メイドは俺が部屋のどこにもいないことに顔を青ざめさせ、飛び出していった。
開け放たれたままのドアからこっそりと出た俺は周囲を警戒しつつ、慣れない猫の身体に四苦八苦して何とか大理石が敷き詰められた玄関のホールにまで辿り着いた。
滑る足を踏ん張って歩き続けていると、警備員が偶然通りかかった。
『どこから忍び込んできたんだ、この野良猫は』
ため息をついて警備員は俺の首根っこを掴み、ゴミを捨てるように門の外に放り出した。
痛っ!何すんだこのおっさん!
怒りを抑えきれずに声を上げるが、口から出てくるのは猫の鳴き声だ。
運が悪いのか良いのか、結局屋敷から出ることが出来た俺はあても無く彷徨い続けた。
自分でも不思議なものだったが、猫から人間に戻ることも可能。また人間から猫になることも可能だと知った。
人間の時は日雇いのバイト、寝る時は猫になって適当な所で野宿。
そんな放浪生活を続けて1年以上経った頃、俺はふと思った。
俺はこのままひとりで生きていくのだろうか
誰にも俺という存在を知られることなく、愛されることもなく
このままひとりで、一匹のままで―――
そんな虚しい気持ちを抱いて辿り着いたのは、華里だった。
桜並木の道の脇の芝生に倒れこみ、肉体的にも精神的にも衰弱しきった俺はここを最期の場所にしようと決めた。
もう、終わりにしよう
睡魔に抗えず瞼を閉じた俺には、最早何の希望も期待もなかった。
そんな俺を救ってくれたのは
キミだった。




