16.愛するが故に
2学期が始まり、体育祭や文化祭の準備で賑わう校内。教師達は生徒が怪我をしないように注意し、巡回に努める。遅くまで居残っている生徒に帰宅を促し、場合によっては8時までいられるように申請を許可するのも教師の仕事だ。
土曜日にも関わらず出勤した祥子は権田たちとともに打ち合わせや会議を行い、午後8時過ぎ頃に全て終わった。「俺仕事終わったら猫になって迎えに行こうか?」と朝アパートを出るときに彼に言われたが自転車で行くから大丈夫だと断った。
職員用の駐輪場から自分の自転車を見つけ出し、籠にバッグを入れ、ロックを解錠して自転車を引いて歩く。
正門を出てサドルに跨ろうとした祥子の前に誰かが立ちはだかり、祥子は足を止める。
そこにいたのは清楚な顔立ちをした巻き毛の娘と、その脇に控え、黒い燕尾服に身を包んでいる中年の男性だった。
まるでお嬢様と執事のようだ。
「あの…何か?」
祥子がそう問いかけると、娘は隣の男に顔を向けて何かを出すよう促す。
男は「かしこまりました」と低い声で答え、懐から写真を一枚取り出した。それを受け取った娘はしばし目を細めて眺め、儚い笑みを浮かべて祥子の顔の前に突きつけた。
「貴女、このお方をご存知ですわね?」
街灯に当たった写真を目にした瞬間、祥子は瞠目した。握っている自転車のハンドルに力が込められる。
写真に写っていたのは無表情にどこかを見据える彼だった。今よりも幼いが、醸しだす雰囲気は今より大人びている。
「どうして彼のことを…」
この人たちは一体…
娘は祥子の方に向けていた写真を自分に向け、うっとりした表情で見入る。
この直後、娘の口から出た言葉に、祥子は愕然とする。
「やっと見つけましたわ。私の婚約者、秋様を」
彼は夕飯の支度をしながら祥子の帰りを待っていた。
壁にかけられた時計をちらりと見る。針は九時過ぎを指していた。
遅い。…何かあったのかな
心配になってエントランスまで降りようかと思った時、玄関の方で音がした。
「お帰り。遅かったね」
ガスコンロの火を止めて出迎えに行くと、
「…祥子?どうしたの、そんな怖い顔して」
職場で嫌なことでもあったのだろうか
強張った表情の祥子は目も合わせずに靴を脱いで居間を足早に通り過ぎ、ベッドにバッグを放って着ていたジャケットも脱ぎ捨てる。
「祥子?一体何が…」
彼女らしからぬ行動に異変を感じた彼は細い肩に手を伸ばした。が、並々ならぬ拒絶の意を持って払われる。
思いっきり拒まれ、さすがに気を悪くした彼が強引に肩を掴んで自分の方に体を向けさせた。
「どうして怒ってるの。言ってくれなきゃ分かんない」
口を閉ざし、首を横に振って逃れようとし続ける祥子。だが女の細腕では抗えるはずもない。
彼は気遣いを見せながら白い頬を両手で包み込み、目を合わせる。
潤んだ瞳は激しく揺れていた。
赤い唇が震えつつも、ようやく開く。
「……田宮沢秋って、誰?」
灰色の瞳が零れ落ちるほど大きく見開かれた。
「誰に、聞いたの?」
祥子は両頬を挟む彼の手から隠し切れない動揺を感じ取る。
「栄宝院麗菜さん。……あなたの婚約者だっていう人から聞いた」
だらりと下ろされた両腕は、彼に触れようとしない。抱き締めようとしない。
綺麗な睫毛で縁取られたアーモンドアイから、涙が溢れ出す。
悲しかった
婚約者がいたことや彼の家系について知って
けれど一番悲しかったのは
あなたからではなく、他の誰かから聞かされたということ
「言ってくれなきゃ、分からないのはこっちの方よ。私はあなたのことを何も知らない。分かってない。別にそれでも良いんじゃないかって、最初は思ってたわ」
涙が彼の手を伝って濡らし、床に落下していく。
彼は何も言わない。ひどく痛そうな顔をして祥子を見つめているだけだ。
「でも分からなくなった。私は本当にあなたにとって必要な存在なのか、あなたに関わって良い存在なのか…っ」
急に上向かされた顔に明るい茶色の髪が掠る。互いの額を押し当てて、彼は真剣な目で呟く。
「祥子に感じるこの気持ちは嘘じゃない。俺は祥子のそばにいられてすごく幸せなんだ。祥子さえいてくれれば、他には何も要らない」
祥子は背中にしっかりと回された腕に身を固くした。彼の吐き出す息が降りかかるのが恥ずかしくて瞼を閉じかける。
だが、頬を包み込んでいた彼の手が肩に置かれ、軽く押されて重心が後ろに傾いたので慌てて目を開けた。
気がついたらベッドの上で押し倒されていた。
「昔の俺を知ったら、きっとキミは俺から離れる。それが嫌だったんだ。怖かったんだ。どうすればいいのか、分からなくて……」
途方に暮れた迷い猫のように彼はじっと祥子を見下ろす。答えを待っているのだろう。
祥子は手触りの良さそうな髪に指を差し入れた。人差し指に絡めたり、引っ張ったりする。彼はされるがままにされている。
彼はここにいたいと言う
彼は怖いと言う
私がしてあげられることは――
「聞かせて。あなたの口から聞きたいの。どんなあなたを知っても、私の気持ちは変わらないから」
彼は泣きそうな顔をした。祥子の首筋に顔を埋め、唇が触れるか触れないかの距離で
「世界で誰よりも、愛してる…」
そう囁き、祥子の滑らかな肌に想いをぶつけるように強く吸い付いた。
次は彼の過去の話になる予定です。




