13.迷える彼女
期末テストが終わった晩、祥子は居間で担当している生徒のテストの採点をしていた。
赤ペンが紙の上を滑る音が続く。
単調な作業にも手を抜くことなく採点ミスが無いか確かめ、最後の答案の点数を記入してノートパソコンに打ち込む。
終わった…
息をついて軽く伸びをしていると、
「お疲れ様。終わったみたいだね」
ローテーブルに緑茶が入ったグラスが置かれた。氷が涼しい音をたててグラスの中を回る。
「ええ、ありがとう」
ノートパソコンを操作してデータを保存し、USBを抜いた祥子はパソコンを閉じて片付けに取り掛かる。
「それにしてもここの高校生って結構勉強熱心だよね。やっぱ大学に進学するからかな。意識が高いというかさ」
祥子の傍らに腰を下ろした彼はテーブルの上の答案用紙をめくってそう呟いた。
「そうね。けれど手に負えない生徒もいるのよ。毎回英語のテストで赤点ギリギリの点数を取る生徒もいたし」
「赤点じゃないから良いんじゃない?」
不思議そうに首を傾げる彼の姿にデジャヴを感じる。
…全く同じこと言ってるわ
過去に担当した生徒を思い出し、懐かしさを覚えて苦笑いをした。
答案用紙をまとめようと手に取った祥子はテーブルにトントンと当てて整えていると、
「痛っ…」
左手の人差し指に刃物で切ったような痛さが生じた。祥子は微かに顔を歪ませる。
「どうしたの?」
彼は祥子の左手を取って、薄く血が滲んでいる指に気づいた。
「ああ、紙で切っちゃったのか」
「そんなに深くはないわ。平気だか――」
左手を引っ込めようとした祥子は言葉を失う。
人差し指に生暖かく、潤いを帯びたものが触れている。
見開かれた祥子の瞳が捉えたのは自分の手に唇を当てて舐める彼。
「ちょっと…!」
驚きと怒りを含ませた祥子の声に、彼は唇を離す。
「こうすれば簡単に血が止まるから。ほら、もう止まってる」
やっと手を返された。確かに止まっているが問題なのはそれではない。
顔が赤くなっていくのを抑えきれない祥子は俯くしかない。
「だ、だからって…そんな…」
「祥子?顔真っ赤だよ。風邪でも引いたんじゃ…」
肩に手を置かれた。彼の灰色の目が近づく。
祥子の心臓は爆発寸前だ。
英は気にならなくても、彼は違う
「いい加減にして!あなたは英じゃないんだから!」
はっと冷静になる。思わず口に出た言葉は本当のことだが、言うべきではなかった。
彼は今までにないくらい、悲しくて痛くて、すごく傷ついた表情をした。
「……ごめん」
ひどく沈んだ声が胸に突き刺さる。
何か言わなければいけない
でも、何を言えばいいのか分からない
頭の中が真っ白になってしまった。言葉が出てこない。
そうこうしているうちに彼は立ち上がり、キッチンの奥に行ってしまった。
祥子はただ彼の背中が見えなくなるのを黙って見送ることしか出来ない。
そして居間に現れたのは、彼ではなく英だった。
耳はペタンと寝ており、尻尾も力なく下がっている。
下を向いたまま、祥子に顔も向けず、英は寝床に入って身体を丸めた。
瞬きを数回繰り返した後、瞼を閉じる。
寝たの…?
罪悪感と後悔に満たされた心はひっきりなしに渦巻く。
まだ熱の残っている左手を、祥子はそっと撫でた。
「英じゃ、ない……」
安らぎを感じるのは彼も英も同じだ
けれど、ドキドキして落ち着かなくなったり、胸の奥で疼く感情を持て余すのは英に対してではない
彼はペット(英)じゃない
だったら彼は
私の、何なのだろうか
迷子の迷子の仔猫ちゃん――♪お、これ使えるかも(某店のオーナー)
…童謡を口説く手段にしたら先生に怒られますよ(バイトの従業員K)




