12.変わりゆく関係(3)
所変わって、祥子達がいるのは“Un chat noir”という黒猫の看板が立てられたカフェ。
広さはそんなに無いのだが、室内は色鮮やかな緑と花で彩られており、まさに華里らしい装飾となっている。
丸テーブルの席に菅野と向かい合って腰掛けた祥子は只ならぬ雰囲気を持って何かを待ち構えていた。
日曜日ということもあり、店には子供連れの家族や奥様方、老夫婦など様々な年代の客がいる。
心なしか若い女性が多くの割合を占めているようだが。
「いらっしゃいませ“Un chat noir”へ」
厨房から現れ出た人物にあちこちでため息が零れる。
…あの人が来たわ
その人物は迷いのない足取りで祥子達のもとへと向かってくる。祥子は肩を強張らせ、そっと後ろを伺うと――
「ようこそ仔猫ちゃん!待ってたよ!」
「いっ…!」
首に回された腕に祥子が声を上げる前に、店内のあちこちで黄色い歓声と悲鳴が沸き起こった。
「お客様、他のお客様方のご迷惑になりますのでお静かにお願いします」
冷静な対応を見せたウェイターは祥子も良く知る人物だ。
「神城くんっ!この変態オーナーを何とかしてちょうだい!」
はっきりとした目鼻立ちをしている黒髪の青年は騒ぎの収拾が終わり、ようやく祥子たちのテーブルにやって来る。
未だに祥子の背中に張り付くオーナーに呆れた顔で
「琳さ…オーナー。何度も言いますけど、俺の母校の先生に抱きつかないでもらえませんか」
「そんなの知らないね。お前は僕から束の間の癒しまで奪い取るっていうのか。随分偉くなったもんだな」
後ろから抱きつかれたまま頭の上に顎を乗せられた祥子は逃れようと身動ぎするが叶わない。
必然的に落ちた視線がテーブルに置いてあった〈ギャルソン募集中〉の紙に行く。
「祥子先輩、いい眺めですよ。美男美女がいちゃいちゃしてるの。やべ、よだれ出てきた」
菅野はにやにやして祥子たちを見ている。
この乙ゲー好きめ!
心の中で罵り、祥子は力ずくで顔を上げる。
「いい加減離れてください!セクハラで訴えますよ!」
逆さまに映った顔は女と見間違うほど綺麗に整ったものである。横にまとめて垂れ流した艶やかな髪が祥子の頬に触れていた。
「ごめんごめん。仔猫ちゃんは昔のあいつに良く似てるから、ついちょっかい出したくなるんだ」
あいつって誰よ
その時、オーナーの脇にいた神城がぼそっと「…姉ちゃん、あんな美人だったっけ」と呟いたのは誰も気づかなかった。
「文月ちゃんも久し振りだね。今日は夏の新作ケーキを食べに来てくれたのかな?」
「もちろんですよ!命をかけてここに来たんですからね!」
胸を張って誇らしげに言った菅野に誰一人として『大袈裟だな』と口にしないのは彼女の旦那の脅威さを知っているからである。
何を隠そう、この店はある事情で従業員が男性のみなのだ。
そんな男の群れに当然あの藤ヶ谷が自分の妻を行かせようと思うわけもなく。こうして毎回サバイバルになっているのだ。
「ありがとう。すぐに出来上がるから待っていてね。じゃあまた、仔猫ちゃん」
ひらひらと手を振って厨房に戻っていったオーナーと神城に祥子は脱力する。
やっと行ったわ。何なのあの人…
もし彼(現在留守番中)がこの場に居合わせていたらどうなっていたのか、などとは考えもしなかった祥子だが、間違いなく修羅場になっていただろうと思い返す日が来るのはまだまだ先のことだ。
日が暮れる前に帰ろうと菅野と別れ、アパートに戻る祥子。その手にはケーキボックスの入った袋がある。
保冷剤を入れてもらったので腐る心配は無いが、少し急ぎ足で階段を上った。
ドアを開けて中に入った祥子は声を潜め、
「ただいま…」
居間の方に首を伸ばすものの見当たらない。
どこに行ったのかしら
置き手紙も無いということはこの部屋にいるということだろう
キッチンの冷蔵庫を開けた祥子は彼に見つからないようにケーキの箱を収めようとしたのだが――
「お帰り。随分早かったんだね」
「…っ!」
いきなり背後から声を掛けられて箱を落としかける。すんでの所で持ち直した。
仕方なく箱を持ったまま振り返ると彼はそれに目をやって近づいてきた。
「それケーキ?何か1人で食べるにしては大きい箱だね。祥子ってそんな甘党だったっけ?」
自然な動作で箱を攫った彼。あまりにも自然すぎて取られたと認識するまで数秒かかった。
「ま、待って…」
祥子は慌てて彼を止める。だがその制止も無駄に終わり、箱を開けられてしまった。
彼の動きが止まる。
ああ、もうばれてしまった
ケーキボックスの中にきちんと収められているのは勿論ケーキだ。
しかし、チョコケーキやフルーツタルトや苺の乗ったショートケーキなど、どう考えても1人で食べきるには3日かかる。しかも手作りなので今日中に胃まで送らなければならない。
極めつけは同じ種類のケーキが真ん中に二つ。
淡い色のチョコムースにチョコペンで顔が描かれているケーキ。それは猫の顔の形をしていた。
新作メニューに目を通した祥子はこのケーキを見つけ、彼に食べてもらいたいと無意識に考えていた。
だが“Un chat noir”では持ち帰りのサービスは無い。諦めていた祥子をよそに、菅野が夫であり和菓子店の主でもある藤ヶ谷に洋菓子の魅力を知ってもらおうと持ち帰りの交渉に出たのだ。
『うん。頑張って来てくれた文月ちゃんへのご褒美ということにしようかな。仔猫ちゃんも好きなの持って帰ってくれていいよ。他のお客さんには内緒ね』
調子に乗って全種類持ち帰ろうとしだす菅野をたしなめ、祥子もいくつか選んで箱に包んでもらった。
『仔猫ちゃんは無料でいいよ。その代わり、今度の休みに僕とデートしてくれる?』
……店の裏で口説かれても
…文月はにやついてるし
当然断り、ちゃんと代金は払った。オーナーは残念そうに見送っていたが。
英そっくりのケーキを彼は注視する。
「あなたには家事とかしてもらっているし、これはそのお礼というか…その、あなたと食べようかと思って…」
私、何が言いたいんだろう
穴があったら入りたい、穴が無くても掘って入りたいという祥子は頬が上気しているのを隠すために俯く。
そんな祥子を彼は穏やかな眼差しで見守っていた。猫のように目を細める。
「祥子可愛い。ありがとう」
ぎゅっと正面から抱き締められた。いつもみたいに強引にではなく、祥子の様子を伺いながら彼は遠慮がちに腕を回す。
祥子は俯いたまま彼の胸に額を押し当てた。
気忙しく鳴る心臓の音が耳を打つ。彼にも聞こえているかもしれないと不安になった祥子はそっと顔を上げた。
ばちっと目が合う。
祥子の身体を緩く包み込んでいた彼の腕に力が込められ、灰色の瞳に動揺が走った。
張り詰めた空気が二人の間を取り囲む。
日常を過ごしている部屋にいるはずなのに、ここだけ別空間に感じた。
このまま時間が永遠に止まってしまうのではないかと祥子が思った瞬間、彼が目を逸らして祥子の肩を控えめに押した。
空いた距離に、緊張の糸がぷつんと切れる。
「わ、私……シャワー浴びてくるからっ!」
脱兎の如くクローゼットから着替えを取り出して浴室に駆け込む。
威勢のいい音が浴室の方で起きた。だいぶ強く扉を閉めたのだろう。
「……」
キッチンで立ち尽くしていた彼は起動回復すると同時に、キッチンの床に座り込んだ。
胡坐をかいて頭を抱える姿は、悩みに悩む年頃の少年のようだ。
「はぁ…」
腹の底から息を吐き出した。
「俺どうしよう…」
どうするもこうするも無いに決まってる
ただ、もう限界に近いことは分かっていて見て見ぬ振りをしている自分は結局逃げているのだろう
「……変わらなきゃいけないのに」
彼女との関係が変わってゆくことが、こんなにも怖いだなんて――
ちなみにこの店の従業員、全員ハイスペックです。じゅるり(Sさん)
…そんなこと言ってるから禁止されるのよ(Aさん)




