10.俺を呼んで(4)
静けさの中、黒みがかった灰色の瞳は微動だにせずにある場所を見つめていた。
そこにいるのは二人掛けのソファに浅く腰掛けて俯いている祥子だ。
規則正しく聞こえてくる寝息。無造作に投げ出されたままの左手。
英は音を立てずに寝そべっていた寝床から出て、祥子のもとに歩み寄る。
軽やかにソファに飛び乗り、寝ている祥子を見上げた英は右の前足をちょんと祥子の太もも辺りに置いた。
ぽんぽん、と何度か叩いてみるが起きない。
今度は揺すってみる。が、いっこうに目を覚ます気配が無い。
悩んだように目を細めた英はもう一度祥子を見上げる。
祥子は明らかに寝違えそうな体勢で眠っていた。
明日は休みだ。だからこそ、彼女には機嫌よく目覚めてもらいたい
それに――
「…こんな所で寝たら風邪引くよ」
二本の腕が祥子の背中と膝の裏に差し込まれ、意識の無い身体は軽々と抱き上げられた。
彼はふらつくことなく祥子を抱え、ベッドの上にそっと横たえて端に腰を下ろす。
左手を祥子の顔の横に置いて自分の体重を支えた。彼は右手で乱れた祥子の髪を丁寧に整える。
注意を払ってやっていたつもりだったのだが、祥子が目をうっすらと開け、彼の姿を捉えた。
あ、起こしちゃった
祥子の上に覆いかぶさるような格好でいたことを、怒られる前に謝ろうと口を開いた。
開いたのだが、言葉が出なかった。
彼は目を見張る。
少女のようにあどけない顔で、祥子は彼を見ていたのだ。作られたものではない、心からの笑顔で。
「すぐ、る…」
息が止まるかと思った。身動きひとつすることすら叶わなくなる。
「祥子……」
戸惑いに満ちた声で名を呟いた彼。そんな彼の頬に、華奢な左手が添えられた。
直に触れることで安心したのか、左手から力が抜ける。
彼は咄嗟にその手を掴んで引きとめていた。
再び眠りについた祥子。どうやら寝ぼけていたようだ。
じんわりと頬に温もりが広がり、口元が緩んでしまうのはその所為だということにする。
祥子の無防備な寝顔に引き寄せられて抗えそうになくなった彼は深く息を吸って目を閉じた。
落ち着け。冷静になるんだ
きっと祥子は、俺を“英”と勘違いして呼んだに違いない
そう自分に言い聞かせる。それでも、あの表情が鮮明に目に焼きついて離れなかった。
目を開けた彼は居間の明かりに照らされた祥子から距離を取る。
「もう…」
この先は言いたくない。そんな未来を想像したくはない
俺は、キミのペットでいられれば十分なのに
なのに――
「何で欲張るんだよ……」
祥子は猫の時の彼を“英”と呼び、彼のことを“英”とは呼ばない。
彼女が“英”と名付けたのは猫であり、彼ではないからだ。
そんなの分かっていたはずだ
それでも俺は、心のどこかで願っていたんだ
――キミに認められたい。必要とされたい
俺を呼んで欲しい。キミの声で、キミがつけてくれた名前で
祥子が帰宅したとき、彼は寝た振りをしていた。
なぜそんな事をしたのかは、彼自身よく分からなかった。
祥子がアパートの前まで来た時、ちょうどベランダに出ていた彼は祥子の隣に並んで歩く見知らぬ男を見つけてしまったのだ。
『タコ、じゃない。…誰?』
祥子との電話を邪魔した声。あれはどう考えても男だった。あれはあの男か
…家まで送ってもらうほど仲が良いのだろうか
なぜか気になってしょうがなくなり、面白くもなくて苛々して、狸寝入りをした。
居間の電気が消えた。カーテン越しの街灯の明かりが祥子の身体をぼんやりと浮かび上がらせる。
彼は体を冷やさないようにと毛布をかけてやった。
ベッドの端に腰掛けて何気なく見ていたつもりでも、緩やかに上下を繰り返す膨らみに目が行く。
暴走しそうになったのを、理性で抑えつけて目を逸らした。
焦ってるのかな、俺…
祥子に恋人ができたら、ここから出て行かなければいけないとは思っていた。
だが、実際にそうなることを改めて考えさせられると
「嫌だ……」
ベッドが軋む音がした。
長い指が祥子の唇をなぞる。見た目よりも柔らかい感触に酔いしれ、ふっと思考が停止してしまった。
何も考えられず、ただ本能の赴くまま体が動く。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、彼は目を閉じた。
触れるだけのキスに胸が熱くなる。
もっと深く口づけたい欲望に駆られ、爪が食い込むほど拳を握って堪えた。
言いようのない罪悪感を抱きながらベッドから降りる。
切なげに揺れる瞳。
小さく動いた唇は、届くことのない願いを虚しく象った。
〈俺を、呼んで〉




