10.俺を呼んで(2)
「わざわざ送って下さってありがとうございました。本当に…すいません」
近隣の家の明かりも少なくなっている中、アパートのエントランス前で祥子は頭を下げた。
久し振りのアルコールでぼんやりしていた脳の回路もしっかりと働いている。
「いえいえ。僕の自宅もこっち方面ですから。気にしないで下さい」
手を顔の前で振りながら穏やかな笑みを返した男性は寝癖だらけの頭で眼鏡をかけている。
長身で30代なのだが、どこか頼りなさそうな印象を与えるその男性は、権田でもないし小埜でもない。
――なぜ、祥子を自宅まで送るはずだった権田がここにいないのか。
――そしてこの男性は誰なのか。
事の真相は全て居酒屋“菊乃”で起こった様々な出来事にあるのであった。
華里大学付属高校から徒歩で15分、住宅街の中に隠れるようにひっそりと佇む居酒屋“菊乃”は毎晩常連客で賑わっている。
今夜は3人×3人のテーブルが空いていたので祥子達はいつもの席順で座って飲んでいた。
「菅野は相変わらずいい飲みっぷりだな!じゃんじゃん飲めよ!」
「はいっ!今日は飲ませて頂きます!」
一升瓶を腕に抱えて大笑いしている権田の隣には終始にこやかな顔の菅野。
この二人はいつもこんな感じだ。
次々とグラスを空けていく二人に対し――
「…結局捕まったんですね、小埜先生」
「昼休みも放課後もタコの吸盤並みにつきまとわれたんですよ。最後には泣き出すし」
もうこれ以上ないくらいげんなりしている小埜を、祥子は梅酒の入ったグラスを傾けながら横目で見ていた。
ずっと逃げ続けていた小埜先生もそうだけど、諦めずに追い掛けていた権田先生も…
教師としてどうなのかしら
「そういえば小埜先生、私に何か話があると言っていませんでしたか?」
生ビールのお代わりを注文していた小埜に問いかけると、眼鏡の奥の瞳が僅かに揺れた。
「ああ、その……」
話すのを渋るような態度に祥子は聞く場所を間違えたのだと気づく。
「すいません。ここで話すべきではありませんよね。学校関係のことでしたらまた後日伺います」
「いや、違います。学校とは関係が無くて、俺個人のことで……」
「そうなんですか?」
小埜先生が私に個人的な話があるだなんて
珍しいこともあるものだわ
「私で良ければ力になりますが」
「でもここで話すのは…」
小埜は前方の二人を気にするように目を向ける。
「おっ、菅野まだ行くのか!」
「まだまだですよ!溜まりに溜まっていた鬱憤を全部晴らしますから!」
ジョッキを手に勢い良く立ち上がった菅野。周囲の客の目が集まる。「姉ちゃん頑張れー」とかいった冷やかしも。
「座って飲みなさい」
「はいっ、祥子先輩!」
敬礼して素早く席につく。高校時代の部活の先輩でもある祥子には今も逆らえないようだ。
権田と再び地酒を味わいだした菅野から小埜に目を移すと、呆れた顔とかち合う。
「当分あっちの世界から帰ってきませんよ。放っておいて構いません。気にせずに話を続けましょう」
涼しい表情で言い切った祥子を、小埜が意外そうな瞳で見た。
何かおかしなことでも言っただろうか?
首を傾げた祥子に小埜はおつまみの枝豆を咀嚼しつつ、
「変わりましたね。華里に来たばかりの頃より大分付き合いやすくなった」
祥子は咄嗟に何も言えなくなった。確信を突き過ぎていたのだ。
両親と共に過ごしていた実家から遠く離れた華里に赴任してきた当初は、環境の急激な変化に精神が追いつけていなかった。
かなり苛々していたし、何よりも緩やかな町の雰囲気に驚きを隠せなかった。
神経が常に尖っていた祥子だったが、徐々に華里での生活に慣れ、実家にはほとんど帰らなくなった。
たまに猫たちの様子を見に行っても泊まることはしない。
あの家にいると、息が詰まるから――
「阿久津先生?」
呼びかけに我に帰る。
小埜は俯いて黙ってしまった祥子の顔を覗きこんでいた。
「ごめんなさい。ちょっとぼうっとしていただけです」
あの人たちを気にすることはない
そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
小埜の話が解決してしばらく経った頃、居酒屋の扉が静かに開き、現れた人物に祥子は思わず声を上げそうになった。
あの人ってもしかして…
その人物は店の主人に会釈をして一言二言会話をし、主人が指を指した方、つまり祥子たちの方に顔を向ける。
やっぱり
菅野に知らせようと向かいにいる彼女に目を遣るが、既に遅かった。
「うちの旦那ったら1人で映画を観に行くのもダメだって言うんですよ!?おかしくないですか!?私だって1人で色んなことしたいのに!」
テーブルを拳で叩きながら不満を述べていた。さっきからこうなのだ。かなり酔っている。
やばい。文月の身に危険が…
「ちょっと、ふ…」
「それはおかしいぞ!そんなの旦那に黙って行けばいいじゃないか!そうしろそうしろ!」
酔いが悪い具合に回っている権田がけしかけた。背後に恐ろしいものが迫っているとも知らず。
小埜先生なら何とかしてくれるわ、きっと!
期待を込めて隣の小埜を見ると
「もう無理だな」
淡々と告げた。あっさり過ぎるくらいに。
そして菅野は空の一升瓶を片手に高らかに宣言する。
「よし決めた!旦那には内緒で映画館にでも青いお店にでも夏のファンイベントにだって行ってやる!」
「そう、誰に内緒で行くって?」
ピシッと何かが凍りついた音が菅野の方から聞こえた気がする。
「……え」
オイルの切れたロボットのような動きで首を後ろに回そうとした菅野の肩に、手が乗せられた。
「……ひぃっ!」
菅野は可哀想なくらい顔を青ざめさせている。
「僕に隠し事をしたらどうなるか、どうやら君はまだ分かっていないみたいだね?」
おしとやかに微笑んでいるものの目が全く笑っていない。
さらさらの髪と爽やかな笑顔。初めて会った人ならば誰もが好印象を持つに違いない。
だがその本性は――
日本史上最恐の大和撫子王子
菅野がこう評する相手は何を隠そう、彼女の夫。
「ゆ、優紀…何でここに……」
わなわなと震える妻の姿に目を細める藤ヶ谷優紀。
今にも耳もとで『愛している』とか囁きだしかねない表情で、こう言った。
「たっぷりお仕置きしないといけないね、文月」
…死刑を宣告された罪人みたいだわ
菅野を眺めていた祥子は、心の中でそう思った。
サブタイトルの割には彼が出てこない…。
七夕で遊びすぎました。がっくし。
菅野が行きたがっている青いお店。
分かる人は「ああ、あれね」となります。多分。




