10.俺を呼んで(1)
英(彼)との奇妙な共同生活が始まって数ヶ月経ったある日のこと。
いつもの時間に第2職員室に着き、自分のデスクのノートパソコンを立ち上げていた祥子のもとに、ある人物が近づく。
「おう阿久津先生。今日は久し振りに飲みに行くか!」
「…朝から何の話をしているんですか」
権田の眩しい頭に目を細める。と同時にため息をつく。
素っ気ない祥子の反応を受けた権田は「ノリが悪い」と不満そうに腕を組んだ。
「おはようございます。阿久津先生、権田先生」
眠気の消えきっていない顔で出勤してきた菅野は祥子の隣のデスクに鞄を置く。
権田は目を光らせ、にやりと笑う。
「おい菅野。新しい地酒が“菊乃”に入ったぞ」
「えっ本当ですか!行きましょう!」
「お前ならそう言ってくれると思った!今夜行くぞ!」
食後のお酒は欠かせないという菅野と権田が盛り上がる。
なんか似てるのよね、この二人
輪から外れようとしていた祥子に菅野は追いすがる。
「阿久津先生も来て下さい。男の人とだけで食事に行くの禁止されてるんです。阿久津先生と一緒だって言ったら許してくれるんで」
「…旦那さん、相変わらずなのね」
菅野の自宅を訪れ、彼女の夫に会ったことがある祥子。
一見優しそうな好青年だけど中身がとんでもない
同情にも似た気持ちで見遣ると
「これでも少しはマシになった方なんですけどね…」
苦笑いながら菅野は頭を描いていた。
空き時間が取れた祥子は職員室から出て、誰もいない資料室に入る。
持っていた携帯を開いて自宅に電話をかけた。固定電話にアドレスを登録してあるので、祥子から電話をかけたら分かるようになっている。
呼び出し音が何回か鳴った後〈はい〉と明るい応答が返って来た。
〈どうしたの?何か忘れ物でもしたとか?〉
「忘れ物はしてないわ。実は今日先生達と飲みに行くことになったから帰るのが遅くなるの。だから夕飯はいいわ」
〈……ふぅん〉
打って変わってひどく沈んだ声。少し不機嫌さを滲ませているのは気のせいだろうか。
〈帰りはどうするの〉
「ああ、権田先生がアパートまで送ってくれるって」
〈へぇ…権田ってあの頭がタコみたいな先生だっけ。この前散歩中に会った五月蝿いおっさんでしょ〉
言葉の棘が容赦ない。
どうしてそんなに機嫌が悪いの?
「ねえ、何か怒ってる?遅くなるって言っても11時頃には帰るし……あ、お風呂に早く入りたいの?」
〈そうじゃないよ。祥子が帰ってくるまで待てるから〉
「でも――」
「阿久津先生、ここにいたんですか」
いきなり資料室のドアが開いて白衣を着た小埜が現れた。
心臓が跳ね上がった祥子は咄嗟に
「そういうことですのでよろしくお願いします。失礼しましたっ」
早口で告げて通話を打ち切る。切る直前に〈今の誰?〉と聞かれたような気がしたが。
「すいません。お電話中に話しかけて」
艶やかな黒の前髪を邪魔そうにかき上げた小埜は疲れた表情で息をつく。
「いえ、気にしないで下さい。それよりどうかしたんですか?」
「陰険眼鏡野郎はどこに行ったんだぁああ!」
「しつこいタコだな…」
舌打ち交じりで呟いた小埜はすぐさま資料室のドアを閉じる。すると数秒後に廊下で豪快な足音が響いた。
間違いなく権田先生だわ
「小埜先生も今夜の飲み会に誘われたんですね。今回ばかりは断っても逃げても無駄だと思いますよ」
「何があろうと拒否します。あの人と飲みに行くとロクなことが起きない。あなたも十分知っているでしょう」
「それは、まあ…」
確かに
権田先生は酔うとかなり面倒臭い。酒癖が悪いのだ
酔っていなくても面倒臭いのだが
「あっ見つけたぞ小埜!!」
引き返してきた権田は資料室の窓から小埜を見つけた。資料室の中に入ってこようとする。
「…ったく暇な人だな。あなたに話があったんですがまた今度にします」
白衣の裾を翻らせて小埜は窓を開ける。
換気なんかしてどうするのかしら
かと思えば窓枠に足をかけて身を乗り出したので祥子は慌てる。
「お、小埜先生!?何を…!」
「こら待て小埜!そんなとこから逃げるな!」
「保健室に戻りますので。勤務の邪魔はしないで下さいよ」
小埜は眼鏡を白衣のポケットに仕舞い、軽々と飛び降りた。
「ちょっ…!」
ここ2階よ!?
顔を真っ青にした祥子が窓から顔を出して下を見ると、小埜は既に裏庭を颯爽と歩いていた。
呑気に欠伸までしている。
「一体何者なの、あの人…」
開いた口も塞がらない状態でいた祥子の後ろでは
「くっそぉ!また逃げられた!」
もはや茹蛸と化した権田が地団太を踏んでいたのだった。
お前ら仕事しろよ、って話でした。




