9.その猫、騎士(4)
追いかけられている。息を切らして逃げている。
真っ暗な世界で何も見えなくて、ただ耳に届くのは不気味な足音。
助けを呼ぼうと声を張り上げても無音にしかならない。声が出ないのだ。
逃げなきゃ
足が千切れるのではないかと思うくらい走り続けた。けれど目の前に広がるのは闇の世界。絶望感が押し寄せる。
さらに足音は歩くような速さであるにもかかわらず常に背後にあり続ける。
気持ち悪くて吐きそうになる。
突然、地面が無くなって体が浮上し、落下した。息ができない。
溺れている感覚そのものを味わう。手足は凍りつき、人形と化した体は下へ下へと沈んでいく。
底なし沼に囚われた体。やがて呼吸の限界が訪れ、残された最後の酸素が口から零れていった。
足音は、今もなお耳元で鳴り続いて―――
「……っ!」
祥子は跳ね起きた。前髪は汗で額に張り付いて、肩で切り揃えた髪も首に鬱陶しくまとわりついていた。
体全体で息を吸って吐くことを繰り返す。油断すると震えだす自分の身体を鎮めようと必死だった。
「にゃあ」
肩で息をしていた祥子はその鳴き声にゆっくりと視線を巡らす。
惑い揺れる瞳が捉えたのは、ベッドの脇に佇む英だった。
「すぐ、る…?」
掠れた呟きの後、祥子は苦しげに咳をしだした。眉間に皺を寄せ、口に手を当てて背中を丸める。
英は素早い動きでキッチンに駆けていった。姿が見えなくなる。
ガラスが触れ合う音に続いて、冷蔵庫を開ける音がした。
咳がようやく収まった祥子の顔の前にグラスが差し出される。
「これ飲んで」
グラスから腕の先を辿ると、暗闇に慣れた目は彼を映した。彼は受け取ろうとしない祥子の手を取り、お茶の入ったグラスを持たせる。
手のひら全体に、ひんやりとした心地良さが染み渡っていく。
緩慢な動作でお茶を一口飲むと体は予想以上に渇いていたのか、そのまま一気に飲み干す。
肩を撫で下ろした祥子を見下ろしていた彼はベッドの端に腰掛けた。
「落ち着いた?だいぶうなされてたから一度起こそうかと思ってたんだよ」
「…ごめんなさい」
顔を手で覆った祥子。自分の弱さに失望し、もう怒りを覚えるどころか笑うしかなかった。
これ以上ないくらい辛い、痛い、情けない
ちっぽけな存在になろうとする自分が許せない
「――祥子」
ふわりと肩を引き寄せられ、彼の腕の中に抱き締められた。
「我慢しなくていい」
髪を撫でる手つきと同じくらい優しい声に、固く閉ざしていた心の扉がひとりでに開く。
祥子の頬を涙が伝い落ちた。かろうじて嗚咽は噛み殺す。溢れてくる涙を拭い去ろうとした手は彼によって阻まれてしまった。
指を絡め取られ、顔が熱くなる。それでも、自分を包む腕から逃れようとは思わなかった。
一定の速度で刻まれる彼の心臓の音が耳朶を打つ。
祥子が泣き止むまで、彼は何も言わず、ただ寄り添い続けてくれた。
彼はまるで、夜道を照らす月のようだと思った。
ハグ理論についての話を聞いてひらめきました。




