9.その猫、騎士(3)
ガチャリ、と金属音がした後にドアが開いた。
暗い表情の祥子が現れる。鍵をかけようとした手は迷うように空中を漂い、深く息を吸って施錠した。照明がついていない部屋に向けられた瞳は絶えず揺れている。
まだ温もりの残る左手。徐々にその温度が失われていくのがどうしても嫌で、祥子は握った拳を右の手のひらで包み込んだ。
「お願い……」
祈る言葉は、ただ1人だけに送られた。
『――エントランスまで付き添うから、祥子はあの男と絶対に目を合わさないで部屋に戻って。後は俺が何とかする』
真っ直ぐに向けられた灰色の瞳。穏やかな笑みを浮かべて、彼は言った。
『ちょっ…』
抗議しようと開いた口は、そっと添えられた人差し指に妨げられる。
どうして。どうして私だけ…!
祥子は目で訴えた。彼を置いて行きたくなかった。それに、怖かったのだ。
彼に何かあったらどうすればいいのか。そして、最も気がかりなのは
――戻ってきてくれるの?
視線に込められた問い掛けに気づいたのか、彼は目を見開いた。
言葉を発することを禁じていた手が唇から離れて流れるような動作で頬を撫でる。安心して欲しいという想いがひしひしと伝わってきた。
街灯に照らされた二人の影のうち、小さい方の影が動く。手は繋がれたまま、距離が空いた。
祥子は口を引き結んで頷く。
そんな祥子を、彼は優しい眼差しで見ていた。
部屋の電気を点けた祥子はじっとしていられなくてキッチンに向かった。気を紛らわせていないと不安の波が止めどなく押し寄せてくる。
冷蔵庫を開けると、今日の夕飯のおかずがサランラップに掛けて保存されていた。彼が迎えに行く前に作っておいたのだろう。
ああもう…
涙腺が緩みかけて思わず冷蔵庫の扉を閉めた。胸に鉛が圧し掛かっている感覚に何度も息を吐く。緩和はすれど、消えることはない。
ご飯を解凍しないと。それに、おかずだって温め直さなければいけない
けれどそうする気にはなれなかった。自分は1人なのだということを今は感じたくなかった。
祥子はキッチンの引き出しを開けてパスタの袋を取り出す。いつもならこれを1人分に分けて残りは密閉袋に仕舞う。いつもなら。
底の深い鍋に水を張り、コンロにかけて沸騰させた祥子はパスタをお湯に入れた直後、自分が取っていた行動に今更気づく。
どうして、全部茹でてしまっているのか
こんなにいっぱいのパスタ、ひとりで食べきれる訳がない
「…馬鹿みたい、私」
こんなことして何になるのだろう
パスタにかける具材やソースを作ることすらどうでも良くなって投げ掛けた時、玄関の方で音がした。鍵を開ける音だ。
続いてドアが開き、今度は鍵をかける音がする。
息を潜めて聴覚を研ぎ澄まさせる祥子のもとに足音が近づく。
祥子が振り返ったのとほぼ同時に、彼が現れた。
「あ、祥子いた」
嬉しそうに彼は微笑む。
「スペアキー、勝手に持ち出してごめんね。元あった場所にちゃんと戻したから」
「え、ええ」
怪我は、していなさそうだ
良かった…
ほっと安堵の息を漏らした祥子だったが、彼の不思議そうな呟きに我に帰る。
「それより何してるの?夕飯作ってあるのに。冷蔵庫の中見なかった?」
ひょいっと鍋の中を覗きこんだ彼は「あらら」と声を上げた。
「これは、その…」
誤魔化しようもない。現にお鍋の中のパスタ(2.5人分)はもうすぐ茹で上がる状態だ。
本当、私馬鹿だわ
「……ごめんなさい」
萎れた花のようになってしまった祥子を、彼は鍋と交互に見てくすっと笑った。
「謝ることじゃないよ。祥子、さっきお腹が空いてしょうがないって言ってたもんね。食べ切れない分は俺がもらってもいい?俺もお腹の中空っぽなんだ。それとも、全部ひとりで食べちゃう?」
からかい混じりの言葉に首をブンブン振る。祥子は大食いではないし、むしろ少食なのだ。そのことは彼もよく知っている。
「了解。じゃあ味付けは何にする?和風か洋風か中華か…手っ取り早く済ませるなら和風が良いけど」
「それでいいわ。あなたが作るものなら何でも良いの」
何の気なしに吐いた言葉だったのだが、彼は少し目を丸くして、照れくさそうに笑った。
「俺にとっては殺し文句だよ、それ。ますます作りがいがあるね」
祥子の隣に並んだ彼は機嫌よくフライパンにオリーブオイルを引く。
「冷蔵庫にめんつゆがあるから出してくれる?」
「めんつゆ?何に使うのよ。そうめんじゃないのに」
「いいからいいから。あとしめじとほんだしと水菜もお願い」
首を傾げつつも祥子は言われたとおりのものを渡すと彼は手際良くしめじを炒め、茹で汁とほんだしとめんつゆを合わせてパスタに絡めた。
「めんつゆで味をつけるのね。私初めてだわ」
「これだけで美味しいし、何より手軽なのが気に入ってるんだ」
汁気が無くなるまで炒めて二人分の皿に分けてよそい、その上に水洗いした水菜を添える。
「はい。和風パスタの出来上がり」
ローテーブルにおかずとパスタを並べ終えた彼は「あ」と不意に何かを思い出したように時計を見る。
「すっかり忘れてた…」
下ろしかけていた腰を再び上げた。
祥子はお茶の入った二人分のグラスをテーブルに置く。
「どこに行くの?パスタ固まっちゃうわよ」
「一旦外に出て猫になってくる。俺が部屋に入るところを誰に見られたかも分からないし」
そう言って背中を向けた。
独りにしないで
祥子は思わず腕を回して引き止めてしまった。
「祥子?すぐ帰ってくるって」
やんわりと拘束を解かせようとする手にも力を緩めない。
彼の広い背中に耳を押し付けて離れない祥子は口をへの字に曲げていた。直接見たわけでもないのに彼は困ったように「そんな顔しないで」と祥子の手を握る。
絡め取られた指は最初は強張っていたが、しっかりと組み合わされて溶けてしまう。
「もう大丈夫だよ。何も心配要らない」
何を言ったの?何をしたの?聞きたいことは山ほどあるけれど、彼はきっと答えてくれないだろう
「もう大丈夫だから」そう笑ってはぐらかすに違いない
「す……」
その先が言えない。呪いにかけられた人魚姫のよう。
壊れてしまうかもしれない
今の関係のままでいることを、私も、彼も望んでいるのだ
“飼い主とペット”という関係を――
彼は英ではない。彼は“彼”だ。そう祥子は自分に言い聞かせる。
そっと彼から離れる。体の向きを変えた彼は苦悩に満ちた表情の祥子と対面した。
祥子は視線を下に落としているので、彼がどんな顔をして自分を見ているのか気づかなかった。
「祥子」
額に柔らかなものが触れた。一瞬のことだった。
祥子の頬は赤らみ、耳まで朱色に染まっている。ますます彼の顔を見れなくなった。
「さ、ご飯食べようか」
明るい声で言った彼に黙って従う。食事が並んだローテーブルに向かい合って座り、祥子は手を合わせた。
「…いただきます」
「いただきます」
この日初めて、彼と一緒に夕食を食べた。
対決シーンを書こうかどうか迷ったんですけど、彼の謎と関わってくるのでカットしました。




