9.その猫、騎士(2)
「お疲れ様でした、阿久津先生。また明日」
「ええ。気をつけてね」
職員玄関で自宅が反対方向の菅野と別れた祥子は、急いだ足取りでアパートに向かう。
気にすることではないと思っても、昨夜の出来事がまだ尾を引きずっているようだ。
早く帰って、ご飯を食べて、英をお風呂に入れて…
余計なことを考えないように脳を働かせる。
すると校門の陰からいきなり何かが現れて祥子の前に立ちはだかった。
「きゃっ!」
悲鳴を上げた祥子は次の瞬間、目を丸くする。
この茶色の塊は……
「英?どうしてここにいるの?」
「にゃあ」
灰色の目を細め、英は祥子の足元にすり寄ってきた。
祥子は膝を折って小さな頭を撫でる。顎をくすぐってやると上機嫌そうに鳴き声を上げた。
どうやってここまで来たのかしら
疑問に思うが、英のままでは答えを得られない。
「…もしかしてわざわざ迎えに来てくれたの?」
「にゃ」
英は先導するように歩き始めた。時折祥子を振り返りつつ。
まさかペットに守られるなんて
自然と笑みが零れたのは言うまでもない。緊張していたのもどこかに消える。
小さくて愛らしい護衛に、祥子は温かい気持ちでいた。
だが――
「……っ!」
背中を冷たいものが通り抜けた気がした。
昨日と同じ足音が背後で響いている。祥子は後ろを見そうになったのをかろうじて堪えた。
青ざめた顔の祥子を見上げた英の耳と尻尾がピンと立ち、灰色の瞳が足音の元凶に向けられる。
すっと目を細めた英は顔を前に向けて歩き続ける。
祥子は黙ってその後に続く。
緊迫感に包まれた空気の中、いきなり英が後ろ足で地面を蹴って駆け出し、先にある角を曲がって消えてしまった。
えっ、どこに行くの!?
予想外の進路変更に慌てた祥子が英を追って角を曲がると、腕を思い切り引かれた。
コンクリートの壁に背中を押し付けられる。
「静かに」
声を上げかけた口を大きい手が塞ぎ、祥子の目には白しか映らなくなった。
「このままじっとしてて。目を閉じて俺にしがみついてればいいから」
耳元で囁かれた。彼の吐き出す息が耳に当たる。
心臓の音がうるさい
「後で殴ってくれても構わないけど、今は我慢して」
近づいてくる足音に体を強張らせる祥子を宥めようと彼は強く抱き寄せる。
もうこうなったら、やるしかない
祥子はぎゅっと目を閉じて、言われたとおりに彼にしがみつく。
これで周りからは誰が彼の腕の中にいるのかは分からなくなった。
辺りをきょろきょろと見回しながら男は現れた。
彼は気づかない振りをする。芝居の内なのかどうかは分からないが、祥子の髪をすくって弄び始めた。
…くすぐったいし、恥ずかしい
止めてもらおうと身動ぎした祥子の耳に彼は口を寄せる。
「俺を信じて」
真剣な声色だった。やけに頼もしく感じる。
祥子は額を彼の胸に押し当てたまま、小さく頷いた。
薄暗い住宅街で抱き合う二人を見つけた男は一瞬気まずい表情を浮かべる。
先ほどまで前を歩いていた祥子が姿を消したことが信じられないのか、行ったり来たりを繰り返す。二人のそばを通る時はちらちらと視線を寄越して。
祥子の髪を撫でていた彼は、男の存在に今気づいたかのように顔を向けた。灰色の瞳が無機質な輝きを帯びる。
「何か用ですか?俺たちの邪魔しないで欲しいんですけど」
「あ、ああ…」
男は彼の眼光の鋭さに怖気づき、祥子のアパートに通じる道に去って行った。
その背中を彼は射るような目つきで見送る。
「……ねえ、まだいるの?」
恐る恐る問いかけられた声に、彼は腕の中に収まっている祥子に意識を戻した。
彼の胸に顔を埋める祥子。その肩は小刻みに震えていた。
「もう行ったよ」
「そう…っ」
ふっと祥子の体から力が抜けて地面に崩れ落ちそうになる。
そのまま尻餅をつくことはなく、素早い動作で彼の腕が腰に回され、しっかりと支えられた。
「祥子、大丈夫?どこかで休もうか?」
力なく首を横に振る。無理やり作った笑みを顔に貼り付けた。
「私は大丈夫よ。さっさと帰りましょう。お腹が空いてしょうがないわ」
まだ心配そうな表情の彼から距離を取り、アパートの方へと行く。
「待って、祥子」
祥子の左手を掴んで引き止める彼の右手。男が行った道ではなく、角を曲がった道を歩き出す。
「引き返してくるかもしれないから、こっちから帰ろう。少し回り道になるけど」
返事は無い。彼の隣に並んだ祥子は口を閉ざしたまま俯く。
言葉が出てこない
何を言えば良いのか分からない
ただ、口を開いたら止まらなくなりそうで
これ以上彼を困らせるのは嫌だから、呆れられたくないから
何も言えない
緩く繋いでいた彼の手をぎゅっと力を込めて握った。
すると彼は何も言わず、もっと強く握り返してくれた。
それだけでも泣きそうになった。
アパートのエントランスが見渡せる道に出た時だった。
「そう来たか……」
急に立ち止まった彼が低い声で呟いた。微かに眉間に皺を寄せている。
彼の視線の先に目を向けた祥子は肩が震え上がり、咄嗟に右手で彼の右腕にしがみついていた。
アパートのエントランスの前にいる1人の男。
祥子は会ったこともないはずのその男を反射的に恐れた。
知らないのに、どうして…?
一方、彼は気づいていた。
忘れようもない。ついさっき見かけた顔だ。
祥子をつけていた張本人が、目の前にいる。
次どうしよう、と悩んでいます。完全に墓穴掘りました。
何とかして決着つけます。




