青い羽というだけの吾輩
吾輩は鳥である。
ただし、幸せではない。
青いだけである。
この違いは、思いのほか重要である。
世の中には、色というものに勝手な意味を足したがる者が多い。赤なら情熱、白なら清らか、黒なら不吉、そして青となると、なぜかすぐに幸せの話になる。いったい誰が決めたのか。こちらとしては、生まれつき羽が青かっただけで、幸福の象徴だの希望のしるしだの、ずいぶんと荷の重い役目を背負わされて困っている。
そもそも「幸せの青い鳥」という言い方自体、広くはメーテルリンクの『青い鳥』から知られた象徴である。辞書でも、幸福の象徴として説明されている。つまり吾輩の羽色は本来、そこまで大げさなものではないのに、物語の都合で話が大きくなってしまっているのである。
もちろん、青い羽を持つ鳥そのものは実在する。
青い鳥という言い方が特定の一種を指すわけでもない。日本で見られる青っぽい鳥としても、いくつもの種類が紹介されている。だから吾輩が青いのは、別に奇跡でも神託でもない。ただの羽色である。
だが人間は、そうは受け取らぬ。
ある日、吾輩が枝に止まっていただけで、下を歩いていた者が小さく声を上げた。
「見て、青い鳥」 「え、ほんとだ」 「なんかいいことありそう」
ない。
少なくとも吾輩の側には、いまのところ特にない。
朝から腹は減っているし、風はやや強いし、この枝も思ったほど座り心地がよくない。もし幸せの兆しがあるのだとしたら、まず吾輩の足場から改善していただきたい。
しかし向こうは勝手に盛り上がる。
「青い鳥って幸せの象徴だよね」 「今日いい日かも」
勝手に一日を託すな。
責任が重い。
吾輩は昔から、こういう誤解に悩まされてきた。
羽が青いというだけで、実物以上に意味ありげに見られるのである。
静かにしていれば神秘的だと言われ、飛べば縁起がよいと言われ、二羽並べば運命めいた話にされる。こちらとしては、だいたい腹の具合か風向きで動いているだけなのだが、人間はそこに詩を足したがる。
まことに勝手である。
とはいえ、少しだけ分からぬでもない。
青い色というのは、たしかに目を引く。
空にも似て、水にも似て、遠くからでも妙に印象に残る。森や街並みの中では、なおさらである。目立つつもりがなくても、目立ってしまう日というものはある。
そのせいか、吾輩はときどき探される。
幸せを求める者。
何かの前触れを信じたい者。
いまの暮らしの外に、少し特別なものがあると思いたい者。
その気持ちは分かる。
分かるが、だからといって吾輩を勝手に答えにするのは少々乱暴ではあるまいか。
吾輩はただ飛び、ただ枝に止まり、ただ羽づくろいをしているにすぎぬ。
人の願いを背に受けて空を横切る契約など、結んだ覚えはないのである。
それでも、ふと思うことはある。
もし誰かが吾輩を見て、ほんの少し顔を上げるなら。
もし忙しい一日の途中で、青い羽を見つけて立ち止まるなら。
もしその一瞬だけでも、空が高いことや、風が動いていることや、自分のまわりにまだ見逃していた色があることを思い出すなら。
それはそれで、悪くないのかもしれぬ。
吾輩自身が幸福そのものではない。
それは断じて違う。
こちらにそんな大役は無理である。
だが、幸せを探している者が、たまたま吾輩の青さに目を留める。そうして少しだけ気分がやわらぐ。もしその程度のことなら、まあ、羽色の副作用として受け入れてやってもよい。
もっとも、だからといって朝から虫の一匹も増えるわけではないし、雨の日に濡れずに済むわけでもない。
青い羽にも、できることとできぬことがある。
結局のところ、吾輩は青い羽というだけの鳥である。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど世の中には、それだけで何かを感じる者がいるらしい。
不思議な話ではある。
だが、そういう勘違いに少しだけ救われる日が、人にはあるのかもしれぬ。
ならば今日は、ひとまずよしとしよう。
ただし、幸せの責任までは負わぬ。
羽色には羽色の、限界というものがあるのである。




