JPOPから遠く離れてーー宇多田ヒカルと神聖かまってちゃんの「君」の違い
最近、宇多田ヒカルの曲を聴いている。今更だが「Flavor Of Life」が良い曲だなと思った。
宇多田ヒカルに関しては昔から好きでちょこちょこ聴いていた。しかし、私も色々価値観が変化したおり、最近は真剣に宇多田ヒカルについて考えた事はない。
宇多田ヒカルは「天才」だと言われているが、私はそんな風には思わない。ただ、大衆にとって宇多田ヒカルのような存在が「天才」であるのは都合が良いだろうとは思う。
宇多田ヒカルが天才と言い切れないのは、宇多田ヒカルは本当に自身の「個」を表現しているわけではないからだ。その事が逆に大衆にとって「天才」と呼びやすい存在にしている。
どういう事か、簡単に説明してみよう。ちなみに歌詞は著作権が厳しいので引用できない。適宜、自分で調べてもらうのを推奨する。
宇多田ヒカルのデビュー作は「Automatic」で、宇多田はデビュー時、15歳だった。私も好きな曲の一つではある。
「Automatic」は恋愛の曲になっている。「君」というのが、おそらくは異性の恋愛相手として現れてくる。君と出会うと嫌な事も吹っ飛ぶ、とかそうした歌詞が出てくる。
私が思うのは、宇多田ヒカルがこの曲を書いたのが15歳とか14歳だとすると、いかに宇多田ヒカルが早熟だとしても、この頃はさほど恋愛の経験はないだろう、という事だ。
宇多田ヒカルは恋愛の経験がそれほどないにも関わらず見事な恋愛をテーマにした曲を書いた、だから宇多田は天才だ!という人もいるかもしれないが、私は逆だと思う。
ヒットした曲というものを私が思い浮かべると、それらは内容、内実が希薄なものが多い。ステレオタイプな観念をそのままなぞっているのをいつも感じる。
ただ、ステレオタイプな観念をなぞるだけでは、大衆の方でも飽きてしまうので、そこに少しばかり新味を入れる。これがヒットの秘訣ではないかと私などは思っている。
大衆は共同幻想のような宗教を持っている。その宗教は「努力すれば報われる」とか「あなたは一人じゃない」とかそういったワードに集約される。
日本のポップ曲では飽く事なく、「君に会いたい」「君は一人じゃない」というメッセージが現れる。これはヒット曲と大衆のあり方をそのままなぞっているという風にも読める。
どういう事かと言うと、大衆が、人間同士の友愛という形で結合するのが理想と考えられており、タレントやアーティストと呼ばれる存在はその媒体となるのである。
コンサートやスタジアムの構造について考えればはっきりするだろう。そうした場所では人々がステージの少数の人間に眼差しを向けるだが、その少数の人間を神聖化する事によって、自己が人々と繋がっているを確認し、自己の孤独を紛らわせようとする。
これはフーコーの言うパノプティコンとは逆の構造になっている。人々が中央にあるものを眺め、それを通じて自分以外との他者との一体化を行う。
これは封建社会における垂直的な倫理が消失し、横並びになった大衆社会において、垂直的ではない形での人心統合が行われていると考える事ができる。西欧的に言えば神の喪失によって、人類愛がその代替として現れたという事だ。
これは前提として、人々を和する象徴としての神が消えたので、人々がそれぞれの実存的・デカルト的な孤独の中にはまり込み、これを解消する為に現れたものとして考える事ができる。
人々の内面から神が消え、人々はそれぞれ「自己」という殻に閉じこもる事になった。この自己の内側を人々と融和し「孤独ではない」と実感する為に、宇多田ヒカルのような楽曲は使われるのである。
また彼女の優れた才能はそのために「君」という対象を空虚な容器として、人々が自分の孤独を流し入れられるような形にしている。宇多田の楽曲はそのようなものだろう。
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具体的な曲の分析に戻ろう。私は「Automatic」で歌われている恋愛は実際の恋愛ではないと思う。そうではなく、「こうあるべき」という大衆の欲望を無意識的に読み取って、表現にしている、そうしたものだと思う。
ポップソングの「君に会いたい」というのは具体的で生々しい恋愛の要素は現れないようになっている。そうした生臭さが出てくると、人々はそれに陶酔できないからだ。
もっとも宇多田ヒカルという人に「才能」があるのは、彼女が、基本的にはJPOPのメッセージをなぞり、いわば古代の巫女のように大衆の望むものを歌っているわけだが、同時にそこに少しばかり、彼女の個性を入れ込むという技術があるからだ。
宇多田ヒカルに「光」という曲がある。この曲に、シーンはひとつずつゆっくりと撮っていけばいい、というような歌詞がある。この歌詞はおそらく当時付き合っていた映像監督の紀里谷和明に向けたものだろう。
ただ、そうした個人的な事情を入れ込みながらも、宇多田ヒカルはきちんと彼女の領分を守っている。彼女は人々に生々しい自分の恋愛を見せつけるような無作法をせず、あくまでも大衆の幻想の容器として機能できるような抽象的な「君」への呼びかけというスタイルを守っている。
私はこうした「大衆のステレオタイプな幻想を形として表現する」という事と「それに僅かに自分の個性を入れ、それまでにない新しい要素を出す」というその二つが結合すると、大衆にとって「天才」と呼ばれるような現象が現れるのではないかと考えている。
ヒット曲やポップソングというのはこうした構造になっていると思う。いつも同じメッセージを繰り返すのは「異世界転生物語」が同じ構造を繰り返すのと変わらない。人々にとって漠然と自分の中にある不安や自己肯定感といったものが、うまく集約する場所が大切なのだ。
宇多田ヒカルと比べた時、私の愛好するバンド「神聖かまってちゃん」の「君」はそれとは違う構造になっている。最後にこの点に触れる事とする。
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宇多田ヒカルのデビュー曲は「Automatic」だったが、神聖かまってちゃんの実質的デビュー曲は「ロックンロールは鳴り止まないっ」だ。
「ロックンロールは鳴り止まないっ」においても「君」という呼びかけの対象は出てくる。だがこれはJPOPの通例の「君」とは全く違う、異質なものとなっている。
「ロックンロールは鳴り止まないっ」では、主人公の「の子(神聖かまってちゃんのフロントマン・作詞作曲)」らしき人物がギターをかき鳴らし、ロックを表現する様子が描かれる。ここまではそれほど奇妙な要素ではない。
しかし、この曲の「僕」が訴えかける「君」とは、JPOPに頻出する甘い幻想としての「君」ではない。それは明確な存在である。それは言葉で言えば「ネット民」という事になる。
ここで当時のネット民の状況について説明すると長くなるので端折らせてもらう。ただ、ここでの「ネット民」というのは、極めて大衆的な現象だという事ができる。
「僕」がギターをかき鳴らす相手である「君」は、こんな事を言う。「近頃の曲はくだらない曲ばっかり」。「君」はそう言う。だからこそ、反逆精神の塊である「僕」はそんな「君」にギターをかき鳴らし、叫び声を上げる。そうした歌詞となっている。
私はこの「君(=ネット民)」は大衆そのままだと考えている。大衆というのは権威主義的であり、お笑いやネタ動画に代表されるような茶化しが大好きだ。大衆には真剣なものが欠けているが、彼らに真剣なものが欠けているのは、彼らにおいては真剣なものとは、既存の権威が代替しているからだ。
既存の権威が人々の価値観そのものになっているのは、人々が世界を相対化する力がないか、もしくはその必要がそもそもないかのどちらかだ。逆に言えば世界を相対化し、自己で価値観をゼロから作ろうとする人間は「異常」な人間と呼ぶ事ができる。
「自己」は世界から生み出される時、全身に苦痛を感じる。それは赤ん坊が母親との繋がりを遮断され、泣き叫ぶ事によって初めて「自己」となるのと事に他ならない。
大衆が真剣になる時には既存の価値観の肯定となり、例えばそれは薄っぺらいナショナリズムへの傾斜であるとか、社会的地位や学歴といったものの肯定という形になる。一方で、彼らが茶化すのは、そうした権威から外れた存在である。
彼らは価値観を相対化して思考しない。彼らは世界のあり方を受け入れている。また、彼らはそのような存在であるから「大衆」として機能する。
こうした大衆の決めつけに対して「ロックンロールは鳴り止まないっ」の「僕」は挑戦しようとしている。この曲にあらわれてくる「君」はJPOPの既定路線の「君」を大きく外れている。実際に存在する人々がイメージされている。
「神聖かまってちゃん」における「君」とはあくまでも主体とは異質な存在であり、安易に融和できるものではない。ここでは安易な融合は否定されており、自己と他者はきっぱり別れている。
「の子」はいつも、他者に認めてほしい自己というものを持ちながらも、同時に他者とは決して融合できない、人々から見捨てられている自己を確立しようとしている。
この矛盾の中に耐え続けようとする緊張が神聖かまってちゃんの楽曲の魅力を形作っている。これは本質的にJPOPの在り方とは違うものだ。
私はこのような存在としての神聖かまってちゃんに出会い、大きな影響を受けた。私は彼から、大衆に抗して「自己」という主体性を確立する方法を学んだと思っている。もっともこんな事を語っても仕方ないが。
私は以上のように「神聖かまってちゃん」と「宇多田ヒカル」の存在を分別する。
多くの人は私のこの考え方に不満だろうが、私はもう他人の不満とか満足とかはどうでもいいと思っている。ただ私は私の思想だけははっきりさせておきたい。そしてその過程において、私の音楽の好みは「宇多田ヒカル」→「神聖かまってちゃん」という風に移ってきた。




