球拾いの天才
第1話 球拾いは俺の仕事です
西ヨーロッパ有数の名門・セントクレア大学。
その広大なキャンパスの隅にある赤土のコートで、一人の青年がせっせとテニスボールを拾い集めていた。
神城颯斗、二十歳。
身長百八十三センチ、均整のとれた体躯。日本人離れした彫りの深い顔立ちは、親の海外赴任で幼少期をフランスとスペインで過ごした影響だろうか。
しかし今の彼は、くたびれたグレーのスウェット姿に野球帽を目深にかぶり、バスケットを片手にひたすら黄色いボールをひろいあつめている。
「……十個、十一個、十二個」
独り言のようにつぶやきながら、颯斗はルーティンをこなした。
球拾いは思いのほか楽しい、と彼はひそかに思っている。体が動く。コートの隅々まで歩き回れる。そして――選手たちのスイングをじっくり観察できる。
(左足のステップが甘い。あと三センチ踏み込めば打点が安定するのに)
颯斗はちらりと視線を向けた。
コートの向こう、ポニーテールを高く結んだ金髪の女性が、力強いフォアハンドを打ち込んでいる。
エレナ・ヴォルコワ、二十二歳。
ロシア系フランス人で、セントクレア大テニスサークル「ACE」のエース。白皙の肌、切れ長の碧眼、百七十センチの長身。コートに立つと場の空気を支配する、まさに女王然とした存在だ。
「はーやとーっ! そっちのボール早く拾って!」
別の声が飛んできた。
リン・メイファ、二十歳。
台湾系イギリス人で、小柄ながらコートを縦横無尽に駆け回るフットワーカー。艶やかな黒髪をハーフアップにまとめ、ショートパンツからのぞく脚は驚くほどすらりと長い。
「はーい、今行きます」
颯斗はにこにこ笑って駆け寄った。
(あいかわらず元気だなあ、リンさんは)
彼がこのサークルに「球拾い兼雑用係」として潜り込んで、三週間が経つ。
きっかけは単純だった。日本の実業団を「個人的な理由」で退き、傷を癒すためにセントクレア大の交換留学プログラムに参加した颯斗は、テニスコートのそばを通りかかったとき、副部長のリンに声をかけられたのだ。
「ねえ、テニス経験ある?」
「……少しだけ」
「じゃあ球拾い手伝って。バイト代は出ないけどコートの使用権あげる」
少しだけ、というのは大嘘だった。
颯斗の前歴は――十六歳でジュニア世界ランキング一位。十八歳でプロ転向、ATP最高ランキング三位。ウィンブルドンで準優勝した実績を持つ「元天才」だ。
しかし二年前、ある出来事をきっかけにラケットを置いた。
今は、テニスを「外から」眺めることで、少しずつ自分の中で折り合いをつけようとしている。
「颯斗、そこのバケツも持ってきて!」
今度は中央コートから呼び声が飛んだ。
イザベル・アルヴァレス、二十一歳。
スペイン出身の情熱系美女で、真っ黒な巻き毛と褐色の肌が鮮やかなパワーヒッター。声も大きければ気性も豪快、しかし笑顔は太陽のように温かい。
「はいはい、すぐ行きます」
颯斗はバケツを担いで走りだした。
(まったく……いつの間に俺、三人の小間使いになったんだ)
心の中でぼやきながらも、口元はほころんでいる。
久しぶりに、テニスコートが好きだと思えた。
その日の練習終わり、颯斗がネットを片付けていると、エレナが静かに近づいてきた。
「ねえ、颯斗」
「はい、エレナさん」
「今日の私のフォアハンド……どう思った?」
颯斗は一瞬固まった。
彼女の碧眼が、まっすぐ自分を見ている。
(見られてたのか)
「……えっと、力強くて綺麗でしたよ」
「嘘。何か気になってたでしょ。ずっとこっち見てたじゃない」
鋭い。
颯斗は苦笑いをした。
「……左足の踏み込みが、あと少し深くなるといいかなって」
「具体的には?」
「コンタクトの瞬間に、三センチほど前に出る意識を持つと、打点が前になって威力が上がります。特にクロスで」
エレナは無言で颯斗を見つめた。
五秒間、沈黙。
「……球拾いにしては、詳しいのね」
「テレビで見たことの受け売りですよ」
「ふうん」
エレナは唇の端を少し上げ、くるりと背を向けた。
「明日、試してみる」
颯斗はその後ろ姿を見送りながら、小さく息をついた。
(なるべくバレないようにしないと……でも、ついつい見ちゃうんだよな)
コートに夕日が落ちていく。
球拾いの天才の、偽装潜入生活が始まった。
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第2話 ファーストコンタクトは転倒から
セントクレア大のテニスコートは五面ある。
三面が屋外クレー、一面がハードコート、そして体育館の中に一面の室内コートがある。
颯斗の球拾い業務は、基本的にこの五面すべてをカバーする。
その日の午後、颯斗が室内コートのドアを開けたとき、事件は起きた。
というより、事件が颯斗の上に降ってきた。
「わっ――!」
「えっ――!」
ドアを開けた瞬間、颯斗の視界が白く染まった。
正確には、白いテニスウェアに包まれた人体が、颯斗の胸に全力で突っ込んできたのだ。
ドタッ、と鈍い音。
「いたた……」
颯斗は床に尻餅をついた。倒れた衝撃でキャップが吹っ飛ぶ。
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫ですか!?」
甘い声が降ってくる。
颯斗が目を開けると、自分の上に、人が乗っていた。
いや、より正確に言うと――
(……重なって、いる)
颯斗の上に、女性がうつぶせで乗っかっていた。
さらさらとしたショートボブの黒髪が、颯斗の鼻先をくすぐる。
ほんのりシトラスの香り。
そして颯斗の左手は、なぜか、非常に柔らかいものをつかんでいた。
「あ、あの……」
女性がゆっくり顔を上げる。
まん丸の黒い目。
ほんのり日焼けした小麦色の肌。
唇は小さくてふっくらとしていて、今は驚きで開いている。
ユイ・ナカムラ、二十歳。
日系三世のアメリカ人で、このサークルに最近入ったばかりの新入りメンバー。颯斗よりも後からサークルに加わったため、まだほとんど話したことがなかった。
「……あ」
颯斗は自分の左手の位置に気づいた。
ユイのラケットバッグ、ではなく。
その、なんというか、背中よりも少し下の方を。
「っ!」
颯斗は瞬時に手を離した。
「ご、ごめんなさい!! 全然わざとじゃなくて!!」
「わ、わかってます! わかってますよ!? でも!!」
ユイの顔がみるみるうちに赤くなる。
二人は慌てて起き上がり、どちらともなく最大限の距離を取った。
「俺は本当に、ドア開けたら、あなたが走ってきて――」
「私もコートボールを取りに行こうとしてて、まさかドアが――」
「全くの事故です」
「そうです完全に事故です」
しばらく沈黙。
「……怪我はないですか」
「ありません……あなたは?」
「俺も大丈夫です」
また沈黙。
「……さっきのは」
「忘れてください」
「は、はい」
颯斗は天井を見上げた。
(なんでこんなことに)
「あの!」
ユイが突然声を上げた。
「さっき、倒れたとき……キャップ、取れたじゃないですか」
「……はい」
「なんか、すごくかっこよかったです」
颯斗は思わず彼女を見た。
ユイは顔を赤くしたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「球拾いの人なのに……なんか、雰囲気あるなって、前から思ってたんです」
颯斗は一瞬だけ口元を緩めた。
「……それ、球拾いへの偏見じゃないですか」
「えっ? あ、違うそういう意味じゃなくて!」
「冗談ですよ」
颯斗は拾ったキャップをかぶり直した。
「俺は神城颯斗。よろしくお願いします、ユイさん」
「あ、はい……中村ユイです。よろしくお願いします」
二人は正式な自己紹介を交わした。
その頬はどちらも、まだ少しだけ赤かった。
――
夜、シャワーを浴びながら颯斗は思い出した。
(彼女、ラケットの持ち方が少しウエスタン寄りすぎる。サーブで肩を傷めるパターンだな)
球拾いよりも気になることがある。
それが厄介なところだった。
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第3話 こっそりアドバイス
颯斗がさりげないアドバイスをするときには、なるべく「球拾い目線」に偽装する。
「あの、ボールを拾ってて気づいたんですけど」
「練習見てて思ったんですが」
「テレビか何かで聞いたことあるんですけど」
しかしある日、ついに崩れた。
リン・メイファが、バックハンドのスライスを繰り返し練習していた。
打つたびにわずかに軌道がずれる。
颯斗には一目でわかった――グリップの人差し指と中指の間隔が広すぎる。
(言うべきか。でも一球拾いが「グリップが」とか言ったら……)
葛藤しながら見ていると、リンが舌打ちした。
「くそ、また入らない」
珍しく荒れている。どうやら明後日の学内対抗戦が気になっているらしい。
リンは地面にラケットを突き立て、颯斗を振り向いた。
「ねえ颯斗。私の打ち方、何かおかしいと思う? 正直に」
まっすぐな目。
颯斗は一瞬だけ迷い、そっとリンのそばに歩み寄った。
「……見ていいですか、グリップ」
「え? うん」
颯斗はリンのラケットを借り、グリップを確認した。
そして何も言わずに、人差し指と中指の間隔を少し詰め、差し返した。
「これで、もう一回打ってみてください」
「こんな微妙な違いで……」
半信半疑でリンがスイングした。
ボールはきれいに低いアーチを描いてコートに落ちた。
「あっ」
リンが小さく声をあげた。
「入った。しかも全然ちがう感触」
「グリップが少し締まったので、スライスの回転軸が安定したんだと思います」
「あなた本当に球拾い?」
颯斗は苦笑いをした。
「大学のとき少し真剣にやってたので」
「どのくらい?」
「……サークルレベルですよ」
リンは目を細めた。
「嘘くさい」
「なんで」
「動作一つ見てグリップ直せる人間がサークルレベルなわけない」
颯斗は笑顔を崩さなかった。
「リンさんの観察眼が鋭すぎるんですよ」
「はぐらかした!」
リンはラケットで颯斗の肩を軽くたたいた。それほど力はないが、なぜかドキッとした。
「まあいいけど。助かった、ありがとう」
「いえ」
「今度ジュースおごる」
「いや、それは」
「受け取りなさい。私のおごりを断る気?」
リンのちいさな顔がぐいっと近づいてくる。至近距離、黒い瞳が颯斗を見上げている。
颯斗は目を逸らした。
「……では、ありがたく」
「よろしい」
リンはぱっと離れ、またボールを打ちはじめた。
さっきよりも格段にスライスが安定している。
(本当にセンスがいいな)
颯斗はぼんやりそう思いながら、転がったボールを拾い集めた。
――
同じ日の夕方、今度はイザベルが一人でコートに残っていた。
サーブ練習。
見ていると、トスの位置が毎回微妙に変わっている。
(あれじゃ確率が安定しない)
「イザベルさん」
「ん? なに颯斗」
「トスを上げるとき、利き手の反対の肩を少し内側に入れると、毎回同じ位置に上がりやすくなりますよ」
「え、ほんと?」
「やってみてください」
イザベルが試す。
一球、二球、三球。
「あ! 確かに! なんでわかるの!?」
「テレビの解説で言ってました」
「颯斗テレビっ子すぎ」
イザベルが豪快に笑い、颯斗の背中をバシンと叩いた。
さすがスペイン系、力加減を知らない。
「ありがとう! ご飯おごってあげる!」
「いや、気にしないでください」
「えー、なんで! 素直に受け取ってよ!」
「……では、遠慮なく」
リンとイザベルに立て続けにおごられることになった颯斗は、夕暮れのコートで一人、軽くため息をついた。
(バレないように気をつけないとな)
遠くのコートでは、エレナが一人サーブ練習をしている。
颯斗が先日言った「三センチ踏み込む」アドバイスを、今日もずっと試している姿が見えた。
(真面目だな)
颯斗は視線を落とし、球拾いを再開した。
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第4話 更衣室の悲劇
セントクレア大のテニスサークルが使う更衣室は、体育館の一角にある。
男女で区分けはされているが、扉の表示が古くなって文字が読みにくい。
これが、事件の遠因となった。
その日、颯斗は練習終わりにコートの道具をまとめて体育館の倉庫に運んでいた。
倉庫は更衣室の隣にある。いつものルートで扉を開けようとしたら、鍵が変わっていた。
(あれ?)
隣の扉を試す。こちらは開いた。
(あ、これか)
何も考えずに入ろうとした瞬間、颯斗は気づいた。
空気が、なんか、違う。
ほんのりシャンプーの香り。
(……え)
目が暗さに慣れてくる。
壁際のロッカーの陰に、人がいた。
タオルを体に巻いた状態で、スマホを見ている。
「……ッ!!!」
颯斗は即座に目を閉じた。
「だれっ!?」
悲鳴。聞き覚えのある声。
「ごめんなさい入るとこ間違えました本当に間違えました!!」
颯斗は後退りながら叫んだ。
「か、神城くん!?」
「鍵が変わってて隣の扉開けたら! 本当に! 故意じゃないです!」
「わかってる! 早く出て!!」
颯斗は全速力で扉を閉めた。
扉の外で盛大にため息をついた。
(今のは……誰だ。声からするとユイさん?)
一分後、扉が開いた。
「……颯斗さん」
「ユイさん……本当に申し訳ない」
颯斗は深々と頭を下げた。
ユイは着替えを終えてすっかり普段着になっている。
顔は真っ赤だが、怒っている様子はない。
「倉庫の鍵が変わってたんです。隣だと思って開けたら」
「あ……確かに昨日入れ替わったって部長が言ってた」
「それを聞いてなかった俺のミスです」
「……見た?」
颯斗は即答した。
「見てません。入った瞬間に気づいて目を閉じました」
「……本当に?」
「本当に。タオルしてたのはわかりましたけど、それ以上は何も」
「……」
ユイはじっと颯斗を見た。
「信じます」
「ありがとう」
「でも、こっちも少し気をつけます。鍵かけとかないと」
「そうしてください」
沈黙。
颯斗はひたすら倉庫の扉を見つめていた。
「……颯斗さん」
「はい」
「顔、赤いですよ」
「そちらこそ」
「……っ、おあいこです」
ユイが早足で去っていく。
颯斗は一人で天井を仰いだ。
(神様、俺に何の恨みがあるんですか)
――
翌日。
この出来事はなぜか、昼休みまでにエレナとリンとイザベルの耳に入っていた。
「颯斗が更衣室に入った?」
「ユイと?」
「まさかわざとじゃないよね?」
三人に囲まれた颯斗は、丁寧に三回同じ説明をした。
「……信じます」とエレナ。
「……信じてあげる」とリン。
「颯斗なら絶対そんなことしないわ!」とイザベル(一番フレンドリー)。
その後ろで、ユイが小さく笑っていた。
(笑ってる、ということは本気で怒ってはいないか)
颯斗はひそかに胸をなでおろした。
ただし翌朝、倉庫の扉には新しい表示が貼られていた。
『倉庫』と、大きく。
ユイの字だった。
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第5話 雨宿りと秘密
十月の西ヨーロッパは雨が多い。
その日も昼過ぎから雨雲が広がり、午後の練習途中で土砂降りになった。
コートの脇にある小さな観客席の屋根の下に、颯斗とエレナが並んで雨宿りをしていた。
他のメンバーはさっさと体育館に引き上げてしまったが、颯斗は道具をまとめきれずにいた。エレナは……エレナの理由は颯斗には分からなかった。
雨音だけが続く。
「ロシアにいたころ、雨の日に練習してた」
唐突にエレナが言った。
「ロシアでテニスを?」
「ジュニア時代。父親がコーチで、毎日打たされてた。雨の日も」
「……それは大変だったんですね」
「好きだったよ、テニスは。今も好き」
エレナは空を見上げた。
横顔が、雨の気配の中でいつもより柔らかく見えた。
「でも最近、勝てなくなってきた。大学に来て、技術が頭打ちになってる感じがする」
「……」
「コーチもいないし、的確なアドバイスをくれる人もいない」
颯斗は黙って聞いていた。
「あなたのアドバイスは、毎回的確なのよ」
「……そんな」
「謙遜しなくていい」
エレナが颯斗を見た。
碧眼に雨の光が映り込んでいる。
「あなた、本当は何者?」
颯斗は笑いを作った。
「球拾いです」
「だから、球拾いじゃない」
「テレビと本で独学した、テニス好きの留学生です」
「……」
エレナはしばらく颯斗を見ていたが、やがて前を向いた。
「いつか、正直に話してくれる日が来ると思う」
「……なぜそう思うんですか」
「あなたは嘘をつくのが得意じゃない」
それはその通りかもしれなかった。
颯斗は何も言えなかった。
「急かしてるんじゃないの」
エレナが続けた。
「ただ……あなたが話したいと思ったとき、私に話してくれると嬉しい」
颯斗は雨の向こうのコートを見つめた。
濡れた赤土が、夕方の灰色の光を受けてしっとりと輝いている。
(エレナさんは……鋭いな)
「……そのとき、話しますよ」
「約束?」
「約束」
エレナは小さく微笑んだ。
颯斗はそれをちらりと横目で確認して、また雨を見つめた。
二人の間に、静かで少し特別な沈黙が生まれた。
――
雨が上がったあと、颯斗は一人でコートに残ってラインを確認する作業をした。
やることがないと、どうしてもラケットを握りたくなってしまう。
(まだ……もう少し、このままでいい)
颯斗は手のひらを見つめた。
テニスで固くなった手のひらを。
球拾い用の軍手をはめた。
作業を再開した。
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第6話 ダブルスの相手
「颯斗、急で悪いんだけど今日ダブルスの練習に付き合って」
リンがそう言ってきたのは朝の練習前だった。
「え、俺が?」
「本来のペアが体調不良で来れなくて。適当に打ち返してくれるだけでいいから」
颯斗は一瞬考えた。
(プレーしたらバレる……でも、手加減すれば大丈夫かな)
「わかりました。ただ、下手ですよ」
「いいから」
コートに入ると、反対側にはエレナとイザベルのペアが待っていた。
「あら、颯斗が来るの」エレナが少し目を細めた。
「リンの頼みなんで」颯斗は軽く肩をすくめた。
ラケットを借りて構えた瞬間、颯斗はわずかな緊張を感じた。
三年ぶりのコート。ボールはまだ打っていないが、このポジションに立つだけで体が思い出す。
(落ち着け。普通に打てばいい。普通に)
最初の数球、颯斗は意識的に「素人っぽく」打った。
フォームを崩す。力を抜く。
ボールはふわっとした軌道で、普通の大学サークル生のように飛んでいく。
「……なんかもったいない打ち方してるね」
リンがぼそっと言った。
「そうですか?」
「フォームはきれいなんだけど、力抜きすぎ。もう少し普通に打っていいよ」
(リンさん、観察眼が本当に鋭い)
颯斗はわずかに力を入れた。
それでも七割程度の出力。
ボールがびしっと飛んでいく。
「あ、これくらいがいい」
「……頑張ります」
しばらくラリーが続いた。
問題は、二十分後に起きた。
エレナのクロスショットがコーナーに飛んできた。
リンが追いかける。颯斗もカバーに走る。
二人が同時に同じボールに飛びついた。
バランスを崩したリンが、颯斗に体重をかけた。
颯斗はなんとか受け止めようとして――二人一緒に、ネット際に倒れた。
どざんっ、と音。
「いた……」
「大丈夫ですか!?」
「うん……あなたは?」
颯斗はリンが無事かを確かめようとして気づいた。
リンのポニーテールが颯斗の口に入っていた。
それ以上に――颯斗の右手が、リンのウエストにがっちりと回っていた。
「……」
「……」
二人は三秒間固まった。
「て、てんとう虫みたいな体勢ですね」
颯斗が間を持たせようとしてまったく意味不明なことを言った。
「なんでてんとう虫なの!?」
リンが飛び起きた。顔が真っ赤。
「ごめんなさい咄嗟に支えようとして!」
「わかってる! わかってるけど!」
「すまない本当に!」
向かいのコートからイザベルの爆笑が聞こえてきた。
「てんとう虫!!! 颯斗おもしろすぎる!!!」
「笑うな!!!」 颯斗とリンが同時に叫んだ。
エレナだけが無表情で(でもどこか口元が動いていた)一言だけ言った。
「続きましょうか」
颯斗は地面に正座したまま、人生についての深い反省をした。
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第7話 スパゲッティ事件
セントクレア大学のカフェテリアは、十一時から十四時まで激戦区になる。
颯斗は少し遅めの十三時半に食堂に向かうのが常だったが、その日は練習が長引いて十四時を回った。
メニューはパスタしか残っていなかった。
「ボロネーゼ一つください」
トレイを受け取り、席を探す。
「颯斗! こっちこっち!」
元気な声。イザベルだった。四人席に一人で陣取り、豪快にペンネを口に運んでいる。
颯斗は向かいに座った。
「一人ですか?」
「リンたちは先に終わったし。ちょうどよかった。颯斗と話したかったの」
「俺と?」
「うん。あなたって、彼女いるの?」
颯斗はフォークを置いた。
「いません」
「なんで? かっこいいのに」
「機会がなかったので」
「女の子にもてそうなのに」
「自覚はないです」
イザベルはにやにやした。
「私のこと、どう思う?」
「……頑張り屋で明るくて、テニスへの情熱がすごい人だと思います」
「それだけ?」
「……可愛いと思います」
「おー! 正直!」
イザベルが立ち上がりかけた瞬間、トレイを引っかけた。
ボロネーゼのスパゲッティが宙を舞った。
次の瞬間。
「あー!!!」
「う……」
颯斗のシャツにスパゲッティが一面にかかった。
オレンジ色のソースが白シャツを染める。
「ご、ごめんなさい颯斗!! ほんとに!!」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない!! すごい量かかってる!!」
周囲の学生が一斉にこちらを向いた。
「あー……あー! ごめん! ハンカチ! ハンカチは……ない!」
「イザベルさん落ち着いて」
「落ち着けない!! ほら! 早くシャツ脱いで!」
「え?」
「拭かないとソースが染みる! 早く!」
イザベルはためらいなく颯斗のシャツのボタンを外し始めた。
「イザベルさん!」
「いいから! 男の子でしょ!」
「そういう問題じゃなくて!?」
カフェテリア中の視線が集中する中、颯斗は結局シャツを脱ぐ羽目になった。
その時、リンとエレナとユイが連れ立って食堂に入ってきた。
上半身裸の颯斗と、そのシャツを拭いているイザベルを見て三人は固まった。
「……何してるの」
「スパゲッティかけちゃって! 洗ってあげようと思って!」
「食堂で脱がせないで」とエレナ(淡々)。
「そうだよ食堂で!」とリン(動揺)。
「えっと……お体は大丈夫ですか」とユイ(心配)。
颯斗は腕で胸を隠す姿勢のまま答えた。
「大丈夫ですが精神的なダメージが……」
イザベルは悪びれもせず言った。
「颯斗って筋肉あるね。テニスだけじゃない体してる」
三人の視線が颯斗に集まった。
颯斗は速やかにシャツを受け取って着直した。
(この人たち、本当に俺の心臓を削りに来てる)
スパゲッティはもうなかった。
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第8話 泣きながら打つ彼女
夜の十時すぎ、颯斗は忘れ物をしたことに気づいて体育館に引き返した。
灯りのついているコートがある。
室内コートだ。
(誰が使ってるんだ、こんな時間に)
ガラス越しに中を見て、颯斗は立ち止まった。
ユイが一人でサーブ練習をしていた。
何球も、何球も、同じモーションを繰り返している。
おかしいのは、その頬だった。
光が反射していた。
(泣いてる?)
颯斗はしばらく外から見ていた。
入っていいものか迷う。
しかしユイはサーブを打つたびに、ネットに当たるたびに、唇をぎゅっと結んで次のボールをセットする。
泣きながら打っている。
諦めずに打っている。
颯斗はドアを開けた。
「ユイさん」
ユイが振り向いた。慌てて目元をぬぐう。
「颯、斗さん……」
「忘れ物を取りに来ました」
颯斗は倉庫からラケットカバーを取り出した。でもすぐには帰らなかった。
「……練習、見ていていいですか」
「え……こんな下手なとこ見られても」
「下手じゃないですよ」
颯斗はベンチに座った。ユイは少し困った顔をしたが、やがてまた構えた。
何球かサーブを打つ。やはりネットに当たることが多い。
「ユイさん、一つ聞いていいですか」
「……なんですか」
「日本のどこの出身ですか」
急に話が変わって、ユイは目を丸くした。
「え……両親がロサンゼルス生まれで、私はアメリカ生まれです。おじいさんが日本の広島出身で」
「広島か」
「知ってます?」
「行ったことあります。きれいな街ですね」
ユイはコートに目を落とした。
「……おじいさん、先月亡くなったんです」
「……そうでしたか」
「おじいさんがテニス好きで。私がテニス始めたのもおじいさんに教えてもらったから」
颯斗は何も言わなかった。ただ聞いていた。
「去年の大会、おじいさんに見せたくて頑張ったけど……私、一回戦負けで。それが最後に見せた試合で」
ユイの声が少し揺れた。
「悔しくて、もっと練習すればよかったって……今でも思うんです。だからこうやって夜遅くに一人で打って、でも全然上手くならなくて」
颯斗はしばらく黙ってから、立ち上がった。
「……ラケット、貸してもらっていいですか」
「え?」
「トスを見てあげます。サーブが安定しない原因がわかりました」
颯斗はユイのラケットを受け取り、トス動作だけをゆっくり見せた。
「トスが毎回少しだけ体の前すぎる。もう少し頭の真上に、肩に力を抜いて上げてみてください」
「こう……ですか」
「そう。もう少し力を抜いて。ボールを『置く』感覚で」
ユイが試す。
一球目、ネット。
二球目、アウト。
三球目――きれいにコートに入った。
「あ!」
「入りました」
「入った……!」
ユイが颯斗を見た。
涙はもう乾いていて、今は目が輝いている。
「もう一球」
「どうぞ」
また入った。
また。
また。
「入る! 連続で入る!」
ユイは振り向いて、颯斗に向かって深くお辞儀をした。
「ありがとうございます……ありがとうございます、颯斗さん」
「お役に立ててよかった」
颯斗はラケットを返した。
ユイはまた打ちはじめた。今度は泣いていない。
颯斗は体育館を出ながら、心の中でつぶやいた。
(おじいさんに、見せてやれるといいな)
秋の夜の空気は、少しだけ温かく感じた。
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第9話 水着とスポーツドリンク
サークルの夏合宿(十一月・セントクレア大は南向きのキャンパスで秋でも温暖)は、近くの大学所有のロッジで二泊三日だった。
颯斗は「雑用兼球拾い」枠で参加している。
一日目の練習が終わった夕方、メンバーたちがロッジ裏のプールで泳ぐことになった。
颯斗はプールサイドに飲み物を並べる係だった。
水着ではなく、いつものスウェット姿で黙々と作業している。
「颯斗! 入らないの?」
プールの中からリンが声をかけた。
「俺は裏方なので」
「硬いこと言わないで! せっかくプールがあるのに!」
その向こうで、イザベルが豪快に水しぶきを上げている。エレナは一人でゆっくり泳いでいる。ユイはプールの縁に座って足だけ浸けていた。
「颯斗さんも入ってみてください」ユイが微笑んだ。
「水着を持ってきてないので」
「大丈夫! サークルの予備あるよ!」
リンが突然そう言い、颯斗に向かって何かを投げた。
「え!?」
受け取ると、男性用のスイムウェアだった。
「部室にストック品があったの。ほら着替えて!」
周りの目もあり、颯斗はやむなく更衣室に向かった。
五分後に戻ってきたとき。
「……あれ、誰もいない」
プールサイドが静かだった。みんなプールに入っているが、颯斗の周りには誰もいない。飲み物のテーブルに荷物が置いてある。
颯斗がスポーツドリンクを手に取ろうとしたとき、背後から気配がした。
振り向く間もなく。
ばしゃあっ!!
全身に水がかかった。
「「「ぎゃははははは!!!!」」」
プールの中でリン・イザベル・エレナが肩を抱き合って笑い転げている。
「やった! 入った!!」
「顔面直撃!!」
「せっかく着替えてきたのに……!」
颯斗は全身びしょ濡れで立っていた。
その後ろで、ユイがひとり目を丸くしていた。
「……わ、私は関係ないです」
「笑ってますよ、ユイさん」
「……ごめんなさい」
颯斗はため息をついた。そしてプールを見た。
リンたちがまだ爆笑している。
颯斗はゆっくりプールサイドに歩み寄った。
「颯斗? 怒った? ごめんって!」
リンが少し慌てた様子で言った。
「怒ってないですよ」
颯斗はそのまま迷いなくプールに飛び込んだ。
そのまま水中で三人の方向に向かい、一気に三人の足をまとめて引っ張った。
「「「きゃーっ!!!」」」
三人が一斉にプールの中に引きずり込まれた。
ばっしゃん!
「騙し討ちは倍返しです」
颯斗は水面に浮かびながら静かにそう言った。
三人は水を吐きながら爆笑した。
「颯斗! やった!!」
「仕返しが速い!!」
「あなた本当に雑用係なの?」とエレナだけが少し目を細めた。
その夜、プールサイドのデッキで全員が横になって星を見た。
西ヨーロッパの秋の夜空に、星がびっしりと並んでいた。
「きれいですね」ユイがつぶやいた。
「うん」リンが答えた。
「これが日常なの」イザベルが言った。
エレナは何も言わなかったが、颯斗の横顔をちらりと見た。
颯斗も空を見ていた。
テニスのことも、過去のことも、今この瞬間は遠かった。
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第10話 ばれそうでばれない
合宿二日目の朝、全員でジョギングをすることになった。
颯斗は少し後ろを走りながら、全体のペースを見ていた。
(こういうときも、ついコーチ目線になる)
「颯斗、遅い遅い!」
リンが後ろを向いて手招きした。
「俺は荷物持ちなので後方警戒してます」
「荷物持ちが後方警戒するの?」
「基本です」
先頭はエレナ。一定のペースで淡々と走り続けている。
二番手はイザベル。元気だが息が上がっている。
三番手がリン。小刻みなステップで効率よく走る。
最後尾がユイで、颯斗がその横に並んだ。
「颯斗さんって……走り方もきれいですね」
「そうですか?」
「普通の人って走るとき少し上下するじゃないですか。颯斗さん全然ブレない」
「癖ですかね」
(テニスのフットワーク訓練の賜物だが、それは言えない)
「……颯斗さんって、テニスがんがんやってた時期ありますよね」
ユイがふいに言った。
「なんでそう思うんですか」
「だって私たちへのアドバイスが毎回すごく的確で。球拾いの人のレベルじゃないですよ」
「みんなに言われます」
「みんな感じてるんだ……」
ユイはしばらく間を置いた。
「聞いてもいいですか」
「……内容によっては」
「なんでここで球拾いをしてるんですか」
颯斗は前を向いたまま走りながら答えた。
「テニスが好きだから」
「それだけ?」
「……少し、テニスと距離を置きたい時期があって。でもコートの近くにはいたくて」
ユイは何も言わなかった。
「それで球拾いをしてたら、みんながいて。なんか居心地がよくなってしまって」
颯斗は少し照れた。
「変ですかね」
「変じゃないです」
ユイが笑った。
「私も理由があってここにいますから。お互い様です」
そのとき前方でドスンという音がした。
「あいたー!!」
石につまずいたイザベルが転んでいた。
エレナが冷静に引き返す。リンが慌てて駆け寄る。
颯斗が追いついて膝を見ると、少し擦り傷がある程度だった。
「大丈夫ですか? 立てますか」
「うん平気平気。恥ずかしい!!」
颯斗は救急ポーチから消毒を取り出した。
イザベルの膝に処置する。
「あなた球拾い係なのに救急ポーチ持ち歩いてるの?」エレナが言った。
「万が一のために」
「かゆいところに手が届く、というか……」リンがつぶやいた。
「颯斗って、本当にここにいるのが自然すぎない?」とイザベル。
「どういう意味ですか」
「なんか……最初から仲間みたいな感じ。球拾いの人って感じしない」
颯斗は絆創膏を貼りながら答えた。
「球拾いですよ」
「はいはい」
イザベルが颯斗の頭をぽんぽんと叩いた。
兄を見る妹のような仕草だった。
(……本当にバレる日も近いかもな)
颯斗は心の中だけでそう思った。
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第11話 夜のコートで二人きり
合宿最終日の夜。
他の全員がロッジで就寝した後、颯斗は一人コートに出た。
照明は落ちている。月明かりだけが差している。
颯斗はコートの真ん中に立って、静かに息を吸った。
テニスコート特有の空気。土と、ライン白線と、ネットと。
(……やっぱり、好きだな)
ラケットを持っていなかった。それでいい。今は持てない。
足音が聞こえた。
「眠れないの?」
エレナだった。コートのフェンス越しに立っている。
「少し外の空気を吸いに」
「私もよ」
エレナがフェンスを開けてコートに入ってきた。颯斗の隣に立つ。
二人並んで、夜のコートに立った。
「ここ、好き」エレナが言った。
「俺も」
しばらく黙っていた。
「颯斗」
「はい」
「あなた、ラケットを握れない理由があるんでしょ」
颯斗は答えなかった。
「違う?」
「……正確には、握れないわけじゃない。握りたくない時期があった」
「過去形?」
「……今は、少し変わってきた気がします」
エレナは月を見た。
「私ね、ジュニア時代にある大会で大事な試合に負けて、父親にひどく怒鳴られたことがある。それからしばらくテニスが怖かった」
「……」
「でも、やめなかった。なぜなら、コートにいると全てを忘れられたから」
颯斗はエレナを見た。
「あなたも、同じじゃない?」
颯斗は少し考えてから言った。
「……俺の場合は、負けたんじゃなくて、大切な人を傷つけてしまったんです。テニスのせいで」
「大切な人?」
「昔チームメイトだった友人を……俺の存在がプレッシャーになって、彼女はテニスを辞めた」
エレナは黙って聞いていた。
「天才、って言われることが多かったんですが……俺がいることで誰かが諦めるなら、俺は何のためにテニスをしていたのかって」
「それで逃げた?」
「……逃げたのかもしれません」
エレナがゆっくり颯斗の方を向いた。
「あなたのテニスは、あなたを傷つけた人たちのものじゃない。あなた自身のものよ」
颯斗は黙っていた。
「私は……あなたがコートに立つところが見たい。球拾いじゃなくて」
月明かりの中で、エレナの碧眼が颯斗を見つめていた。
颯斗は視線を受け止めた。
「……いつか」
「約束?」
「約束」
二人は夜のコートに並んで立ったまま、しばらく黙っていた。
その静けさは、穏やかだった。
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第12話 前半の嵐〜大会前夜〜
合宿から一週間後、サークル内対抗戦の前日。
練習は早めに切り上げ、全員が体育館で軽いストレッチをしていた。
颯斗はドリンクの補充をしながら、四人の様子を眺めた。
エレナはいつも通り静かで落ち着いている。だが姿勢がわずかに固い。緊張している。
リンは積極的にストレッチをしているが、指先が小刻みに動いている。
イザベルは「全然平気!」と叫んでいるが、同じ場所を三回往復している。
ユイは……目を閉じて、深呼吸を繰り返していた。
(みんな緊張してる)
颯斗は人数分のホットティーを入れて持っていくことにした。
体育館の小さなキッチンスペースでお湯を沸かしていると、リンが入ってきた。
「颯斗、何してるの」
「お茶入れてます」
「みんなの分?」
「はい」
リンは黙って隣に立った。カップをセットするのを手伝い始める。
「颯斗は、試合の前ってどんな気持ちになる?」
「今は観客席なので、ドキドキしますね」
「そうじゃなくて……昔。テニスしてたころ」
颯斗は少し驚いた。
「……ワクワクしてました。怖くはなかった」
「本当に?」
「負けることより、全力を出し切れないことの方が怖かった。だからむしろ楽しみだった」
「……すごいな」
リンはカップを手に取り、じっと見つめた。
「私は怖い。毎回」
「それでも毎回出続けてるじゃないですか」
「あなたにそう見えてる?」
「見えてます」
颯斗はリンを見た。
「リンさんは、怖いと言いながら一番一生懸命だ。それはすごいことですよ」
リンは少し目を伏せた。
「……ありがとう」
お茶を持って戻ると、イザベルがユイに肩車を試みていた。
「何してるんですか」
「緊張をほぐそうとして!」
「方法が謎すぎる!」
颯斗はお茶を配りながら言った。
「明日、四人全員のプレーを一番近くで見てます。球拾いながら」
「それ、応援になる?」とユイ。
「俺には一番できる形の応援です」
エレナが受け取ったカップを両手で包んだ。
「……ありがとう、颯斗」
温かい。
カップも、この場所も。
颯斗は四人の顔を見渡した。
エレナ、リン、イザベル、ユイ。
それぞれが違う不安を抱えて、それでもコートに立とうとしている。
(俺も、もうすぐ立てる気がする)
その夜、颯斗は久しぶりに夢を見た。
ウィンブルドンのセンターコート。
大歓声。
グリーンの芝。
夢の中の颯斗は、笑っていた。
――1期前半 了――
第13話 大会当日の大混乱
サークル内対抗戦の朝は、最初から混乱していた。
颯斗が体育館に着くと、ロビーでイザベルが仁王立ちになっていた。
「颯斗! 大変!!」
「何ですか」
「リンのラケットがない!!」
「え?」
「昨日倉庫に置いてったら今朝ちがう人のラケットが入ってた!」
颯斗は倉庫に走った。確かにラケットが入れ替わっている。ラベルを見ると別の部の名前だった。
(昨日別の部も練習してたから、取り違えたんだ)
「リンさん予備ラケットは?」
「スペックが全然ちがう! 試合で使えない!!」とリン。
颯斗は五分で隣の部の部室を叩いて事情を説明し、ラケットを取り戻した。
「早っ」とリン。
「よかった!」とイザベル。
次の問題は十分後に起きた。
ユイがウェアを忘れてきた。
「す、すみません……ロッジに置いてきてしまって」
「大丈夫です。サイズは?」
颯斗がストック品を探すと、ユイのサイズに近いものがあった。が、少しタイトだった。
「……着られます?」
「着ます! 試合に出ます!」
ユイが更衣室に消えて、三分後に出てきた。
颯斗は思わず目を逸らした。
「……颯斗さん? どこ見てるんですか」
「いや、その……似合ってます」
「うそ、似合ってないけどそれしかないので着ます!」
リンとイザベルがユイを見て「かわいい!!」と叫んだ。エレナが静かに「いいんじゃない」と言った。颯斗はそっと天井を見た。
三番目の問題は試合開始直前に起きた。
エレナがアップ中に、颯斗が補充用ボールのカゴを持って走っていて――勢い余ってエレナの背中に突っ込んだ。
ボールが十数個散乱する。
「……颯斗」
「すみません本当に!」
「試合前に背中を押してどうするの」
エレナは淡々としていたが、颯斗の手がエレナの肩を支えた形で数秒間そのままになっていた。
「……手、まだついてる」
「す、すみません!!」
その場面をリン・イザベル・ユイが無言で見ていた。
「颯斗ってエレナには特に積極的だよね」とイザベル。
「そうかな」とリン(顔が微妙)。
「事故ですよ事故です!」と颯斗。
試合は午前十時に始まった。
颯斗はコートサイドで球拾いをしながら、四人の試合を一球も見逃さなかった。
(エレナ、踏み込みが安定してる。アドバイスが活きてる)
(リン、スライスがきれいに入ってる。グリップ直した効果だ)
(イザベル、トスが安定してる。サーブが格段に良くなった)
(ユイ……緊張してるけど、サーブだけは迷いがない)
颯斗は静かに微笑んだ。
(みんな、ちゃんと前に進んでる)
球拾い係が、一番ぐっとくる日だった。
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第14話 テーピングの距離感
対抗戦の二試合目が終わった休憩中、リンが足首を気にしているのに颯斗は気づいた。
「どうしました?」
「昨日からちょっと違和感があって……大したことないと思うけど」
颯斗はリンの足元を見た。
「少し腫れてますね。見せてもらえますか」
「え、颯斗が?」
「テーピングくらいならできます。医務室に行った方がいいかもしれませんが」
リンは少し躊躇してから靴を脱いだ。
颯斗は膝をついてリンの足首を丁寧に触れた。骨には異常なし。軽度の捻挫の前兆のような状態だ。
「痛い場所はここですか」
「……うん」
「今日の残りの試合は出ない方が……」
「出る」
「でも」
「出るの」
リンがまっすぐ颯斗を見た。
「颯斗がケアしてくれたら大丈夫」
颯斗はため息をついた。
「……わかりました。テーピング、しますね」
救急ポーチからテーピングテープを取り出して、颯斗はリンの足首を丁寧に固定し始めた。
テーピングをしている間、二人は黙っていた。
颯斗の手がリンの足首を支えていた。
リンは颯斗の手元を見ていた。
「……上手いね」
「見様見真似です」
「嘘。これプロの巻き方に近い」
颯斗は手を止めなかった。
「……部活時代の友人がトレーナーで、よく見てたんです」
「そうなんだ」
また沈黙。
颯斗がテーピングを終えて立ち上がろうとしたとき、リンの手が颯斗の手首をつかんだ。
「……ありがとう」
颯斗は座ったまま、リンを見た。
リンは下を向いていた。耳が赤い。
「あなたって、本当に……」
「本当に?」
「……気になる人」
それだけ言って、リンはパッと手を離してさっさと立ち上がった。
「もうちょっとで私の番だから! 行くね!」
「……はい、頑張ってください」
颯斗は地面を見ながら、道具を片付けた。
隣のコートで、イザベルが「見てたよー!!」と叫んだ。
颯斗は即座に立ち上がって「聞こえてませんでした!!」と言い返した。
イザベルが笑い転げた。
(心臓に悪い)
颯斗は胸元を押さえた。
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第15話 イザベルの涙
対抗戦の最終種目、シングルス決勝。
エレナ対イザベルの対決だった。
セントクレア大ACEの実質的なナンバーワンとナンバーツーの直接対決。
颯斗はコートサイドで静かにボールを持ち、試合を見守った。
一セット目、エレナが取った。
二セット目、イザベルが取った。
最終セット、タイブレークに突入した。
(どちらも本気だ)
颯斗はラリーを目で追った。
エレナの正確なコースへの配球。
イザベルのパワーで押し切るフォアハンド。
タイブレーク、六対六。
ここでイザベルがミスを連発した。
二連続ダブルフォルト。
緊張で体が固まっている。
(……サーブの時、呼吸が止まってる)
タイブレーク、六対八。マッチポイント。
イザベルの最後のサーブ、ネット。
試合終了。
エレナが静かにラケットを下ろした。
イザベルはその場で膝をついた。
颯斗がボールを拾いに行くと、イザベルがうつむいていた。
涙が、赤土にぽつぽつと落ちている。
声をかけていいのかわからなかった。
でも颯斗は立ち止まった。
「……イザベルさん」
イザベルが顔を上げた。
泣いていた。豪快で太陽みたいな彼女が、泥だらけの膝で泣いていた。
「……悔しい」
「……そうですね」
「エレナには、もう何年も勝てない。なんで私はこんなに弱いんだろう」
颯斗は言葉を選んだ。
「弱くないですよ」
「負けたじゃない」
「でも今日のイザベルさんのテニスは、俺が見てきた中で一番よかった」
イザベルが颯斗を見た。
「サーブの改善、フットワーク、体の使い方。三週間前と全然ちがう。成長してる」
「でも、勝てなかった」
「今日は勝てなかった。でも勝てる日が来ると思って見てました」
イザベルはしばらく颯斗を見つめた。
それから、大きな声で一回だけ泣いた。
颯斗は隣にしゃがんで、何も言わずにいた。
少しして、イザベルが袖で目をぬぐった。
「……颯斗って、球拾いにしては優しすぎ」
「そうですかね」
「そうだよ」
イザベルが立ち上がり、颯斗の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「ありがとう。また練習する」
「はい」
「絶対エレナに勝つ」
「見てますよ」
イザベルはコートを出て行った。
颯斗は赤土に残った涙の跡を、静かに見た。
(テニスって、こういう場面もある)
球拾いのバスケットを持ち直して、颯斗は歩きだした。
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第16話 ユイの一勝
対抗戦の初級クラス部門、ユイの試合は午後の一番最後だった。
颯斗は隣のコートの作業を終えて、ちょうどユイの試合が始まるタイミングでフェンスのそばに立った。
相手は同じ新入り枠の学生。ユイより少しテニス経験が長そうに見えた。
一ゲーム目、ユイがブレークされた。
二ゲーム目、またブレーク。
(サーブが入ってない……緊張してる)
颯斗はフェンスをつかんで見ていた。何も言えない。コーチじゃないから。でも、ただ見ていた。
三ゲーム目。
ユイがサービスゲームを迎えた。
一球目。ネット。
二球目。ユイが深呼吸をした。
(そうだ。呼吸して、力を抜いて)
颯斗は心の中だけで言った。
三球目。
トスが上がる。
ラケットが振られる。
きれいなフラットサーブがコーナーに刺さった。
エース。
ユイがわずかに微笑んだのが、颯斗には見えた。
そこからユイの試合が変わった。
サーブが安定し、ラリーに自信が出てきた。
四ゲーム目、ホールド。
五ゲーム目、ブレーク。
六ゲーム目、ホールド。
最終スコア、四対六で負けた。
でも後半は完全にユイペースだった。
試合が終わって握手をして、ユイがコートから出てきた。
颯斗の前で立ち止まった。
「見てましたか」
「最初から最後まで」
「負けました」
「知ってます」
ユイがうつむいた。でも口元が少し上がっていた。
「……後半、サーブ入ってました」
「入ってましたよ」
「おじいちゃんに、ちょっとだけ見せられたかな」
「十分見せられましたよ」
ユイが顔を上げた。
目が少し赤い。でも泣いてはいない。
「颯斗さん……今日、見ていてくれてよかった」
「俺もそう思います」
二人はフェンス越しに向き合っていた。
夕方の光が、ユイの髪を柔らかく染めていた。
颯斗は言葉を続けた。
「次の大会は勝ちましょう」
「……はい」
「一緒に練習します」
「……え、颯斗さんが?」
「球拾いをしながら、横でアドバイスします」
ユイが小さく笑った。
「それもう球拾いじゃないですよ」
「……そうですね」
颯斗も笑った。
ユイは走ってイザベルたちの輪に戻っていった。
颯斗はその背中を見ながら、胸にじんわりした温かさを感じた。
(球拾いをしていて、よかった)
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第17話 ロッカールームの誤算
対抗戦が終わって数日後、颯斗は倉庫の棚卸しを頼まれた。
ラケット、ボール、ネット素材……一つひとつを数えてリストに記録していく地味な作業だ。
颯斗が奥の棚に手を伸ばしていたとき、ドアが開いた。
「あれ、電気ついてる……」
エレナが入ってきた。着替えを終えた後のようで、ウェアではなくシンプルなニットを着ている。
「颯斗、こんなところで何してるの」
「棚卸しです。エレナさんこそ」
「ここにラケットを置いてたの」
エレナが棚の奥に手を伸ばした。颯斗と真横に並ぶ形になる。
狭い倉庫、腕が触れそうな距離。
「……」
「……」
颯斗は無言で棚卸しリストに目を落とした。
エレナがラケットバッグを引き出そうとしたとき、棚の上の段に置いてあったボールカゴが傾いた。
「あっ」
ボール二十個が滝のように落ちてきた。
颯斗は反射的にエレナを引き寄せて、ボールの直撃から庇った。
バタバタバタッとボールが床を跳ね回る。
気づくと。
颯斗はエレナを抱き止めた格好で、棚に背中を押しつけていた。
エレナの顔が、颯斗の胸のあたりにある。
(……近い)
エレナがゆっくりと頭を上げた。碧眼がすぐそこにある。
「……ボール、落ちてきた」
「……そうみたいですね」
「助かった」
「いえ」
どちらも動かなかった。三秒。五秒。
エレナが颯斗の胸に手を当てて、そっと距離を取った。
「……ありがとう」
「……どうぞ」
颯斗は棚から離れてボールを拾い始めた。
エレナもひざをついてボールを集め始めた。
沈黙の中、ボールを拾う音だけが続く。
「颯斗」
「はい」
「さっきのは、事故?」
「……はい」
「……そう」
エレナはラケットバッグを手に取って立ち上がった。
出ていく前に、一度だけ振り向いた。
「……事故じゃなくてもよかったのに」
颯斗はボールを一個持ったまま固まった。
エレナが出ていった後、颯斗は一人で床に落ちたボールを全部拾い集めた。
時間が、いつもより長くかかった気がした。
(エレナさん……ずるい人だな)
倉庫のドアを閉めて、颯斗はため息をついた。温度が一度上がったような気がした。
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第18話 エレナの要求
翌週の月曜日、エレナが颯斗の前に立ちはだかった。
「放課後、私の練習に付き合って」
「……球拾いとして?」
「違う」
「どういう意味ですか」
「あなたにボールを打ってほしい。相手として」
颯斗は固まった。
「俺が……打つ?」
「先週のあなたの体の動き、コートで見てた。ダブルスの時も、ジョギングの時も」エレナは真剣な顔だ。「普通の人じゃない。隠してるのはわかってる。でも今は理由を聞かない。ただ打って」
「……」
「お願い」
エレナがそう言うのは珍しかった。
颯斗は天井を見た。
(少しだけなら……いいかな)
「……わかりました。ただし、手加減しますよ」
「それでいい。今の私のレベルを確認したいだけ」
夕方、二人だけのコートで颯斗はラケットを握った。
三年ぶり。
ボールを受け取って構えた瞬間、体が記憶を呼び覚ました。
膝の曲げ方、重心の位置、ラケットフェイスの角度。
(……懐かしい)
「行くわ」
エレナが打ってきた。
颯斗は六割程度の力でバックハンドで返した。
エレナが追いついて返す。颯斗がまた返す。
ラリーが続いた。
十球、二十球、三十球。
エレナの顔が変わっていく。最初は慎重だったが、だんだん集中した表情になる。
「……少しだけ本気で打って」
「えっ」
「今の五割増しくらい。受け止められる」
颯斗はわずかに力を入れた。
ボールがびしっと飛んでいく。
エレナが一歩下がって、でも返した。
「もう少し」
「エレナさん」
「もう少しだけ」
颯斗は七割に上げた。
エレナがギリギリで追いついた。返球がショートになる。颯斗は走って拾い、優しく返した。
しばらくラリーを続けたところで、エレナがラケットを下ろした。
「……わかった」
「何がですか」
「あなたが何者かの見当がついた」
颯斗は黙っていた。
「今日の打球を、ウィンブルドンの準優勝者の七割だと仮定すると……」
「エレナさん」
「ねえ、神城颯斗。あなた、プロ選手だった?」
コートに沈黙が落ちた。
颯斗は少しだけ笑った。
「……もう少しだけ、このままでいさせてください」
「理由は?」
「まだ準備ができていないから」
エレナはしばらく颯斗を見つめた。
それから、一つうなずいた。
「……わかった。でも約束して。準備ができたら、正直に話して」
「約束します」
「今日の打球の感触……素晴らしかった」
エレナはラケットを持ってコートを出ていった。
颯斗は一人残って、ラケットをそっと見た。
(……また、打てた)
震えてはいなかった。
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第19話 リンの告白未遂
十一月に入り、夕暮れが早くなった。
その日の練習終わりに、リンが颯斗に声をかけた。
「帰り道、一緒でいい?」
「いいですけど、方向は同じですか?」
「どうせ途中まで一緒でしょ。キャンパス内なんだから」
言われてみればその通りだ。
二人で並んで歩き始めた。
落ち葉が積もった並木道。
夕方の空が橙色から紫に変わっていく。
「最近さ」
リンが言った。
「はい」
「颯斗のこと、たくさん考えてる」
颯斗は歩調を乱さずに答えた。
「……どんなふうに?」
「上手く言えないけど……なんか、いつもコートにいてくれるじゃない。球拾いしながら、でも絶対に私たちのこと見てて」
「仕事ですから」
「違う、そういう感じじゃない」
リンが立ち止まった。颯斗も止まった。
リンはじっと正面を向いたまま言った。
「颯斗の視線、好きなの。追いかけられてる感じがして……それが嫌じゃなくて、むしろ」
一拍間があった。
「……安心する」
颯斗は黙っていた。
「……これって、なんなんだろうって思って」
リンがようやく颯斗を見た。
小さな顔が、夕日に照らされている。
「颯斗はどう思う。私のこと」
颯斗は少し考えた。
「……リンさんのこと、好きですよ」
「えっ」
「サークルの誰もが好きです。みんな、一生懸命で」
「……そういう意味じゃなくて」
「わかってます」
颯斗はリンを見た。
「だから、今は……正直に言えない」
「なんで」
「俺が隠してることがあって。それを話せないうちは、誰かに気持ちを言う資格がないと思ってる」
リンはしばらく颯斗を見つめた。
「……隠してること」
「はい」
「いつか、話せる?」
「できるだけ早く」
「……じゃあ待つ」
リンがまた歩き始めた。颯斗も並んで歩いた。
「告白しようと思ってたのに」
リンがぼそっと言った。
「え?」
「なんでもない! 忘れて!」
「あ、はい」
颯斗は前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
(リンさん……ありがとう)
並木道を、二人の足音が重なって響いた。
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第20話 過去の扉
十一月の中旬、颯斗のスマートフォンに見知らぬ番号からメッセージが来た。
『颯斗。セントクレアにいるって聞いた。一度会えないか。――澤村京香』
颯斗は画面を見つめて、しばらく動けなかった。
澤村京香。
彼がテニスを離れるきっかけとなった、かつてのチームメイト。
颯斗より少し年上の彼女は、同じコーチに師事していた有望選手だった。
颯斗が世界ランキングを駆け上がるにつれて、彼女は選考から外され続けた。
最後に会った日、彼女は涙声で言った。
「颯斗がいるだけで、私には何も回ってこない。あなたが憎い」
その翌月、澤村京香はプロテニスを引退した。
颯斗は自分のせいだと思い続けた。
翌日、颯斗はキャンパスのカフェで京香と会った。
三年ぶりの彼女は、髪を短くして穏やかな顔をしていた。
「ひさしぶり、颯斗」
「……ひさしぶりです、澤村さん」
「今はここの大学院にいるの。スポーツ科学専攻」
颯斗は驚いた。
「テニスは?」
「コーチングに転向した。今は母校のジュニア選手を見てる」
京香がコーヒーカップを両手で包んだ。
「あの時のこと、ずっと謝りたかった」
颯斗が目を見開いた。
「私が言ったこと……酷かった。あなたを憎いなんて、本当のことじゃなかった。ただ、悔しくて、どこかにぶつけたくて」
「……」
「あなたのせいで引退したんじゃない。私が決めたことだった。でも、あなたが関係してるみたいに言ってしまって……その後、颯斗が消えたって聞いて」
京香の目が揺れた。
「ごめんなさい。私のせいで、あなたのテニスに影を落としてしまった」
颯斗は言葉が出なかった。
三年間、ずっと自分を責めていた。
でも今、目の前の人も、ずっと同じことを思っていた。
「……俺も、謝りたかった。澤村さんのことを考えてあげられなくて」
「お互い様だったんだよ」
京香が微笑んだ。
「颯斗、また打ってる?」
「……少しだけ、最近」
「よかった。あなたのテニスは、本物だから」
颯斗は窓の外を見た。
曇り空から、光が差し始めていた。
(……重かったものが、少し軽くなった)
その夜、颯斗は一人でコートに立ってボールを打った。
誰にも見せない、久しぶりの本気の一球。
ボールはコーナーに、きれいに落ちた。
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第21話 コートに立つ日
十二月最初の土曜日。
颯斗は朝から体育館の室内コートに一人でいた。
ラケットを手に持ち、ネット越しに空のコートを見ていた。
昨夜、颯斗はエレナに連絡を入れた。
『明日の朝、コートに来てもらえますか。話があります』
朝八時。エレナが来た。
リンも来た。
イザベルも来た。
ユイも来た。
四人が、コートのベンチに並んで座っている。
颯斗の前に。
「全員に来てもらったのは……正直に話したかったからです」
颯斗は言った。
「神城颯斗、二十歳。セントクレア大学交換留学生。……元プロテニスプレイヤー。ATP最高ランキング三位。ウィンブルドン準優勝」
四人が静かになった。
「二年前に引退して、傷を癒すためにここに来ました。テニスをするつもりはなかったけど、コートの近くにいたかった。だから球拾いをしていました」
颯斗は四人を見た。
「嘘をついていました。ごめんなさい」
沈黙が続いた。
最初に口を開いたのはイザベルだった。
「……やっぱりね」
「え?」
「なんか変だと思ってたもん。球拾いが毎回的確なアドバイスするなんて」
リンが次に言った。
「怒ってないよ。……でも、もっと早く言ってほしかった」
「ごめんなさい」
ユイが立ち上がった。颯斗の前に来て、深くお辞儀をした。
「ありがとうございました。あのサーブのアドバイス……本当に助かりました」
「俺の方こそ」
エレナが最後に言った。
「打って」
「え?」
「今すぐ、ここで。本気で。私に向かって」
エレナが立ち上がってラケットを持った。コートに入る。
颯斗はラケットを握り直した。
コートに入った。
サービスラインに立った。
球を一個手に取った。
深呼吸。
三年ぶりの本気のサーブ。
ボールを弾き上げる。
ラケットを振り上げる。
炸裂した。
ボールがコーナーに突き刺さった。
エレナが動けなかった。
エース。
四人が静かになった。
それから、イザベルが叫んだ。
「すっごーーーーい!!!!!!」
リンが立ち上がった。
ユイが手を叩いた。
エレナが――笑った。
颯斗は、コートの上で、久しぶりに泣きそうになった。
(……ただいま)
コートが、懐かしかった。
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第22話 四人vs颯斗
「颯斗に四人でかかれば一ゲームくらい取れるはず!」
イザベルが宣言したのは、颯斗の正体が明かされた翌週のことだった。
「四対一は無理がありますよ」
「やってみなきゃわからない!」
という経緯で始まった変則練習試合。
コートの反対側に、エレナ・リン・イザベル・ユイが並んだ。颯斗が一人で全面を守る。
「ルールは颯斗のシングルスコート、相手はダブルスコート。颯斗が一人で全面守る」
「それでも俺の方が有利な気がしますが」
「うるさい始めるよ!」
試合開始。
作戦を練った四人は、まず短いドロップショットを打ち、颯斗が前に出たところを深いロブで抜く戦術を試みた。
「いい作戦ですね」
颯斗が走りながら言った。
しかし颯斗は余裕で追いつき、低いスライスで返した。
「速っ!」とリン。
次に、四人が同時に大声で叫んで颯斗を混乱させる作戦。
「「「「キャーーー!!!」」」」
颯斗は動じず、正確なコーナーへ打ち込んだ。
「効かなかった!」とイザベル。
次に、ユイがわざと転んで颯斗の注意を引く作戦。
「颯斗さん、大丈夫です……ふり!」
「わかってますよ」
颯斗は目を逸らさずに打った。
「バレた!!」
結局、三ゲームを颯斗が取ったところで颯斗が宣言した。
「俺が一点取られたら今日の球拾いを免除にします」
「燃えてきた!!」とイザベル。
四人の気合いが上がる。
しかし七ゲーム目、颯斗が後退りしたとき、フェンスのそばで膝をついていたユイに背中からぶつかった。
二人が一緒にフェンスに倒れ込んだ。
「いったー!」
「ごめんユイさん!! 大丈夫ですか!」
颯斗がユイを支えようと手を伸ばした。
着地した瞬間、颯斗の手がユイの膝の内側に。
ユイの頭が颯斗の肩に。
「…………」
「…………」
コートから三人が見ていた。
「また颯斗だ」とリン(複雑)。
「颯斗のポジション的にだいぶ際どい」とエレナ(冷静)。
「ユイが赤くなってる!!」とイザベル(実況)。
「事故です!!!」颯斗が立ち上がりながら叫んだ。
「わかってます!!!」ユイも顔を赤くしながら叫んだ。
その混乱の隙に、イザベルが無人のコートにボールを打ち込んだ。
「入ったー!!!! 一点!!!!」
颯斗が振り向いたときにはボールがバウンドしていた。
「……負けました」
「やったーーーー!!!!」
四人が抱き合って飛び跳ねた。
颯斗は苦笑いしながらラケットを下ろした。
(……楽しいな、このコートは)
秋の空に、四人の歓声が響き渡った。
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第23話 正体、ばれる(学内編)
颯斗の正体が学内に広まるのは、あっという間だった。
きっかけは一枚の写真だった。
颯斗がコートでエレナとラリーをしている場面を、通りがかりの学生が撮影してSNSにあげた。
『セントクレア大のテニスコートに神城颯斗いた 元ATP3位の人 球拾いしてる』
投稿には颯斗の元プロ時代のプロフィール画像と並んで比較されていた。
それが一晩で二千リツイートされた。
翌朝。
颯斗がキャンパスを歩いていると、知らない学生から声をかけられた。
「あの、神城颯斗さんですよね!? ウィンブルドンの!?」
「……はい」
「サインください!!!」
その声に反応して、ほかの学生も集まってきた。
「え、本当に?」「球拾いの人?」「かっこいい!!」
颯斗は十分かけてなんとかその場を切り抜けた。
昼休みにカフェテリアに行くと、四人が先に席にいた。
「……大変なことになりましたね」颯斗が言った。
「昨日から私たちにも質問攻めだよ」とリン。
「『颯斗さんって彼女いるんですか』って三十回聞かれた」とユイ。
「私、颯斗に習ってたって言ったら友達から羨ましがられた!」とイザベル。
「……困ってる?」エレナが颯斗に聞いた。
「少し」颯斗は答えた。「有名になるためにここに来たわけじゃないので」
「じゃあどうするの」
「……このまま球拾いを続けます」
四人が沈黙した。
「球拾い?」リン。
「正体がバレても?」イザベル。
「続けるんですか」ユイ。
「俺はここで球拾いをしていたくて、皆さんのコートにいたい。それは変わらないので」
エレナが、颯斗の顔をじっと見た。
「……プロに戻るつもりは?」
「今は、ないです。いつかはわかりません」
「なぜ」
「まだここにいたいから」
四人の表情が、それぞれに柔らかくなった。
「……馬鹿ね」エレナ(でも笑っている)。
「最高だよ颯斗!」イザベル(ハグしてきた)。
「変な人」リン(顔が赤い)。
「よかった」ユイ(小さく笑った)。
颯斗はイザベルにハグされながら言った。
「……放してもらえると助かります」
「いやだ」
「イザベルさん」
「いやだって言ってる」
リンとユイが笑い、エレナが視線を天井に向けた。
カフェテリアに、午後の光が差し込んでいた。
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第24話 それでも球拾いを続ける理由
一期最終話。
十二月下旬。セントクレア大の前期が終わる週。
颯斗は最後の練習日に、いつも通り球拾いバスケットを持ってコートに現れた。
「今日も球拾いするの」とリン。
「します」
「プロだったのに」
「関係ないですよ」
練習が始まった。
エレナのフォアハンドが、三週間前よりも格段に安定していた。
リンのスライスは、別人のように低く滑る。
イザベルのサーブは、タイブレークでも乱れなくなった。
ユイは、サーブからラリーへの流れが自然になってきた。
(みんな、変わった)
颯斗はボールを拾いながら、四人を見ていた。
午後四時、練習が終わった。
全員でネットを畳んでいると、エレナが言った。
「颯斗、来学期もここにいる?」
「留学期間がもう一年あるので、います」
「じゃあ来学期も球拾い?」
「……どうしようかなと思って」
四人が颯斗を見た。
「ちゃんとサークルメンバーとして入れてもらえますか」
一瞬の沈黙。
それからイザベルが「「「「もちろん!!!!!」」」」と一人で四人分の声量で叫んだ。
リンが颯斗の腕をつかんだ。
「やっと言ってくれた」
ユイがくしゃっと笑った。
「ずっとそう言ってほしかった」
エレナだけが静かに言った。
「……遅い」
「すみません」
「でも、おかえり」
颯斗は笑った。
――
夕暮れのコート。
全員が帰った後、颯斗一人が残った。
ボールを一個手に取る。
サービスラインに立つ。
空を見上げる。
茜色の空。
飛行機雲が一本、まっすぐに伸びている。
(テニスが好きだ)
ずっとそうだった。
傷ついても、逃げても、それだけは変わらなかった。
颯斗はボールを弾き上げた。
ラケットを振った。
ボールが、夕空に向かって飛んでいった。
コートに、一人の笑顔が残った。
――――
第一期 全24話 完
「球拾いの天才 〜元プロテニスプレイヤー、身分を隠してサークルに潜入中〜」
次回予告
来学期、颯斗が正式なサークルメンバーとして加わったことで、
四人との距離はさらに縮まる。
しかし颯斗の前に、かつての所属チームのスカウトが現れ――
「プロに戻れ」という言葉と、コートへの思い、四人への気持ちの間で揺れる颯斗。
2期へ続く。
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