第3話 白の理論と感性
地下の工房に、軽やかな足音が響いた。
「……本当に、ここなんですね」
振り向くと、そこにいたのはリリアだった。
夜会のときと同じ、柔らかな微笑み。だが今日は豪奢なドレスではなく、動きやすい簡素な衣装だ。
「噂を聞きまして。地下で……白を育てているって」
「育てている、は少し違います。管理しています」
私が淡々と答えると、彼女はくすりと笑った。
「やっぱり理論派なんですね、フィオレ様」
彼女は工房を見回し、目を輝かせた。
「……いい匂い。石鹸と、あたたかい水の匂い」
その言い方が、あまりに嬉しそうで。
「お好きなのですか?」
「はい。汚れが落ちる瞬間が好きなんです」
彼女は即答した。
「ぱっと、布が明るくなるでしょう? あの瞬間が、なんだか……救われたみたいで」
救われた。
私は少しだけ首を傾げる。
「汚れは化学反応です。適切な温度と水質、そして魔素分解で――」
「でも」
リリアは、私の言葉をやわらかく遮った。
「気持ちが乗らないと、落ちない汚れもありますよ?」
私は反射的に否定しかける。
「それは――」
だが、ちょうどそのとき。
試験用の布に残っていた黒ずみが、思うように落ちないことに気づいた。
油脂ではない。泥でもない。
魔素の流れが、妙に固い。
「……おかしい」
前処理は完璧だった。温度も適正。
なのに、黒が繊維に“留まって”いる。
リリアがそっと言う。
「それ、怒っているみたいです」
「怒っている?」
「ええ。触ると、ぴりっとするでしょう?」
私は布に指先を当てる。
たしかに、微細な反発。
魔素が、閉じている。
「……感情固定」
思わず呟く。
強い感情が、魔素を硬直させることは理論上あり得る。だが、実例は少ない。
「気持ちが、染みになることもあります」
リリアの声は、静かだった。
「隠したままにすると、余計に取れなくなるんです」
私は初めて、彼女を真正面から見た。
感性派。
けれど、ただの感覚ではない。
経験から来る確信。
――理論に、感情の変数を入れる必要がある。
そのときだった。
「随分楽しそうだな」
低い声が、工房に響く。
王太子殿下。
腕を組み、こちらを見下ろしている。
「殿下」
私は一礼する。
「……楽しんでいるように見えるか」
「ええ、とても」
リリアが素直に頷く。
殿下の眉が、わずかに動いた。
「ならば、私も混ぜてもらおう」
「洗濯を、ですか?」
「勝負だ」
唐突に言い放つ。
「同じ布を洗い、より白くできた方の勝ちとする」
リリアが目を丸くする。
「殿下が、ですか?」
「魔法の扱いなら負けぬ」
その声音には、わずかな対抗心。
私とリリアが並んでいるのが、面白くないらしい。
「承知しました」
私は頷く。
試験用の布を二枚用意する。
◆
殿下は躊躇なく、高位浄化魔法を展開した。
光が走る。
一瞬で、布が眩く輝く。
白い。
誰が見ても、完璧な白。
リリアが小さく息を呑む。
「すごい……」
殿下はわずかに口元を上げた。
「これが王家の白だ」
対して、私は淡々と工程を進める。
前処理。
温度管理。
繊維を傷めぬよう、低出力で魔素を分解。
時間をかける。
急がない。
◆ 翌朝 ◆
二枚の布を並べる。
殿下の布は、まだ白い。
だが、指で引けばわずかに硬い。
「……繊維が」
私が呟く前に、殿下自身が気づいた。
光は強い。
だが、繊維は疲弊している。
一方、私の布。
輝きは控えめ。
だが、柔らかい。
自然な白。
触れれば、素直にしなる。
リリアがそっと言う。
「こっちのほうが……長持ちしそうですね」
沈黙。
殿下は二枚を見比べる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……再現性がある」
その一言。
私は顔を上げる。
「儀式ではない」
殿下は続ける。
「理論だ。誰がやっても、同じ結果が出る」
格式は、特別な者だけが扱えるもの。
だが再現性は、共有できる。
殿下の視線が、わずかに揺れる。
「白とは……演出ではないのかもしれぬな」
それは、敗北宣言ではなかった。
価値観の揺らぎ。
儀式としての格式から、再現可能な管理へ。
地下工房の静かな空気の中で。
白の定義が、少しだけ書き換えられた。




