第19話 北へ
王宮からの正式通達は、驚くほど簡潔だった。
北部水路異常につき、公式調査団を派遣する。
技術顧問としてフィオレ・――同行せよ。
地下工房に差し込む朝の光が、やけに白い。
「外、ですね」
リリアが小さく言う。
フィオレはうなずいた。
「はい。水の源へ」
王子は表向き静観を貫く、と追記がある。
政治的中立の維持。王家の距離。
だが、署名の筆圧はわずかに強い。
地下から外へ。
理論から現実へ。
転換の一歩だった。
北部へ向かう街道は、風が強い。
王都の石畳と違い、土の匂いが濃い。
水路が枝分かれし、町を縫うように走っている。
だが、町は静かだった。
洗濯紐に並ぶ布が、揃って灰色。
ムラのない、均一な色。
美しいほど整っている。
その整いが、異様だった。
水路沿いを歩く。
水面は濁ってはいない。
透明に近い。
それでも、どこか重い。
住民の視線が集まる。
諦めた目。
怒りを出し切ったあとの、乾いた表情。
「王都から来たんですか」
背後から声。
振り返ると、二十歳前後の青年が立っていた。
日焼けした肌。
粗末な作業服。
だが目だけが、鋭い。
「水路管理の助手をしていました」
彼は名乗る。
「アベルです」
元、と付け加えた。
「最初に黒染みを見つけたのも、俺です」
フィオレは一礼する。
「状況を、教えてください」
アベルは水路を見下ろす。
「最初は、小さな斑点でした」
「洗っても戻らない」
「でも、それだけじゃない」
拳を握る。
「町の空気が変わったんです」
沈黙。
「水は、怒ってるんです」
その言葉に、調査団の一人が顔をしかめる。
「水が怒るなど――」
フィオレは遮らない。
「どうして、そう思うのですか」
アベルは少し驚いた顔をしてから答える。
「商人が撤退した」
「仕事が減った」
「税だけは増えた」
「皆、何も言わなくなった」
水面が、かすかに揺れる。
「怒ってる。でも、言えない」
「だから、水が代わりに濁る」
感覚的な言葉。
だが、フィオレの胸に引っかかる。
簡易測定陣を水路に設置する。
波形抽出。
振動数解析。
数値が立ち上がる。
「……違う」
フィオレがつぶやく。
逆位相魔素の痕跡はある。
だが、それだけでは説明できない増幅。
波形を拡大。
周辺住民の感情測定値と重ねる。
一致率が、跳ね上がる。
リリアが息をのむ。
「これ……共鳴しています」
怒り。
不安。
格差へのストレス。
それぞれの感情波形と、水の振動が同期している。
「黒染みは単なる逆位相ではありません」
フィオレは静かに言う。
「人々の感情と共鳴している」
アベルが目を見開く。
「じゃあ……」
「誰かが操作を始めた」
「でも、増幅しているのは――ここです」
町。
人。
沈黙。
黒は外から入れられた。
だが、広げているのは内側。
フィオレは水面を見つめる。
白は、理論で維持できる。
だが、それだけでは足りない。
揺らぎが偏れば、逆位相は加速する。
「白は、物理だけでは維持できない」
誰に向けた言葉でもない。
だが、アベルは静かにうなずいた。
灰色の布が風に揺れる。
町は、怒っている。
そして、疲れている。
フィオレは水に手を浸した。
冷たい。
だが、確かに振動している。
次に守るべきものは、
布か、
水か、
それとも――人か。
北の空は、乾きすぎた青だった。




