序章 白は、保つもの
それは、本来ならば私が泣き崩れているはずの場面だった。
高い天井に吊られた燭台が揺れ、磨き抜かれた大理石の床に光が落ちる。王都でもっとも格式ある大広間。今まさに、悪役令嬢フィオレ・アルヴェリーナの“断罪”が宣言されようとしていた。
婚約者である王太子殿下が、一歩前へ出る。
「フィオレ。貴女はリリア嬢に対し――」
その声は、凛として、そして少しだけ硬い。
私はゆっくりと瞬きをした。
(……ああ、これ、乙女ゲームの断罪イベントだわ)
前世の記憶がはっきりと蘇っている。筋書きも知っている。ここで私は嫉妬に狂った悪役として追放される。観客たる貴族たちはそれを正義と拍手する。
――だが。
私の視線は、王太子殿下の顔ではなく、袖口に吸い寄せられていた。
(あれは……ソース? いいえ、果実酒の染みね。しかも乾ききっていない)
絹の白地に、わずかな色むら。光に透ければ分からないが、近くで見れば明らかだ。
気づいてしまった。
気づいてしまったら、もう駄目だった。
「みなさま……」
私の声が、大広間に静かに落ちる。
ざわ、と空気が揺れた。断罪される側が、遮るなど前代未聞。
「その袖、食べこぼしが残っております」
――沈黙。
時間が止まったかのようだった。
「……は?」
王太子殿下が、間の抜けた声を出す。
私は一歩、踏み出した。
「果実酒と油脂の混合汚れ。放置すると酸化して黄ばみになります。今ならまだ間に合います。ぬるま湯で前処理を」
「フィオレ!!」
側近が声を荒げる。
けれど、私は止まらない。
だって、気になるのだ。
この完璧に整えられた“白”の場に、ほんのわずかな曇りがあることが。
「白は尊い色です。王家の象徴でもある。だからこそ、丁寧に扱わなければなりません」
ざわめきが広がる。
「何を言っているのだ、貴様は。今は貴女の罪を――」
「罪、ですか?」
私は首をかしげた。
「嫉妬だの、陰謀だの。そういうものよりも……今この場で放置されている“汚れ”のほうが、よほど問題ではありませんか?」
貴族たちの顔が引きつる。
名誉。体面。格式。
彼らが守っているのは、そういう“見える白”だ。
けれど私は、知っている。
白は、放っておけば必ずくすむ。
どんな高価な絹も、どれほど強い魔法で輝かせても。
「白は装うものではありません」
私ははっきりと言った。
「保つものです」
その言葉は、思いのほか静かに、深く落ちた。
「輝きは一瞬で作れます。魔法でも、演出でも。けれど、翌朝まで残る白は、管理と手入れの積み重ねでしか生まれません」
王太子殿下が、私を見ている。
怒りでも嘲りでもない。
――理解不能、という顔で。
「フィオレ嬢……」
そのとき、壇上の端に立つ少女――リリアが、小さく息を呑んだ。
彼女のドレスの裾にも、ほんのわずかな土埃。
私は視線でそれを示し、微笑んだ。
「少しお借りしても?」
無意識のうちに、私はハンカチを取り出していた。
そっと、叩く。
払い、整える。
ほんの数秒で、白は戻る。
それは魔法ではない。
ただの手入れ。
「……なぜだ」
王太子殿下が、低く問う。
「なぜ、貴女はそこまで“白”にこだわる」
私は答える。
「白は、誠実さだからです」
誤魔化さないこと。
隠さないこと。
積み重ねること。
「装いで作られた白は、裏切ります。けれど保たれた白は、裏切らない」
大広間に沈黙が落ちる。
本来なら、ここで私は泣き叫ぶはずだった。
だが私は違う。
恋愛復讐でも、悲劇でもない。
私はただ、汚れが気になるのだ。
そして――この国の“白”もまた、放置すればいずれ黄ばむ。
「殿下」
私はまっすぐに彼を見る。
「断罪なさるなら、どうぞ。ですがその前に、袖をお預かりしても?」
どこかで、誰かが吹き出した。
緊張が、わずかにひび割れる。
その瞬間。
この物語は、恋愛劇ではなくなった。
白をめぐる物語が、静かに始まったのである。




