第44話 少しだけ、色めきだした日常の中で
アルウゥスがアルバイトに励む、同日の15時。
場所は変わり、双成町清栗。
主要駅北口から全貌が見える小綺麗なアパートの一室に、鶏マスクの男が入っていく。
ややくたびれた感じのする背中。
ちょうど、駅構内での蒸したまごプリン販売の仕事を終えたトリニティだ。
彼は玄関を抜けるなり首から下の衣類を脱ぎすて、浴室の戸を開ける。
鶏マスクの中をシャワーで洗い、そのままの勢いでからだじゅうの汗を流した。
「あー、アルウゥスとの集合時間までまだ大分あるな……とりあえず、何かしとくとして」
温水の熱も冷めやらぬうちに肌着を着て、リビングテーブルの前の椅子を引いて、腰を落ち着かせる。
同時に、もってきたノートPCを起動して画像編集アプリケーションを立ち上げる。
画面上には、トリニティが日々の活動で配布している宣伝チラシが表示される。
過去使用していたものから、作りかけのポップと画像素材が乱雑に配置された未完成の最新版のものまでを眺めつつ、トリニティは一度悩ましい低いうなり声を上げる。
「うーぬ……どうやって里親募集の件も載せたもんか」
思案を頭から引っ張り出すように、トリニティの手が自然と画像ファイルをPC画面に開く。
昨日午前、後継生物ク・コロが棲処に匿っていた数十頭におよぶ野良犬のうち、最初の試みとして5頭の小型犬が、地域の保護団体によって保護された。
トリニティも、御露出町前立寺の当該地点までの案内を担っていた。
そのとき保護した犬たちの写真だ。
だが、保護犬譲渡に関する知識も勝手もわからないトリニティは、やはり独自にこれを周知することは難しいのだろうかと頭を悩ませる。
もて余した時間をめいっぱい――と言ってもたかが30分。
乳鉢で擦るように入念に使って、結局何かを閃くこともなく。
のびをして、進捗ない画面から、天井に向かって視線を放り投げた。
トリニティはゆっくりとスマホを取り出す。
迷いなく、しかし目的もなしにメッセージアプリを開いて未読のいくつかのメッセージに目を通す。
おおむね商店街の知人からの近況報告だ。
0か1を訊かれているものには返信をした。
そしてほんの1週間分のやりとりしか収録されていない「羊備洲 くくる」のウィンドウを開いて、新規メッセージがないことを確認する。
トリニティは次のメッセージを送る。
『あのさ』
『くばってるチラシの作り方で意見がほしい』
それは見様によって、相手から興味をつり出すいやらしい訊ね方だ。
ましてや『商店戦士トリニティ』のファンであるくくるが食いつかないはずもない。
ものの数分で反応が返ってくる。
……と、考えていたトリニティの楽観は恥ずかしいほどに打ちのめされた。
(全然『既読』がつかねえな……あっ。そうだった、あいつまだ学校なのか)
トリニティははたと思い出す。くくるとのやりとりを遡る。
『明日から高校の始業式なので、日中は協力できないかもです』
『すみません』
3日前にこのようなメッセージが来ていた。
つまり、2日前からくくるは、クリーニングして新品同様となった制服を着て、華のスクールライフに戻っているということだ。
あの大爆乳で。
トリニティは再びうなり声を発する。
飽いた手でテレビをつける。
夕方のバラエティ番組までのつなぎだろう退屈な情報番組をしばらく眺める。
思い立ってまたスマホを手に取り、新たなメッセージをくくるの制服の懐に託す。
『学校終わったら、バイトまで少し時間あるだろ?』
『メシいかないか?』
稚拙な文章だが、どうしてものの30秒で、くくるがメッセージを読んだらしい。
返信がくるのも早かった。
『行きます! ぜひに!』
それまでの機械的な冷たい反応が演技だったかのように、くくるの返信は彼女らしい愛嬌をもっていた。
調子のいいやつ、と思ってトリニティは呆れ半分、嬉しさ半分という笑い声をこぼす。
「……学校、か」
つぶやいて、鶏マスクの鶏冠と肉垂をもんで、トリニティは重々しく椅子から立ち上がる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
トリニティとくくるが待ち合わせをしたのは、日が7割ほど沈んだ17時。
清栗駅前で落ち合うはずが、くくるの乗った列車に遅延が発生したことで、都合のよいファミリーレストランでの現地集合へ変更となった。
ひと足先に到着したトリニティは、まっすぐ四人掛けのテーブル席を選んだ。
ドリンクと軟骨から揚げを注文して、しばらく閑雅な時間を過ごす。
「お待たせしましたぁ!」
鶏マスクが振り返らずともトリニティは、声の主が誰なのかわかっている。
羊備洲 くくるだ。
トリニティの後方から、落ち着きのない足音が近づいてきて、シームレスにその姿が視界へと登場する。
襟元に校章の刻印がされた、双成町内ではよく見かける灰色のブレザー制服。
控えめの光沢感が、流れ落ちる水滴のごとく生地を走っている。
おのずと、その最も前へ迫り出している部分に目を引かれた。
「デッッッ――」
瞬間、視界を乳に閉ざされた。
アニメ絵のようなくっきり色濃いカゲが張りついた大爆乳。
乳袋、という宇宙の法でも抑えきれなかったのだろうそれは、ブレザーの胸元をけ散らし、カッターシャツの伸縮性のギリギリのところでどうにか肌色を隠している状態だった。
デカい。
デカすぎる!
もうメロンだとかスイカだとか甘ったるい比喩など通用しない。
すなわち超新星爆発をもよおす巨大恒星の様相!
現実的に考えても、てきとうな速度をともなって衝突すれば、人間の1人や2人を吹き飛ばしてしまうだろう凶器だ。
それは――、
(いや、こんなにデカかったか!?)
「えっと。すみません、僕お腹すいちゃってて。ごはんも一緒に頼んじゃいますね」
「あ、ああ!」
感動を超えて、恐怖を覚えるトリニティは裏返った声で返事する。
歩くたび爆破のSEめいた肉音を立てるくくるは(よく見るとスカートを穿いている)尻を上品にソファへと下ろし、タッチパネルを乳に取りメニューを眺めだす。
冗談のようだが本当だ。
テーブルの3分の2を占領した乳に落ちる、夕陽の淡いオレンジが本当だといっている。
ひとまず、注文の品がそろった。
トリニティは食事そっちのけで、宣伝チラシの件か、あるいは殺人的に実った目の前の物体について切り出すか、迷っている。
だめだ、思考がまとまらない。
「あの、チラシの作り方なんですけど、僕そういうのには疎くて……相談には乗りますけど、あんまり期待しないでくださいね。それと、先にお話ししたいことがあって」
(乳のことか! ああ、聞かせてくれ!)
「僕の同級生で、第二みもみじ商店街で火事があった日の数日前から、町でヘンな生き物を何度も見たって子がいたんです! 写真ももらってきました!」
(そっちかーッ!)
心中でツッコミを入れるトリニティに、くくるの細い手が伸びて自身のスマホ画面を見せてくる。
トリニティの視線の先、2枚の写真が、画面へ交互に映し出される。
天衝椿地区の河川敷。
それから、第二みもみじ商店街へ続くストリート。
それらには、ことごとく黒い全身の巨大ヒツジが写り込んでいた。
「ホ・テルはもういい……」
かすれ声でトリニティは写真をしまうよう言った。
くくるはしょんぼりして、注文したチキンステーキを切り分け始める。
それどこではない――と思いつつ、トリニティの脳裡には卒然、はっきりとした考えが浮かんできたのだ。
「いや……やっぱりおかしい。こんな堂々と出歩いてる後継生物を、1人しか見てないわけがない。もっとたくさん……思えば(第二みもみじ)商店街をコイツが燃やした日も、精肉屋のおじさん以外は誰もコイツに言及しなかった。どういうことだ?」
ひとりごとを言って、その風味を確かめるようにコップの中身を口に含むトリニティ。
りんごジュースだが、その味はせず気色の悪いぬるさが喉の奥にこびりついている。
「――人間の協力者がいる、とか……?」
「きょうりょくしゃ?」
「ああ。俺も信じたくないが……マ・ラ、俺が探してるデカいカエルには、居場所がバレないように裏で動いてる人間の仲間がいる。じゃねえと説明がつかないことが多すぎる!」
「そ、それは何というか、ちょっと極端な考えの気が……」
トリニティの意見はどうにも陰謀論と言えばよいか、妄想としての色が濃い。
写真と商店街火災時の違和感だけでは、確証たりうる材料として乏しい。
それはトリニティ自身も理解していた。
しかし……自身の口をついて出た言葉が、みょうな説得力を帯びていることも、また無視はできなかった。
「最初から、今までずっと名前が挙がってる怪しい連中がいる。――『人生逆転』レベルの整形を破格で、どこでも受けさせる『整形クリニック』。まあ仮に『人生逆転整形』とでも呼ぶか。当然、くくるも知ってるよな?」
「ひょお? えっ、そ、それはもちろん!」
気のせいだろうか、受け答えをするくくるの顔色が悪い。
大きな瞳がぐるぐると泳ぎ回っている。
「なら、俺が疑ってることもわかるだろ。そんなうさん臭い話がホントだとすれば、そいつらは間違いなく医者を騙った詐欺師のクソ野郎だ。金もうけのためにどんな非道なことに手を出してるかもわからねえ連中だ。だから、もし……もしもだぞ? 『人生逆転整形』のやつがマ・ラの力に目をつけて、自分たちの詐欺をバレないよう手助けさせる見返りに、カエルへ棲処を提供していた。――と、したら?」
「ま、待ってください! 話が飛躍しすぎですよ! 時間は限られてるかもしれないけど、結論するにはしっかりとした情報の積み上げが大事でえッ」
ついに取り乱し、くくるは立ち上がった。
バンッ!! ビイイィィブッチイイィィパァン!
何の音だ――と思考する間もなく、トリニティの額は何か硬いものがぶつかり、吹き飛ばされる。
頸椎がゴキッと鳴いた。
首すらも無いものと思ったが。
運よく、鶏マスクが衝撃をつれて飛んでいき、中身の「珠辻 園治」は一命を取りとめたようだった。
前を見る。
乳がある。
当然だ。
けれどもそれがチキンステーキのソースまみれになり、色素薄い肌色と、テカテカの茶色で淫靡に彩られているとは知らなかった。
もうすべてが見えてしまっている。
なんてこと。
やがて両手でくくるが、中心の桃を吹いた花芽を隠すまで、ファミリーレストランの時空間は静止していた。
花芽が摘まれると、人々は意識を取り戻すとともに、炸裂した乳の恐ろしさに震え上がる。
とたん、あらわれた面長で骨ばった顔をした青年が表情筋をこわばらせ、トリニティの代弁をするように言う。
「あのさ。訊こうか迷ってたんだけど」
「はい」
「なんか乳デカくなってね?」
「……はい」
制服のカッターシャツを乳で引きちぎったくくるは、朱とも蒼ともつかない顔色でうなずく。
露出した乳の上は、あつあつのステーキソースでヤケドしていた。




