やばいやつ
その日は、いつもとなんら変わらない朝だった。
パンを焼き、お客さんとの会話を楽しみ、店の掃除をし、リアムは荷物運びをして、薪を大量に割っていた。
そんな「日常」が音を立てて崩れたのは、ほんとうに一瞬だった。
*
夕暮れ、片付けのためにパン屋の裏口に回った瞬間だ。
「少し来てもらおうか」
振り向くまもなく、羽交締め。
「ちょっ、え、何!? は!? 誰得!? 」
頭を抑えられて、顔に布が当てられた。
……世界が暗転した。
*
目が覚めると、見慣れない天井があった。
夢や勘違いではなかった。
とっさに出た訳のわからないツッコミは、誰にも聞こえなかったらしい。
じわり、と背筋が冷えた。
――これ、やばいやつ?
慌てて身を起こして周囲を見た。
窓はある。けれど高い位置にあって、鉄格子付き。
部屋は石造り。地下室……なのかもしれないけれど、湿気はほとんどない。綺麗に掃除されている。
私が寝かされているベッドも、柔らかく清潔なシーツがかけてあり、服を着たまま寝ていたのが申し訳ないくらいだ。
目を閉じて記憶を総ざらいする。
パン屋の片付けをしていて、お店の裏口に荷物を運んだ。背後から声をかけられて、振り向こうとした瞬間。
鼻を刺す薬品の匂い。
そこで途切れている。
誘拐……だよね?
まじめに誰得?私、地方の村のパン屋だよ?
いや、落ち着け私。まず現状把握。
ゆっくりと立ち上がり、部屋の中をぐるりと見回す。
家具はほぼない。古い机がひとつ、椅子がひとつ。
机の上にあるのは水差しとコップ。
――殺す気はないっぽい。
水とコップが置いてある誘拐ってなんだよ。
まあ、冷静に考えれば「生かしておく価値がある」ということだよね。
……嫌だ。絶対に嫌な予感しかしない。
いや、まさか。まさかだけど。
でもこの状況。リアムはこの国の王子。側近が慌てて探し出した。王都を中心に雰囲気がおかしい。それって、やっぱりリアム関連だよね。
考えていると、扉の向こうで足音がした。
ドクン、と心臓が跳ねる。
鍵の回る音。
扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、四十代くらいの男だった。
背は高い。細身なのに、妙に存在感がある。
グレーの瞳は冷たそうなのに、なぜか楽しそうに細められている。
「やあ、目が覚めたね。もっと時間がかかるかと思っていたよ」
柔らかく低い声は、歌うように軽やかだ。
しかし――
ぞわりと鳥肌が立つ。
この人、やばい。
「……私を、返していただけます?」
できる限り丁寧に言った。怒らせたら終わりだ。
けれど男は、穏やかに微笑んでいる。
「返すつもりなら、最初から連れてこないよ。安心するといい、害するつもりはない。きみは、必要なんだ」
うわ、絶対安心できないタイプの台詞。
「……私、庶民ですよ? 貴族のみなさまには関係ないですよ?」
「そう思っているのはきみだけだよ」
あ、これダメなやつだ。
話せば分かるタイプじゃない。
「それにしても、きれいな瞳だね。ルビーのようだ」
急な話題転換に、ついていけない。
サイコパスかな。
「持つものによって、その輝きは違うのか。実に興味深い」
私の反応も待たずに、男は後ろに手で合図を送った。
すると、後ろから護衛らしき男が入ってきた。
屈強。筋肉。目つき悪い。
「彼女を案内しろ。決して手荒に扱うな。貴族令嬢として扱え」
なんのことですと?
私、パン屋ですけど!?
貴族って何!? 扱い間違えてます!?
そういうの返品できます!?
などとパニックで現実逃避している間に、護衛が近づいてきた。




