やってみよう
「そうじ?」
彼は眉を寄せた。
なんか「掃除」という単語そのものが異世界語に聞こえたみたいな反応。
(あ、これ絶対やったことないパターン)
「えっと……部屋を、ほら……掃くやつ」
「……“使用人の仕事”では?」
「うちで使用人見たことある!?」
本当に遥か彼方を見ていたな?目の前で、私が掃除していたのも見えていなかったな?
「大丈夫、簡単だよ。ほら、これが箒で――」
彼は箒を掴むと、妙に構える。
まるで剣を振る前みたいに。
「……どうすればいい」
「いや戦いじゃないから! もっと軽く持って!」
「こうか?」
「違う! それ“敵の頭を狙ってる”構え!」
彼は箒をおそるおそる床に向ける。
「それ逆!」
「逆……? なぜ棒の先に藁が付いている」
「掃くためだよ!!」
結果、床は「掃く」より「撫でた」だけで終わった。
私の視線は、自然と遠くを彷徨った。
(うわ……この人本当に王子とかそういう……)
そう思ったけど、もちろん口には出さない。
心が極限まで摩耗してる人に、生活能力もゼロですと言ってしまったら崩壊しそうだ。
「まあ……最初はこんなもんかな! うん!」
「……役に立てず、すまない」
「役に立とうとしてるだけで十分だよ」
しょんぼりしてしまった金髪のお兄さんの頭をポンポンと撫でて、急いでパン屋を開店した。
*
「今日は薪割りに挑戦!」
翌日の昼過ぎ、パン屋がひと段落した休憩時間に、金髪のお兄さんを外に誘った。
彼は、ほとんど自発的なアクションはない。だが昨日、掃除の時は、普通に会話が成り立った。だから、今日もこちらから関わっていこうと思う。
何事も、虚無の中にいては健康を害するのだ。
「……薪割りも、やるのか……?」
「やりたくなければ掃除の練習でもいいよ?」
「薪割りで頼む」
その選択が既に間違っていたと、彼は後で知ることになる。
*
裏庭で斧を見た瞬間、彼は顔を引きつらせた。
「重いな……」
「まあね。でもゆっくりでいいから――」
彼は斧を上げる。
上げた瞬間、バランスを崩して横に倒れかける。
「危なッ!! それ私に飛んできてたら今ごろ右半身ないとこだったよ!?」
「……すまない」
またしょんぼりしてる。
斧より彼のメンタルのほうが折れるの早そう。
「ちがうちがう! 怒ってないよ。ただ、ほら、足は肩幅ね。そんで、重さを利用するの」
「こうか?」
「そうそう! ――って真横に振るな!!」
「……すまない」
「なんで真横!? 薪って横に割るの!?」
「……まず、薪とは何だ?」
「あ、だめだこの人」
「何か言ったか?」
「言ってなーい!」
結局、その日は薪一本も割れなかった。
でも、初めて彼の顔に “困っている普通の青年の表情” を見た気がした。
*
彼はほぼ毎日、私の仕事中に練習していたらしい。
帰宅すると、箒を持ったお兄さん(長いから「お兄さん」になった)が、ぎこちなく動いていた。
「……こう、か?」
「あ、ちゃんと掃けてる! いやすごいよ、初日に比べたら革命的だよ!」
「……本当か」
「うん。今のお兄さんなら、『頼りないけど頑張ってる新人従者』くらいにはなれる!」
「――褒めているのか?」
「もちろん!」
リアムは一瞬息を止めて瞬いた。その後息を吐いたと思うと、晴れた空色の瞳が少し細められる。いつも弾き結ばれた口元は、ほんの少しだけ力が抜けているように見えた。
褒められて、ちょっとは自信がついたかな?
そして薪割りも、やっと一本だけ割れた。
削れてるっていうか砕けてるっていうか……これはある意味才能か?
「……できたのか、これは」
「できたよ!! すごい! 初薪割りおめでとう!」
「……」
「ん?」
「……嬉しい」
その声があまりに弱くて、私は返事に少し詰まった。
でもそこで変にしんみりするのも違う気がして、
「よーし、次は洗濯だね!」
「まだあるのか……?」
「いっぱいあるよ!」
「……そうか」
と、彼はさっきよりもう少しだけ、口元を緩めた。
*
一ヶ月が経った。
カラっと晴れた日が多くなり、外に出るととても気分が良い。
お兄さんは、「リアム」になった。
絶対偽名だろと思ったが、詰め寄る理由もないからそのままにしておいた。
リアムは、表情に乏しいながらもよく話すようになった。
掃除をしながら、
「……ここの埃は……どう取ればいい?」
「布で拭くだけでいいよ」
「この布は……洗濯籠か?」
「手洗いして!! それ雑巾だから!」
薪を割りながら、
「……昨日より、斧が軽い気がする」
「体力ついたからだよ。ほら、今日2本いけるかも!」
「……そうか」
そんなふうに、小さな疑問、小さな言葉、小さな反応が増えた。
まだ湿度は高い。
でも、彼の周りの空気が少しだけ乾いてきているのがわかる。
*
さらに一カ月が経った。
夕食のあと、彼が珍しく自分から声をかけてきた。
「……今日のパンは……うまかった」
「え!? 感想!? パンの感想言った!? すごっ!」
「そんなに驚くことか」
「驚くよ! だって、初日は『……(虚無)』だけだったのに」
「……あの頃は、何も言う気になれなかった」
「今は言える?」
「……ああ。ミアが、教えてくれたからな。いろいろなことを」
リアムの表情は、前よりもずっと柔らかい。まだ無表情は抜けないが、少しずつ変化しているのがわかる。
でも……素直かよこの人……




