逃げる
豪華な部屋。
人生で初めて、貴族の生活を知った。
私には、貴族の血が流れているという。
夕方の空を部屋の窓から見上げながら、一人で考えた。
私は、何者なのだろう。
アレイン公爵は、そのうちわかると言った。
図書室で調べたら、確かにロートス公爵家の直系は、必ず赤い瞳を持つようだ。
このロートス公爵家、直系は何かの知識に特化しているらしい。私は何もないけどね。その特化型直系である前公爵は、不慮の事故で帰らぬ人に。そして直系が途絶えたらしい。
で、私は何者なのか。もう母に聞かないとわからないな。諦めよう。
私は大切にされるべきなのか?
そりゃあ、大切にされたい。誰に? どの方向性で?
村に戻れないと言われた。なぜ? ″赤い瞳″だから? それって何? 結局私は何者?
――残念。ループした。
じゃあ、リアム。彼は本当に、どう思って――
あ、これ、ダメなやつ。
私、本当に迷ってる。
だって、情報がない。一方通行。押しつぶされる。負ける。
自分の目がないから、周りの人の話しか入ってこないやつだ。
そして今、私は不安だ。
ここは、暖かくて、安心したくなる。
今、逃げなくては。
全速力で、走った。
廊下を駆け抜ける。
部屋の鍵は最初からかけられていないけど、外に出ようとすると、いつも笑顔のメイドが絶妙に進路を塞ぐ。
朝も、昼も、夜も同じだ。
でも今は違う。
私は、走っている。
メイドの対応が遅れる。
屋敷を駆け抜けて、裏口から一気に外に出た。
「――ミア様!!」
追いかけてくる声。あれは私の護衛騎士の女性だ。
とにかく無視して走り続ける。
靴がローヒールでよかった。
後ろに聞こえる足音が、複数人だとわかる。
何か叫んでいるが、聞こえない。
心臓の音が、呼吸の音がうるさい。
なのに、足音が近づいてくるのがわかる。
走って!急いで!もっと早く――!
視界が回った。
上から下へ、身体が落ちた。
――だめ!走って!
そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
上に、何か重たいものがのしかかる。そのまま地面に引きずり倒された。
重たい。腕が痛い。足が動かない。
肺が圧迫され、息が吸えない。声が出ない。
耳鳴りがして、ドクンドクンという音だけがうるさく響いている。
「逃げたら公爵様が悲しまれますよ」
護衛騎士の冷たい声が、妙に響く。
″怒る″の間違いなやつ――!?
息ができない中、どうでもいいことを思ってしまったのは、もう悪くないと思う。
視界の色が消えていく。
あー、もうこれダメかも。意識暗転再びかな。これなら羽交締めの方が、苦しくなかったな。起きたらさすがに鍵付きかもしれない。どうやって逃げよう――
ドンッという衝撃が来た瞬間、うつ伏せで地面に縛り付けられていた身体が、右に強引に横倒しにされる。
左肩を中心に、身体が背中側に強く引っ張られて痛い。
そのままの勢いで一回転すると、もう一度顔に地面の感触を感じた。
肺に大量の空気が入ってきて、視界に一気に色が戻る。
今度は腕が動いた。そのまま少し身体を起こして、周囲を確認する。
と――。
視界に黒い色が広がった。
世界が止まった気がした。
温度が落ちたような、光が陰に吸われたような、息が詰まるほどの“圧”。
「――何をした」
氷の刃より冷たい、聞いたことのない声だった。
頭を上げると、大きな黒いマントの上に、金色が夕日を弾いて輝いている。
「ミアに、何をした」
その言葉を聞いた瞬間、電気が走った。
顔は見えない。が、リアムだ。
でも、知ってるリアムじゃない。
いつもは、ちょっと抜けてて、パンこねを失敗して私に笑われて、困ったように笑う、あの王子じゃない。
そこにいるだけで息ができなくなるような、冷酷な“王族”だ。
「ひっ……殿下、これは……!」
ざりっという土を擦る音と共に、女性騎士の上擦った声が聞こえた。
「発言は許さん。黙って死ね」
――あなたが質問したのではーっ!?
外にいて、複数の人がいるのに、物音も何もしない。
そこに、金属が滑る音が、短く聞こえた。
「ミアに触れた。万死に値する」
低く、静かで、冷たい。
怒鳴り声より怖い。
(ひ……いや、ひぃ、じゃない!)
なにこの人!?
普段のポンコツどこ行ったの!?
私、この人の掃除も薪割りも洗濯もパンこねも笑ってたけど……
これ絶対、笑っちゃいけないタイプの人……っ!!
――というか、この人何にキレてるの!?
“そこ”なの? ポイント“そこ”なの!?
拐われた方じゃないの――!?
私の頭は大忙しである。
リアムのマントに遮られて見えないが、数人いるであろうアレイン公爵家の護衛騎士たちは、彼一人に圧倒されていた。
ざっ、ざっ、と土を擦る音が近くで何度も鳴った。
同時に背後から土を蹴る音と金属が擦れる音が近づいてくる。
「――エルリアムル殿下っ!ミア嬢!」
聞いたことがある声。
振り返ると、この前村に来ていた黒髪の側近が、数人の騎士と共にこちらへ走ってきているのが見えた。
騎士たちは、そのまま私を通り越してリアムと公爵家の護衛騎士の間に入り込む。
黒髪は駆け寄りながらリアムと私の姿を見比べた後、私の横に膝をついた。
――そこは王子じゃなくて怪我人を優先するんだ。
「ミア嬢、動けますか?」
え、“嬢”って何?
貴族って、そういうもの?
心配そうに手を差し出されたので、反射的に左手を上げると、その左手を横から誰かに握られた。
――ん?
握る手を辿って顔を上げると、こちらも心配そうなリアムの顔。
「怖かっただろう。立てそうか?」
そう言いながら、私を優しく支えてくれた。
声も雰囲気も、確かに“リアム”だが……
(いや驚くわ!!怖すぎて逆に笑えてきたわ!!!)
本当に、なんでこの人、今そんな優しい顔できるの。
ギャップで情緒が死ぬんだけど。
横から、ため息混じりの声が聞こえた。
「殿下、勝手に走り出さないでください。騎士たちが混乱します。せめて指示を出してから――」
「お前が指示を出したのだろう。それでよい」
黒髪さんは、少し困った顔をした後に、もう一度大きなため息をついた。
「――アレイン公爵は、カイル殿下にお願いしました。全体の統制はエリオット、邸内の掌握をギルバートに指示しました」
「問題ない」
黒髪さんと話している時、また違う人になるんですけど……
あなた、今どの人?
「ミア。もう大丈夫だ」
その声は、知っているリアムの声。
けどやっぱり言わせてほしい。
(いやいやいや、落差!! 私の心がついていかないんだけど!!!)




