ジョエルの想い
読んでいただいてありがとうございます。もっと早くに投稿しようと思っていましたが、風邪で寝込んでました……。
レティシアは、リュシアンの好きだった花を彼のお墓に供えた。
空は、今にも雨が降りそうなくらい曇っている。
まるで今のレティシアの心を現しているかのようだ。
今日、ジョエルはレティシアの婚約者ではなくなる。
今頃、子爵家では父母がそのことをジョエルに伝えているだろう。
「ねぇ、リュシアン。私、本当に一人になってしまったわ……」
レティシアは、ここでしか本音を言えない。
もういないリュシアンしか、心の拠り所がない。
言葉は返ってこないけれど、レティシアはここでなら誰に憚ることなくリュシアンのことを考えられる時間が持てた。
死者を悼む気持ちを邪魔する者はいない。
遠くから足音が聞こえきたが、レティシアと同じように、この墓地に眠る誰かに用がある人だと思って気にも留めなかった。
「レティシア」
名前を呼ばれて、一瞬、リュシアンかと考えてしまったが、この声は違う。
振り向くと、ジョエルがそこにはいた。
「ジョエル様」
ジョエルはそのままリュシアンのお墓に祈りを捧げると、レティシアの方を見た。
「先ほど、君のご両親からとんでもない提案をされたよ」
「……はい、サンドラとのことですね」
「あぁ、君も了承していると言っていたが?」
「……母に言われましたから……」
「くだらない提案だった」
ジョエルがそう吐き捨てるように言ったので、レティシアは驚いた。
「何をそんなに驚いた顔をしているんだ?まさか、俺が了承するとでも?」
「ですが、ジョエル様。父は妹の婿になる方に爵位を譲ると……」
「はっ!あの家の爵位などいらないよ。君だって知っているだろう?君とリュシアン以外の子爵家の評判を」
「……はい」
知っている。いくら耳を塞いでいようとも、周囲の人たちは面白おかしくレティシアに教えてくれる。
あなたの家にはこんな噂が立っているのよ、と。
親切心を装った、悪意に満ちた囁きだ。
彼らがレティシアとリュシアンのことを噂しないのは、レティシアの婚約者がジョエルであることと、リュシアンがバルバ帝国に留学に行くほど優秀だったからだ。
リュシアンがバルバ帝国でどれほどの知己を得るのか、それによっては今後に差し障りが出てくるからだ。
「ここで、サンドラに乗り換えたら俺が何を言われるか。それに、この婚約は俺が申し込んだものだ」
「……ジョエル様……」
ジョエルの真剣な眼差しに、レティシアは彼から目を離せなくなった。
「……レティシア、君は……」
どう言うべきか迷っているようにジョエルは少し考え込んでから、何かを決意したようにレティシアの右手を取った。
「レティシア、俺は君のことが好きだよ。……たとえ、君の心にリュシアンがいても」
「ジョ、ジョエル様?何をおっしゃるのですか?た、たしかにリュシアンはいますが、あの子は弟で……!」
知られてはいけない。リュシアンは、あくまで弟なのだ。
そう思ってあせるレティシアを、ジョエルは引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「無理に否定しなくていい。……知っていたんだ。ずっと、君を……君だけを見てきたから……。君はいつもリュシアンを目で追っていた。リュシアンと目が合うと、とても嬉しそうに笑っていた。愚かな俺は、君が他の男に向ける笑顔に惚れたんだ」
ジョエルに抱きしめられながら、レティシアはごくりと喉をならした。
知られていた……?知っていてなお、この人は私に婚約を申し込んだの……?
「……気持ち悪くないのですか……?こんな、弟を好きになる女など……」
「……レティシアは必死にそれを隠そうとしていた。知られたくないのは当然だったし、同時にそこが君につけいる隙だと思ったんだ。弟を好きな君は、彼から離れるためにも、侯爵家の俺からの婚約を必ず受けてくれるだろうと思ったんだ。せこいだろう?」
「せこいなどと……」
レティシアにはそんなことは言えない。だって、ジョエルの言う通り、リュシアンへの想いを封印するために、ジョエルとの婚約を受けたのだ。
せこいというのなら、レティシアの方だ。
彼からの婚約を打算で了承した。
そして、ジョエルの気持ちなど考えずに、サンドラに渡そうとした。
「……ごめんなさい、ジョエル様。私、あなたにとてもひどいことを」
「本当だよ、レティシア。俺はサンドラも子爵家もいらない。君だけが欲しいんだ」
さらに強く抱きしめられ、レティシアはおずおずとジョエルの背に手を伸ばした。
「……その心の中に、リュシアンがずっといてもいいよ。でもいつかは、俺の隣で笑ってくれ。あの時、俺が好きになった笑顔を俺にも向けて欲しい」
「ジョエル様……!」
いいのだろうか?
このままリュシアンのことを覚えていて。
片翼を失ったことで、心の一部が死んでしまっている状態なのに、ジョエルは傍にいてほしいと言ってくれている。
レティシアの頭の中は混乱していた。
だから、気が付かなかった。
自分たち以外の足音が微かにしていたことに。
そして、ジョエルが、レティシアの後ろの方を睨み付けたことに。
「…………なるほどね。だから、何もないのか」
小さく言われた言葉は、これほどまでにくっついていなければ、決して聞こえなかっただろう。
「ジョエル様?」
何がないのだろう?ここには、リュシアンのお墓しかない。
「……亡霊の話だ」
ジョエルは、レティシアをさらに強く抱きしめた。
彼女が決して振り返らないように。
ジョエルが睨み付けた先に立っているのは、黒い服を着た一人の青年。
死んだはずの、リュシアン。
おかしいとは思っていたのだ。
あのリュシアンが、事故で死んだ?
本当なのか?
しかも故郷に戻ってきたのは、彼が愛用していたという品物だけだ。
ジョエルは、レティシアとリュシアンに血の繋がりがないことを知っていた。
教えてくれたのは、目の前の男だ。
レティシアを見ていたジョエルは、同時にリュシアンがレティシアのことを一人の女性として見ていることに気が付いた。
実の弟がどういう目で姉を見ているのだ!そう思ってリュシアンに忠告に行ったのだ。
そして、そっと耳打ちされた。
俺とレティシアに血の繋がりはありませんよ、と。
レティシアはそのことを知っているのかと聞けば、恐らく知らないだろうと言っていた。
知らなくてもレティシアは自分の片翼で、離れることは出来ない、そう婚約者であるジョエルに宣言したのだ。
その上でぬけぬけと、俺が留学から帰ってくるまで、レティシアのことをお願いします、と言った。
お前が留学から帰ってきても、レティシアは俺のものだ!
そう言って思いっきり殴らなかったことを今、猛烈に後悔している。
レティシアには、リュシアンと血が繋がっていないことは、絶対に秘密にしようと思っていた。
亡霊にしてはしっかり実体がある男は、レティシアを抱きしめるジョエルを睨み付けていた。
どうしたらいいのか?
今この場には三人しかいないが、少し先にジョエルの乗って来た馬車がある。
そこまでレティシアを連れて行けば、ジョエルの勝ちだ。
ジョエルが悩んだのは、ほんの少しの間だけだった。
予定では、このままレティシアを侯爵家に連れて帰り、何も心配なく結婚までの期間を過ごしてもらうつもりだった。
あの家に、レティシアを置いておくのは危険だと判断したのだ。
リュシアンが本当に死んでいたのなら、どれだけの時間をかけようとも、リュシアンをレティシアの思い出の中の弟という存在にしていける自信があった。
レティシアを想う気持ちは、誰にも負けないつもりだ。
だが、肝心のレティシアの気持ちは、未だにリュシアンにある。
そして、死んだはずの男が今こうして出てきたということは、全ての準備が整ったのだろう。
リュシアンがレティシアを連れて行く準備が。
ジョエルが願うのは、レティシアの幸せだ。
出来れば自分と共にあってほしかったが、無理矢理縛り付けたいわけではない。
悲しみに満ちた顔を見たいわけじゃない。
「……レティシア、俺は君のことが大切だ」
「ジョエル様?どうかされましたか?」
「君のことを愛している。だから、君の心も守りたい」
ジョエルは、そう言うとレティシアの唇に素早く口づけをした。
「……これは、せめてもの思い出にもらっていくよ」
何が起こったのか分からずに驚いた顔をしてるレティシアに、ジョエルは優しく微笑んだ。
「君の迎えが来ているよ」
「……え……?」
ジョエルの抱きしめる力が弱まったので、レティシアは彼が見ている方を見た。
そして、一瞬、レティシアの呼吸が止まった。
「……うそ……」
死んだはずだ。だって、事故だって連絡が来て……でも、でも、目の前にいるのは、間違いなくレティシアの片翼。
「……リュシアン……?」
「そうです。迎えに来ました、レティシア」
いつもの呼びかけとは違う。姉上とは呼んでくれなくても、その声、その姿、その存在感、全てが間違いないと言っている。彼がリュシアン本人だと。
「……さぁ、行ってレティシア」
「あ……ジョエル様」
背中を押す婚約者に、レティシアは戸惑いの声を上げた。
「あいつがどういう工作をしたのかは知らないが、どうやら生きていたようだ。本当なら渡したくないのだが、このままでは君の心が死んでしまう。だから、俺のことは気にせずに行って」
とん、と背中を押してくれたジョエルを見上げた後、レティシアはリュシアンの方へおそるおそる歩いて行った。
「レティシア」
再び名を呼ばれて、レティシアはたまらずリュシアンの胸に飛び込んだ。
「リュシアン!リュシー、本当に生きていたのね」
「えぇ、遅くなってすみません、レティ。色々と準備があったものですから。でももう大丈夫です。このまま一緒に帝国に行きましょう。皇帝陛下の許可も取ってありますから」
「一緒に……?」
「はい。昔、約束したでしょう?全てを捨てることになりますが、俺と一緒に行ってくれますね?」
「……二度と私をおいていかないと誓うのなら」
「いくらでも誓いましょう」
飛び込んできたレティシアを、リュシアンはしっかりと抱きしめた。
端から見れば、恋人同士の抱擁にしか見えないだろう。
これを見て、誰が姉弟だと思うものか。
「感謝していますよ、ジョエル殿。今までレティを守ってくれたこと。そして、俺に返してくれたことに」
「間違えるなよ、お前のためじゃない。レティシアのためだ」
「えぇ、分かっています。俺が死んだことになっている間、きっとあなたがレティを守ってくれると信じていましたから」
「……嫌なやつだ」
本当に腹が立つ。
「さっさと連れて行け。俺は今日、誰にも会わなかった。レティシアを探したが、どこにもいなかった。そういうことにしておいてやる」
全てはレティシアのためだ。
ここでレティシアを強く引き止めれば、彼女はこちらに残ってくれるだろう。
だが、リュシアンが生きていることを知った彼女の心は、常にリュシアンを探すことになる。
リュシアンもレティシアを手に入れるために、いよいよ手段を選ばなくなる。
それにこうでもしなければ、レティシアもリュシアンもあの家から逃れられなかったのだろう。
姉弟という関係からも。
「一応、言っておくが、レティシアがいなくなっても俺はサンドラとは結婚しない」
「えぇ、もちろんそれでかまいませんよ、ジョエル殿。あの家の事情は、あなたには関係ない」
長年育った家のはずだ。
何回も出入りしているので、レティシアやリュシアンと親しかった使用人がいることも知っている。
ここには、彼らの友人だっている。
リュシアンはその全てを捨てて、レティシアだけを選んだ。
そして、レティシアもそれを選んだ。
……リュシアンが選ばせた。
自分を一度死んだことにしてレティシアを絶望の淵にたたき落とし、生きて迎えに来たことでレティシアの中にリュシアンという絶対の存在を刻み込んだ。
リュシアンを失った絶望を知ってしまったからこそ、レティシアはこの先、失うことを恐れてリュシアンだけを見続けるのだろう。
この男が一番せこい。
だが同時に羨ましくもある。
もし、レティシアがそれほどの想いを自分に向けてくれるのならば、似たようなことはやったかもしれない。
結局、自分は勝てなかったのだ。
レティシアは、ジョエルをサンドラに譲ってもいいと思っていたのだから。
ジョエルの想いを無残に引き裂いた残酷なレティシア。
だがそれでも、願うのは彼女の幸せだ。
ジョエルは、他の男を愛している彼女に惚れたのだから。
「ジョエル様……」
リュシアンからその身を離すことなく、レティシアはジョエルの方を見た。
彼女の中に、多少はジョエルという存在を植え付けられたのかもしれない。
それに帝国に行くというのならば、そのうち会う機会もあるだろう。
「リュシアン、もしレティシアが泣くようなことになったら、すぐに俺が奪いに行くからな」
「そんなことにはならないとお約束しましょう」
「レティシアも、リュシアンが嫌になったらいつでも連絡をしてくれ」
「……いえ、ご迷惑になりますから」
「迷惑なんかじゃないさ。レティシア、君の幸せを祈っているよ」
「……はい、ジョエル様。私もあなたの幸せをお祈りしています」
「さぁ、もう行け」
「お元気で、ジョエル様」
リュシアンに連れられたレティシアが去って行くのを、ジョエルはその場で見続けた。
一度だけ振り返ったレティシアと目が合うと、彼女に向かって微笑んだ。
レティシアはそれで安心したのか、ジョエルに向かってふわりと微笑んでくれた。
それは、ジョエルが自分に向けてほしいと望んでいた、レティシアの心からの笑顔だった。
いつかジョエル様を幸せにする話を書きたい……!