レティシアの想い
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『いつか二人で、この歪んだ家から出て行こう』
そう言って、私に微笑んでくれた弟が死んだ。
遠い異国の地での事故だった。
弟は、私をおいて逝ってしまった。
「リュシー……」
この墓碑の下に弟はいない。
リュシアンは、留学先のバルバ帝国で馬車の事故に遭って亡くなった。
一つ下の弟は、レティシアにとって、とても大切な弟だった。
リュシアンが留学すると決めた時、レティシアはもう会うことが出来ないのかもしれないという覚悟はした。だがそれは、弟が生きていることが大前提の覚悟だ。
この家に帰って来なくても、帝国で幸せになって欲しかった。
それがレティシアのたった一つの願いだった。
けれど、現実は残酷だ。
リュシアンの乗った馬車が山道で崖の下に落ちたとの連絡が来た時、レティシアの世界は真っ黒になった。
遺体は損傷がひどく、バルバ帝国で埋葬されたので、ここには弟が愛用していたという懐中時計が納められているだけだ。
それもこの家にいた時には見たことがない物なので、きっと向こうに行ってから使っていたのだろう。
「ここにいたんだね、レティシア」
「ジョエル様……」
ジョエルはレティシアの傍にくると、リュシアンの墓に祈りを捧げた。
「レティシア、あれからすでに半年が経っているんだよ。そろそろ区切りを付けたらどうだ?」
心配そうにのぞき込むジョエルは、レティシアの婚約者だ。
侯爵家の次男で、王太子の側近の一人。レティシアには勿体ないくらいの人だ。
ジョエルとは友人の紹介で知り合い、彼の方から婚約を申し込んでくれた。
侯爵家からの打診を子爵家が断れるはずもなく、婚約は正式に結ばれた。
リュシアンも祝ってくれていた。
「リュシアンのことは気の毒だったが、これからのことを考えないと」
「……そうですね」
これからのこと。それを考えるのが一番気が重い。
リュシアンの死を知った時、父と母が心配したのは、下の妹のサンドラのことばかりだった。
『リュシアンが死んだら、サンドラはどうやって生きていけばいいのだ』
どうやって?そんなの、どうとでも生きていける。
リュシアンは、サンドラのために存在していたわけじゃない。
父母の考えでは、リュシアンは子爵家の跡取りとして、身体の弱いサンドラの面倒を一生見なければならなかったそうだ。
たとえサンドラがどこかに嫁いだとしても、こまめに連絡を取って不自由しないようにしなければならない、そんなことも言っていた。
相変わらず歪んだ思考回路の持ち主たちだ。
レティシアとリュシアンの年齢差は一つ、サンドラは三つ下の妹だ。
割と近い年齢差なのだが、上の二人とサンドラでは扱いが違う。
サンドラは、生まれた時から身体の弱い子だった。
すぐに熱を出し、近くに父母がいないと泣き叫び、そしてまた熱を出す。
それを繰り返していた。
幼い頃から身体が弱いのは、サンドラの責任ではない。
けれど、同じように熱を出してもレティシアとリュシアンは、薬を飲まされて寝かされるだけだった。
特にレティシアはサンドラ同様、ちょっとしたことですぐに熱を出す子供だった。
父母が心配して見に来るなんてこともなく、二人の耳に聞こえてきたのは、熱がサンドラに移ったらどうするんだ、という大人たちの声だけだった。
だから、ずっとレティシアの傍にはリュシアンがいて、二人でくっついて寝ていた。
二人でいれば、病気も治るし、怖いものも近寄ってこないと信じていた。
幼い頃は本気で、自分たちは二人で一人なのだと信じていた。
ジョエルにはきっと分からない。片翼をもがれた悲しみなど。
それに、きっと両親はこのままレティシアの婚約を継続することはないだろう。
あの人たちが次に考えそうなことは分かる。
家に帰ったら、それを言われるだけだ。
「レティシア?」
無言になったレティシアをジョエルは不審に思って声をかけた。
「はい」
「どうしたんだ?」
「……ジョエル様は、これからどうなさるおつもりですか?」
「どうする……?そうだな。一年間の喪が明けたら、君と結婚したいと思っているよ」
それが当たり前のように優しい声で言うジョエルに、レティシアは小さく微笑んだ。
きっとそれは叶わないと、レティシアは確信していた。
「あのね、レティシア。ジョエル様とのことなんだけれど、婚約をサンドラと代わってほしいのよ」
ジョエルに送られて家に帰ると、母が待ちかまえていて、そう告げられた。
「……お母様、本気ですか?」
「えぇ、もちろんよ。ジョエル様にも悪い話ではないと思うの。あの方は侯爵家の方とはいえ次男でしょう?サンドラと結婚して、子爵家を継いでいただきたいのよ」
とても無邪気に言う母に、この人は本当に何を考えているのだろう、と疑問に思った。
昔からそうなのだが、レティシアのものは、いつも母の手によってサンドラに与えられる。
お気に入りのぬいぐるみも、祖母から贈られたドレスだって、レティシアが袖を通す前にサンドラに似合いそうだからと言って持っていかれた。
その時は、祖母の目の前でそれをやってしまったがために怒られて、以後、母はレティシアと二人きりの時にしかそういうことをしなくなった。
「そのことをジョエル様はご存じなんですか?」
「いいえ?これからお伝えするのよ。決まってからじゃないと、あちらにも悪いでしょう?」
きょとんとして言う母に、なぜ侯爵家の次男の未来を子爵夫人が勝手に決めることが出来るのか聞いてみたい衝動に駆られたが、言ったところで母はさらにきょとんとするだけだろう。
この家の中では、身体の弱いサンドラのためなら何でも許されるという風潮があるのだ。
「お母様、ジョエル様とサンドラが婚約した場合、私はどうなるのでしょう?」
「あら、あなたはいいのよ。だって健康でしょう?」
健康と言っても、実はレティシアもサンドラと姉妹だけあって、普通の人よりは身体が弱い。
あまり激しい運動は出来ないし、熱だってすぐに出す。けれど、こうして外を出歩いているだけで母の中ではレティシアは健康なのだ。
レティシアとリュシアンは学校に通っていたが、サンドラはずっと家にいた。
家庭教師が付いていたそうだが、それもサンドラに甘い両親が付けた教師だ。どこまで厳しくサンドラに教育を施したのか、レティシアは知らない。
ジョエルとサンドラを結婚させて、二人で子爵家を守っていく。
その考えもいいだろう。けれど、子爵夫人となれば、それなりに社交もこなしていかなければならないのだ。
父母に守られっぱなしで、外に全く出たことがないサンドラに務まるのだろうか?
そう思ったのだが、それはレティシアにはもはや関係のないことだと思い直した。
いざとなれば父母が何とかするだろうし、夫となったジョエルが教えればいいだけのことだ。
「お母様、そのことは一度、ジョエル様とサンドラと話し合った方が良いのではないですか?」
「あら、サンドラは喜んでいたわよ。実は、サンドラはジョエル様に憧れていたんですって。ふふふ、素敵だと思わない?憧れの方と結婚出来るなんて」
とても嬉しそうに言う母が気持ち悪い。
姉の婚約者を奪って平気で喜ぶ妹の精神など、分かりたくもない。
そんな二人のことをとても愛おしそうな目でいつも見ている父は、もはや怪物にしか見えない。
「ジョエル様もきっとお喜びになるわよ。だって、あなたと結婚したところでこの家は継げないのだし、ジョエル様のお荷物が増えるだけでしょう?」
実の娘をお荷物と言い切っているが、この人はその言葉が失言だとは思わない。
自分の言動がおかしいことに、気が付いてもいない。
母は、ずっと昔に狂ってしまっているのだ。
それを父が許し、この家では当たり前のことにしてしまった。
そして、長年、そんな母の言動に慣らされた家の者たちは、ここではこれが普通なのだと思い、なんの疑問も呈しない。
そんな子爵家を誰に渡すのかは、父母が好きに決めればいい。
ただきっと社交界では噂になるだろう。
侯爵家の次男のジョエルと子爵家の長女のレティシアとの婚約が決まっていたのに、なぜその二人に家を継がせずに、わざわざ引きこもりの妹と結婚させたのだろう、と。
そして出てきたサンドラが全く社交が出来ない娘だったら、恥を掻くのは父母とジョエルだ。
それにジョエルとサンドラの結婚を認めた侯爵家だって、これみよがしに嘲笑されるだろう。
あの娘のどこが良かったのだ。ジョエル様は王太子の側近なのだから、別に子爵家はいらなかっただろうに。侯爵家も見る目がない。
分かっているが、リュシアンがいなくなったレティシアには、もうどうでもいいことだった。
「分かりました、お母様。お好きなようになさってください」
レティシアはそう言って小さくお辞儀をすると、自分の部屋へと戻った。
「疲れた……」
お行儀悪く、そのままベッドに突っ伏した。
「リュシー……」
名前を呼べば、昔みたいに『どうしたの?姉上?』と心配する声が聞こえる気がする。
実際には何も聞こえないけれど……。
レティシアは、これからのことを考えた。
ジョエルのことは嫌いではない。結婚しても、ちゃんと仲良くはやっていけただろう。
子供を何人か生んで、仲良く年老いていくことは出来た。
けれど、もうそんな未来は来ない。
レティシアは、リュシアンが死んだと聞かされたその日から、ずっと疲れていた。
「生きていて欲しかったわ。あなたは、私のたった一人の弟だったのに……」
弟。
リュシアンはレティシアの弟。
そう何度も声に出して言わなければ、もっと他の言葉を叫んでしまいそうになる。
ずっと隠してきた想いを、なりふり構わず叫びそうになる。
『あなたは、私が愛する唯一の人なのに!』
そう泣き叫びたい。
でもそれは許されない。
もし出会い方が違っていれば許されていたことかもしれないが、レティシアとリュシアンは姉と弟として出会ってしまった。
血の繋がりが全くないのに。
レティシアがそれを知ったのは、偶然だった。
不用意な父が、そのことをレティシアに漏らしてしまったのだ。
姉妹であるレティシアとサンドラの扱いの差はともかく、嫡男であるはずのリュシアンの扱いまでおかしいのは何故なのかを聞いたレティシアに、あの子とは血の繋がりがないから仕方がないと言ったのだ。
レティシアはすぐに父を問い詰めた。父はしどろもどろになりながらも、諦めて事情を説明してくれた。
レティシアは生まれた頃、サンドラ並に弱々しい子で、生き残れるかどうかも怪しかったのだそうだ。
実際に何度か命の危機はあったらしいが、何とか生き延びた。
けれど、いつ死ぬか分からないレティシアの育児と看病で、母の精神はすり減っていった。
さらに追い打ちをかけるように、最初の子供が男でないことを祖父に責められていたらしい。
そして祖父に急かされるままに次の子供を作り、生まれてきたのは待望の男の子だった。
母は喜んだ。もちろん父も祖父も喜んだ。
だが、その子もやはり身体が弱く、生後まもなく亡くなってしまった。
その事実に、母の精神は保たなかった。
恐慌をきたした母を屋敷の一角に閉じ込めて、父はどうするか悩んだ。
幸い、亡くなったことはまだ祖父には知られていない。
屋敷内にいるわずかな人間しか知らないうちに、何とか対処をするために父は身代わりを思いついたのだ。
ちょうどその頃、父の遊び仲間のとある方に、公には出来ない子供が生まれていた。
生まれた日にちも近い。
その方も、子供の養育をどうしようか悩んでいた。
双方の利害が一致して、その子は密かに子爵家へと連れてこられ、母に手渡された。
精神がおかしくなっていた母は、その子を自らの子だと認識した。
自分の生んだ息子は、最初に生んだ娘と違って身体の丈夫な子供だった。そう思い込んで、そのことにすっかり安心をした。
精神も安定し、父は幾分かほっとしたそうだ。
それがおかしくなったのは、サンドラが生まれてからだった。
父はこれ以上、子供を作る気はなかったそうだが、自分は丈夫な子供を産めると信じた母が、もう一人、ちゃんとした子供が欲しいと言ったのだそうだ。
父は迷ったが、母の押しに負けて子供を作った。
そして、生まれたのがサンドラだ。
母は実の息子が亡くなった時のことをすっかり忘れているくせに、サンドラが危うくなるとどこかでそのことを思い出しては取り乱し、サンドラを死なせまいと彼女しか見なくなった。
レティシアは最初に生まれたくせに男ではなくて身体も弱く、愛しい妻の精神がおかしくなった元凶。
リュシアンは実の息子ではない。
サンドラは身体は弱いが、母と引き離すわけにはいかない大事な娘。
父にしてみれば、扱いに差が出て当然だということだった。
レティシアは、リュシアンと血が繋がっていないことにショックを覚えるのと同時に歓喜した。
リュシアンを好きでいてもいいのだと思った。
そして同時に、決して表に出してはいけないのだと思った。
なぜなら、レティシアの好きなものは、全て母がサンドラに与えるから。
もし、リュシアンと血の繋がりがなくレティシアがリュシアンのことを好きだと分かれば、あの母はリュシアンをサンドラと結婚させるくらいは当然やる。
それだけは、絶対に嫌だった。
他の何かを取られてもかまわないが、リュシアンだけは、サンドラに渡したくなかった。
それに姉と弟として育ってきたのだ。
リュシアンはレティシアのことを、姉として信頼している。
その信頼を失いたくない。
だからこの想いに蓋をした。
リュシアンがこの家を離れて帝国に留学すると聞いた時は、反対せずに喜んだ。
そしてレティシア自身は、リュシアンが留学から帰って来たらすぐにジョエルと結婚して、この家から出て行くつもりでいた。
離れれば、きっと耐えられる。
目の前で他の女性と結婚するリュシアンを見たくないという思いもあり、出来れば遠く離れた場所で幸せになってもらいたかった。
「私が悪かったの……?あなたと離れたいって思ってしまったから……」
泣いても叫んでもリュシアンは帰って来ない。
レティシアの心の中を、後悔ばかりが占めていた。