年下の婚約者が「抱いてください」と迫って来たんだが!?
「抱いてください」
久方ぶりに会った年の離れた小さな婚約者が、とんでもないことを言いだしたためにアレックスは頭を抱えた。
何故こんなことになったのか。ともかく状況を鎮静化させるために、アレックスは周囲を見た。これから先の会話を他人に聞かれては、面倒なことになるという予感がしていた。幸いにも此処はアレックスの実家であるフレイザー家が持つ小さな離れで、だからこそ気楽に、肩の力を抜いて会えると選んだ場所だが、今はその事を後悔していた。使用人たちは屋敷の別の場所で仕事をしていて、近くには姿は見えない。周囲にいるのは婚約者であるポーリン・ビセット付の侍女であるハンナだけだ。そのハンナに視線で「これはなんだ」と問うと、一瞬だけあった視線は逸らされて、それから二度とは合わなかった。完全に意図的に視線を合わないようにしている。
ふう、と鼻から息を出した。それからもう一度深く息を吸い、吐く。
そうして、精神を落ち着けてからもう一度、目の前にいる丁度十年下のポーリンを見る。
「ポーリン。すまないがもう一度言ってくれるかい。どうやら俺の耳が可笑しくなったらしい」
「抱いてください」
「すまない俺が悪かったもう言わなくていいよ」
「アレックス様、わたくしを抱いてください!」
「一体何がどうしてそうなったんだ!?」
アレックスは声を荒げてしまった。しかしそれも仕方がないと思うのだ。貴族女性にとって婚前交渉を持つのは大変恥ずかしい事だとされている。いくら婚約者と言えどもそんな事を迫るのは痴女と言われても可笑しくないのだ。アレックスの知るポーリンは、まかり間違ってもそんな事を願う少女ではなかった。何故そんな事をポーリンが迫ってくるのかアレックスにはさっぱり分からず、頭を抱えるしかない。
アレックス・フレイザーとポーリン・ビセットは、ポーリンが六歳、アレックスが十六歳の時に婚約を交わした。
アレックスはフレイザー伯爵家の三男。家は継げず、長男にもしもの事があった時の換えとして家で働く事も難しい。それを早くから理解していたアレックスは十二の時に騎士になるべく騎士養成学校に入学した。無事卒業して新人騎士として働き始めていた頃に、突然実家から呼び出されたと思ったらこの婚約を告げられたのだ。フレイザー伯爵家が新たに手を出した仕事柄、繋がりが欲しかったのだという。騎士養成学校は全寮制であったし、新人騎士は騎士団の宿舎で暮らすので数年実家を離れていたアレックスは、実家が新しい事業に手を出していた事を全く知らなかった。
婚約者として紹介されたポーリンは、ビセット伯爵家の五女。ビセット家は令嬢しかいない家で、家は長女の夫が継ぐ事になっていた。同じ伯爵家ではあるが、フレイザーよりは家格がいくらか上の家だ。とはいえポーリンもアレックスと同じく、家を継ぐといった事とは縁がない。なにせ五女。家から継げるものもないので、あまり良い結婚の縁を得る事が出来ない。強いて言うのならば、家と家の縁。つまりアレックスもポーリンも、個人としてはさほどモテる要素がないけれど、政略的に結婚するという意味では都合の良い立場だった訳だ。
そんな二人であったので、本人たちの希望は放置されてとんとん拍子に婚約が決まった。年の差があるので結婚は先の事であるが、決定事項だ。十六歳のアレックスにとって六歳のポーリンは女というより妹という感じではあったが、両親から「貴族同士なら十歳ぐらいは普通だ」「成長すれば気にならなくなる」と言われ、頷いた。強く反発する理由もなかったのだ。そも家で継ぐモノが無く騎士になるような者たちの結婚は、大概が上司や親戚の整えたお見合い。親の整えた婚約に乗るのは、将来的に整えられるお見合いと大差がない。それにポーリンは異性としては見れなくとも親戚の娘ぐらいに思えば愛らしかったので、親孝行とも思い、反発はしなかった。
それからの二人の仲はというと、勿体ぶる必要もなく、普通に良かった。
お互いの間に性的な物が混じる感情があったかと言えば、正直なかっただろう。姉妹しかおらぬビセット家で育ったポーリンは、アレックスに対して婚約者というよりも親戚のお兄さんのような感覚でなついてくれていた。可愛い子になつかれて、悪い気はしない。アレックスも仕事以外の部分ではポーリンを可愛がっていた自覚がある。
結婚はポーリンが十六になったらと言われていて、来年の雪解けの後、春には式を挙げる予定になっていた。
だから、あと半年と少し辛抱すれば、二人は問題なく夫婦になる。
正直、体つきが女性らしくなるという年頃を迎えても幼さの残った容貌のポーリン相手に食指が動くかと問われると難しい所であるが、我が事ながら男の欲はシンプルなので、どうにかなるだろうとアレックスは軽く思っていた。
……そんなタイミングでの、突然の訪問の願いからの、あの“お願い”である。アレックスは混乱したし、理解出来なかったし、一応年上として、冷静に、ポーリンにゆっくり言い聞かせた。今二人が行為を行えばそれは婚前のもので、世間からは白い目で見られてしまうという事。あとたった半年後にはそういう事をする関係になるのだからと。けれどそれを聞いてもポーリンは涙を目に浮かべて、首を振って言うのだ。
「お願いします、アレックス様。抱いてください」
「だからね、ポーリン。婚前にそんな事をするのは淑女としても良くないだろう。聞かなかった事にしてあげるから」
「わたくしは! ……わたくしは、アレックス様のお嫁さんになりたいのです」
どんな理由にせよ可愛がっている婚約者から、潤んだ瞳で上目遣い気味になりながらそう言われて、グッとこない男の方が少ないのではないか。勿論アレックスとて悪い気はしない。
しかし婚前で行為などした事がバレればまずアレックスの両親も、ポーリンの両親も怒るだろうし、職場にバレればその後にも影響が出る。社会的に見れば自分の言葉は全うなはずなのに、ポーリンがあまりに必死に頼むから、まるで自分が間違っているかのようだ。アレックスは眉を垂れ下げた。困ったなぁ、とハンナを見るも、ハンナはやはり「見ていません。聞いていません」と空気と化している。
視線をポーリンから逸らした事に、ポーリンはアレックスが無理矢理話を切り上げる気だと思ったのだろう。焦ったポーリンは必死にアレックスの体に縋りついた。騎士団で日々働いているアレックスの体は筋肉質で、腕も逞しい。ポーリン一人が突然飛びついてきた所でバランスを倒したりはしないけれど、そのあまりに必死な勢いに押されて、アレックスはやや後ろに引いた。
「お願いします! アレックス様、お願いします、痴女だと罵ってくださっても構いません。け、結婚した後に、り、離縁、は、い、いやですけれど、でも、そうされても仕方ない事を頼んでいると分かっているのです。でも、でも嫌なのです。お願いします、お願いします……!」
耐え切れないとばかりに涙が溢れ、もうポーリンはまともな話など出来ない状況になっていた。姉妹間か友人間か、何かしら悪い相手に吹き込まれたのだろうとアレックスは考えた。
アレックスはポーリンを慰めて、ビセット家に迎えに来るように連絡した。ポーリンは馬車に乗るまで泣いていたけれど、流石にハンナ以外の人間が周りに来た後は、抱いてください等と言ってくる事はなかった。ハンナはアレックスが他の人を呼んでからというものの、ずっと親の仇のようにアレックスを睨んでくる。可笑しいだろうとアレックスは思った。ポーリンの事を大事に思うのならば、妙な事を口走っている主人を止めるべきだ。
人として年上として自分は間違っていない。アレックスはそう信じていたからこそ、婚約者を彼女の家へと送り返した。
ちなみにポーリンが泣いていた件は使用人たちからアレックスの母であるフレイザー伯爵夫人に話が行き、アレックスはお前が泣かせたのだろうと散々叱られた。アレックスが悪い訳ではないと、思う。
★
アレックスは現在、騎士団で働いている。騎士団の仕事はというと様々なものがある。問題が遠方で起これば遠征に出る事もあるが、基本業務としては王都の自治管理も入っており、現在アレックスが主に担当しているのはそこであった。
その日アレックスは王都の巡回に割り当てられており、気心の知れた同僚と共に王都を巡回していた。
人の多い王都なだけあり、様々な問題ごとが起こっている。小さな窃盗事件から始まり、昼間から酒を呑んでいる男たちの罵りあいから発展した乱闘騒ぎ等、簡単に日常が平和とは言えない問題ごとに騎士として対応すると、いくら体を鍛えても疲れが出てしまうものであった。
「アレックス。さっさと帰ろうぜ。引継ぎ済ませて今日の仕事を終わらせよう」
「ああ、全くだ」
同僚とそんな会話をしながら騎士団本部に向かって大通りを歩く。大通りにしろ小さな道にしろ、騎士の恰好をした者が通るだけでも犯罪が起こりにくくなるらしい。勿論多少の牽制になるだけで、騎士がいようといなかろうと問題を起こす者は問題を起こすのだが。
大通りを歩いていたアレックスは、露天で花が並んでいるのを見てポーリンを思い出した。自分が悪い訳ではない、とはいえ……あれほど泣かせてしまったのだ。何かしら慰めの物を送った方が良いだろうか?
そんな事を考えて立ち止まっていたアレックスを置いて、同僚はさっさと本部に帰ろうとしていた。
「あ」
そんな同僚が立ち止まって、声を上げる。アレックスも考え事から意識を戻し、前方を行く同僚の後ろ姿に声をかけた。
「どうかしたか?」
「……いや、噂が本当だったんだなぁと」
「噂?」
何の話だとアレックスは同僚の横に立つ。同僚は顎で、大通りに立ち並ぶ一つの店を指した。カフェだ。カフェには店内の座席と、それ以外に外にテラスの形式で出されている座席があるらしく、テラス席の一つ、鮮やかなパラソルの下で一組の男女が仲睦まじそうに寄り添って会話をしていた。年代はどちらもポーリンと同じぐらいか。時々笑いが漏れている様子は微笑ましいもので、同僚の口ぶりから感じた不穏な気配は微塵もしない。
ピンと来ていないアレックスを察して、同僚が言った。
「あれ、男の方は知らないが、令嬢の方は有名だよ。オールダム伯爵令嬢だ」
「なんだって? それって妖精の……」
「そう、その。……最近噂になってたんだよ、大っぴらに言われてる訳じゃないが、オールダム伯爵令嬢が異性と仲睦まじそうにしているってな」
「それ……大丈夫、じゃない…………だろう?」
美しいブロンドの髪に透き通る青い瞳。オールダム伯爵令嬢はその美しさとある事情から、妖精姫等と呼ばれている。呼ばれかたは複数があるが、そのどれもが妖精という言葉が絡んだものだ。
その理由は、彼女が将来妖精王に嫁ぐ立場である事に由来している。
王国の土地は、かつて、人が住めないほどに豊かすぎる土地だったという。そこに移住してきた王国の祖先たちは、当時この土地に暮らしていた妖精たちと契約を交わした。
土地を借りる代わりに、定期的に代替わりする妖精王に花嫁として、無垢な少女を差し出すという契約だ。
契約を結んだ当初は妖精と人間は同じ土地で生きていたが、今では妖精たちは人間の行けぬ世界……妖精国と呼ばれる別世界で暮らしていて、気分の向いた時だけ人間の世界に干渉している。妖精たちの持つ力は、自然界のあらゆることに直接的な影響を及ぼす。彼らの力を使えば、草原を一夜にして砂漠にする事も、逆に砂漠を一夜にして森にする事も出来なくはないという。故に今でも妖精から力を得ようとする術を探る者は、世界中どこの国にもいる。
そんな中で、王国は特殊だった。建国からして妖精と契約が存在し、その契約を未だに守り続けている……。これによって王国は妖精に守られ、自然発生する多くの問題とは殆ど関係なく、国の平和を維持し続けてきた。王国の平和の土台には、妖精との契約があるのだ。だからこそ王国では妖精を尊び、彼らに感謝する事が大事とされている。
契約の要である花嫁は、人間ではなく妖精が選ぶ。細かい条件はその時々によるようであるが、ハッキリした条件が一つ。明け透けな言い方になるが、処女であるという点だ。
妖精王の代替わりは不定期で、百年代替わりしない時もあれば数年で代替わりが起こる事もある。そしてそのたび、妖精たちは妖精国から王国へとやってきて、次の花嫁を選ぶのだ。選ばれた花嫁は十六の誕生日を迎えるまで身を清め、そして十六になったら嫁いでいく。
十数年前、妖精たちはオールダム伯爵令嬢を次の花嫁として指名した。それ以降彼女は、王族に次ぐ――いやむしろ王族よりも大事にされる存在となった。
オールダム伯爵令嬢は将来妖精王に嫁ぐ。つまり婚約状態と言っても良い。そんな彼女が異性と仲睦まじく過ごすのは、妖精王への裏切り……つまり契約違反に当たるのではないか、という不安が芽生えた。そこまで信心深くないアレックスですらそうなのだ、妖精王をあがめる教会が知ったならば、怒り狂いそうである。
アレックスの言葉に同僚は首をかしげる。
「分からないが……動いていないから、許容されてるって事なんだろうさ」
なるほどとアレックスは納得する。
オールダム伯爵令嬢は妖精の花嫁に選ばれた後、国王と教会が後ろ盾となっている。彼女の身の安全は何より大事なものだ。恐らく周囲には彼女を守る者たちが潜んでいるはず。一般家庭ならばともかく、国王が流石にこのような事態を見過ごしているとは思えない。
「まあ、処女であればイイって事なんだろ」
「おい馬鹿、お天道様が見てる所だぞ」
同僚が茶化すように言葉を漏らすので、アレックスは肘でついた。
同僚とアレックスはそのまま、オールダム伯爵令嬢の事は見なかったような態度で、本部へと戻った。
次の巡回の者たちに引継ぎをしていると、引継ぎ相手の騎士にアレックスは肩をたたかれる。
「さっき、副団長が呼んでいたぞフレイザー」
「副団長が?」
心当たりがないのだが、呼ばれたのならば行かなければならない。引継ぎを終えたアレックスはすぐに副団長がいるだろう、副団長室へと向かった。
「アレックス・フレイザーでございます。お呼びと聞き参上しました」
「入ってくれ」
部屋の中から副団長の声がして、アレックスは部屋の中へと入った。挨拶もそこそこに、窓際に立っていた副団長は、アレックスに座るよう指示を出す。
「突然だがフレイザー。君には確か、婚約者がいたね」
本当に突然の問いかけでアレックスは内心困惑したが、それは表に出さずに頷く。
「はい。ビセット伯爵のご令嬢です」
「式の予定は」
「……次の春には」
「春か。…………そうか、春か」
とても、歓迎とは言い難い声色だった。
春の何が悪いのか、アレックスはちっとも分からない。というか、春に式を挙げる所はむしろ多いのだ。副団長の妙な含みのある反応が理解できない。
妖精の守りがあっても、冬の寒さは厳しいものがある。必要な物の準備という点でも手に入りにくいものが多い季節に、寒い中でわざわざ式を挙げるよりも、冬の間に家の中で準備を進め、春を迎えてから式を挙げる方が効率が良い。
結婚が近づいているから、そういう情報は嫌でも耳に入り記憶している。騎士という仕事柄、いつどこで相手がどんな情報を落とすか分からないため、情報収集能力は多少上がったと認識している。
「その結婚、冬の前に早められないか」
「は……? ……流石にそのような事は難しいかと。私の一存でどうこうできる事でもありませんので」
顔を上げたかと思えば伝えられた言葉に、アレックスは怪訝そうな顔をしながらそう答えた。
式というのは、兎角準備に時間がかかる。
会場、会場内の内装や式の進め方、出す料理に招待客に席の置き方、様々な準備がいるのだ。なんらかの事情で遅らせる事ならば不可能ではないが、次の春に予定している式を、秋の終わりまでに行うなど不可能である。最も暑い夏はもう過ぎているのだから、猶予がひと月程度しかない。とてもではないが、アレックスが決めれる事ではないし、万が一言い出したりすれば家族から非難轟々になるという予想が容易い。
首を振ったアレックスに、副団長は真剣な顔で言い募る。
「どうしてもか」
「どうしても……というよりも、物理的に不可能です」
大きな式ではないので、招待客は近い親族と親しい友人ぐらいか。けれど確か、式の要であるポーリンのウェディングドレスは出来上がってもいなかったはず。最も結婚式が挙げられているのは冬を超えた後の春であるが、次いで多いのが暑さの超えた秋の季節だ。なので今の時期は秋に開催する結婚式のウェディングドレスの仕上げに手一杯で、とてもでは無いが今から急にとなれば、オーダーメイドのドレスは間に合わない。よほど困窮していない限り、花嫁のドレスがオーダーメイドではない貴族はいない。今現在製作中のそれをおいて、既製品の物を使ってまで式を執り行う理由などない。
そんな事を思いながら否定すると、副団長は難しい顔のまま「そうか」と呟いた。
この妙な問いかけは一体全体何なのだ? とアレックスが思っていると、副団長は話を続けた。
「では、籍を入れるのを早める事は」
まともに戸籍のある国民であれば、結婚の時に籍を嫁入り先や婿入り先に入れる手続きをするものだ。勿論アレックスたちもする。この書類上の処理を行うタイミングは、結婚式の前と後、ハッキリとした決まりがない。
大体の場合は式に合わせて当日や数日前に処理を済ませ、実際の結婚生活は式の後から始まるのが最もポピュラーな対応だろう。とはいえ式の前に事実上結婚し、後からお披露目として式を行う夫婦もいる。……が。
「……………………何故?」
アレックスはただただ分からない、という風に言葉を漏らした。
分からない……副団長の目的が分からない。ただ、やたらアレックスと婚約者のポーリンを、早く事実上の夫婦にしようとしている事だけは分かった。だが親戚でも無い副団長がそこまで関わろうとする理由が分からない。アレックスは確かに騎士団に所属する一騎士であるが、副団長と個人的な繋がりもない。
副団長は目を細め、焦れたように言う。
「出来るのか、出来ないのか。……披露は後で構わない、出来る限り早く婚約者殿と夫婦になれ」
その夫婦がどういう意味か、察せられないアレックスではない。極めて個人的な事に口を出されて感じた不快感を、相手が上官であるからとなんとか飲み込む。曖昧に返事をすれば、副団長はそのアレックスの態度に失望したかのような顔で退出を促した。
「苦しむのは女性、後悔するのは君だ」
アレックスが副団長室を出る直前、副団長がそんな風に呟いた気がしたが、聞き間違いだったかも知れないし、間違えてなかったとしても、意味がわからない言葉だった。
副団長室を後にしたアレックス、モヤモヤを抱えたまま騎士団本部を歩いていた。その肩を、一人の騎士が捕まえる。
「アレックス今良いか」
「はい、大丈夫です」
声を掛けてきたのはアレックスの三年先輩の騎士だった。しかしお互いの顔や名前は把握していても、個人ではあまり話した事がない。何なのだろうと先輩騎士の後ろをついていくと、彼は人の気配がない一室にアレックスを連れて行った。そして部屋にアレックスと自分しかいない事を確認してから、念を押して声を潜めながら用件を伝えた。
「副団長に呼び出されたな?」
「……はい」
「副団長の要件は、結婚を早めろという物じゃ無かったか?」
頷いた良いものか躊躇っていると、先輩騎士が先んじて言う。
「その顔はそうだな。……俺も同じ事を言われた」
「えっ?」
「俺やお前だけじゃない。副団長はここ最近、今の時点で来年の春以降に婚姻予定のある騎士を一人一人呼び出しては、婚姻を早めるように進言している」
「何でそんな事を……」
「分からない。お前が何か聞き出して無いかと思って声を掛けたんだ。何人か、何故そのような事を副団長に指示されねばならないのかと言った者もいたが、答えは貰えていない。何か聞けた事はないか?」
会話を思い返すも、副団長が理由らしき事を話しか事はない。アレックスが首を振ると、先輩は特に食い下がる事もなくあっさり引いた。元々期待していた訳でも無かったのだろう。
「なんなんだ、一体」
アレックスはそう独りごちた。
★
ポーリンから突然、訳の分からないお願いをされてから丁度二週間が過ぎた頃、アレックスはビセット伯爵夫人に呼び出され、王都のビセット伯爵邸を訪れていた。
将来的に義母になる人からの呼び出しだ。もしかしてこの前、ポーリンを泣かせてしまった事が妙な伝わり方をしたのだろうかと不安になる。ビセット夫人はアレックスの母とは違い、とても小柄な人で、いつもニコニコ微笑んでいる印象しかない。そういう人ほど怒らせると怖いというのはよく聞く話で、アレックスは内心かなり緊張していた。
「……ようこそいらっしゃいました」
「あ、ああ。この前ぶりだな、ハンナ」
「…………」
ポーリン付きの侍女であるハンナとは、この前ポーリンに抱いてくれと頼まれて断り、泣かれた時以来だ。ハンナはこの前の事を根に持っているのか、不満げな顔のままアレックスを先導し始めた。
「……?」
少し歩いている内に、アレックスは可笑しいと気付いた。
何がと言えば、音がしないのだ。
貴族の屋敷というのは大概の場合、多くの人間が動き回っている。広さに比例した人数の使用人がいなければ、屋敷を綺麗に維持することが出来ないからだ。なのでどれだけ静かにと言っても、どこかに人の生活音のようなものがするはずだ。
しかし今、ビセット伯爵邸は異常なほどの静けさに満ちていた。響いているのはハンナとアレックスの歩く音だけだ。
いやそもそも、屋敷に到着したアレックスを出迎えたのがハンナである点も可笑しい。
ハンナはポーリン個人に着いている侍女であり、ポーリンや雇い主のビセット伯らの指示でもなければポーリンの傍についている。これまで屋敷を訪れたアレックスをハンナが出迎えたのは、主人たるポーリンがアレックスを出迎えるために入り口にやってきていた時ぐらいだ。なのに今日に限って、どうして。
アレックスがそのような疑問を抱いた時、ハンナは何も言わないままドアを開いてある一室にアレックスを導いた。
「……ハンナ、夫人はどこに……?」
「夫人は今現在、屋敷にはおりません。出掛けております」
「は? なんだって? どういう事だ。今日は夫人に呼ばれて来たんだが」
「夫人からのお話は代理として私がお伝えいたします。――ですがその前に、アレックス・フレイザー様。何故この前の時、ポーリンお嬢様の願いを叶えて下さらなかったのですか」
「…………ハンナ。君がまさか、あのポーリンの無茶苦茶なお願いを肯定するとは思わなかったよ」
ハンナの態度から察してはいたが、アレックスは敢えてそう言った。厭味だ。
「未婚の令嬢が体の関係を望むなんて、極めて非常識だ。ポーリンがそんな事を言う子には思えなかったから驚いたし……妙な悪知恵を吹き込んだ人間でもいたかと思ったが。もしかして君がそうだったのか?」
「いいえ。あの願いは間違いなくポーリンお嬢様ご自身の願いです」
ハンナが言いきった言葉を聞いた時、アレックスの胸に沸き上がったのは、失望と名付けて良いものだった。自分が年下の婚約者に幻想を抱き過ぎていたのかもしれない。それでも、自分の将来結婚する相手が、節操なしのような事を望んでいたと聞くのは、それなりに苦しいものがあった。
ハンナは険しい顔で、怒りを耐えきれぬという顔をして、アレックスを睨んでいる。そんな目で見られる筋合いなどないと口を開こうとしたしたアレックスだったが、ハンナの言葉の続きを聞き、喉に言葉が突っかかった。
「貴方に帰された後、お嬢様は自死を試みられました」
じし。ジシ。
……自死?
「…………」
頭が真っ白になり、口を開けたまま何も言えないでいるアレックスに、ハンナはあの日以降のポーリンの状態を告げた。
「幸いにも私が早期に発見出来ましたので命に別状はありませんでしたが、その後は思い詰めて食事も取らず引き篭もり。自死を再び試みないようにと私を始め使用人たちがいつもついておりましたが、その間、まともに水分もお取りになっていないのに泣き続けて、脱水症状でまた医者を呼びました」
「聞いてない……そんな事になっていたなんて聞いてないぞ!」
「お嬢様は貴方にだけは知られたくないと、これ以上迷惑をかけたくないと仰られていたのです。…………そして一昨日、やっと自室から出てきてくださったかと思えば、お嬢様は旦那様に貴方との婚約を解消する事を申し出ました。それは良いのです」
「良くないが!」
「本当によろしくないのはそのあとですわ、アレックス・フレイザー様? ……ポーリンお嬢様は、貴方が抱いてくれない、ご家族はポーリンお嬢様の話を真面には受け取ってくださらず自死も許されない。これらの状況で追い詰められ――ならば問題を自力で解決し、その後は修道院に行き一生を終えるしかないと、とんでもなく飛んだ思考をされてしまったのですから!」
「い、嫌な予感しかしない……ポーリンは一体何を考えて」
「好いた貴方に迷惑をかけないために婚約を解消し、そしてその手の事を生業にしている男を呼んで一夜を共にし、その次の日には修道院に赴くという計画です」
次から次へとインパクトのある話ばかりで、アレックスはポカンと口を開いたまま固まってしまった。
「ちなみにお嬢様は明らかにもう精神が可笑しくなっている目で、“これならアレックス様にはご迷惑をかけずにすむし、お父様たちにも出来る限り少ないご迷惑をかけるだけですむわ、ね、ハンナ!”と仰られました。……それもこれもアレックス様、貴方がポーリンお嬢様の願いをかなえてくださらなかったせいです! ………………いえ、さらに遡れば旦那様方もお嬢様のお話をマリッジブルーだと流しておられたし、さらにあの頭頂部の毛がご臨終された教師がお嬢様の訴えを笑い飛ばしたのも原因ですし、他のご友人方もポーリンお嬢様のお話を見な鼻で笑って聞き流し、あまつさえポーリンお嬢様の事を頭が可笑しくなったなどと……」
これまで貯めこんだ不平不満が爆発したのだろう。アレックスに向かって叫んだあと、ハンナは目の前にいるアレックスではなく、記憶の中の様々な人間を思い起こしながら一人ぶつぶつと文句を垂れ始めた。
アレックスの中では、様々な記憶が同時に再生されるように、次々に思い起こされていた。
幼い頃から、アレックスの傍にいつも頬を少し染めて近寄ってきていたポーリン。
抱いてくれと迫って来たポーリン。
ハンナから語られた、自分の知らぬうちに行われた、そして行われようとしていた様々な出来事……。
アレックスは混乱していた。混乱していたが、混乱する場に置かれれば置かれるほど、それらを俯瞰して冷静さを取り戻そうとする自分が生まれていた。騎士として働くうち、様々な問題に揉まれてアレックスに身に付いた処世術のようなものだ。
「ハンナ」
混乱しているアレックスを差し置いて、冷静に状況を把握しようとするアレックスが口を開いた。名前を呼ばれたハンナは苛立たし気な表情を隠さずにアレックスを見る。
今更ながら、ハンナのアレックスへの対応は、普通の侍女ならば到底許されぬ態度である。しかしアレックスとポーリンの婚約が結ばれた頃にはハンナはポーリンの傍にいたので、今いる場のような外の目がない場所であれば、アレックスはハンナの態度を気にはしない。
「ポーリンが周りに訴えて、周りから流された話とはなんだ? 他の人に抱いてくれと頼んだ訳ではないのだろう?」
ハンナはアレックスの言葉を聞き、その目に冷静さを取り戻した。
「……お話いたします。そもそも何故、ポーリンお嬢様がアレックス様に抱いてくれ等と直接的な願いを口にする事になったのか」
ハンナとアレックスは座った。ハンナはそっと、一つの手記をアレックスの前に置いた。一部が焼けた、ボロボロの手記だった。
ハンナはゆっくりと、アレックスに事の経緯を語りだした。
★
全ての発端は、妖精の花嫁、オールダム伯爵令嬢だ。
オールダム伯爵令嬢とポーリンは同年代。故に彼女たちは、王都にある貴族の子弟が通う教育機関において、たまたま同時期に勉学に励んでいた。余談だがアレックスはそこには通わず騎士になるべく勉強を始めたので、この学校の事はよく分からない。閑話休題。
同じ学校に通っていると言っても、ポーリンはオールダム伯爵令嬢とは特に接点もなかった。ただ接点がなくとも、彼女は有名人だ。彼女の動向は誰もが噂している。
学校においてのオールダム伯爵令嬢の動きは、正直周りから反感を買うものであった。彼女は見目麗しい令息たちを周りに侍らせていたという。それはオールダム嬢が指示した訳ではなく、令息たちが自主的にしていた事だとは言うが、実際どの程度そうなのかは定かではない。その上オールダム嬢の取り巻きの多くには婚約者が既におり、令息たちは本来の婚約者を蔑ろにしてオールダム嬢に侍っていた。
そうなれば当然、女子の怒りを買う。正当な怒りであったが、しかし彼女たちはオールダム嬢に手が出せなかった。彼女の取り巻きに、なんと第四王子がいたからだ。
第四王子は王族の権力も使い、オールダム嬢に文句を言おうものならば圧をかけてきた。次第に誰もが彼女たちを遠巻きにした。唯一第四王子に物申せた彼の婚約者も、遠回しに休学するように圧力までかけられては、どうしようもなかった。
話が少し変わるが、ポーリンの趣味の一つに読書がある。これとオールダム嬢たちの行動が、今回の騒ぎの発端だった。
ポーリンは読書の中でも、古い物語や伝説を読むのが一等好きで、学校の図書館によく籠ってはビセット家にない書物を読んでいた。アレックスもその話は何度か聞いた事があった。
そしてある日、ポーリンはその本の間から、古びた手記を手にしたのだという。
見るからに古い古い手記で、個人のものだと思ったものの、埃を被ったそれが気になったポーリンは、つい手に取った。
手記は最初のころは、ただの日記であった。家族との日々、婚約者との日々……特に面白味もない、ごく普通の貴族令嬢の日記だ。ところがあるページに、突如、雰囲気の変わった文面が並ぶ。
――――――――――
数十年に一度、この土地を間借りしているお礼として、妖精王が代替わりする折、生娘を嫁として差し出す。
それは古くから続くこの国の文化であり、たとえ他国からなんと言われようと途絶える事のなかった伝統だ。何せ正真正銘本物の、【妖精の契約】に基づく行為であったから。
妖精の怒りを一度買ってしまえば、大変な事になるのだから。
その事を私たちは理解していなかった。長い契約の果てに、契約は軽んじられた。
その代償が、この出来事だ。
罪を犯したのは私たちではない。けれど国を守るために、私たちは贖わなくてはならない。
私は愛する人と結ばれる事はない。どれだけ願っても、その未来はかなわない。
……私は、王家を信じられない。元々の原因は彼らなのに、貴族だからと、私たちは彼らの尻拭いをさせられる。彼らは私たちがいなくなった後、自分たちの愚かさを後世に残すだろうか? 到底、思えない。
故にこの手記を残す。多くの書物が残るこの学校ならば、この手記が残るかもしれないと微かな期待をして。いつかこの手記を手に取った誰かが、二度とこの間違いを起こす妖精の花嫁が出ないように動いてくれると信じて――。
――――――――――
そんな言葉と共に記されていたのは、今から五百年ほど昔のこの国で起こった大事件だった。
当時の妖精の花嫁は、国王が溺愛する王女であった。王女は花嫁に選ばれた事に驕り、そして同時に妖精たちを軽んじた。己は妖精王の妻になるのだからと、己の自由に行動をした。
妖精の花嫁は、処女でなくてはならない。それは妖精王が処女を好むから――ではなく、無垢な存在しか、妖精に転生させられぬからだ。妖精王は死すまで花嫁と共に過ごす。彼らの寿命は時に人間より短く、時に人間よりはるかに長い。その時を花嫁と共に過ごすため、花嫁は嫁ぐ時に人ではなく妖精になる。その変化を起こすには、一度も他者と交わった事のない人間でなければ無理なのだという。
当時の人々はそれを知っていた。けれど長い平穏により、彼らは契約を軽んじた。
王女は当時気に入っていた男の一人と姦通した。どうせバレやしないと高を括って…………。
そして王女は十六になり、妖精王に嫁ぐ事になった。…………妖精王は一目で王女が他の存在に体を委ねたと理解して、怒り狂った。妖精王は王女に触れもせず、そして契約違反を起こした国王たちを咎めた。契約を違反するのならば、我々も契約を守らないと。妖精王の怒りに合わせるようにあまたの自然災害が王国とその周辺国を襲った。……貴賤も老若男女も問わず、多くの人間が命を落とす事になった。
王女は罪を問われて処刑された。国王もまた、娘を止めなかったとして処刑された。次の国王に立った者は、妖精王の怒りを鎮め、契約をもう一度結ぶためにどうしたら良いと妖精たちに訴えた。妖精の一人が、王の怒りを鎮めたければ花嫁を差し出すしかないと言った。
そして国中の処女の女が集められた。人身御供だ。処女であれば、極端な話、どんな年齢のどんな容姿のものでも構わなかった。その時既に国は崩壊直前まで追い詰められており、新国王たちの行動を止めるよりも、国民たちは一日でも早く妖精王の怒りが収まり、国に平和が戻る事を望んでいた…………。
貴族も平民も当時あった奴隷の娘も、誰も彼も関係ない。嫁ぎ遅れていた女性も、まだ言葉を発する事がやっと出来るという程度の幼女も関係ない。一人ずつ、順番に、次から次へと処女が妖精国に送られていった。
王国と妖精国は、人間にとっては一方通行。一度向こうに行ってしまえば、帰ってくる事はほぼ出来ない。帰ってきたとしても、それはつまりその人物が完全に妖精になってしまっているという事で、かつて家族だった者たちと同じときを過ごす事は敵わない……。
拒絶する者もいただろう。けれど周りが許さなかった。お前ひとりの命惜しさに、国民を丸ごと殺すつもりかと誰もが言った。心の中では娘や姉妹を差し出したくなかった者もいただろうが、国の一大事に、反対の事を口にすることが出来る者は多くはなかった。
手記を残した令嬢も、そのさなかで妖精王に人身御供で差し出される事になった令嬢だった。彼女は悲しみ、怒り、苦しみ、様々なものを手記に残して、図書館に残した…………。
ポーリンはその手記を読み、あまりの話に驚いたという。呆然とページをめくれば、それまで目で追っていた手記に書かれていた文字とは異なる筆跡が、新しくページを綴っていた。
――――――――――
ここまで読んだ者は恐らく、最初に私が抱いた疑問と同じ事を考えた筈だ。つまりは、我々が学んだ歴史において、妖精の花嫁が妖精王を裏切り契約が破棄されかけ、国が未曾有の災害に飲み込まれた……そんな事実は存在しないという事だ。
恐らく私がそうであったように、後世、この手記を見つけた者もまた、この手記を何かしらの創作かとも思う事であろう。私もそうであった。そんな大きな事件があれば、必ずや歴史書に残されるはずであるが、私の記憶する限り、そんな事件があったという事実は記されていない。
ただ私は、この手記全てが創作とは思えなかった。前半の日記が真実味があったのもそうであるし、筆跡から伝わる、作者の怒りも嘘には思えなかった。
幸いな事が一つあった。それは、私が今生きているこの時代が、この手記を最初に記した令嬢の言う大事件が起きた時に生きていただろう人が辛うじて生存している時代であったという事だ。もしそうでなければ資料をいくら集めても確信を得る事等出来なかっただろう。
勿体ぶるのは止めよう。結論から言えば、この手記に記された王国の過去は真実だ。
私の時代からおおよそ百十年ほど前の、貴族年鑑などに目を通してほしい。最近の貴族年鑑しか見ていなかった者は知らないだろうが、古い貴族年鑑は貴族の生年から没年まで記されているケースが極めて多い。それに対して、百十年ほど前から、突如没年を記さないケースが増え始めた。特に女性の記述は、その傾向が激しい。また、貴族年鑑の中から、私はこの手記の持ち主の名を見つける事が出来た。余白に貴族年鑑の種別とページを記しておくので、気になるのであれば調べてほしい。
その事から少なくとも日記を書いた者は実在すると仮定して、私はあまり目立たぬように国内を周り、ご高齢の人に尋ねた。妖精の花嫁の問題について。すべての人から回答が得られた訳ではないし、私が知りたかった事を本当に知らない方もいた。けれど幾人かは、長年抱え続けた重荷を下ろすように、私に真実を語ってくれた。
妖精王は、生贄の如く捧げられた生娘たちを中々認めなかったが、百何人目かで、どうやらお眼鏡にかなった娘がいたらしく、怒りを鎮めた。当時の国王たちは契約を守らなかった者がいた事を謝罪し、そして改めて契約を結んだ。そこまでは良い。
その後、この国の歴史から、その大きな問題はなかった事にされた。話をしてくれた人はその当時の国のお偉い方の事情など分からない立場の人であったので、どういう理由かは分からないという。まあ察しはつく。何せ問題を起こしたのは当時の国王と王女、その点を強く突かれれば、彼らと縁戚である新国王や王族たちの権威に問題が起こる。そこにどんな思惑があったにせよ、どんな歴史書にもこの出来事を載せる事は禁じられ、大きな声でこの一件を語ろうものなら処罰される時代が続いたという。気が付けば生き残った者たちは口を閉ざし、世代が変わり、若い世代はそんな事があったなどと知りもしない時代がやってきた。それが、私が今生きる世代だったのだ。
私にも人並みの正義感はある。歴史とは、過去から教訓を得るために記しているものだ。不都合なものとはいえ、それをなかった事にしてしまうという行為には納得いかない。
しかし同時に、私もただの人である。私が声高にこの一件を叫べば、恐らくただではすまないだろう。実際、ここ最近、やたら誰かに見張られている気がしてならない……。
私に出来る事は、いつか平穏に過去の事を語れるほど、過去がある程度風化した時代が訪れ、そしてこの、闇に葬られた事実が明るみに出る日が来る事を祈り、この手記を再びこの学校に隠すという事だ。
――――――――――
ポーリンは手記を最後まで読み終えた後、この手記の持ち主と、手記に書きこんだ二人の人物を探した。そうして、どちらも貴族年鑑からその名前を見つける事が出来た。そして調べれば、確かに最初の持ち主である令嬢の時代ぐらいから、女性の没年の記述が曖昧になり始めていた。今では何かしらの成果を残した女性ぐらいしか没年までは記載されなくなっており、その事実に疑問を抱いたこと等なかったのだ。
ポーリンは確信した。これは真実だと。
……そんな時、手記の是非を判断するために黙々と古い様々な書物を漁っていたポーリンは不運にも目撃してしまった。
図書館の奥深く、殆ど人の来ない区画で、第四王子とオールダム伯爵令嬢が服を脱ぎ棄て絡み合っているのを…………。
何も知らず目撃者になったのならば、まだよかった。けれどその時既に、ポーリンは古い手記を読み込み、過去の様々な書物の違和感を拾い、闇に葬られた歴史を確信していた。
そしてそんな彼女の目の前で、今代の妖精の花嫁は、妖精王を裏切っている。
オールダム伯爵令嬢が妖精王に嫁ぐのは、冬の最中。……アレックスとポーリンが結婚するのは、次の春。
もし次の冬に、なかった事にされた歴史と同じことが起きたならば? その時にまた、妖精王の怒りを鎮めるためにその時に処女である娘たちが捧げられる事になったのならば?
ポーリンは不安にかられ、まず友人等に相談した。
しかし友人たちは、オールダム伯爵令嬢の行動は非常識であるとは納得しつつも、妖精王の怒りの下りはまともに取り合わなかった。仕方のない事だ。今まで学んだ王国の歴史に、そんな事は記されていないのだから。
手記を見せても、こんなの手の込んだ創作だろうと笑われた。
だからポーリンは、学校で教鞭をとる歴史の教師にも話をしに行った。彼もポーリンの友人たちと同じく、手記は創作で、そんな歴史はないと言った。オールダム伯爵令嬢の行為は目に余るものがあるが、王家と教会が黙認しているのなら言える事はないと。話にならないとポーリンは信頼できそうな教師の多くに訴えた。しかし皆、態度は同じだった。そのさなかで偶然出会えた、アレックスでも知っているような歴史学の権威に話をしにいった。
「馬鹿馬鹿しい」
歴史学の権威は、そういい、手記を火の中に放った。ポーリンは慌てて拾ったが、元々古い手記、さらに一部が燃えてしまい、真面に読む事は難しくなってしまった。そんなポーリンに、歴史学の権威は極めて冷たい視線を向けた。
「ありもしない歴史を捏造する……歴史に対する冒涜だ。二度とそんな馬鹿な話を私に聞かせないでくれ」
その権威が何か話したのか、気が付けばポーリンは学校の中で、妙な説を唱える異常者と言われるようになっていた。それまで仲良くしていた者たちも、ポーリンを遠巻きにする。
次第にふさぎ込み始めたポーリンを心配し、ビセット伯爵家の人々は既に嫁いだ姉たちも集まって、ポーリンに事情を聞いた。ポーリンは彼らならばと、図書館で手記を見つけた事、その手記に記されていた消された歴史の話をした。
ビセット伯爵家の人々は、ポーリンの話を信じなかった。信じなかったというより、真面目に受け取らなかった。もうすぐ結婚が迫り、マリッジブルーで少し可笑しくなっていた所に、妙な話を聞いて真に受けてしまったのだろうと考えたのだ。
ポーリンは手記を取り上げられた。手記は捨てられたが、完全にゴミになる前にハンナがなんとか回収した。
そして家族はポーリンに、ただひたすら、結婚は怖くないと語り聞かせたのだ。アレックスとうまくやれると。大丈夫だと。
ポーリンが聞きたい事はそんな事ではなかったのに
「どうして誰も信じてくれないのハンナ、どうして、どうして?」
妙なものに影響を受けたのではない。自分なりに、ちゃんと過去の資料も見たのだ。確かに貴族年鑑についてはあの手記に書かれていた受け売りであったが、古い古い商売の記録や個人の書いた日記など、図書館には様々な分野の様々な書物が集められている。ポーリンはそれを出来うる限りで集め、そして自分なりに、手記の内容が真実だと断じたのだ。
けれど誰も、ポーリンの話を真面に聞いてはくれない。仕方のない面もある、ポーリンは歴史を勉強した専門家でもなんでもなく、まだ十六も迎えていない貴族令嬢だ。可笑しくなったと考えるのが普通だろう。
「私、私いや。妖精王様の事は好きよ、私たちを助けてくださり、守ってくださってるわ。……それでも、私はアレックス様に嫁ぎたいの、あの方と一緒に、家族を作って、生きていきたいの……」
ポーリンはそう泣いて、親の目を盗んでアレックスに会いに行った。そして、請うたのだ。万が一手記の通りの出来事が起きたとしても、自分が妖精王に嫁がないですむようにと。
しかしアレックスは受け入れなかった。
家に帰ったポーリンが何をどう考えたのか、それはハンナにも分からない。けれど次の日、彼女は自死しようと部屋の中でカーテンを輪にして首にかけていた。ハンナがすぐに気付いたものの、ポーリンが無駄に器用だったせいで、あと一歩で本当に死にかねない状態だった。
ビセット伯爵家の人々も流石に、マリッジブルーにしてはひどすぎると思い始めた。
その頃にはもう、ポーリンはハンナ以外には心を閉ざし始めていたという。家族の問いかけにもまともに答えず、部屋に籠り、自死しないように見張る使用人たちにも無反応で、出された食事にも一切手を付けない。それでいて突然我に返ったように泣き出したりする。どこからどう見ても、頭が可笑しくなってしまった人だった。
ビセット伯爵家の人々はそれでもポーリンを愛していて、どうにか彼女を落ち着かせられないかと色々考えていた。とはいえこの時点ではまだ、ポーリンの騒ぎ始めた言説を支持するなんて事は考えてもいなかったが。
しかし……ニコニコと微笑みながら部屋を出てきたポーリンが、アレックスとの自分の婚約を解消するようビセット伯に訴え。さらにその日の内に、ポーリンはハンナにだけ、頼んだのだ。金をもらい、女を抱く仕事をしている男と、誰でもいいから会わせてくれと。
……ポーリンが自死しようとしたのは、元々、彼女はアレックスが受け入れないのであれば、妖精王に嫁がなくてすむように、自死しようとしていたのだろう。けれど家族がそれを望まなかった。ならばと、死なないですむ方法を彼女は考えたのだ。家とアレックスに迷惑のかからぬよう、自分の身分も隠し、身持ちの悪い馬鹿な貴族令嬢のフリをして抱かれれば、処女ではなくなる。そうすれば万が一が起こっても……いいや、ポーリンにとっては近い将来起こる出来事が起きた後、妖精王に捧げられなくてすむ。そうすれば家族の願いは叶えられるのだ。
とはいえ、アレックスを裏切った身で、アレックスと結婚するなど、ポーリンは考えなかった。だからこそ、親の止める間もなく修道院に行くことまで考えたのだ。
それらにかかる費用は自分に与えられた服や宝石を売り払えば足りるだろうと言ったポーリンの言葉を、ハンナはビセット伯と夫人に、そのまま伝えた。
二人は、自分たちの娘がそれほどに思い詰めている事を理解した。けれど彼らはポーリンがどこの馬とも知れぬ男と枕を交わすことも、そして家の迷惑にならぬようにと修道院に行くことも、望まなかった。
それらすべてをなかった事にして、丸く収める方法が一つある。
決断したのは、ビセット夫人であった。
★
アレックスはそっと額に手を当てながらすべての話を聞き終えた。
「…………アレックス様。お願いします」
少し前までの態度からは一転し、ハンナは床に膝をついて頭を下げた。
「貴方にとっては受け入れがたい事でしょう。ポーリンお嬢様に振り回されて、愚かだと思うでしょう。けれど…………けれど私は、私たちはポーリンお嬢様が自死する事も、どこかの男に身をゆだねる事も、修道院に行くことも、受け入れたく等ないのです。どうか、お嬢様と夜を共にしてくださいませんか。今このお屋敷には、お嬢様と、私と、アレックス様しかおりません。お嬢様は、偶然家族が皆出払ったので、その隙に私が口の堅い信用の置ける男を連れてきたと思っています。………………先ほどは、己が感情に身を任せ、貴方を罵り、本当に申し訳ございませんでした。私はどのような罰も受けます。ですからどうか、どうかポーリンお嬢様をお救い下さい……!」
アレックスはしばしの間、言葉を発せなかった。けれど深呼吸を一つして、そっと、額を床にこすりつけながら頭を下げるハンナを見下ろした。
「……ハンナは、ポーリンの言う歴史を信じているんだな」
「…………はい。私は、ポーリンお嬢様を信じておりますし、手記の内容と、お嬢様が調べられた様々な事は、確かに一致しています」
そうか。アレックスは口の中でその言葉を転がした。
暫くの沈黙の後、アレックスは立ち上がった。ハンナは顔を青ざめさせ、アレックスに縋る。
「お願いいたします。貴方にとっては不服でしかないお願いとは、分かっているのです! ですが!」
「落ち着け。ハンナ、ポーリンは今どこに?」
ハンナはゆっくり瞬いた後、静かに北の小部屋だと言った。アレックスは何度かビセット伯爵邸を訪れているが、その場所は知らなかった。
「案内してくれ」
ハンナの顔に、色が戻る。
彼女は立ち上がり、アレックスを案内した。
その背中を追いながら、アレックスは心の中で色々な感情が渦巻くのを感じた。
ポーリンが一人で抱えた、事。正直、焼けて、開くことさえ困難だろう手記を見ても、彼女たちが調べ確信したという王国の歴史については、特に納得もしていないし信じてもいない。
ただポーリンがそれを真実と思い、アレックスを選ぼうとしていた過去は、信じられた。それは幼い頃から彼女を見ていたからだ。婚約者といえど十も離れていて、仕事をしていたアレックスはそこまでの頻度でポーリンに会えた訳ではない。それでもアレックスは、ポーリンの事をよく知っている。彼女が馬鹿馬鹿しい嘘などつかないという事も。
だがそれだけではない。ポーリンに対する多くの感情が、アレックスを動かしていた。騎士として、冷静さを保てと叫ぶ自分が心の中にいるけれど、今アレックスの体を動かしているのは、理性というよりも、ただの感情であった。
「……こちらのお部屋です。……お嬢様、お連れ致しました」
ハンナはそういって、ドアを開いた。
アレックスは室内に足を踏み入れる。
部屋のカーテンは閉め切られていて、まともな明かりもない。それでも今は昼間なので、室内を見る事は容易かった。
ベッドの上、薄いネグリジェを着たポーリンがいた。ポーリンは酷く堅い動きでゆっくりとアレックスの方を振り返り――そして、アレックスを見て、強張らせていた顔が、一転、驚きだけになった。
「ぇ、な、どっ」
ポーリンは言葉にならない言葉を漏らす。その視線が、アレックスの後ろ、ハンナに行った。
「ハンナ!」
いつも彼女の傍にいた侍女は、静かに一礼し、ドアを閉めた。ポーリンの顔が絶望に染まった。
じくりと、アレックスの胸がいら立つように揺れた。
「あ、ぁ、ぁ……ア……」
ポーリンはアレックスの顔を見つめたかと思えば、両手で自分の顔を覆った。
恐らくアレックスの表情を見て、察したのだ。ハンナが全てを……自分が他の男に体を明け渡そうとしていた事も聞いた事を。
「あああああああ!!!!」
ポーリンは大声で叫び、涙を溢れさせながらアレックスから逃げようとしたのか、ベッドの上で後退した。大人二人がゆうに眠れるサイズのベッドの上だったので、彼女がベッドから降りるよりも、アレックスがポーリンを捕まえる方が早かった。
「いや、いやっ、いやああああああ!!!! 見ないで、いやぁぁ……!」
抱き留めたポーリンの体が、あまりに薄くて、アレックスは声には出さず驚いた。アレックスから逃げようとして暴れる彼女の腕を掴めば、まるで骨と皮しかないかのようで。
言葉にならない声を上げてアレックスを拒絶するポーリンを見ている内に、彼の中で、ぼんやりとしていた苛立ちが、一つの怒りになった。
「ポーリン」
婚約者はアレックスに名を呼ばれて、この世の終わりだという顔で固まった。アレックスの声に滲んだ怒りが分からないような娘ではない。明かりのない部屋の中、すぐ目の前にきたポーリンの顔をアレックスは見つめた。彼女は隈の色濃い両目からボロボロと涙をこぼしている。簡単に腕の中に抑え込めてしまえるその小さな体を、アレックスは自分と向い合せにした。逃げられないように、腕や足で彼女を拘束するのは忘れない。
言いたい事は沢山あった。何故婚約を解消しようとしたとか、他の男に抱かれようとした事とか……けれどポーリンに感じていた怒りを言葉にしようとして自分の中で言葉を組み立てようとしている内に、怒りは大きくなった。
――どうして俺を信用しなかった。
そう言いかけて、寸での所で耐える。
言うのは簡単だ。けれど一度言ってしまえば、いくら謝罪の言葉を重ねても、その言葉を告げた事実は消えない。
ポーリンが訳の分からない願いを言い出した時、ちゃんと話を聞こうとしなかったのは、ほかでもないアレックスだ。もしアレックスがポーリンを落ち着かせてただ返すのではなく、理由も問いただしていたら。或いは本人に聞けなくても、ハンナに聞いていれば。もしかしたらポーリンは事情を話してくれていたかもしれない。
全ては過ぎた過去の仮定に過ぎないが、話を聞けていれば、話してくれていれば。そう、怒りの滲んだ声が、次から次へと溢れ出てくる。
それを自分の中でなんとか落ち着かせようとしている間に、ポーリンは泣き止んだ。……この説明では少し語弊がある。ポーリンは、死人のような、或いは目の前に死刑が迫って全てを諦めた囚人のような面持ちになっていた。
アレックスはそっと、ポーリンの背中を撫でる。ポーリンは、まともに反応しなかった。
ただただ、アレックスから死刑を執行されるのを何もせず待っているかのようで……。
「……ポーリン」
やっと絞り出せた婚約者の名前は、先ほどとは違って、相手を気遣うような優しさに溢れたものだった。名前を呼ばれたことに反応してか、ゆっくりとポーリンの視線が上がる。
アレックスはそっと、ポーリンの頬に片手を添えて、その小さな口に、優しく口付けた。
唇を離すと、ポーリンは何が起きたか分かっていないのか、僅かに首をかしげているだけだった。そっと、その体をベッドに倒す。そうして馬乗りになるように彼女を覆えば、アレックスとポーリンの体格差がより感じられて、幼い子供相手にやっているような気がしてきて、複雑な気持ちもあった。
「あれ、くす、さま? なに、を」
自分が散々望んでいた事だというのに、ポーリンはそこでやっと我に返ったように、アレックスを止めたいのか、手を伸ばす。その手を自分の手と重ねて、アレックスは言った。
「君が最初に望んだ事だ。そうだろう、ポーリン」
次に否定の言葉を聞いたら本当に冷静さを失いそうで、アレックスは何かを言おうとして開かれたポーリンの口を再び塞いだ。
★
木の葉が色づき。
★
散り。
★
そして、冬が来た。
オールダム伯爵令嬢が嫁ぐ運命の日、アレックスは騎士団の仕事で、賑わいを見せる王都の警備にあたっていた。妖精王に花嫁が嫁ぐ日だと、人々はみなはしゃいでいた。そんな中で、アレックスは喜ぶ事もしないで、ただ黙って職務を全うしていた。
――そしてそれは、突如訪れた。
昼間にも関わらず、空が一瞬にして闇に包まれる。大地が大きく揺れる。
幸い揺れはすぐに収まったが、空は暗いまま。
何が起きたと人々が叫び、惑う。その最中、まるでアレックスの耳元でささやいたかのような声が響いた。
≪許しがたい裏切りだ≫
恐らく男の声だろう。どうやら声はアレックスだけではなく、他の人々も聞こえているらしい。混乱がひどくなる中、苛立たし気な声がする。
≪我が花嫁は、我を裏切った。我を裏切り、人の男と繋がった。我々は長年お前たち人間との契約を守ってきたにも関わらず、お前たち人間は我らを裏切った!≫
その声の主が妖精王だと、アレックスは気が付いた。
≪許さぬ、許さぬ、許さぬ、二度も契約を違えるなど、人間は、我々を愚弄している!≫
空の闇が晴れた。人々が今の声はなんだったんだと騒ぐ中、アレックスは今すぐ駆けだしたくなった。ポーリンはビセット伯爵家で、きっとハンナと過ごしている筈だ。彼女に会いたかったが、職務を放り出す事は出来ない。アレックスたちは訳の分からぬまま、王都の民たちを宥めた。
本部に帰るも、誰も事情が分からない。婚姻の儀式に付き従った騎士団長や副団長たちが戻ってくるまで、どうしようもなかったが、戻ってくる予定の時刻を過ぎても彼らは帰ってこず、アレックスたちは夕方勤務の者たちに仕事を引き継いで帰路に着く。同僚の言葉を無視して、アレックスはビセット伯爵家に走った。
「ポーリン!」
婚約者は、ボロボロと泣いていた。その体には厚みが戻っていて、彼女の体を暴いたあの日の、骨のような姿から大分回復している事を見ただけでも伝えさせた。
彼女の周りにはハンナだけでなく、ビセット伯爵たちも揃っていた。
「アレックス様……」
泣きながら近づいてきたポーリンを抱きしめる。
「何が起きたのだ」
ビセット伯の言葉に、アレックスは分からないと首を振った。騎士として仕入れた情報は何もない。それは真実だ。
「声は、聴きましたか」
恐る恐る皆が頷く。
「あれは恐らく、妖精王の声だと、思います。…………ポーリンが見つけた手記は、嘘など語っていなかった。真実を言っていたんだ」
★
次の日から王国は未曾有の災害に襲われた。
豊かな穀物地帯は地震や水害が起こり、山は嵐に見舞われ続け、普段雨の降らぬような土地でもずっと雨が降り続いたり、逆に雨が多い地域では晴れが続いて水を多く必要とする作物が枯れ果てたりした。動物の病が流行り、多くの家畜が死んだ。国が荒れれば事件も増える。
騎士団は治安維持のため、休み返上で働くこととなった。
国王がお触れを出したのは闇に空が覆われてから、四日後の事。
妖精の花嫁が他の男と姦通しており、妖精王の怒りを買ってしまった事。
そして、それを鎮めるには過去の事例から考えるに生娘を捧げるしかない事。
国を救うために、国中の生娘を捧げる事。
寝耳に水の話に、反発は凄まじかった。国が荒れているとはいえ、まだ数日の事。はいそうですかどうぞと親しい女性を差し出すほど、まだ国民たちも追い詰められていない。大事な相手を連れていかれてたまるかと、仕事を休んで励んでいるらしい騎士の姿も見られた。アレックスの事を心配する者もいたが、アレックスはポーリンとの話をする気にはなれなかった。こんな事が起こった後だ、もし、事前にその可能性を知っていたとなれば、酷く責められる事だろう。たとえ彼らがかつてポーリンの話を全く信じていなかったとしても。
国中が国王のお触れに怒っていた中、国王が可愛がっていた末王女が妖精王の怒りを鎮めるために捧げられた。大事に大事にされていた王女は、まだ婚約もしていなかった。十一歳であった。
王族で他に、処女の娘はいない。次は高位貴族の令嬢たちになるだろう。
また、第四王子の処刑が済まされたと通達された。他にも、妖精の花嫁と通じた貴族の令息たちもまた、処刑された。災害を引き起こした原因である彼らを、生かす道など残っていなかった。彼らの家族も姦通を知っていた者は連座で処刑されたり、知らなかった者は爵位を取り上げられ平民に落とされるなど、凄まじい勢いで処理されていった。……処理と、言ってしまうような状況であった。
王女の次に誰が捧げられるか?
国王は原因の処刑などの対処を優先し、すぐには高位貴族の家に対して名指しの通達をしなかった。彼らはお互いに足の引っ張り合いをし、国王の耳にどこそこの家に処女の娘がいるとか、或いはどこそこの家は国の一大事にも関わらず娘の処女を失わせたとか、様々な話を耳に入れた。国王の動きは静かで、ゆえに余計に貴族たちは恐れていた。
家族をなんとか妖精王に差し出さないようにしようと考える者もいれば、逆を考える者もいる。嬉々として娘を差し出す事で、国王に良い印象を持ってもらおうと考えた野心を抱いた者たちは、嫌がる娘たちを引きずっていった。そういう娘たちが、王女の次に妖精王に捧げられた。一人、二人…………五人、六人……十二人、十三人……。多くの娘たちが入っていくが、妖精王の怒りは収まらない。関係者の処刑を澄ませ、その首を並べても効果はない。やはり花嫁を差し出すしか方法はないとなった時、一人の令嬢が、供もつけずに王宮を訪れた。
第四王子の婚約者であった、侯爵令嬢だった。
彼女は王女に続くと言い、そして妖精王にその身をささげた。その事は秘密裡に進められた訳だが、人々は身に起こった変化にしっかりと気付いた。なにせ侯爵令嬢が身をささげたすぐ後に、空に虹がかかったのだ。今度はなんだと人々は震えたが、その日の内に新しいお触れが回った。
第四王子の婚約者であった侯爵令嬢は、妖精王のお眼鏡に叶い、彼の花嫁となったと。
そして侯爵令嬢の陳謝を聞き、妖精王は怒りを鎮めて、そして王国と再び契約する事を受け入れたと。
国民たちは率先して身をささげた王女や、幾人かの令嬢たち。そして何よりも花嫁に選ばれた侯爵令嬢の名を叫び、そして彼らに深く深く感謝すると共に、妖精たちの力を思い知り、教会に殺到しては感謝の祈りをささげるようになった。またこの一件を国王は未来永劫伝える事を宣言し、二度とこのような事を起こさないと決意した。
★
冬が明け、春が来た。
妖精の花嫁から始まった国を揺るがす大騒ぎの後遺症は、まだ残っている。妖精王はさらなる怒りを重ねる事はなかったが、それまでに起こした災害は消えなかったからだ。
予定より遥かに縮小された式場で、材料不足から作れなくなってしまったオーダーメイドのウェディングドレスではなく、既製品のウェディングドレスを身にまとったポーリンが、ビセット伯に連れられてアレックスの元に歩いてくる。可哀想だと言う者もいたが、ポーリンの表情は極めて明るいものだった。
アレックスはポーリンの手を取った。
「未来永劫、お互いを愛し合う事を誓いますか?」
「はい、誓います」
二人はそう言葉を重ねて、それからそっと唇を重ねた。祝福の声が式場に満ちる。
そっと唇を離したアレックスは、囁いた。
「……愛しているよポーリン」
「はい、わたくしも、アレックス様を愛しています」
二人はもう一度、唇を重ねた。
……その日の夜、初夜の確認を仰せつかったハンナは、初夜を終えたアレックスとポーリンの元に訪れるなり、瓶を二人に見せた。
疲れて、ぼんやりとした目をしているポーリンを抱えながら、アレックスは謎の液体を抱えるハンナに、怪訝な目を向ける。
「……ハンナ、それは」
「豚の血です」
「まて、まさかそれを布団にかける気か?」
「当然です。それともフレイザー家の皆様に、初夜は既に済んでいるとお伝えしますか?」
「絶対にダメだ」
二人の初夜が式より先だった事は、ビセット伯爵家の人々の限られた人と、アレックスしか知らない。
アレックスとポーリンが同じ墓に入るまで、この秘密は隠し続けると、既に話はついていた。
偽装工作を行うハンナを横目に、アレックスは腕の中でうとうとする年下の妻を見下ろしてそっと微笑み、額に口付けた。
●ポーリン・ビセット
アレックスの十歳年下の婚約者。十五歳。ビセット伯爵家の五女。
初対面の人とはうまく話せない。背が低く、女性らしい成長もあまりしていないので、実年齢より幼く見られがち。見た目に反して思い切りと行動力がある。結果の今回の騒ぎである。
●アレックス・フレイザー
ポーリンの十歳年上の婚約者。二十五歳。フレイザー伯爵家の三男。騎士団入団後、一代限りの騎士爵を得ている。
ごくごく普通の、騎士団に勤める真面目な騎士。実家から継げるものもないしとさっくり騎士を志す。ポーリンの事は長らく、婚約者というより妹的存在として見ていた。
●ハンナ
ポーリン付きの侍女。二十五歳。
ポーリンが幼い頃から彼女の側におり、半ば母親のような、姉のような気持ちでポーリンを支えている。ポーリン第一主義者なので、ポーリンのためになると思えばビセット家の人々にも秘密を抱えたりする困った面がある。アレックスとはポーリンという、共通の庇護する存在がいる事で通じ合っている戦友のようなポジション。天地がひっくり返っても彼と体の関係を持つような事はない。アレックスがポーリンを裏切ったら、物理的に一番恐ろしい。
●フレイザー伯爵夫人
アレックスの母。女の子が欲しかったが綺麗に男児しか産まれなかったため、息子たちの嫁を娘のように可愛がっている。特に婚約関係になった時、まだ幼かったポーリンの事は本物の姪のように可愛がっており、アレックス的にはハンナ並みに怖い。
●ビセット伯爵夫人
ポーリンの母。女性としてかなり小柄で、五人の娘たちも皆小柄に生まれてきた。ビセット家の令嬢たちの体格は完全に母の血筋。
●副団長
騎士団の副団長。凄く含みのある発言をしていた。