1日目 会遇
そこにはかつて、魔女が居た。
小さな小瓶が、煉瓦造りの塀の上にポツリと置いてある。その背景には、岩肌の目立つ山々がその頭に生い茂る森林を乗せて、優しく横たわっていた。
小瓶を通すように、後ろの景色がぼんやりと透けている。
「……変わらない、か」
昨日に置いた小瓶を覗き込んでは、深く息を吐くようにして、少女がそんな言葉を溢した。 いつだって変わらないものなどない。彼女が生まれ育ったこの町も、昔と比べると大層大きくなった。 それは、端を意味するコネットという町の名を、今や変えてしまおうかと町内会議で議論されるほどに。そこに参加する人間に、昔から住む人間がどれだけ含まれているのかを先に議論するべきなのだろうけれど。
ふわりと塀の上へ飛び上がり、すぐ側に面する通りを眺める。そこに見える人々に、彼女の知り合いなどいる訳がなかった。 コネットは、様々な商人や旅人が行き交う内に大きくなっていった場所だ。だからこそ色んな人が住み着いていた。 大成しようと商売に耽る行商人、近くの畑で育てたものを売りにくる農民、プロパガンダを行う右翼派閥の軍人……。
ただどれをとっても、彼女にとっては『他人』に過ぎなかった。
背伸びをして空を見上げると煤竹色の鳥が一機、白い線とエンジン音を残して、山の向こうへ飛び去っていった。
それを見つめながら、少女は思う。 あの飛行機乗りも戦争へ行くのだろうか、と。
「関係ない話だけれど」
今度は小さく言葉を溢して、少女は小瓶を胸のポケットにしまった。
煉瓦造りの塀を降り、真っ白のコートを軽く払って、それが囲む彼女の店へと戻る。 その日の空はいつもより、明るかった。 店の中央に置かれた椅子に堂々と座っては、何でもない哲学本を読み漁る。今回読んでいるのは「自然をどう支配するか」について真面目に論じた本だ。
こういう目に止まったから買っただけの本は、存外につまらないものだ。少女は欠伸をしながら、小瓶を押し除け机に突っ伏していた。 そんな時、店の玄関扉の向こうから、コンコンと優しくノックする音が聞こえてきた。 少女は本を閉じ、小瓶の位置を元に戻しながら音の鳴る方へ入るように伝えた。
「失礼します」
扉の先から中性的な見た目をした軍服の青年が入ってきた。見たところ、胸には空軍少尉のバッジが付いている。 物騒な話でも持ち込んできたのだろうか、随分と緊張した表情で彼は少女の下まで詰め寄った。
「ご用件は?」
無表情のまま、少女が彼に尋ねる。気を紛らわせるかのように周りを一望しつつ、彼は目を泳がせながら答えた。
「魔女進軍、の話をしに」
「失礼、ご用件は徴兵かしら?」
「……はい」
僅かな遅延を残して、反応が返ってくる。少女は欠伸をしそうな自分の口に手で蓋をした。
「魔女進軍、なぜ私に召集が掛かるのかしら」
「それは……貴女が高名な魔女であるから、だと。でここに」
彼は忘れていたと言わんばかりに肩掛けの鞄から召集令状を取り出し、机に置いた。
そこにあるのは、国王からの督促状として名指しされた彼女の名前。
「この国の王様は何でも知っているのね」
皮肉を込めてその一言を残すと、彼女はその場に立ち上がり青年の前へと立った。 アンティーク調漂う店内のガス灯の明かりが、二人を上から照らしている。それは同時に、二人を囲む棚の中の商品もまた艶やかに照らしていた。
「そ、その。何でありましょうか?」
「…いや、君なら変えれるのかと思ったのだけれど」
彼女は胸ポケットから小瓶を取り出し、それを彼に見せた。コルクで蓋がされたその小瓶の中には、特に何も入っていない。
「ええと、魔女様。これは……」
「これは想いの小瓶。握ってみて?」
小さく頷き、彼はその華奢な手から小瓶を受け取る。
「変わった?」
身長が少し足りない分、上目遣いで彼の表情を見つめた。そんな彼女の顔は、例えば劇場公演の主役に抜擢されたとしてもおかしくない程に美しい。つい、彼はじっと見つめ返してしまった。
白いレースに包まれた砂金の粒の様に、清く柔らかな木漏れ日色の髪がさらりと動く。
「どうしたの、私に一目惚れ?」
唐突に図星を突かれたのか、彼はあたふたして顔を背けた。そんな様子を尻目に、少女は彼に渡した小瓶はそのまま、座席の方へと戻る。
白鳥の羽根で出来たペンを握っては、机に置かれた紙へサインを書き始めた。
写本の如く繊細な字が、召集令状の上に記される。ふとその名前が、彼の目に止まった。
「エリー、フェイズ……」
それはどこかで見覚えのある名前。ただその引っ掛かりに良い印象は受けなかった。
「ん、知っているの?」
「あ、いえ。それよりその、白い服だけど魔女、なんですよね?」
話題を逸らすように彼は質問を返す。彼女は特別反応をせずじっと青年の方を見つめていた。
「その、白い服を身に纏って……まるで修道院に居そうな」
「修道女が常に白とは思わないように。それと、黒が魔女のイメージならば、それは払拭するべきものよ」
青年の唇に向けて、人差し指でそっと指す。羽根をケースに戻して、すっとまた彼の前に近寄った。
それも、さっきよりずっと隙間を詰めて。
「例えば__そうね。烏合の中に白い鴉がいるように、自然界には存在しない青いバラがあるように、七色に味わえるお酒があるように。そして」
綺麗な手が青年の顎へと伸びる。そのままその手が強く引く先は魔女の瞳の目の前。彼女の海月色のそれは、天井に吊るされた照明の照り返しを星のように映していた。
ごくりと唾を飲み込んで、彼は表情を強張らせる。
するとその視線が、今度はジロジロと自分の首元に移っていった。
「まるで女子のような、そんな青年がいる様にね」
彼女は軍服の襟を掴み、首元を無理やりこじ開ける。
そうして曝け出されたのは、彼の細い首に刻まれた体罰の跡——それは殴られた跡と噛まれた跡、そして帯状に鬱血し首を絞められたと言わんばかりの跡。
「その体、随分と穢されてるみたい。私には見えているよ」
魔女がそっと指先でその傷痕をなぞると、彼は嫌そうにその手を振り解き、後ろに引き下がった。 服装を正し、平静を装うつもりで深いため息を吐く。
「魔女様には関係ありません」
「軍隊は強い者、長居した者が偉い世界。君のような若く、特に中性的な人間には似つかわしくない場所であることくらい、本当は分かっているでしょう?」
その言葉に彼は、素直に答えることはできなかった。彼はオーク材の床下へと視線を落とし、そうして静かに呟いた。
「……ゴミみたいな世界ですよ。魔女様」
「そこに連れていこうとしている貴方は?」
「同じ掃き溜めのゴミ同士、でしょうかね」
皮肉を自身へ向けるように、或いは開き直るかのように彼は薄ら笑いを浮かべた。
その表情を見て、初めて彼女は表情を変える。
__目を丸くしていた。
「……ねぇ貴方。私の弟子になってみない?」
「えっ」
唐突な提案に、彼は思わず声を上げる。
それに反応するように、彼女が言葉を続けた。
「なにも魔法使いは女に限らないの。男が魔法を使うことが、どうして許されないのかしら?それに」
魔女はゆったりと息を留め、青年の目元を眺める。
「…それに?」
続きの言葉を催促するような相槌に対して、今度はにやりと口角を上げた。
「貴方、まだ純粋無垢で可愛いじゃない。魔女が何者かも知らない、何に使われてるかも知らない、なんて」
背伸びをして顔を上げれば、彼女の口元はその頬にピッタリと引っ付く。彼は頬を真っ赤に染めて、ただじっとことが過ぎるのを待った。 1秒、2秒……どれほど待っても、その感触は消えない。その内ぷるぷると紅茶色の髪が揺れ始める。
おおよそ15秒程。温もりを残して、彼女は口を離した。また椅子に座り直すその表情は、最初の無表情に戻っていた。
「その、令状を回収させていただいて、も……?」
まだ恥ずかしさが残るのか、軍帽を深く沈めて前髪で顔が隠れるように俯く。
少女はご自由に、とだけ伝えた。 そそくさとその場を立ち去るように、彼は令状だけを取り上げて振り返った。
玄関口に差し掛かろうとしたタイミングで、彼女は彼の背中に言い放った。
「また明日、会いましょう」
ピタリと足が止まる。
「それから貴方……私の小瓶どこにやったの?」
彼はハッとして振り返ろうとしたが、それを制するように少女が言葉を続けた。
「いや、いいわ。明日来るって約束だもの。それより名前を聞いてないわね。教えて?」
相変わらずの、冷ややかで湿っぽいトーン。 それに答えなければ、魂を抜かれるような、そんな口調だ。
「…アーテル・クアエル、それが僕の名前です」
「ふむ。じゃあアーテル君」
彼が振り向くと、次の言葉を準備する彼女と視線があった。ふふっと笑って、彼女は残りの言葉を受け渡す。
「また明日」
それは彼がまだ見たことのない、或いは見る機会に恵まれなかった、女性特有の魅力的な表情だった。 勿論、互いにそういう意識はないのだが、それでも天然にその表情を浮かべる彼女に、彼は心臓が縮み上がる程の動揺を感じていた。
軽く会釈をして、駆け足で外へ出る。
その背を眺めて、また魔女は__エリーは無表情に戻った。
初めまして。笹原蛍雪と申します。
この度は読んでくださいましてありがとうございますmm
こちら、内容としてはハイファンタジーと称していますが、一方で実験的に「白魔女エリーの家の周辺だけで物語を進める」というような作りを試したく、作った作品となります。
「密室劇」というものに近いかもしれませんが、部屋だけだとちょっと表現描写に欠けそうなので家周辺にしています。(実験なのでそこはご愛敬下さい)
もし物好きな読者様がいれば、この作品を「設定として用意したものが、場面をいくつか固定化することによりどれだけドラマチックに表現できるのか」という風な視点で読んでいただいても面白いかもしれません。
気ままに投稿していきますので、何卒よろしくお願いいたします。