物語のプリンセスになった妹となれなかった私
幼い頃、読み聞かせてもらったのはいつもお姫様と王子様の物語だった。
素直で、明るくて、分け隔てなく誰にでも優しいお姫様は、どんな境遇にあっても最後には必ず幸せになれる。
妹は目を輝かせてその話を聞いていたが、私はそれをどこか冷めた気持ちで聞いていた。
その時から私は妹とは違ったみたい。
両親の口癖は『誰かが困っていたら助けなさい』『人に優しくありなさい』だった。
もちろん妹はその教えを忠実に守っていたが私は違う。
そもそも家族四人生活。
私以外の三人がそんな生活を送っているならば、誰かがしっかりとしなければ、生きていけない。
鍛冶屋を営む父は、お客さんが困っていると聞けば無償で仕事を引き受けた。
鍛冶屋を手伝う母も、父の行動に苦言を呈することなく、むしろ物乞いに来た子どもたちに食べ物を分け与えていた。
私の家は裕福ではないのに、だ。
妹も、お人好しの両親を心底尊敬し、困っている人に手を差し伸べる優しい子。
そして私は血の繋がりを疑うほど彼らと似ていなかった。
―――――――――
「メルキュール早く起きて!……お母さん!昨日ここにあったパンは?」
私の1日は早い。
寝起きの悪い妹に向かい大声をあげつつ、キッチンに置いてあったはずのパンがなくなっていることに気が付いた。
嫌な予感がする。
慌てて母を呼ぶと「おはよう」と寝室から母親が顔を覗かせた。
年相応に見えない可愛らしいネグリジェを着た母は、あらぁと頬に片手を当てる。
「それ朝食分だったの?昨日近所の子にあげちゃったわ」
「またなの!?」
嫌な予感が的中して頭を抱えたくなる。
ただ、ここで母に文句を言ったところでしょうがないことは経験上分かっているから、話はそこそこに切り上げて倉庫に干してある野菜を取りにキッチンを出た。
強風が吹けば、たちまち壊れそうな小屋を倉庫と呼んでいる。
父の仕事道具と畑で取れた野菜を貯蔵してある場所だ。
長持ちさせるために干してあった玉ねぎを手に、知らず知らずため息が出る。
今日はこれで玉ねぎのスープを作って、今月はベーコンを買う余裕もなかった。
そもそもパンだって久しぶりに買ったというのに……。
怒り、悲しみ、諦め、そのどれにも当てはまらない感情に、私はキュッと下唇を噛む。
(あれ……)
倉庫を出ようとしたとき、視界の隅に見慣れない機械を捉えた。
昨日父から新しい仕事を受けた話は聞いていない。
もう何を言われても驚かないが、また父の悪い癖が出たのかもしれない。
聞くのが怖いなと思いつつ、家に戻るとようやく起きてきた妹のメルキュールが母親に髪を結われていた。
「メルちゃん。今日は何色のリボンがいい?」
「今日はピンク色の気分かな」
「ピンク?……あら?こんな色あったかしら」
「これはエルビスさんに貰ったの」
二人の会話を聞きながら私はキッチンに入る。
エルビスさんはかなり裕福な暮らしをしている。少し厭味ったらしくて自分より下の人間を馬鹿にするところがあるから私は嫌いだ。
ただメルキュールには驚くほど親切にしてくれる。
彼女は人から愛される子だから不思議ではないが。
いつも通り慣れた手つきで玉ねぎを切る。
でもこれだけはいつまでたっても慣れない。
(目が、痛い……)
ツンと目が染みる。
滲む視界のままスライスした玉ねぎを鍋に入れ簡単に味付けをした。あとは蓋をして少し待てば出来るだろう。
涙で滲む目を擦りながら、顔を洗うために洗面台に向かった。
私がスープを作っている間にメルキュールの支度は終わったのだろう。
胸の下まで伸びる美しいブロンズの髪を今日は二つに結び、淡いピンク色のリボンがよく映える。
母とお喋りを楽しんでいるのだろう。
ニコニコと笑みを浮かべる可愛らしい妹はお人形さんのようだ。母と並ぶとこの二人の方が姉妹と思われるかもしれない。
二人からスッと目を逸らし洗面台に向かった私はそのまま顔を洗った。
冷たい水で目を洗うとようやくスッキリする。
顔を上げた私は正面の鏡に映った自分に向かって、妹と同じように微笑んでみた。
顔は一緒のハズ。
だって私たちは双子なんだから。
周りの人が妹を“可愛い”“愛らしい”と思うのなら、私もそう思われているはずだ。
それなのに、鏡に映った私の顔はメルキュールと違う。
同じなのに違う。
原因は、はっきりとしていた。
指先で頬を撫でる。
このそばかすのせい。
「プラティーヌおはよう。鏡を見つめてどうしたんだい?」
「……父さん、おはよう」
恥ずかしいところを見られてしまった。
パッと顔を背け話を変える。
「それより、倉庫に見たことがない機械があったけど」
「あぁ……あれはファクタさんが」
馴染みのある名前に思わず眉間に皺が寄った。
あの人は、いつも高額で父に道具を買わせてくる。
「今回はいくらで買ったの……」
「1000ギルくらいだったと」
「1000!?」
1000もあれば二ヶ月は余裕で暮らせる。
というか、そもそもそんなお金どこに……?
「ど、どうやってそんなお金を」
「また分割で払うことを許可してくれたんだ。それと畑の一部を」
「畑って……!もうこれ以上は売らないと約束したばかりなのに」
「今月はファクタさんも売り上げが少なくて生活が大変なんだ。困っている人を前にして断れないだろう?」
またそれだ。
「……そもそもファクタさんは本当に困っているの?あの人は恰幅も良いし、いつも良い物を身に着けて」
「プラティーヌ!」
そんなの絶対嘘だ。
人が良い父は騙されている。
口をついた本音を聞いて、父は咎めるように私の名を呼んだ。
何で私が怒られなきゃいけないの。
怒りたいのはこっちだというのに。
噛み締めた歯がギリっと音を立てる。
絶対私の方が正しいのに。
そう思っているのに、顔を見ていられなくなって私は父から目を逸らす。
父は俯いた私を諭すように口を開いた。
「どうしてお前はそうやって人を疑うんだ。二人を見てごらん。いつも穏やかで誰に対しても優しさを持って接する。人の悪口を軽々しく言うのは悪い子のすることだぞ」
悪い子。
私が?
俯いた私の視界に入る薄汚れたワンピース。
畑仕事と毎日の家事で荒れた指先は、滲んだ血が固まって赤らんでいた。
頼まれれば断れないし、困っている人に施しをする。
それが私の家が町一番のお金持ちだったらいいだろう。
でも、そうじゃない。
貧乏で、食べる物もままならない。
だから服だって新品を買ったことなど一度もなかった。
それなのにメルキュールは新しいリボンに似合う上質なワンピースを。
母親だって上品な水色のワンピースを着ている。
父の作業着は、仕事の汚れもあるがしっかりとした生地をしていた。
私たち家族の着ている物は全て貰い物。
だから、私が古くて粗末な物を着ている理由も分かるだろう。
「……るさい」
「プラティーヌ?」
「うるさいっ。いい加減にして。父さんの言うことは正しいかもしれない。でも、それで困っているのは私たち家族なんだよ」
いつもだったら、口先だけでも謝っているのに。
朝から色々重なって溜まっていた物が溢れた。
一気にそこまで言い切って父親の横をすり抜ける。
一度キッチンに入って鍋の火を消した。
リビングではまだ母と妹が談笑を繰り広げている。
「プラティーヌ!待ちなさい!話はまだ……」
「お父さん?」
「どうかしたの?」
追いかけてきた父が珍しく声を荒げているから、母と妹が何事かと私と父の顔を見比べる。
その視線が怖くて家を飛び出した。
倉庫の影に身を隠して様子を窺う。
一度外に出てきた父親だったが、私の姿を見失ったからかすぐに家に戻っていった。
扉が完全にしまったことを確認して、そっと家に近づくと中から会話が聞こえる。
「一体何があったの?」
「はぁ……プラティーヌは私たちの考えを理解できないのだろうか」
「私はちゃんと理解しているわ。私たちは困っている人の味方。皆が平和で幸せに暮らせるのが一番良い事だもん」
「偉いわ。メルは本当に良い子ね」
「あぁ。お前はちゃんと幸せになれる」
まだ会話は続いていたが、これ以上聞いていられなくなって静かに家を離れた。
畑を抜けてしばらく歩くと、街の喧騒が聞こえてきた。
小さな町だが、ここはいつも賑やかで活気がある。
ただ私はこの雰囲気が好きじゃない。
自分に注がれるたくさんの好奇・同情・見下されている目線にうんざりとするから。
あなたたちの考えていることなんてお見通し。
こそこそと私を見て小声で話す噂好きのマダムの言っていることなんて、聞かなくても分かる。街の人は口を揃えてこう言うんだ。
【天使のようなメルキュールのいらない部分が集まって、プラティーヌが生まれた】
可愛くて優しくて誰からも愛される妹は、私と同じ境遇なのにいつも綺麗で最先端の服を着ている。
一方、口が悪く人を疑い自分たちの暮らしが大切な私は、妹と同じ顔にそばかすを携え時代遅れの汚れた服を着ている。それか母か妹が着飽きた古い洋服。
クスクスと笑い声が聞こえてきた方へ顔を向けると、さっきのマダムと目が合った。
向こうはきまり悪そうに目を逸らすが、私はフンと鼻を鳴らす。
私だって、あなたたちのこと好きじゃないんだから。
どうぞご自由に。
気にしていない。
半分自分にそう言い聞かせるようにして、私はその場を足早に通り過ぎた。
―――――――――――――
私の目的地はここを通り過ぎた町の広場の向こう側。
この国の何倍も大きい隣国との境にある深い森だ。
鬱蒼として昼間でも薄暗いこの森には誰も近づかない。
一人になるにはうってつけの場所。
黙々とただ足を進め広場にさしかかったとき、わっ!という歓声が広がった。
自分の足元だけ見ながら歩いていた私は、広場を取り囲むように人が集まっているのに気が付かなかった。
今日は祭りの日じゃない。
こんなに人が集まる理由が思い当たらず呆気に取られていると、また歓声があがる。
集まっている大人たちの大きな壁が出来ていて、広場で何が行われているか分からない。
背伸びをするが私の身長では到底無理がある。
かといってこの人込みをかき分けていくのは少し面倒だ。
いったい何が行われているのか気になるが、ここは遠回りをして広場を迂回するほかないだろう。
気にかかりながらも人だかりに沿って迂回していると、突然甲高い肌を打つ音が聞こえた。
それは思わずビクッと体がすくむほど。
どしんと重たい気持ちになり嫌な汗が流れる。
これはもしかして。いや、もしかしなくても……
再びビシッと嫌な音が聞こえて肩が上がる。
ギュッと目を閉じて口から大きく息を吐いた。
どくん、どくん、と脈を打つ音が自分の耳にまで届く。
薄く目を開けた私は少し進んだ先に、少しだけ人だかりが薄い部分を見つけその隙間から広場を窺った。
遠目だからはっきりとは見えないが、それでもここで何が行われているかすぐに分かる。
『奴隷ショー』
その存在は知っていた。
ただ私の暮らすこの小さな町ではそれも噂に過ぎなかったのに……。
隣町はこの国で一番大きな町なのだが、そこに一度だけこのショーが巡回してきた。
このショーを見に行った人たちは戻ってきた途端、皆興奮したようにその話をしていた。
元々娯楽の少ない町だ。
刺激的な話などあっという間に広がり、私たちのような子どもの耳にも入る。
大柄の男が手に持つ黒光りした鞭が、今まさに再び地面に這いつくばる人に振り下ろされた。その近くに数個のボールが散らばっているところを見ると、きっと失敗したのだろう。
大道芸やサーカスみたいなことをすると噂で聞いていた。
うっと吐き気が込み上げてすぐに顔を引っ込める。
両手で耳を塞ぎ人だかりから離れようとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
「プラティーヌ、ここにいたのね!」
「っ、……な、んでこんなところに」
ふんわりとしたドレス。
ピンクのリボンで可愛く結った髪。
陽の光の下で見るとさらに可愛らしく見える私の妹。
「まさか、あなたこれを見に……」
「今日は凄く賑やかね。何をやっているのかしら。私は家を出ていった姉を心配して探しに来たのよ?」
メルキュールがふんわりと笑みを浮かべ私の手を取った。
優しい妹がまさか奴隷ショーを見に来たのかもしれない。なんて杞憂だったみたい。
それもそうか。
どこか安心した私は一刻も早くこの場から離れようと、触れてきた手を握りしめて引っ張った。
「プラティーヌ?そんな急いでどこに……っ!、これ何の音?」
「っ、これは」
私に引っ張られるまま歩き出したメルキュールだったが、再び聞こえた肌を打つ音と、人々の歓声に足を止める。
何て言ったらいいか分からなくて、一瞬口籠ってしまうとメルキュールは私の手から自分の手を抜き去って、人だかりの後ろにいた人に突然声をかけた。
「あのぉ。すいません、今ここで何をやっているんですか?」
「あ?……おっ、これはまた可愛いお嬢ちゃんじゃないか。気になるのかい?」
声をかけられた男は不機嫌そうに振り返ったが、メルキュールの顔を見てすぐに顔を綻ばせた。
「えぇ。この町にこんなに人が集まることが珍しくて」
「あぁ、これは奴隷ショーっていってな。俺は隣町で初めて見たときからこの興奮を忘れられなくてよ。今回この町に来るっていうから、わざわざここまで来たわけさ」
「ど、奴隷?」
「ガハハッ。嬢ちゃんには縁がねぇか。けどよ、サーカスって知っているだろ?あれを人間でやっているだけだ。出来なきゃ罰を与えられる。まっ、当然のことだろ」
何が、当然だ。
自分のしていることを正当化したいだけじゃないか。
気持ち悪くてまた吐き気が込み上げてきた。
私ですらこうなんだから、優しいメルキュールはさぞかし辛いだろう。
早くこの場から離れないと。
男の話を聞いて立ちすくむ妹の手を再びとって今度は力いっぱい引っ張った。
「わっ、……あ、おじさん教えてくれてありがとう!」
「おっと、使用人もいたのかい。お嬢ちゃんはパパとママに許可を貰ってから見に来な」
使用人。
一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、すぐに「あぁ私のことか」と気づく。
それもそうか。
私たち二人の顔をハッキリと見たわけじゃないのなら、見た目だけでそう判断されてもおかしくない。
慣れっこになりすぎて、反論する気もない私はそのままメルキュールを連れて広場から離れた。
「は、っ、はぁ、はぁ……」
広場の音が聞こえてこない場所まで走った私は乱れた息を整えるのに精一杯。
メルキュールも同じく息を切らしていて、ようやく私は彼女の手を離した。
「だ、大丈夫?」
「もう、プラティーヌったら、走るの早いわ」
いや、体のこともそうだけど、私はさっきの広場での話のことを聞いたつもりだった。
話が通じていないが、まぁどっちでもいいか。
適当に頷いていると、息を整えたメルキュールは家と反対方向へ歩き出した。
「メル?どこへ行くの?」
「ちょっと、エルビスさんのお家」
何か約束でもしていたのだろうか。あの人は妹をかなり気に入っている。また新しいドレスでもくれるのかもしれない。
「そう、気を付けてね」
「プラティーヌはここで少し待っていて。すぐに戻るわ」
「は!?」
ますます意味が分からない。
もらったものを自慢するなら家に帰ってすればいいのに、わざわざ私がここで待つ理由とは何なのだろうか。
聞き返そうとするが、メルキュールは私の返事も聞かずにさっさと歩いて行ってしまった。
今日は晴れていて空気もさわやかだ。
待つのは別にいいんだけど……、というか私さっき家を飛び出したんだっけ。
広場であまりにも強い衝撃をうけたせいですっかり頭から抜け落ちていた。
メルキュールもいつも通りだったし、もうこのまま忘れた方がいいかもしれない。
今日はたまたま今までの鬱憤が溜まりに溜まって溢れただけで、そもそもまだ一人で生きていけない私はあの家に帰るしかないんだし。
それに、こんなに人に尽くしているんだ。
もしかしたら本当に王子様がやってくるかもしれない。
そんな馬鹿げたことをぼーっと考えていると、メルキュールが戻ってきた。
「お待たせ。さっ、行こうか」
「え、どこに?」
「決まっているじゃない。さっきの広場よ」
何がどう決まっているのか、見当がつかない私を今度はメルキュールが引っ張る。
私はあんな場所頼まれたって近づきたくないのに、拒もうとしても「大丈夫、大丈夫」と何も分からないまま、再びあの喧噪に近づいていった。
ちょうどショーは終わったのだろうか。
まばらに残った観客たちの中央で、ショーに出ていた人が地面に座り込んでいた。
「あぁ良かった。間に合った」
「だ、だから何を……」
メルキュールは私の手をパッと離すと、「すいませーん!」と声をあげながら近づいていく。
「えっ!ちょ、ちょっと…!」
一瞬出遅れた私も慌てて後を追うが、目の前の彼女は顔をキラキラと輝かせながら、訝しげに見てくる人たちにこう告げた。
「奴隷を解放して下さい!」
一瞬、静寂が訪れたあと、観客たちの下品な笑い声が響く。
ひゅっと私の喉が引きつった音を立てたが、すぐに我に返って嘲笑の中心にいるメルキュールに掴みかかる。
「あんた、何言って!」
怒られていると分かっているのだろうか。
メルキュールはきょとんとした顔で私を見ると、その可憐で美しい顔を少しだけ歪めてこう言った。
「だって、可哀想じゃない」
「か、わいそう……?」
「そうよ。奴隷なんて可哀想だわ。それにこんなにボロボロになって、見世物にされるのも可哀想」
この子はなにを言っているのだろうか。
呆れ果てて言いたい言葉は喉元まで上がってくるが口から出てこない。
遠くまで通るメルキュールの声にショーを主催する男が近づいてきた。
「面白いお嬢さんだ。世間知らずの、な。この奴隷たちはみんな私の所有物なんだよ。欲しいというのなら金が必要だ。そうだな。一人10000ギル。こんな汚い奴隷にそれくらい払えるなら、話を聞いてあげよう」
頭が痛くなる数字。
そもそも買わせる気もない値段設定に観客たちも再び笑い声をあげる。
「ほら、早く帰ろう」
世間知らずの子が来たのだと馬鹿にされているだけで済んでいるうちに、この場を離れようと妹に声をかけると、彼女は主催の男の顔を見ながら「それなら……」と口を開く。
「それなら、一人ください」
「は?」
聞き間違いか?と顔を見合わせる男たちの前で私は自分の血管が切れたような音を聞いた。
「馬鹿!!何言ってるの!?私たちのどこにそんな……」
そこで、ハタと口を閉じる。
いや、まてよ。
そういえばこの子……。
ゾクゾクと体中に悪寒が走った。
「ちょうど10000ギルあるわ。そうね、そこの一番傷ついている人を頂戴」
足に力が入らなくなって、ストンとその場にお尻をついてしまう。
地面に座り込んでしまった私の視線の先にメルキュールが指をさした人がいた。
長く伸び切った前髪の隙間から覗く目。
惹きつけられるようにバチっと合った瞳は、深い湖のような濃い青色で何故か強い意志のような物を感じた。それが何の感情までかは分からないが、他の人と違い確実に目の力が強い。
おそらく男性だろう。
彼はメルキュールの言う通り、確かに一番傷つき、服もボロボロの布をまとっただけだった。
「おいおい、冗談だろ?」
「……まずはお金が先だ」
「はい。ちゃんと確認してね」
これが、本当に自分のお金なら私が文句を言う筋合いはない。
けど違う。
「……確かにちゃんと入っているな」
「そうよ。それじゃあの人は貰っていくわ」
話は終わったとばかりにメルキュールは踵を返すと、私と彼の間に立って両方に手を差し伸べる。
「さっ、帰りましょう」
男はまだ私を見つめたまま、一向に自分から動こうとしない。
私は腰が抜けてしまっているが、差し出された手をパンッと払いのけた。
「本当……馬鹿でしょ。いい加減にしてよ。そのお金だってどうやって用意したのか聞くのも怖い。こんな、奴隷に、……情けをかけるほど私たちは裕福じゃないでしょ。奴隷に構っている暇なんてないじゃないっ」
「もうそんな酷い事を言わないで。プラティーヌは本当に心配性ね。私たちの生活なんてどうにでもなるでしょ。目の前で困っている人がいるなら助けないと」
へたり込んだままの私の頬を涙が伝う。
「やめてっ!!……もうその言葉聞きたくない。誰が一番困っていると思っているの?着る服のことも、食べ物のことも、明日の生活のことだって、誰も何も考えていないじゃない。私ばっかりいつも考えて、悩んで、苦しい思いをしているのに、なんで気づいてくれないの」
ここまではっきりと自分の気持ちを言ったことはなかった。
今度こそ私の気持ちを分かってくれただろうか。
手の甲で涙を拭いながら見上げると、妹は憐れむように私に優しく微笑みかける。
あっ、分かってくれ……
「やだ、プラティーヌそんな難しいこと考えていたの?大丈夫よ、優しい心と勇敢な気持ち、誰かの為に生きることを忘れなきゃ幸せになれるのだから」
「ね?だから家に帰りましょ」そう言って微笑む妹の顔は確かに美しかった。
優しい妹を天使と例える人がいる。
いや、天使じゃない。神様だ。……私の目には、笑みを携えた死神に映る。
「……分かった」
分かった。
どんなに言葉を尽くしても私の意見が通じないことが今ハッキリと分かった。
ボソッとそう返事をしている間に、主催の男は残りの奴隷を追い立てるようにして、荷物の準備を始めた。
彼のことは一瞥しただけに留めているということは、本当に金で売ったのだろう。
メルキュールに手を取られ、立ち上がった彼は私より20㎝ほど身長が高かった。
満足気に歩き出したメルキュールの後をとぼとぼとついていく。
ふと私は振り返って未だ立ち尽くしている彼に声をかけた。
「……“こんな奴隷“なんて酷いことを言ってごめんなさい。ただ、私たちの家は裕福じゃないから、良い暮らしは出来ないだろうけど。それでも良かったらついてきて」
彼は返事をせずただ黙って私を見つめる。
何の感情も感じないが、言葉が通じていることを祈って私はメルキュールの後に続いた。
私の家に来るなら、このまま逃げて別の誰かに拾われたほうが幸せなのかもしれない。
妹の影を踏むようにして歩いていると、後ろからザリと砂を踏む音が聞こえた。
チラッと振り返れば彼がゆっくりとついてきている。
それならそれでいい。
確かに妹の言うとおりだ。
明日のことは明日考えよう。
もやもやと不安な気持ちが胸の中に渦巻くが、それを押し込めて私は考えることをやめた。
両親は、突然奴隷を連れて帰ったことを驚いたが、話を聞くとメルキュールを褒めだした。
畑全てと父の仕事の権利を渡してもらったお金だと知った上でもだ。
「お前は本当に優しくて美しい心を持っている。父さんはそれが誇らしい。仕事なんて他にいくらでもあるからな」
「母さんもとても嬉しいわ。奴隷の子もきっと幸せよ」
両親からの賞賛の声に妹は嬉しそうに微笑む。
ここだけ見れば、ニコニコと美しく平和で明るい家族の姿だろう。
奴隷を助けるなんて当たり前に出来ることじゃない。
“優しい”ことをしたと分かっているけど、私には彼らが恐ろしい化け物にみえてならなかった。
――――――――――――
妹の言う通り。
仕事もなく、畑もなくなった私たち一家だが、あれから数日たった今日もちゃんと生きている。
妹はもちろんだが、少女のような母もお人好しな父も、どこかに呼ばれては食事をしてきたり物を貰ったりしていた。
私はといえば、森に入り食べられそうな野草を見つけてはスープを作って食べている。
新しく家族に迎えた彼と一緒に。
いざ、助けたら気が済んだのか、妹は彼の面倒を見ようとはしなかった。
彼女曰く「奴隷さんは今まで大変だったのだから、何もしないでゆっくり休んでいればいい」らしい。
両親も彼の姿をちゃんと見ているのか、いないのか。
誰にも話しかけられずただそこにいるだけ。
そんな彼は彼で、何を考えているのか一日中難しい顔をしていた。
呼吸の音すら静かでたまに生きているのか心配になる。
見かねた私は彼を森へ誘った。
「この時期は森の中の湖で体を洗うといいよ。メルたちはどこかでお風呂に入っているだろうけど、私たちは多分呼ばれないからね。綺麗にしたほうが気持ちもいいし」
誰に見られるわけでもないし、ボロを着ているけど、最低限綺麗にしておきたい。
これは私の小さな意地の一つ。
彼と生活をするのは思っていたより楽だった。
最初のうちは返事をすることもなく声も聞いたことなかったが、しばらくして小さく頷いていることにふと気が付く。
まぁ、奴隷、になるくらいだ。
きっと色々大変だったのだろう。少しずつでも心を開いてくれているなら良かった。
そういえば友達もいないし、家ではメルがずっと両親と話しているせいか、誰かに自分の話を聞いてもらえることは初めてだった。
大きな独り言を言うように私は彼と出かけている間、たくさんのことを話した。
結局あの日は私だけ水浴びをして、彼は水に入るのが怖いのか湖に入ろうとせず、未だに薄汚れたまま。
本人が良いのなら、私も無理強いするつもりはない。
町の人は汚い私たちを見て、あからさまに嫌な態度をとってきたが、二人になった途端なぜか周囲の言葉や視線が気にならなくなった。
何度か森へ行った後、食べられる物と食べられない物の区別のつけ方も教えた。
ちょっとした悪戯心で食べられなくはないけど、美味しくない木の実をあげてみると、彼は口に含んだ瞬間吐き出してせきこむ。
ぎょっとして、戸惑っているその様子が何だか面白くて笑ってしまった。
悪戯だったと分かったのか、彼が初めて見せる少しむくれた顔に胸の辺りに熱が灯ったように感じる。
そんな彼を前にして私も同じようにそれを頬張った。
ガリっと噛んだ瞬間、渋いようなでも甘いような、なんとも口で表せない味に、ベッと吐き出して眉間に皺を寄せていると、彼は突然顔を背け口元に手を持っていき肩を震わせる。
「ね、ねぇっ!……笑っているの?」
「っ。……」
息を漏らす音が聞こえる。
これは絶対に笑っているはずなのに、恥ずかしいのか彼は顔を上げてくれない。
ただ上下する肩の動きを見ているとつられて私も可笑しくなってきた。
「そんな、フフッ……変な顔してた?……っ、フッ、アハハッ」
耐えきれなくて大きな声を上げて笑ってしまう。
そういえばこれも初めての経験だった。
――――――――――――
それはある日突然訪れた。
近頃フラッと彼は家を出て行く。ちゃんと暗くなる前に帰ってくるが、会話はしない為どこで何をしているのかは分からない。
この日も朝から彼の姿は見えなくて、珍しく両親も妹も家に揃っていた。
突如聞こえてきた騒がしい音は徐々に近づいてきて、私の家の前でピタと止まる。
「あなたがメルキュール様ですね。噂通り大変可愛らしい方だ」
ボロボロの家にそぐわない大きな馬車。
この辺りでは見かけない上質な服を着た男が、扉を開けてメルキュールを見た途端そう言った。
「あなたたちは誰?」
「私たちは、第四王子の使いで参りました。先日この国で行われた野蛮なショーでのあなたの対応に心を打たれた王子が私を遣わせたのです。さぁ宮殿へ向かいましょう」
王子。
宮殿。
迎えに来た使いの者。
どこかで聞いたことがある言葉の羅列とこの場の光景が、ただ頭の中を通り過ぎる。
両親は「まぁ」と口を手で押さえ目元を潤ませた。
妹も「ほ、本当に王子様が?」と嬉しそうにしている。
「さしあたってご家族の方もご一緒に……」
両親にそう告げた王子の使いは、視線をこちらに向けて少しだけ眉をひそめた。
「先日の一件。メルキュール様と違い、あなたは奴隷を助けようとしませんでしたね。町の方からも色々とお話は聞いております。申し訳ないですが、宮殿へはメルキュール様とご両親を、と言われておりますので」
申し訳ない。と言いつつ、まったくそんな風に思っていないような顔で使いの男はそう言った。
うすうす、そんな気はしていたから、そこまで悲しくない。
(あぁ。そうか。メルキュールは物語のプリンセスだったんだ)
さしずめ、意地悪な継母や悪い魔女の役が姉である私だったのだろう。
何の抵抗も返事もしない私を一瞥して、使いの男は家族を連れて出ていく。
よほど喜んでいるのだろう。
面白いことに。
“優しい”両親も妹も、私のことを忘れたかのように一度も目が合うことはなかった。
嵐のように、訪れた王子の使いの者たちはあっという間に家族を連れて家を離れていく。
馬車の音も聞こえなくなり部屋に静寂が広がった。
家族に恐怖すら感じていた。
それなのに、やっぱり……置いていかれるのは寂しい。
ペタンと床に座り込む。
他人に向けられる“優しさ”のほんの少しでいいから。
「私にも……優しくして、欲しかったなぁ、っ」
何気なく呟いた言葉。
そう声に出した後、ヒックと自分のしゃくりあげる声が響く。
つい癖で唇を強く噛み締めるが、そうか、と思い直して体の力を解いた。
誰もいなくなった部屋ではそれを我慢する必要などない。
幼子に戻ったように泣き続けている私の耳に、呼ばれるはずのない名が聞こえた。
「プラティーヌ」
家の外から誰かが私を呼ぶ声がする。
幻聴ね。
目元をごしごし擦ってそう思っていると、もう一度今度ははっきりとその声が聞こえた。
「プラティーヌ、この扉を開けてもいいか?」
「グスッ……っ。だ、誰……」
鼻を啜りながら立ち上がる。
この街で私の名を呼ぶ人などいただろうか。
扉を少しだけ開けると、そこには美しい顔に似合わない格好をした男が立っていた。
けど、この格好を私は知っている。
「迎えに来た。これから先、俺と共に生きてほしい」
ビリビリと鼓膜が震えるような低音。
それでいて、言い方はとても優しい。
彼が言葉を発するたびに、体の表面が泡立つかのように、期待と不安で気持ちが急いだ。
「ど、どういうこと?なんで……あなた、いったい何者なの?」
「俺?……俺は君が知っている通り、奴隷で、君の家族になった男だ。そしてベルリアン王国の王子でもある」
「そういえば、不味いものを食べさせられたこともあったな」彼は揶揄うようにそう言うと、思い出したのかクックッ、と肩を震わす。
その笑い方はやっぱり見覚えがあって。
色々聞きたいことがあるのに口を開いたら「なんで」「どうして」と疑問しか出てこない。
それにベルリアン王国って言ったら……。
想像して身震いした。
だってそれはあの森の向こう側。
この周辺で一番の大国と言われるベルリアン王国。
「あ、頭がついていかない……」
「あとでゆっくりと説明するから、とりあえずおいで」
腰に手を回されて体を寄せられた。
至近距離で見るには美しすぎる顔に、そんな気もなかったはずなのに顔が熱くなる。
頬に赤みも差したのだろう。
彼は私の顔を覗き込み口角を上げた。
「ふっ。その顔……ようやく俺を男だと認識したか。最初一緒に湖で水浴びを勧められたときは参ったよ」
「だ、だってあれはっ」
確かによく考えたら年頃の男女が一緒にすることではない。
というか……あれ。あのとき湖に入ったのは……。
あれこれ思い出して、目を見開くと彼はまたクックッと笑った。
「大丈夫だ。見ていない」
「っ~~」
いや、それは本当に大丈夫なのか?
見ていないってことは、見ちゃいけないものだと思われていたわけで、それはつまり、その。
彼は目を白黒させる私の頬に手を添える。
ひんやりとした冷たい手に火照った頬の熱が吸い取られていくみたいだ。
「ようやくこうして触れ合える。君に、ねぇ。とか、ちょっと。と呼ばれていたけど、本当は名前を呼んで欲しかった」
「そ、れなら。喋ってくれればよかったのに。あなたは私が話しかけてもたまに小さく頷くだけだったから」
「それにも理由があるんだ。……とりあえず、もう一度きちんとやり直させてくれ。初めまして、俺はアウルムだ」
「アウルム……」
聞いた名を口にすると、彼は優しく「ん?」と首を傾げた。
それだけできゅぅっと心臓が縮まる。
ドキドキして、まるで自分が恋をする女の子のように……。
そんな幸せそうな自分の姿を想像して、ハッとした。
一気に気持ちが落ち込んで顔が陰る。
「どうした?」
「でも、なんで。……あなたを助けたのはメルキュールよ。私じゃない。私は自分の生活が大事であなたたちを見て見ぬふりした。優しいのは両親と妹だけなの。そばかすだらけで、気が強くて、誰にも愛されない、メルキュールのいらない部分で作られた……」
自虐の言葉など延々と出てくる。
それなのに、スッと真顔になったアウルムに声が詰まった。
なんで急に不機嫌になったのだろう。
怒らせるようなことを言った覚えはない。
アウルムは何も言わないが、射竦めるようなその瞳が咎められている気分にさせる。
「プラティーヌ。よく聞きなさい」
ようやく口を開いた彼は私の額をピシッと弾いた。
「痛いっ」
「まわりの環境が君をそうさせたのは分かっている。だから、今日はこれくらいにしておこう」
軽く弾かれた額の痛みは一瞬で消え去った。
含みのある言い方に「もしかして、私も鞭で打たれるの……?」と問うと、アウルムは驚いたように目を見開き慌てて首を横に振る。
「俺が君にそんなことするわけないじゃないか。そもそも、俺は君が傷つけられるのが嫌なんだ。もちろんそれは君自身にも、だよ」
「え、っと」
どういう意味だろう。
私は自分自身を傷つけた覚えはないし、そもそも額を弾いたのは彼なのに。
疑問が表情に出ていたのだろう。
アウルムはかみ砕くようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いい?君が自分を貶める発言をする。そうすると自分で自分のことを傷つけているのと同じことなんだ。プラティーヌにとって“誰からも愛されない”や、さっき自分が言っていた言葉は言われて嬉しいか?誉め言葉なのか?」
そこまで言われて、ようやくアウルムが何を言いたいのか分かってきた。
首をゆっくり横に振るとアウルムはうんと頷く。
「そうだろう?言われて嫌なことは言わなくていい。君は愛されるべき人間で、とても優しい良い子なんだ。しっかり者で時々悪戯っ子になって、俺にはずっと可愛く見えていたよ」
ジワジワと体が熱くなる。
自分は、そんなことを言ってもらえるような人間ではないと思っているのに、彼の声は私の体を侵食し、いつしか凝り固まっていた心まで包み込んでしまった。
「そんなこと……」
ない。とハッキリ言いきれなくなって、どうしたらいいか分からなくなる。
だって、今まで自分はそういう人間だと思っていたのに……。
でもそこで黙ってしまう私を見てアウルムが優しく頭を撫でてくれた。
「うん。それでいい。君はこれから、たくさん愛されて、幸せになるんだ」
「私を……愛してくれるの?」
「もちろん。だから迎えに来た」
力強く即答してくれるのが嬉しいやら気恥ずかしいやら。
私は意地悪な継母でも魔女でもなく、物語のプリンセスになれるのかしら。
『迎えに来た』
そう言う王子様と家の前には小さな馬車が一台。
顔を見ていられなくなってアウルムの胸に顔を埋める。
どくんどくんと聞こえる心臓の音は自分だと思っていたけど、なんだかアウルムのような気もしてきて、ギュッとその体に抱き着いてしまった。
「愛しているよ」
「……、それじゃなくて」
だから、少しだけ欲が出た。
何度目かのその言葉を遮って、顔を近づけてきた彼の耳元へ背伸びをして口を寄せる。
ごにょごにょと、呟くとアウルムは明るい笑い声をあげた。
「もちろん好きに決まっている。……好きだよ。プラティーヌ」
自分で頼んだくせに実際言われると照れ臭くてたまらない。
他人のことを思いやれない私は幸せになれないと思っていたけど、こんな私を好きだと、愛してくれる人がいる。
知らない事ばかりでこの先のことはまだ不安だらけだけど、この人と一緒なら本当に幸せになれるそんな気がした。
――――――――――
(それも嬉しい、けど、ただ……す、好き、って言って、よ?)
耳元で告げられた言葉に全身の血が湧き立ったように感じる。
なんて可愛い。
笑って何とか冷静さを取り戻した俺が「好きだよ」と言うと、プラティーヌは耳まで真っ赤に染めた。
自分で言って、といったのにその言葉で照れてしまうプラティーヌ。
あぁ。今すぐキスをしたい。
それに……。とんでもない本音が飛び出しそうになって、慌てて自分を戒めた。
ここで驚かせたり、嫌われたりしては、元も子もない。
そもそも、大国の王子がこんな小さな国で奴隷になっているなんて、他の兄弟たちが知ったら何と言われるか。
第一王子には「馬鹿だろ」と言われそうだが、第三王子は転げまわって笑いそうだ。他の兄弟たちの反応も気になるが、それより理由を知らない母なんて卒倒してしまうかもしれない。あの人は妃の中でも特に気が弱いから。
彼女に伝える前に、どこをかいつまんで話そうかいったん整理をしなくては。
一から百まで教えるとなると丸一日話したところで終わらない気がする。
プラティーヌを馬車に乗せてしばらく進むと、この一定間隔で揺れる車内に眠気を誘われたのか彼女は寝息を立て始めた。
本当はもっと良い馬車を用意したかったのだが、森で取った食べ物を売ったお金じゃこれが精一杯。そもそも彼女の知識があったおかげで俺はこうして宮殿に帰ることが出来る。
文句の一つも言わないプラティーヌの顔を見つめながら俺は1ヶ月前のことを思い出した。
―――――――――――――
「お前たち、呼ばれた理由は分かるな?」
王の謁見室にわざわざ集められたのは俺を含む5人の王子。
みんな、見事なまでに母親が違う。
それもそうだろう。
この大国で世継ぎ問題になんて起こればそれこそ大変だ。
歴代、この国の王たちは決して贅を極めようとしない。
大勢の国民の反感をかわない為か、それともこれから行う試練のせいか。
威厳が損なわれない程度に贅を尽くし、なおかつ国民に寄り添う国。
それがベルリアン王国が長い間、大きな争いもなく大国でいる理由だった。
「陛下。このような場所を作らずとも、第一王子である私に跡を継がせてくれればいいじゃありませんか」
静寂に包まれた謁見室に第一王子の声が響く。
強気な言葉に後ろに控える第一王子付きの者が息を呑む音が聞こえた。
母親は異なるが意外と兄弟の仲は良い。
もちろんそのお付きの者の顔も性格もよく知っている。大胆な王子にいつも気を揉んでいる彼が、今どんな顔をしているかなんて振り返らなくても分かった。
思わず肩を震わせてしまうと第一王子の視線が向けられる。
「何か言いたいことが?」
「んんっ。いえ、なんでもありません」
咳ばらいをして誤魔化したあと、きちんと正面に座る父の姿を見る。
父と言っても国務で会うくらいでそれといった交流などない。
王族などそれが当たり前かもしれないが、家族の温もりなど感じたことがなかった。ただお付きの者や乳母、それに乳兄弟、とにかく王宮には人がたくさんいる。
だからそれを寂しいと思うこともなかった。
「第一王子の言いたいことも分かる。だが、これは代々決まっていることなんだ。私もその試練を乗り越えて今この場にいる。それにこの試練を乗り越えてこそ国民に寄り添える良き王となれるのだ。お前にはその自信がないのか?」
「いえ、私にはどんな試練でも乗り越えられる自信があります」
これまたハッキリとそう言い切る第一王子に、心の中で拍手を送った。
さすが第一、というべきか。
俺だって、この国の王になりたいと思っている。ただ、この野心には度々負けそうになった。
「あぁ。期待している。それでは頑張ってくれ」
王がそう締めくくると、すぐに側近が課題を読み上げた。
『これから王子たちには、それぞれこの国の端から所持金1000ロンを使って王宮に戻ってきてもらいます。禁止事項は、自分の身分を明かすこと、名を明かすこと、国民を脅かすこと、この三つです。王子たちはこれから国民と直接関わることになります。何か聞かれたときは隣国からやってきたと説明するように。それぞれ常に監視をつけますので命の保証はありますが、彼らはいつどこで見ているか分かりません。決して探したりしないように。監視の者からリタイアの確認をされた場合は返答してください。リタイアをすると王位継承権はなくなります。また命の保証観点から、こちらで危険と判断した場合は同意なくリタイアとしますのでお気を付けください。なお、この試練は早く帰還することが目的ではありません。あくまで、王位継承権を得る資格があるかどうかを見極める試練になりますー-』
淡々と説明を受け、なるほど、と思った。
国民の生活に触れさせつつ、臨機応変な対応が出来るか一緒にチェックをする。
一応ちゃんとしているじゃないか。
もっと無理難題を言われるかと思っていたから、少しだけ拍子抜けした。
1000ロンは少ない気がするが、無駄遣いをしなければ大丈夫だろう。
チラッと横を向くと、他の兄弟たちもそれぞれ皆神妙な顔で聞いていた。
あまり慌てていないから俺と同じで予想を下回ったのだろう。
『最後に、もし道中で王宮に連れていきたい人に出会った場合は、自らの名を明かして構いません。その際何か問題が起こったら一度だけこちらで手助けをします。それ以外の手助けは行いませんので』
説明を受けたあと、自分の母親や乳母たちに挨拶に行く。
表面上は隣国へ学びに行くということになっているが、それでも母は心配そうに気を揉んでいた。
出発の朝、見送る母の姿が見えなくなったところで、突然汚い布を渡された。
「これを着てください。お金はポケットに入っています」
「これは……服なのか?」
俺にはボロ雑巾にしか見えないが、頷かれては仕方がない。
確かに袖も足を通す部分もある。
国民はこの格好で歩いている人がいても何も思わないのだろうか。
贅沢をしている自覚はなかったが、そう思うと気が引き締まった。
この試練は国民を知るとても良い機会だと思った。
ただ、そこからが長い。
というか、日にちはそんな経っていないハズなのに、仮にも一国の王子である俺が奴隷になるとは……。
きっかけは些細なことだった。
スタートだと言われた場所は貧しい村で俺の恰好より酷い人が何人もいた。
だから俺自身あまり目立たなかったのだが、村の揉め事に首を突っ込んでしまい、あれよあれよと言う間に有り金を全て取られてしまった。
王宮で勉強していたとはいえ、俺は世間知らずだったのだ。
一文無しになった汚い身なりの男が相手にされるわけもないのに、目の前の揉め事に首を突っ込むのも止められず、気が付いたら人買いに売られ国境を越えていた。
(さぁ、どうしようか)
ここでリタイアするのはあまりに恥ずかしい。
命の保証はしてくれているらしいから、死ぬことはない。多分。
身体を打たれるのも、食事がとれないのも、衛生管理が最悪なのも、俺は心のどこかで死ぬことはない、と思っているからいいが、一緒にいる他の人たちの心にはそんな余裕がないだろう。
売られてきた人たちはみな死んだような目をしており、会話などする元気もなかった。
奴隷問題は周辺国すべての課題として持ち帰った方がいい。
格差は完全に0にすることは出来ないが、人身売買が成り立つ世の中は変えることが出来る気がする。
血が滲むほど打たれた夜。
そんなことを考えながら何度も朝を迎えた。
一度だけ、リタイアを勧められたことがあったが俺は絶対に同意しなかった。
意地だったのかもしれない。
何か策があったわけじゃないが、それでも自分からリタイアはしたくなかった。
―――――――――――
まさか、こんな出会いがあるなんて。
メルキュールの相手はこちらであてがった。
悪い子ではないと思う。
実際プラティーヌから聞いた話が本当なら彼らに助けられた人もいるのだろう。
俺だってきっかけはあの子だった。
自分の正義を貫くことは大切だと思う。ただ、それを誰かに強要しその結果苦痛を強いたのだとしたら、それは優しさでも何でもない。
彼らの強い思い込みのせいでプラティーヌがどんなに傷つけられたのか。
たった数日一緒に過ごしただけでも彼女があの家でどのように育ったのか、安易に想像がついた。
王宮で口にしていたシェフが作る料理と、彼女と森で一緒に採った野草のスープ。
上質な布で作られた洋服にふかふかなベッドと、あまりにも汚れている俺の服に見かねて彼女が洗ってくれたゴワゴワな服に固い木のベッド。
喋ったらボロが出そうで黙ったままの自覚するほど不愛想だった俺に、彼女は色々な話をしてくれた。身の上話、愚痴話、ばかりかと思えばそんなことは一切なく、何気ない生活の一部分を楽しそうに口にする。
「あの雲、形がふわふわのパンみたいね。私は一度だけ食べたことがあるけど、あなたにも食べさせたいな」
そう言われたときはあまりの健気さに思わず抱きしめたくなった。まぁ俺はちゃんと理性があるから、グッと堪えたが。
比べるまでもないはずなのに。
俺はどんどん彼女と過ごす時間の心地良さ、彼女への気持ちに気付いていく。
可哀想だと言われたくない。
同情をされたくない。
ある日、ぽつりと漏らしたその本音に心が締め付けられそうになった。
だから、手を打つことにした。
俺の監視者に彼女を王宮に連れて行きたいことを伝え、両親と妹のことを頼んだ。
「家族たちをどうすることがお望みで?」
「……」
その問いに言葉を詰まらせる。
優しきことは素晴らしい。
ただ、本当に優しいなら何故姉のことを考えられなかったのだろうか。
そう思うと妹に素晴らしい相手を用意することは出来なかった。そもそもプラティーヌの気持ちを考えれば、どうにか今までの彼女の苦労を分からせてやりたいとすら思う。
当事者じゃない俺は、平気で口汚い言葉を言いそうになった。
ただそうは言っても彼女の家族だ。
何か上手く言い換えられる言葉があるだろうか。
思案する俺に監視者は「幸せな結末じゃなくて良いですね?」と問うた。
彼は俺の監視と共にどこまで知っているのだろうか。
その問いに驚いたが、俺は自分の発言にもプラティーヌに対しても責任を取る覚悟を決める。
「あぁ」と頷くと、監視者は深く礼をしてまた姿を隠した。
それからまた数日が過ぎた頃。
採取した野草を売り、軽い労働も経験した。
最初、町の人間は小汚い俺を警戒し蔑視していたが、俺は自分の見せ方というのを理解している。プラティーヌに教わった湖で体を洗い、髪をかきあげると、どう解釈してくれたのかは分からないが、女性客が良い値を出してくれるのだ。
あまりこういうことをしたくはなかったが、とにかく背に腹はかえられない。
俺の所持金もようやく最初の所持金を越えいよいよそのときがやってきた。
メルキュールにあてがったのは、あの国の第四王子。
戦機や爆弾などを趣味としていたはずだ。
彼も悪い子ではないらしいから、彼が気に入って話が合えば宮殿での生活も夢ではない。
上手くいけばの話だが。
結末を自分で見届けられないのが心残りだけど、それも頼んでおいた。
それらも全て後日分かること。
隣で寝息を立てるプラティーヌに視線を向ける。
誰かの寝顔を見て自然と頬が緩んでしまうのは初めてだ。
彼女は特殊な環境で育ったせいか自己肯定感がとても低い。
彼女の優しさが本当の優しさに感じるのは俺だけではないはず。
気にしているそばかすも可愛いと言ったら怒るだろうか。
そっとその肌を指先でなぞると、「ん」と眉間に皺がよった。
起きる気配はないがその顔も愛おしくてふっと息を吐くように笑う。
彼女が目を覚ましたとき、俺の奴隷になる経緯や試練の話を聞いたらなんて言うか。
想像しただけで心が躍る。
家族の話は彼女が望むなら教えよう。
全て話して彼女が「罰が当たったんだ」と喜ぶならいいが、優しいプラティーヌのことだ。もし少しでもその顔が曇るようなことがあればそれは俺の本望じゃない。
知らない方が幸せなこともある。
今まで与えられなかった分も、そしてもちろんこれから先の未来の分も。
プラティーヌが自分の存在価値が尊い物だと気づくように俺は彼女を愛し幸せにしていくつもりだ。
馬車に揺られながら流れる外の景色を見る。
まだ王宮まで距離はありそうだ。
彼女の手をとり指先を絡めながら、俺も王宮につくまで瞼を閉じた。
―――――――――――――――
両親の教えは、人に優しくあること。
可愛くて優しい私は物語のプリンセスになれるのだと。
幼い頃から何度もそう言い聞かせられていた。
優しい心と勇敢な気持ち、誰かの為に生きることを忘れなきゃ幸せになれる。
双子の姉だって私と同じ顔なのだから、人に優しくあれば幸せになれるだろうに。
もったいない。
姉はいつもギスギス怒ってばかりいた。
そんなんだから、誰からも愛されないと気付いていないのだろうか。
姉の汚い恰好を可哀想だと思って、優しい私はたまに自分のドレスをあげる。
けど、綺麗なドレスも畑仕事ばかりしているせいですぐに泥だらけ。
あーあ。本当にもったいない。
可愛くおねだりする方法も知らないみたい。
町の人の評判があまり良くないエルビスさんだって、私にはとっても優しいの。
「メルキュールは本当に可愛いね」
「いつか、もっと人に愛される方法を教えてあげようね」
そう言ってたくさんドレスやリボンをくれて、お腹いっぱい美味しいご飯を食べさせてくれる。大きな浴槽でお風呂にだって入れるわ。
本当は汚い姉と一緒に歩きたくないけれど、私は優しいから一緒に出掛けてあげる。
ふふ、私ってば本当に良い子ね。
そんな私の善行を神様もちゃんと見ていてくれたみたい。
たまたま奴隷を助けたら王子様がお迎えをよこしてくれた。
使いの者と共に彼の元に馬車へ向かう途中、胸がずっとドキドキして王宮の生活を想像して心を震わせる。
到着した宮殿は想像よりこじんまりしていた。
確かにこの小さな国じゃ物語のような立派なお城はないわね。
通された部屋もあまり豪華じゃなくて少しガッカリした。
もっとシャンデリアとか絨毯とかを想像していたのに。
想像を下回る部屋をぐるりと見渡していると、廊下から足音が響いてくる。
頭を下げた私に従者の「王子、こちらの方です」と声が聞こえた。
部屋に入ってきたのはこの国の第四王子……
「ごきげんよう。お招き頂いてとても嬉しい……えっ」
挨拶をしながら顔を上げて、思わず声を詰まらせてしまった。
目の前にいるのは私より遥かに若い子どもの姿。
この子はいったい……
「なんだ、この女。俺の顔を見て言葉を詰まらせるなんて失礼な」
「も、申し訳ありませんっ」
ふてぶてしい態度でそう言われ慌てて頭を下げる。
え、なに、どういうこと?
優しくて格好良い王子様が私を待っていたんじゃないの?
ワクワクして高鳴っていた胸の鼓動が、不安に変わる。
「まっ、いいや。それで、あんたがメルキュールだっけ?奴隷を助けたんだってな。偉いじゃないか」
「ありがとうございます」
褒められたことで少しだけホッとした。
私はこの方と結ばれるのかしら。
想像していた王子様とは違うが、あと数年経てば彼も大人になる。
次は、私たちの部屋にでも案内してくれるのだろうか?
そのまま王子の言葉を待っていると、王子は面倒臭そうに眉をひそめた。
「ほら、ちゃんと褒めたぞ。これで俺の仕事は終わりだろ?」
仕事?
終わりってどういうこと?
戸惑う私たちを尻目に王子は従者の方を振り返って声を荒げる。
「俺は早く戻って新しい戦機の手入れをしたいんだ。爆弾の爆破実験もしたいし」
「王子、その遊びはそこそこにしてお勉強を」
「はぁ?勉強は兄さまたちに任せればいいだろ?そもそも兄さまの頼みじゃなかったら俺はわざわざこんな面倒なことしなかったのに」
頭が付いていかない。
「俺の部屋からこの部屋まで遠いんだからな」と言いながら王子と側近はあっという間に部屋を出て行ってしまった。
残された私たちに部屋に残った従者が声をかけてくる。
「王子からお褒めの言葉を賜ったこと、おめでとうございます」
「あ、え……えっとそれだけ、ですか?」
「それだけ、とは?」
真顔でそう聞き返され、ごくりと生唾をのんだ。
頭が真っ白になった私の代わりにお父さんが口を挟む。
「王子様にお迎え頂けたのかと思ったのですが」
「えぇ、ですのでお迎えしましたよね」
「お言葉だけ、ですか?」
「何か不満が?」
淡々としゃべる従者にお父さんも口を閉ざしてしまう。
そして今度はお母さんが、「あの」と喋り出した。
「お言葉もとても光栄ですが、なにか褒美などは……」
その言葉を聞いた途端、従者が厳しい表情を浮かべる。
「王子がお言葉をくださるだけでも光栄だというのに、褒美までねだるのですか。“心優しい”と聞いていましたが、思い違いのようですね。最初からそのつもりなら、わざわざ王子の時間を割いたことに対する罰を与えねば」
罰と聞いて両親は床にひれ伏した。
「申し訳ありませんっ」
「決してそのようなことは考えておりません」
両親に倣うように私も頭を下げる。
嫌な汗が滲んで体が震えた。どくどくと心拍数が上がる。
「そうですか。それなら良いです。帰りの馬車は用意してありますのでお気をつけてお帰りください」
最後まで淡々と話していた従者が部屋を出て行ったあと、あれよあれよという間に私たちは帰りの馬車に乗っていた。
「こんなはずじゃ……」
「だ、大丈夫よ。まだどうにかなるでしょ」
両親が話している内容も、ちっとも頭に入ってこない。
あれ、私の王子様は……
あぁそうか。そもそも彼じゃなかったんだ。
うん、まだ子どもだったし、私にはもっと素敵な王子様が……。
家に着き送ってくれた馬車を見送っていると、いつから見ていたのか町の人たちが家の周りにたくさん集まっていた。
その中にはエルビスさんの姿もある。
宮殿はどうだった?
メルキュールはやっぱり王子様に嫁ぐのか?
何か褒美は出たのか?
すごい勢いで質問攻めにあって答える暇もない。
「あ、あの。王子様にはお会いしました」
「噂は本当だったのか!」
「まさかと思っていたけど……」
何とかそう答えるとみんながざわつく。
そんな驚かなくても。
「それじゃいつ宮殿に?」
「え、っと宮殿にはもう行きませんけど……」
「は?」
「どういうことだっ!」
今にも掴みかかってきそうな人に思わず体が竦む。
いつもは優しくしてくれるのに、なんで今日はこんなに殺気立っているの?
助けを求めるようにお父さんとお母さんを見るが、あっちもあっちで囲まれている。
「嫁ぐわけじゃないのか?」
「それなら褒美は!」
「王子様からはお褒めの言葉を賜りましたわ。褒美などはありません」
そう答えた瞬間、バチンッと耳元で大きな音が響いた。
与えられた衝撃で首が横に向き、頬がジンジンと熱くなる。
何が起きたの。
なんで頬が痛いの?
なんでみんなそんな顔をしているの?
「い、痛い……?」
「話が違うじゃないか!!」
再び目の前の人が腕を振り上げる。
身体はさっきの衝撃を覚えていてビクッと揺れた。
「おいメルキュールに傷はつけるなよ」
「エ、エルビスさん」
ギュッと閉じた目を恐る恐る開くと、エルビスさんが私を庇うように間に立ってくれている。
あぁこの人はまともなのね。助けてもらった安心感にホッと息をつくが、周りの人はさらに逆上した。
「おい!そもそもあんたが全部巻き上げたせいで、俺達が分割でもらうはずだった金がなくなったんだぞ」
「そうよ。それにこの子が王子に見初められて宮殿に迎えられるって聞いたから、その後もご飯や服を恵んであげたのに!!」
「だからっ。ちゃんとお前たちの取り分も分けてやるから少し落ち着け。商品に傷がついたら価値が半減するんだよ」
飛び交う怒号に紛れて聞こえてくる言葉。
一体みんなどうしちゃったっていうの?
助けてくれたエルビスさんもなんで……
恵んであげた。って私は孤児でも物乞いでもないのに。
困っているときに優しくしてあげたから、優しくしてもらっているだけだ。
それなのに、商品ってなんのこと?
分からない。
私は、何も分からない。
(嘘……本当は気づいているんじゃないの?)
突然、そう言うプラティーヌの顔が思い浮かび激しく首を横に振る。
「分かんない!な、なんでそんな酷いことばかり言うの。いつもは優しくしてくれるのに」
ポロポロと涙が溢れる。
エルビスさんの後ろでそう言うと、一瞬黙った人たちが今度は大きな声で笑いだした。
「未だに状況が分かっていないみたいだよ。ここまでどうしようもない子だったとはね」
「お気楽だな。お前みたいなお花畑は本当に扱いやすくて楽だったよ」
「俺たちが優しいのにはちゃんと理由があるんだよ。そもそも土地以外にお前たちの価値なんてないのに」
「え、……土地?」
馬鹿にしたようにそう言われ、昔エルビスさんとした会話を思い出した。
『ここら辺一体はお前の家族が所有する土地なんだ。優しくて良い子のメルキュールなら分かるだろう?こんなにたくさん独り占めするより、困っている人に分け与えた方がいいと思わないか?』
『まぁそうなの!?確かに私たち四人家族だもの。こんなにたくさんの土地いらないわね』
『本当にお前は天使のように優しいな。何か困ったら俺に言いなさい。その土地をお金に換えてあげよう』
あのときのエルビスさんの優しい笑顔と、今私の前で見せる笑顔が違うことにようやく気が付いた。
「そもそも、プラティーヌが“優しく”ないから“優しく”されないと思っていたようだったけど、あの子が一番まともだったんだからな。それに気付かなくて俺たちに操られていたなんて、笑い話にも程がある」
プラティーヌ。
人に優しく出来ないから、誰からも愛されない可哀想なお姉ちゃん。
けれど姉の方がまともで。私たちがおかしかったのか。
繰り返される嘲笑が体の表面を覆う。
痛い。人の目が怖くて、彼らの笑い声が頭の中でさらに大きく響いた。今までどうやって呼吸をしていたのか分からなくなってくる。
吸って、吐いて。吸って。吸って。吸って。……
突然胸が苦しくなって、息を吸っても吸っても治まらず次第に体が痺れる。
痙攣を起こした私は膝から地面に崩れ落ちた。
「は、っ、ゼ、ェ、っ……ヒュ、ゥッ」
「これはいけない。あっちはどれくらい金になるか分からないが、俺はお前に価値を感じているからな。まだ“優しく”してやるよ」
意識がどんどん遠のく。
「そろそろいい頃合いだと思っていたんだ。もっと人に“愛される方法”を教えてあげるからな」
エルビスさんの笑顔とその言葉を最後に私の視界は真っ黒になった。
―――――――――
アウルム王子が奴隷になって幾日か過ぎた頃。
ショーにまで出演することが決まり、俺はそろそろ強制終了させようと思っていた。
だが一度リタイアを打診したとき「俺が本当に死にそうになるまで絶対リタイアさせないでくれ」と言われてしまい、その顔が諦めていなかったから俺は思わず頷いてしまったのだ。
この試練に限っては俺の立場が上だと言うのに、昔からアウルムには甘くなってしまう。
俺だってリタイアしてほしいわけじゃない。
彼がそう望むのなら、今にも飛び出して助けたくなるこの体を縛り付けておくくらいなんてことはなかった。
監視者が俺だと知った時のあいつの顔はしばらく忘れられないだろう。
まさか乳兄弟として育った俺が監視者だとは夢にも思っていなかったらしい。
あいつは俺をただの乳兄弟もしくは側近だと思っているが、実際は様々な役目を兼任している。
乳兄弟でもあり、彼の側近でもあり、親友でもあり、影武者でもあり、ボディーガードでもあり、試練の監視者。
もちろんそれは第一王子他みんな同じ。
幼い頃から一緒に過ごしてきた我々が、命をかけてもいいと思うに値する人間だからこの試練を受けられるのだ。
過去には試練すら受けられない王族もいたようだが、今年は全員試練に参加している。
手助けはしてはいけないが、それとなく餌だけは撒いておいた。
王子に気付かれなければそれくらいは暗黙の了解である。
ここで出会いがあることは予想外だったが。
彼の言いたいことを感じ取るのも俺の役目。
勉強はしていても一国の王子。俺は彼の代わりに非情な判断も下せるが、心配しなくてもアウルムはきちんと覚悟をもって返事をしてくれた。
それなら俺は結果で示すだけ。
この町のことは、奴隷ショーから逃げ出す為に必要だと思いすでに下調べは済んでいる。
彼女や彼女の家族のことは、ここら辺では有名な話だった。
だからすぐに計画は思いつく。
まず最初に、あの妹が王子に見初められて宮殿に呼ばれたと噂を流した。
もちろんこちらの王族とも話はつけてある。
同じ第二王子ということでアウルムとこちらの第二王子は馬が合ったらしい。私も顔見知りなので、急遽王宮を訪れても場を設けてくれた。
やはりこちらの国でも奴隷は問題になっているらしい。
王子たちの試練の話は出来ないが、奴隷に関して調べている事、プラティーヌの事情を説明し協力してくれないか、と言うと快く引き受けてくれた。
彼曰く、弟は未だ女に興味はなく戦機と爆弾ばかりいじっている。
気に入ることはほぼないから、今回の適役だろう、と。
宮殿に迎え入れたところは綿密に話し合ったが、彼らを家に帰したあとのことは私は関わっていない。
ただ俺が何もしなくても周囲の人間が黙ってはいないだろう。
彼らが何を目的にして何を狙っていたかはすでに分かっている。
当てが外れたのだからきっとただじゃすまないはずだ。
王子からあまり長い間離れることは出来ない為、控えについてもらっている部下に彼らの後のことは任せる。
あとは報告を待つだけだ。
―――――――――――――
出発してからだいぶ日にちが過ぎた。
懐かしい自分の国、そして宮殿を見た俺はふぅと大きく息を吐く。
最終到着かと思ったが、王宮に戻った俺は三番目だった。
驚いたことにこの時点で第一王子は未だ戻っていない。
結局俺が到着してから一週間ほどで兄弟全員が宮殿に戻ってきた。
とりあえず試練は無事終わったことに安堵して、俺はプラティーヌとの時間を楽しむ。
この国の説明や、事の次第、を説明すると驚きを隠せない様子だったが、学ぶ意欲のあった彼女の希望で少しずつ一般教養の学習も始まった。
空いている時間は俺と一緒に過ごしているが、それでも今まで長く一緒にいたせいで少し離れるだけで寂しく感じてしまう。まさか自分にそんな感情があったとは。
最初は驚きの連続だったようだが、次第に増えてきた笑顔。
新しい環境の不安より、ワクワクが勝っているようなそんなプラティーヌの邪魔は出来ないから、彼女が頑張っている間に俺も仕事が捗った。
「仕事が早くて助かります。いつもこうだといいんですけど」
そう言ってしれっと俺の机に新しい書類を置いたゲンマを横目で見る。
ゲンマ。俺の乳兄弟で側近で……試練の監督者。
「そういえば試練の説明を聞いてないんだけど」
「当たり前でしょう。監視者が私だと知れば甘えが出ますし」
いや、言いたいことは分かるけど。
乳兄弟から側近になりずっと一緒に過ごしてきたのに、何も知らなかった。
それに監視者は相当腕がたつものと聞いている。
あまりに知らなかったことが多すぎて、なおかつゲンマはそれが当たり前みたいに言うから少しだけムカついた。
「ふぅん」と返事をしてペラペラと新しく机に置かれた書類を見ていると、一枚の報告書に目が留まる。
「これは……」
「彼らの結末です」
そう言われて思わず背筋が伸びた。
自分が思っているより緊張しているようだ。強張る手の力を抜いて報告書を手に取る。
そこに書かれていたのは想像していたより酷い結末だった。
父親は、借金のカタに人買いに売られ。
母親は、同じく借金のカタに身売りが決まったらしい。
そして妹は……。
パタンと報告書を机に伏せて天井を見上げる。
ふぅーと長く息を吐き、ゲンマに視線を向けた。
「プラティーヌのことはどう思ったんだろうな。自分たちがしたことをちゃんと自覚してくれたのだろうか」
「流石に分かってくれたと思いますよ。そこまで馬鹿ではないはず。とくに妹の方は相当打ちのめされたようで」
「そうか」
ちゃんと彼女の苦労を分かってくれたのならいい。
あの家族にとって一番優しかったのが誰だったのか。
コンコンコン。
控えめなノックが聞こえゲンマは俺に一礼すると、ドアを開けに向かった。
「お疲れ様です。プラティーヌ様」
「あっゲンマさん。お疲れ様です。お話の邪魔を……?」
「いいえ、私の方は終わりましたのでごゆっくりしてください」
プラティーヌと入れ替わるように部屋を出て行ったゲンマ。
俺は立ち上がって、「本当に大丈夫だったの?」と心配そうな顔をするプラティーヌに近づいた。
綺麗に髪を結い、菜の花のような黄色のドレスに身を包んだ彼女をソファへ誘導させる。
気にしていたそばかすも、白粉で隠せると知った彼女は驚いたように化粧後の自分の顔を何度も鏡で見続けていたと彼女付きの侍女に聞いた。
俺はどちらも可愛いと思うが、本人が幸せだと思うことをさせてあげたい。
「もちろん大丈夫。仕事はちゃんと終わらせてあるからな」
「アウルム様は仕事も早いのね」
「二人の時は、アウルムと呼んでくれと言っただろう?」
「フフッ。そうだった……でも、やっぱり本当に王子様だったんだ」
いまだに山で二人過ごした時間を鮮明に思い出せる。
「たまには、外に行ってみるか?宮殿にも食べられる物が生えているかも」
「本当!?それは楽しみ」
もうそんなものを食べなくても、遥かに良い物を食べられるけど。
そう言うとプラティーヌは顔を輝かせて笑うから俺も嬉しくなった。
―――――――――――
「なぁプラティーヌ。今まで君がしてきた苦労や傷つけられた心は簡単に癒せるものじゃないだろう。君はもう一人じゃないから、これからは俺にもその傷を癒す助けをさせてほしい」
宮殿にやってきて王子の格好をしたアウルムを見たとき、私は本当にこの人と一緒に過ごしていたのか信じられなくなった。
けれど、彼の声も慈しみが含んだその視線も、あのときと何も変わらなくて。
それだけで私はとても安心した。
「だから、嫌なら聞かなくていいし、俺もその話には触れないように、する。ただ、君には家族のことを知る権利がある」
この日、言葉を選びながら私にそう伝えてくれるアウルムに、心の中に小さな黒いモヤが渦巻いた。
初めて宮殿に足を踏み入れた時、小汚い私を見てもここにいる人たちは誰も嫌な顔をしなかった。あっという間に侍女までつけてもらい何だか悪い気もしたが、同性の話し相手も欲しいだろう?とアウルム王子の気遣いに素直に感謝することに決める。
そのとき、隣の国の第四王子の婚姻の話をそれとなく周りの人に聞いてみたが、みんな口を揃えてそんな話はないと言った。
そもそも第四王子は今年10歳だそうだ。
それなら両親やメルキュールたちは?
生まれて初めてふわふわのベッドに身を預け、瞼を閉じると今までの暮らしが何度もよみがえってきた。
周囲の人の目線も。
陰口も。
家族の私に対する扱いも。
怖かった。
憎かった。
嫌いだった。
今、私がいないことを寂しがってくれているだろうか。
今なら、私が必要だと言ってくれるだろうか。
もちろん私が味わった気持ちを分かってほしい。
同じ目にあってほしいと思う気持ちもある。
ただ、すでに私の心は十分晴れたのだ。
私のことを哀れみ馬鹿にしていた妹がアウルムと出会わせてくれた。
自分が助けた人物が本当の王子様だったなんて彼女は知らない。
そしてそこにあったはずの幸せを捨てたのも妹。
気遣うように様子を窺ってくれているアウルムを見つめる。
「プラティーヌ?」
彼の声は魔法みたいだ。
名を呼ばれただけで心に渦巻いた黒いモヤが少しずつ消えていく。
「ありがとう。でもそこまで気遣ってくれなくて大丈夫。それにあなたが知りたいことならなんでも答えられるよ。ただ、家族のことは知らないままでいい」
アウルムに出会って人の温もりを覚えた。
甘えたいときに甘えられる相手。
話を聞いてほしいときに聞いてくれる相手。
寂しいときに寂しいと言わせてくれる相手。
そんな相手に出会えたのだ。
彼らがどうなっていようと関係ない。
そんな風に思ってしまう私は、やっぱり“優しく”ないんだろうけど。
今、そう思える私は幸せ。
物語の結末は、優しいお姫様と王子様が結ばれて終わり。
これは私の物語だ――――
最後まで読んで頂けたこと嬉しく思います!
ブクマ等もありがとうございました!