緑と黒のミーネの森
森は真の緑だった。緑の木漏れ日、緑の木々。ここには何ひとつとして動くものは無く、太古の空気が今なお変わらずに留まり続けているかのように、ただただ死にも似た静寂が立ち込めていた。
『ミーネ』
頭の奥で声がする。ミーネ、ミーネ……。疲れ切ったように悲しげに、切なげに呼ばれ続ける私の名前。――私の?
草を踏み歩きながらぼんやり考える。ああ、そうだ。これは私の名前だ。でもこの声は誰。ここはどこ。私はいったいどこに向かっているのだろう。
『ミーネ』
弱々しくとも美しく、寂しい声だ。耳に馴染む声音。でも誰の声かわからない。なぜか? なぜわからないのかだけは、わかっている。だって私には記憶が無い。どんなに考えても過去は空っぽのがらんどう。どこで落としてきてしまったのだろう。なのに、なぜ私は歩き続けているのだろう。
立ち止まって、立ち竦んで、木々の一部になってしまいたかった。森の一部に。でも。
ミーネ、ミーネ。
呼び声が聞こえるたび、何かが――心が「いかなくては」と叫ぶ。どうしても行かなくては。だから私はこの声のためだけに緑の天蓋の下を歩き続け、森の深みに足を踏み入れて行く。緑、みどり、常磐の森。
どこ、あなたはどこにいるの? あなたはだれ。
微かな呼吸音すら吸い込んでしまうような木々の中、どのくらい歩いただろう。空は見えなかった。振り仰げば青い空が見えるのかもしれないけれど、私にはよそ見をしている暇はないから、決して見えはしない。
ミーネ……。ああ、彼が呼んでいる。時間がない。
でも彼って誰? わからない、何もわからない。
少し私は焦り始めているようだった。なぜまだ辿り着かないのだろう。もしかしたら、延々と同じところを回り続けているだけなのかもしれない。ああ、私は急がなくてはいけないのに。手遅れになる前に。
道を阻む悪魔の伸ばした腕のような木の根たち、気怠げに垂れた枝、自分に体があることすらわずらわしい。魂だけならもっと速く、駆けてだっていけるだろうに。ここでは早くなんて進めない。
それでも歩いて歩いて、もう歩けないと思ったそのとき、ふいに空気が変わった。いっそう冷たく深く、冴え渡り。
「人間の娘」
森に似た声がした。厳然と神さびて……、唯一この静謐な空気を揺らすに相応しい声だった。同時にぽっかりと開けた場所に出て、私は初めて足を止めた。目指していた場所に着いたという直感と微かな安堵。
花の香り。強い光。
そこは黄金の墓所だった。天から突き刺された槍のごとき黄金の陽光、地面には黄金の花が絨毯のように群生し、中心に立てられた真白い墓標をその色に染めている。墓標の隣にたたずむ青年をも。
「よく忘失の森の中、ここまで来た」
風のささやきも鳥の羽音も聞こえぬ静黙の世界で、決して大きくもない青年の声はよく響いた。森に吸い込まれることない支配者の声。
「ここは封じられし魔の森の最奥、いにしえの王女のための聖域。森に迷い込んだ人間はことごとく自己を忘失し、虚ろに消えて行くというのに、そなたはここに辿り着いた。只人の身で、驚嘆に値する」
瞬きにも満たない時間で半歩も離れていない位置に移動した青年を、気付けば私は凍り付いたように見つめていた。この世ならざるものの緑の瞳が私を見下ろしている。静けさに満ちた大樹のように。
何かが、私の心を刺激した。
差し込む陽光で黄金に輝く肌と、それに溶け合う短い金髪。瞳のせいかどこか作り物じみて見える美しい顔に、何かの答えが――無くした記憶が――あるかのように、私はただ一心に目の前の青年を見つめる。
森の支配者は全てを知っている表情で頷いた。
「私は見る者が最も大切にするものの姿をとる。私を見よ、思い出せ、そなたは何のために森に入った? 亡き王女との約束に従い、望みを聞こう」
そうだ、目的地には着いた。森の聖域に、支配者のもとに。ならば次は早く思い出さなくてはいけない。ここに何のために来たのか。望みを、急いで。
頭の奥ではまだ私を呼ぶ声が響いている。
ミーネ、ミーネ……。幼子が母を探す声にも似て。
何のために森に入ったか? 少なくともここまで歩いてきたのはこの哀しい声のため。だから、きっと森に入ったのも同じ理由。
『ミーネ』
みし、と頭の奥で何かがきしむ音がした。厳重に封をされていた記憶の箱がきしむ音が。目の前の金髪、森の緑の瞳。私の「最も大切な者」の――……。
違う。と記憶が告げた。違う、彼の瞳は黒かった。華やかに整った容貌の中、その二粒の瞳だけが彼の内部に潜む闇を表すように黒かったのだ。
稲妻が落ちるかのように、目の前のものよりも数年分若い、十八歳ほどの青年の姿が脳裏に浮かんだ。眩いほどに鮮やかで爽やかな笑顔と、対照的な夜の瞳。
『ランベルト・ディッテンベルガーです。どうぞよろしく、麗しき姫君の可愛らしい侍女どの』
そうだ、私は王国第二位王位継承者ユーディト様の侍女だった。十三歳のときから五年間、ずっとあの美しい姫様にお仕えしてきた。王宮の奥で、初代国王の娘が眠るという禁域の森にほど近い、小鳥の歌と梢のさざめきに囲まれた緑の森の離宮で。
ランベルトは姫様が四年前、離宮に移られた時に付けられた護衛騎士だった。武家の名門ディッテンベルガーの末息子。
『……ミーネ。君はまた俺の邪魔をしたね』
ああ、これは、ランベルトの三回目の王女暗殺計画を阻止したときの記憶だ。彼はことあるごとに姫様の命を奪おうとした。
隣国の王女を母に持つ、美しく慈悲深く誰もが愛さずにはいられないような姫様を、何度も何度も――時には毒で、時には事故を装って――遊戯の一種でもあるかのように狙ったのだ。
変わらぬ爽やかな笑顔で、証拠も残さず。だから誰も彼を疑わなかった。有能で、姫様に気に入られ、名門貴族の子息らしくなく気さくな騎士を、疑う人間がいるはずがない。
『ミーネ』
私にも確信は無かった。正解する確率のほうが低いような単なる勘だ。でも、彼は私が疑っていることに気付き、ある夜自分から私の部屋に訪ねてきた。
『君はするどい。葡萄酒の毒に気付いたのも、毒蜘蛛を退治したのも、暴れ馬から王女様を救ったのも君だったね。そして俺が犯人だってことにも気付いてる。……違う?』
ランベルトはどこか困ったような微笑みを浮かべて、私から奪った短剣を手の中でもて遊んだ。暗い闇色の瞳。彼は私を殺さなかった。私が何の証拠も持っていないのを知っていたから。
彼はそれからも何度も姫様を狙った。
私はそのたびそれを必死に阻止した。
本当は、彼が本気になれば、誰にも、私にも知られることなく姫様の命を奪えるはずだと、そう気付いたのはいつだっただろう。
ランベルトはこれ以上ないほどたちの悪い子供のようだった。彼は姫様を殺そうとしながらも、いつも止めて欲しがっていた。どうしても姫様を殺さなくてはいけない理由なんて無いだろうに。
私は彼を嫌悪しようとした。
けれど――どうしてもできなかった。ただ嫌悪するには、彼の目はあまりにも寂しく哀しいように思った。
『こんばんは、ミーネ』
彼は夜にたびたび私の部屋に忍んできた。短い時間、ただのたわい無い世間話をするためだけに、夜の森を影のように通り抜け。どこか追い返しにくい、ほの暗いような空気をまとって。
それは暗殺が失敗した日だけではなかった。新しい暗殺計画を思いついた日や毒薬を手に入れた日、怖い夢を見たという日も……。けれどそのくせ彼はその日が何の日だったか、自分からは語ろうとしなかった。
聞けばつまらなそうにその日の出来事を話したが、私が何も聞かなければ、ただ笑顔でくだらない話をして帰っていく。
たとえ昼間の木漏れ日の中で爽やかに笑っていても、決して光を取り込むことない凍えた闇夜の瞳。
ランベルトは人々の尊敬を集める優秀な護衛騎士だった。彼は自分以外の姫様の命を狙う者達を見つけ、捕らえ、ついでとばかりに自身の罪も押し付けてから、厳しく処罰した。
しかし、そういうとき、または姫様に感謝とお褒めの言葉をいただくとき。彼の金の睫毛に囲まれた黒い双眸はいっそう暗く、絶望にも似た暗黒に沈んだ。
『ねえミーネ。王女様はお優しい方だね』
ときどき、闇を照らす小さな蝋燭の灯を見つめて、彼はつぶやくようにそう言った。そのたび私は「じゃあもうやめたら」と返し、彼は答えず、そうしていつも夜が深まっていった。いくつもの夜が。
日の出ているとき、私と彼はただの王女の侍女と騎士のひとりでしかなかった。ほとんど目を合わせることも、特別な会話をすることもなく。
それでもひと月に一度は夜に私の部屋の窓は叩かれたし、その頻度は私が彼の計画を阻止するたびに増えていった。増えた分は、ほの暗い空気などない「何もなかった日」の訪問。
『蜂蜜酒をくすねてきたんだけど、飲まない?』
夜の彼は亡霊のように、もしくはまさしく刺客のように黒いフードを被り、見回りの兵にも、誰にも見つかることなくひっそりと現れた。秘密の友人のように。
冷たい夜の緑のかおりを連れて。
そして……いつしか、彼は私に子供のように様々な表情を見せるようになり、それに反比例するように姫様を害そうと画策する数は減っていった。
『ねえミーネ』
半年ほど前の、姫様の寝室に毒蛇が仕込まれていた日の夜。蛇退治と蛇嫌いの姫様をなだめるのとで、くたくたになった私のもとに訪れた犯人は、いつも通り部屋に一つしかない椅子に座り、端正な横顔を月光で照らした。
『今日ので最後にするよ。もうやめる』
寝台に座り、ランベルトを睨みつけていた私がその言葉を理解するまでに、いくらかかかった。理解が驚愕に変わるまでにさらに数秒が。彼はその二つの時間を合わせたよりもだいぶ長く、言葉を探すように沈黙していた。
カタカタと鳴る窓、雲と木々に隠れた月と星々。
『……これは、君が生まれるよりも前の物語なんだ』
深々とした闇の中で唐突に、ただし穏やかにゆっくりと彼は語り始めた。
『ある貴族の家にひとりの美しい娘がいました。彼女は王子様の恋人で、王子様が成人したら二人は結婚するはずでした。しかし、その前に王子様の兄、王位を継ぐはずの王太子様が亡くなってしまったのです』
あるか無きかの黙笑の気配。嘲笑。
『国王の、または国王になる者の妻には王女を据える、というのが古くからの「しきたり」でした』
それは悲劇の物語だった。
王子様の愛だけが頼りだったような下級貴族の娘。でも次期国王となった王子は周囲に説得され、また父王に命じられて、彼女との婚約を解消してしまう。
代わりに王子の妻となったのは、もともと兄王子の婚約者だった隣国の王女。捨てられたほうの娘は、彼女に懸想した名門貴族にほとんど強引な手段で求婚され、絶望の中その男の妻になった。……後妻に。
『自分よりずっと年上の愛してもいない夫と、自分と変わらぬ年齢の血のつながらない二人の息子、絶え間なく注がれる人々の憐憫。とうにひび割れていた彼女の心は、だんだん砕けて崩れていくようでした』
外では風が吹き続け、雲間からのぞいた月の光がランベルトの悲しげな顔と金髪に冷たく零れた。
『彼女は息子を産みました。自分と同じ明るい色の髪と、夫の前妻と同じ黒い瞳を持つ子供です。さらに同時期に王太子妃も出産したと聞き……彼女の精神は限界を越えました』
黒い、真黒い目の子供。彼女の夫は、若い妻とその息子を自らの領地の端、寂寥たる山奥の館に閉じ込めた。ほんの少数の使用人たちと共に。
『彼女はいつも夢見るような綺麗な顔で、緑の木々の中をさまよい歩きました。後ろに付いて歩く息子を見ることなく。いえ、ごくまれに息子に気付き、虚ろな微笑みを浮かべかけることもありましたが、その黒い目を見ると決まって恐怖の悲鳴を上げたのです』
私は胸が締め付けられるような気がした。目の前に座る黒い瞳の青年は、もはやどんな表情も浮かべておらず、ただ遠い過去を眺めていた。
夜陰、風音、亡霊のごとき木々……。
『彼女は息子が十歳になる前に死んでしまいました。最期の日々には黒い目も何もかも忘れ果て、なのにどうしてか絶望の中に取り残され。ただ自分のかつての恋人と、王女様への怨嗟の言葉を吐き続けて。そうしてある日――……言ったんだ』
月は再び隠れていた。でも私には彼が泣きそうなのが分かった。彼が私のほうに手を伸ばしかけて、ためらい、やめたのも。彼はうつむいて続けた。
『言ったんだ。寝台の横に立っていた俺を見上げて、ふと妙案が浮かんだみたいに「そうだわ。ねえ、あの王女の子供を殺してちょうだい。それであの二人を不幸にしてやれるわ。ね、お願いよ」って。……俺に向けられた最初で最後の笑顔と願いだった』
あらゆる苦しみを固めた声。彼は承諾したのだ。
母親の葬儀の後、ほとんど十年ぶりのディッテンベルガーの屋敷に戻った彼は、数年後に王立士官学校に入り、そして、ひとりの王子――姫様の亡き兄君――を事故に見せかけて殺害したのだという。
無意味に血に染まった少年の手、大きな罪。
王子の両親、すでに王と王妃になっていたお二人は、我が子の遺体を自ら学校に迎えに行かれたそうだ。
『王妃様は綺麗で……泣いていた。陛下も。初めて見た二人を、俺は別に憎いとは思わなかった。だからかな、その涙を天国か地獄にいる母は喜んだかもしれないけど、俺はちっとも嬉しくなかった。誇らしくも』
それはそうでしょう、と私は思った。だって、そんなことは当然なのに、なんて馬鹿なひとだろうと憤慨した。彼はあまりに愚かで哀れな子供だった。
士官学校を卒業した彼は、その翌年に近衛騎士団に入り、次いで離宮に移る姫様の騎士となった。
『俺はこの離宮に来るまで、王女様を殺そうなんて考えていなかったんだよ。でも……夢を見たんだ。何度も何度も――頭の奥にそれがこびりついて取れなくなるくらい。母の悲鳴、怨嗟、願い、微笑み…………』
彼は呟いた。ミーネ、とひと言。すがるみたいに。でも私は彼の母親じゃなかった。
ランベルトはいつも遠い母の声に屈し、そんなもののために姫様の命を狙った。わざと誰かに、私に見つかるように隙を作って。彼にはそうすることしかできなかったのだ。
『ミーネ』
悲しげに、彼はもう一度呼んだ。風の音は絶え、闇の中で闇よりさらに暗く黒い瞳が私を見ていた。
『君がいると悪夢が減った、この頃は全く見ない。君はいつだって見つけてくれる。俺は……恥知らずだけれど、いつも嬉しかったんだよ。だからもうやめる。誓うよ』
少しだけためらうように言葉は続いた。ねえミーネ
『そうしたら君は……』
君は? 結局、ランベルトは最後まで言わずに黙り込んだ。不思議なような静寂の底。それから彼は立ち上がり、後ろの机に向かって、置いてあった火打ち石で蝋燭に火をともした。
優しく揺らめく、温かい唯一の灯。緑の葉が落ちていくかすかな音がどこかで聞こえ。
『ああ、だいぶ長話をしてしまったね。もう戻るよ』
ようやく振り向いて口を開いた騎士は、いつも通りの笑顔を浮かべて明るくそう言った。つけたばかりの火を吹き消して。
『本当は今日の蛇は牙を抜いておいたんだけど。誰も気付かなかったね。じゃあ、おやすみ』
最後にそんな言葉を残して、窓から消えた。
深夜。月も星も森の奥。
……その翌日から数十日間、ランベルトの騎士服の背中には、大きく下手くそなうさぎが描かれていた。
不審げな視線を向ける人々や、その絵が姫様の描いたものだと気付いて訳を聞く同僚たちに、彼はただ「可愛らしいでしょう」と爽やかに笑ってみせた。何も言わずに。
でも、何も聞かなくとも、私は分かった。
彼は姫様に自分の罪を告白したのだ。
そして、あの寛大な王女殿下は彼の罪を誰にも言うことなく、自分で彼に罰を与え、許した。うさぎは姫様の紋章にも使われており、姫様お気に入りの動物だった。
『王女様は本当お優しい方だね、そう思わない?』
奇妙にうさぎ柄が似合うランベルトは、ある日、陽光の中で私にそう話しかけてきた。黒い瞳に木漏れ日みたいな本物の光を踊らせて。
背中にうさぎが出現した日から、彼が夜に私の部屋に来ることは無くなった。代わりに太陽の下や木々の緑の下で、そんなふうに私に話しかけて来るようになったのだ。ミーネミーネ、子供みたいに。
ミーネ、料理長が新作を試食して欲しいって。
ミーネ、町に行くけどお土産何がいい?
ミーネ、子猫を見に行こうよ。
光みたいなたくさんの言葉。離宮の人々は私達を不思議そうに見ていたけれど、彼はなんにも気にしなかった。時はゆるゆると森の中を流れ去り。
『ねえ、ミーネ。俺が王女様の身を命をかけてお守りしたら、嬉しい?』
ああ……これはほんのひと月前の記憶だ。
木陰で姫様の帽子に造花を縫い付けていた私に、隣りに座ったランベルトが唐突にそう聞いてきた。
ひどく愚かしい質問だった。
彼は自分が姫様に命を捧げるのを当然のことだと、自身の義務だと知っていた。なのにわざわざその義務を果たしたら、私が嬉しいかどうか問うたのだ。
嬉しいか……。
針を動かす手を止め、悩み、しかし結局答えられなかった私に、彼は珍しく儚げな微笑みを浮かべ、なぜか「ありがとう」と言った。
ありがとう、優しい侍女どの。
もしもあのとき、嬉しくない、と返せば『今』は何か変わっていたのだろうか。嬉しい、と答えなかったのを後悔したことは無いけれど。でも。
『ミーネ、ミーネ……』
弱々しく寝台の上をさまよう指、私を呼ぶ声。
十日前、姫様の護衛として王宮に向かったランベルトは傷を負って戻ってきた。帰り道、姫様を狙って放たれた矢を代わりに受けたそうだ。傷自体は大したことは無かったが――矢じりに毒が塗られていた。
診察に来た医師は猛毒だとつぶやき、涙を流す姫様に告げた。おそらく長くは保たないだろう、と。
姫様の後ろに控えていた私は信じなかった。
彼は姫様にいつも通りの笑顔を向けていたから。
事実、医者よりも知識があった彼は、その言葉にひとつ苦笑して、寝台で横になったまま自分で使用人に指示を出し、薬を作らせ手当をした。
彼は死ななかった。変わらず寝台の上ではあったが、口と指一本で人々を動かし、三日後には犯人と黒幕までも特定し、六日後には捕らえてみせた。
その黒幕は、以前から姫様のもとにたびたび送り込まれていた刺客達の、裏にいた者と同一人物に違いなかった。ランベルト以外には、引きずり出すのがほとんど不可能だっただろう大貴族。
ディッテンベルガー家の当主アウレール。
自分の娘婿である病弱な王子の代わりに王位を継ぐ可能性のある、健康で聡明な姫様を亡き者にしようとしていた卑劣な男。
でも、それはランベルトの異母兄――もしくは実父――でもある人物だった。
ランベルトは彼と同じ黒い瞳を持つという肉親を、牢に、法廷に、処刑台へと送ったのだ。
アウレール・ディッテンベルガーは彼に「姫様を殺せ」と命じたことも頼んだことも無かったのに。
『ディッテンベルガー家は、爵位と一緒にほとんどの領地と財産を没収されるだろうね。ついでに俺たちの王女様は次期国王になる。だけど…………アウレール兄上は昔、一度だけ俺に菓子をくれたんだよ』
おととい、食事を持っていった私に背を向けて横たわったまま、彼は窓の向こうの沼のような森を眺めて言った。いつもの明るい口調に、どこか疲れ切ったような沈んだ調子をにじませて。私を見ず。
ふいに悪寒がした。彼は森を見ていた。禁域の森にも繋がる緑の森。緑――運命、毒、死者の色。
医者は長くは保たないと言った。けれど彼は死ななかった、まだ生きている。まだ。ただ彼はほとんど起き上がることもできず、やつれていく。少しずつ、確実に、日に日にランベルトは弱ってく。
私は食事の盆を机に置き、その背に手を伸ばした。
『ミーネ』
彼は私の手を避けた。光の住まぬ黒い瞳がようやくこちら見る。それに私は失望した。先日姫様に笑いかけていた彼は、やっぱり表情だけは同じに今度は私を見ていた。彼は死ぬのだ。
『君のそんな顔を見るのは初めてだな』
彼が作らせた薬は、自分の命をほんの少し長く保たせるためのものだったのだろう。それだけの。ランベルトは「泣かないで」とは言わなかった。だって私は泣いていなかったから。
昨日、彼はほとんど目覚めなかった。
目覚めているときも意識はもうろうとして、かすかに私の名前を呼び、姿を探すように手を寝台の上で動かした。
『ミーネ……』私は彼を残して部屋を出た。
彼は務めを果たし、死んでいく。何も告げず。
姫様は礼拝堂でひたすら神に祈っていた。神!
神は一度だって彼を救ったことなんてないのに。
伝説があった。離宮を囲む緑の森の向こう、誰も立ち入ること許されぬ聖域の森。その最奥にあるという古の王女の墓所には彼女に封じられた悪魔がいて、そこまで辿り着いた人間の願いを、その命と引き換えに叶えてくれるという。
『ミーネ、ミーネ』
私は彼を死なせたくなかった。
ああ、だから私は離宮を出て、森へ入ったのだ。彼は神も悪魔も信じていなかったけれど。だからこそ。
「思い出したか、人の娘」
ランベルトの顔をした森の支配者が問う。古き森の最奥、黄金に輝き、悪魔というより神に似て。
「言うがいい。そなたが何を望み、ここに来たのか」
金色の墓所。永遠に自分の王女の墓に寄り添う、森の目をした墓守。何を望む? 全てを知っている顔。
私は答えた。
「ある人の生を。でも、命は差し上げられません」
頭の奥で私を呼ぶ声がする。愛を知らず、何も持たず、空虚で、可哀想なひと。母を亡くし、肉親のほとんどはもうすぐ処刑されるだろう彼。
私は死ねない。私が彼のために死んであげても、何かの意味はあるのだろうけど。でも……そのとき彼に何が残るというのだろう。彼が喜んで生きたくなるような何が。黒い瞳が輝かなくちゃ意味がない。
「人間よ、ならばそなたは代わりに何を差し出す」
「……あのひとの代わりに犠牲にできるものなんて、何も持っていないのです。髪一筋さえ」
それさえ、彼はひどく気に病むだろうから。
虫の羽音すらも聞こえぬ森、柵のような陽光。ふと、私は悪魔が守る白い墓標に目を移した。遠き時代の王女が眠る奥つ城。思い付く。
「じゃあ、何十年かして、私が死んだら、ここに眠ります。王女様も世話係がほしいでしょうから」
森の支配者は少し笑ったようだった。ランベルトとは全く違うのに、やはりどこか切ない笑い方で。
「いや。ここに埋まっているのは、すでに抜け殻ですらない。彼女の魂は最早この世のどこにもない。それに彼女はそなたの命も、何も望むまいよ」
私は当惑して青年姿の悪魔の目を見返した。
「この墓所を囲む忘失の森で人々はその命を失ってゆき、私はそれをここから眺めているが、自らの手で人の命を奪うことはない。彼女がそう望んだから」
「なら……?」
「王女は永久の眠りにつく前に言った。『私の墓守をしたければしていてもいい。でもたまには私以外の誰かの役に立ってあげてね』と」
ランベルトの顔をしたひとは、絨毯のような黄金の花々の中から一輪摘み取って、私の手の中に落とした。星屑みたいな小さな花。
「これを飲ませれば良い。死んでさえいなければ、そなたの『大切なもの』は回復するだろう」
行け、と墓守は言った。彼と違う色の瞳で。
「日が暮れる。忘失の森の外までは飛ばしてやるが、急いで戻るがいい。何もかもが手遅れになる前に」
そうして黄金の墓所と共に悪魔はかき消え、私は禁域の森との境、離宮へ続く緑の森の果てに立っていた。鳥の声と虫の羽音、風のささやきと梢の音がして、握った手の中には黄金の小花が入っている。
『ミーネ』哀しい声。
そうだ、急がなくてはならない。
顔を上げると、木々の向こうの空は既に赤かった。
「ヘルミーネ!」
息を切らして森から出てきた私を、小柄な影が出迎えた。そばに手燭を持った侍女と護衛が控えている。
「どこに行っておったのだ。ランベルトはずっと、ずうっとお前を呼んでおるのに……」
子供特有の澄んだ声。頷いた。
「承知しております、姫様。まだ間に合いますか」
「っ間に合う、早う行け」
私は行き、そして彼に花を飲ませた。
長い夜だった。誰も部屋に入ってくる者はおらず、安定した眠りに入った彼を、それでも私は一晩中眺めていた。月光。
「ミーネ……?」
朝の光が森を鮮やかに照らすころ、ランベルトは目を覚ました。目の前で揺れる私の枯れ草色の髪を不思議そうに引っ張ってから、ひとつ息を吐き。
「夢を見たよ。君が自分の命と引き換えに俺を助けるとかいう、ものすごくありえない夢」
「ありえたら嬉しいの」
「ありえないって分かりきってることが嬉しいんだ」
私を見上げる、全ての色を飲み込むような、確かな意思を宿す真っ黒い瞳。「ところで」と彼は言った。
「俺が今まで死にかかっていた気がするのも夢かな」
違うわ、と私は答えた。何ひとつ手遅れにならずにすんだことを内心で喜びながら。
「死にたかった?」
「どうだろう、わからない」
「私はあなたに生きてて欲しかったの。今もそう」
彼はゆっくりと瞠目し、同じ速度で微笑んだ。
瞳に木漏れ日みたいな光を踊らせて。
「じゃあ生きたい。生きていて良いって、俺が生きていて嬉しいって君が思っていてくれるのなら」
私の言葉を頭の中でもう一度味わうように目を伏せ、またひらいてから、ランベルトはふと思い出したように聞いた。ねえミーネ。
「前に言いそこねて、でもずっと言おうと思い続けていたことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「拒否してもいいの?」
「せめて聞いてから拒否して欲しいこと」
扉の外から足音が聞こえる。駆けてくる子供の足音と、何人もの大人の足音。笑いながら私は答えた。
「良いわ。あなたが皆に『なんで死んでないんだ!』って驚かれ終わったあとに聞いてあげる。私も言いたいことがあるし」
控えめなノックと、そっと扉が開く音がした。
それから、人々の驚愕の声!
しばらくして周り中人で埋まった寝台からそっと離れて、私は窓を開けた。歓声であふれる部屋の中に、清々しい空気が入り込んでくる。
ミーネ、と彼が呼ぶ。黒い瞳を輝かせて。
窓の向こうの森はどこまでも緑だった。