おかえりなさい
産まれたところは都内の大きな病院だった。
中学を卒業するまで、それなりに平凡に過ごして、高校へ上がる頃には彼女の家に入り浸って自分の家には帰らなくなっていたと思う。
元々、家族とは仲が良くなかった。
私だけ母親が違うこともあって、姉と兄とは上手くいかなかった。
父親も、姉と兄に苛められて育っていた私を助けることはせず、見て見ないフリをしていた。
だから、特に家族への心配とか、家族からの心配とか、そういうのは気にする必要もない。
でも、家族に嫌われていた本当の理由は、もしかしたら私が同性同士で恋愛をするような子供だったからかもしれない。
自分ではそれを異常だとは思っていなかったし、今でもおかしいとは思ってない。
好きになった相手がたまたま女の子だった、それだけの話。
私は昔から、どちらかと言えばボーイッシュな方だった。
女の子から告白されたこともあった。
気付けば、性別は関係なく、惹かれたら付き合うようになってた。
家族が私を嫌っていた本当の理由は何にしろ、私は高校に入るのと同時に親離れをした。
学費も食費も、生活費も全部出してもらえなかったけど、彼女の家だから家賃は免除してもらえたし、幸い見た目が子供っぽくなかったから夜のバーの仕事で年齢を誤魔化して働けた。
年齢確認があるってビクビクしてた割には、身分証の確認は求められなかったから緩いところなんだなぁって感じだ。
通帳のコピーしか見せた覚えがない。
まぁ、そんなこんなで働きながらだったのもあって高校を卒業するのには4年もかかった。
本当は大学も行きたかったけど、これ以上仕事と両立して学業を修めるのが現実的じゃないと思った私は大学への進学を断念した。
勉強は好きな方だし、頭も悪くはなかったから、あまり高望みしなければ大学へは入れた。
でも如何せん学費が高い。
彼女への恩返しもしたいから、それは優先事項じゃない。
それからはがむしゃらに働いた。
一ヶ所では、正社員を視野に一生懸命働いたし、他にも掛け持ちで色んな仕事をした。
やっとのことで正社員になれて、彼女に恩返しが出来ると思ったのは二十歳くらいの頃。
まだ世の中の厳しさを知らなかった私は簡単に騙された。
半年間、お給料がもらえなかった。
その間の交通費や諸々の経費も出させられた。
きっと、事情があるんだと思って、社長に請求はしつつも我慢して働いた。
彼女には、たくさん、謝った。
もう少しで、あと少しで、恩返しが出来るから。って。
7ヵ月が過ぎた頃、私は会社をクビになった。
茫然として、何日も飲まず食わずで部屋にいた私に彼女が『労働センター?だっけ、わからないけど、そういうところに行こう?』って言ってきた。
それで我に返って、私は働いてた期間の正当な報酬をもらう為に行動を起こした。
結果、何も得るものなんてなかった。
働いていた会社の社長へは、『給料はちゃんと払いましょう』なんていう指導が入っただけだ。
法的な措置はないのか?って調べたのも無駄だった。
私がちゃんと読んだと思っていた契約書には払わなくて済むようにする項目がたくさんあった。
何とかする方法はあったかもしれない。
なのに、私は疲れてしまって、嫌になってしまって、それをしなかった。
今まで、誰よりも頑張っていたい、自分の中でだけは、自分は誰よりも輝いていたい。
そう思っていた反動なのか、全てがどうでもよくなった。
お世話になっていた、都内にあった彼女の家を出た。
いっそのこと、少し離れたところに行ってみようと思って、隣の県である神奈川に引っ越すことにした。
そこで、少しだけ休んだら新しく頑張ろうって彼女と決めたんだっけ。
私を心配した彼女もついてきてくれて、新生活がスタートした。
二歳年上の彼女は大学を卒業してからは小売業の会社で正社員として働いていた。
一年もしない内に店長に昇格した彼女のことは、アルバイトで食い繋いでる私からしたら眩し過ぎて、息が詰まるようだった。
元々、体の弱かった私は体調を崩すようになっていって、アルバイトでさえ働くのが難しくなっていった。
気付けば、彼女と私の稼ぐ金額は三倍以上も違くなって、何かがわからなくなって、自然と涙がこぼれた。
彼女の頭は悪くない、要領もいい方だし、外国の血が入ってるのもあってスタイルも良くて、見た目もいい。
よくよく考えてみれば、私と付き合っているのが不思議な人だと思う。
どんなに死ぬ気で頑張っても、彼女を養うことが出来ない。
逆に面倒を見てもらってる。
彼女は優しく許してくれる、それが余計に胸を締め付けてきた。
私は何もしてあげられない。
家事をしたって、ご飯を作って家で待っていたって、こんなことが恩返しになるわけじゃない。
これは面倒を見てもらってる対価なんだから、このままでいいはずがないんだって自分を責め立てて過ごした。
だから、体を壊しても、そんなことは気の持ちようだからって言って、また頑張ろうと思った。
がむしゃらに面接を受けて、がむしゃらに働いて、疲れたなんて吐き捨てる暇もないくらい、怪我をするかもしれないような現場の土方の仕事だって、なんだって、頑張った。
そんな矢先のことだった。
彼女が、死んだ。
自殺だった。
理由は何だったんだろうって考えてみても、そんなことは本人じゃない私にはわからなかった。
思い返してみれば、おっとりした優しい人だったけど、たまに思い出したように『はやく楽になりたいなぁ…』って、まるで今日は暖かいなぁって言うような言い方で呟いていたような人だった。
いつだか、彼女が『寝たら明日も朝が来るのって不思議だよね』って言ってた。
私は『寝なくても朝は来るよ』って返して、彼女は『そういう意味じゃないよ』って笑ってた。
たった一人の彼女であり、たった一人の家族だった彼女がいなくなって、私はどうしたらいいかわからなくなった。
働くばかりで友達もいなくて、話す相手もいなくなった。
何の為に生きればいいのかすら、私にはわからない、そんな状態だった。
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話す相手もいないのに自宅に引きこもって一か月。
買い溜めておいた食料もなくなって、自分の体が変に痩せ細っていくのがわかる。
栄養が足りないせいか、たまに意識が途切れる。気付くと、体には身に覚えのない痣がたくさん残ってた。
お腹が空いてるなんて感覚すらなくなって、ジメジメとしたベッドの上で霞む視界の中で見えたもの。
「いーちゃん、なにしてるの?」
変わらない笑顔でそこにいたのは、彼女だった。
「ねむくて」
見えてから、涙が溢れ出すまでにかかった時間は数秒もなかったと思う。
ベッドの横にしゃがみ込んで、覗き込むようにしてきた彼女からは変わらないいい香りがした。
「いーちゃんはいつも頑張り過ぎなんだよ。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、元気にならないとだめだよ?」
「志帆がいないと、お腹が空かないんだ」
「そうなの?確かに私もいーちゃんと一緒のごはんの方がおいしいなぁ」
はにかむように笑うから、まるで本当に生きてるみたいだ。
もう、体も動かない、声も出ない。そう思ってたのに、目の前に彼女がいるだけでまだ動ける気がした。声も出せる。
「志帆、お腹、空いてる?」
「うん。私、食いしん坊だって知ってるでしょ?」
「何か、買ってきてあげようか」
「ほんと?いーちゃんは優しいね」
昔から、ことあるごとに口にするその言葉。
いーちゃんは優しいね。その言葉が好きじゃなかった。だって、私のすることには全部“罪悪感”と“罪滅ぼし”っていう感情しかなかったから。これは優しさなんかじゃない。
痙攣したように動くことを拒む手に無理やり力を込めて、体を起こした。
公共料金を払わなくなって一か月、かろうじてまだ電気もガスも水道も通ってる。
よろける足でお風呂に向かう。
最近、ずっとベッドの上で過ごしていたせいで耐えきれない異臭が自分を包み込んでる。
床に置きっぱなしにしてあったバッグにつまづいて、勢いよく転んだ。
「大丈夫?歩ける?」
「ごめん、私きっと凄く酷い臭いがするから近付かない方がいい」
いつだって、いい香りのする志帆とは違う。
可愛くて、優しくて、どんなところも綺麗な志帆は、私とは違う生き物なんだって思ってた。ずっと、ずっと、前から。
「私もしばらくお風呂に入ってないから臭いかも。一緒に入ろっか。久しぶりだから恥ずかしいなー」
手を貸してくれて、お風呂場の前についたらお互いに服を脱いだ。
変に細く、歪な体型になってきてる私と違って、志帆の体は変わらずに綺麗で肉付きの丁度いい感じだった。
シャワーで頭と体を念入りに洗って、湯船に浸かる。
秘蔵の入浴剤っていうのを押し入れから発掘してきた志帆のおかげで久しぶりにいいお風呂に入れた。
狭い湯船の中、向かい合うようにしてる。
湯気の先には志帆の顔がある。
もう二か月くらい会ってなかった。
いや、最後に会ったのは火葬場だったか。骨になってからなら、もう少し後になる。
湯船に沈む自分の体を見下ろしながら、考えてた。
どうして志帆がここにいるのか。
私の心が弱いからなのか。
死ぬことを恐れて、自分の中に残った志帆の影に救いを求めてるだけなのか。
湯船から視線を上げれば、にっこり笑った志帆と目が合った。
「志帆はまたいなくなるの?」
「え、なんで?いーちゃんと一緒にいるよ?」
きょとんとして、不思議そうに、当たり前のように答えた。
「一緒にいてくれるの?」
「だって、私はいーちゃんがいないとだめだもん。知ってるでしょ?ごはんをおいしく食べられるのは、いーちゃんが一緒だからだよ」
「そっか。じゃあ、今日は何か好きなもの食べようか」
「それならお弁当買ってきてもらおうかな」
志帆が好きだったお弁当屋さん。
走れば三分くらいで行ける。
お風呂から上がって、お互いの体を拭き合って、ドライヤーで髪を乾かし合った。
綺麗な服を着て、サンダルを足に引っかけて走った。
「いってらっしゃい」っていう言葉に「いってきます」って答えた。それだけで、走れる気がした。
久しぶりに行ったお弁当屋さんでは、色々と心配されたけど、今はそれどころじゃないからいつものお弁当をふたつ頼んだ。
何か微妙な顔をしたおばさんからお弁当を受け取って、また走って帰った。
息を切らしながら、玄関を開けようとしたとき、手が動かなくなった。
開けて、全部が夢だったらどうしようと思った。
もしも、志帆がいなかったら、私はどうするんだろう。
動かずに、数分固まっていたと思う。
ドアが小さく開いた。
「いーちゃんなにしてるの?おかえり」
「…ただ、いま」
玄関を入ったら、志帆に軽く抱き付かれた。
そういえば、志帆はくっつきたがりだし、寂しがりやだった。
それをこそばゆく感じて、いつも押し返して「はいはい」って言って照れ隠しをしてた。
「いーちゃんいい匂いするねー」
「さっきお風呂入ったからね。ご飯、食べようか」
「あれ?今日は突き放されない…どうしたの?」
「別に気分だよ」
久しぶりにテレビをつけて、お笑い番組を見ながらお弁当を開けた。
「おいしそー!」
「それはよかった」
いなくなってから後悔することがたくさんあった。
ベッドの上で一か月ずっと考えてた。
私が志帆にしてもらったこと。
私が志帆にしてあげられたこと。
全然、何ひとつ釣り合ってなかった。
お弁当ひとつで大喜びする志帆に、私は何をしてあげられたんだろう。
最初から最後まで、助けられて、支えられてばかりだった私は、一体この人に何をしてあげられたのか。
自分を悲観して、卑下して、この人を羨むことしか出来なかった私は何の為に生きていたんだろう。
「いーちゃん?泣いてるの?」
「コンタクトずれたみたい」
「あ、また取らずに寝てるんでしょ!怒るよ!」
「うん、ごめん。ちゃんと取って寝るね」
謝れば、ため息交じりに「もー、しょうがないなー」なんて言って、笑って頭を撫でてくれる。
そんなあなたに言いたいことがある。
「志帆は優しいね」
「えー?私は優しいわけじゃないよ?」
「そうなんだ。私も優しくないから一緒だね」
「いーちゃんは優しいの!」
限られた時間の中で大切に出来なくてごめんなさい。
きちんと向き合って、横に並んで生きてあげられなくてごめんなさい。
「志帆」
「ん?なぁに?」
どうか、出来ることならば。
「好きだよ」
「ほんと?」
「本当だってば」
もう一度だけ、私の傍にいて欲しい。