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カエルの雛

作者: 吉富カエル

 私は人として生を与えられている。小さい頃から生を与えられていた。決して望んだわけではない。私が気づいたときには私という存在は既に存在していた。その本質は善でも悪でもない。あくまでも安らぎである。私以外のことは思考の回路に組み込まれていない。私は安らぐために肉体に指令を出す。安らぎを求めて脳は回転し、血液は流れ続ける。そして血液を得た皮膚たちは躍動し命となってその営みを私に与える。その行動には善も悪も意味をなさない。求めてやまないのは安らぎである。


 「宇宙飛行士になって子供達に夢を与えたい。」

 「医者になって多くの命を救いたい。」

 「政治家になって国を良くしたい。」


 「大きな夢をもて。」と言われ続けていた。

 人はどう思っているのだろう。夢の大きさってなに。夢を持つのは自由だ。それならば人に期待するのはなぜ。人に夢を期待する前に自分を顧みないのはなぜ。一流企業に入って給料をもらう、恋をしてやがて結婚をする。そして、死ぬ。それのどこがいけないのだろう。そんな生き方を夢に選んではいけないのだろうか。歩むのが困難な生き方を夢に持つと賞賛される。不思議なものだ。人から賞賛されることで本人の活力へつながる場合もある。そして時としてその人の持ってる力以上のものを引き出すことさえある。人は独りでは生きていけない。生きていくために自分を隠す。自分でさえも自分がわからなくなる程に隠してしまう。時を経て隠すのに慣れてくるとやがて自分の色を周りの色へと染めてしまう。ゆっくりと誰にも気づかれぬまま、自分でさえも気づかぬまま染めてしまう。そして意味もなくのうのうと生き続ける。そうすることでカメレオンへと進化する。


 カメレオンへと進化した後はどのようになるのだろう。周りの色へ同調し時を過ごす。やがて自分の色を見失い完全に周りの色へと染まる。時には周りの変化に伴い自分の色を再び塗り替える。卵から幼虫へ、幼虫から蛹へ、蛹から成虫へ。こうして進化を続ける。


 やがてその生き物は進化の過程で見たこともない色に出会う。今まで生きてきた中で一度も見たことのない色。どんなに染色体の構造を変えDNAレベルまで自らを分解し再構築しようとしても表せない、脳の回転を狂おしいほど求めても表すことのできない色。そんな色に遭遇した時にカメレオンたちは考える。「この色は特別なのだ。」そう考えることにより自己の本能を防衛し誇りを失わない。そしてその色になることを諦めてしまう。そこに残るのは意味のない誇りだけとも知らずに。やがて元の色へと戻ることに成功すると何事もなかったかのように生に携わる。それの繰り返しである。

 自己の色を持つ者はすばらしい。すばらしいが故に恨まれる。そして消えて行く。


 遥か下の方から波の音が聞こえる。昨日聞いた天気予報では今夜から天候が崩れると言っていた。そのせいかいつもより強く高い波が岸壁に襲いかかる。襲いかかった波はわずかながらも岸壁を削る。そして別の波が襲いかかる。それを永久に繰り返す。そしていつの日か岸壁をも凌駕する。そこに目的はない。ただ自然の摂理なのである。


 周りには誰もいない。私は寝転がっていた。寝返りを打てば死ねる。そんな場所に他に人がいるわけがない。遺書を残す気もないし残す人もいない。私が死ねば私の時間はそこで終わる。そこから先に何が起ころうが私には関係がない。私の時間が幕を閉じた後のことなどどうでもよい。そう考えていた。私の還る時は私が決める。そう思って生きてきた。しかし今はもう生きる必要がない。生きる必要がないからここにいる。こうして寝転がっていると心臓が呼吸をしているのが聞こえる。遥かなる波の音に混じってかすかに聞こえる。瞳を閉じ深い闇の入り口へ入りかけたとき、むかし聞いた恋人の呼吸を思い出す。あの人のは呼吸ではなかった。呼吸であって呼吸ではない。ただの心臓の音だった。たんに生を終らせないためだけに振動を続けていた。その振動は一定間隔で時を刻み私を不安の底へと落とそうとする。やがてその音も小さくなり聞こえなくなっていった。


 恋人が還って行ったとき涙は出てこなかった。あの人は還る時を知っていた。終わりを知っていたのだ。「いつか2人で還ろう。」あの人の残した言葉だけが虚しかった。


 死を恐れるのは、その先が分からないからだ、見たことがないからだ。愛する人ができた時、初めて死にたくないと思った。次に思ったのは子供ができた時だ。「死にたい」と思っていたわけではなかった。死んでもいい。ただそう思っていただけだった。私は死に対する恐怖などなかった。死ねばあの人に逢える、そう考えてさえもいた。


 冷たい布団の上で子供が生まれた。生まれてすぐ世を去る。親を知らないまま、親とともに世を去る。温かい炎に守られながら還っていった。幸せな死だったに違いない。少なくとも守ってくれる人がいたのだから。あの子は何も知らずに生を与えられ、何も知らずに還っていく。どれほどうらやましいことか。だが私は独り残された。「殺してやりたい。」生きてきたなかでたった一度だけだった。そしてそんな気持ちで犯した罪さえ私には意味のないものに感じた。


 夜空の星は綺麗だった。北極星になりたい。一時もその場を動かずただ時の流れを感じたい。やがて終わりが来て流れ星となる。そんなすばらしい星になりたかった。流れ星が私に落ちて来て欲しい。そして、すべてを壊して欲しかった。


 きっとあの人は運が悪かったんだろう。そういい聞かせた。炎の中に私の最愛者たちさえいなければ、私の中では無限に繰り返される犯罪のたった一つの出来事として忘れ去られていたに違いない。ましてやうまく逃げ切れてさえいればあのような形で終わることはなかった。あの人にも同情はする。想いがあったのだろう。私がそうしたように、あの人もそうしなければならない想い。誰にも伝えられなかった心の想いが。


 行動にはそれぞれ想いがある。「人を殺したい」という想い。「人を助けたい。」という想い。そこには感情が入り乱れている。どの感情もすべて正しい。「人を殺したい。」という感情も正しいだろう。いや、その感情がなければ人ではないのかもしれない。ただそれらの感情にはすべて自己の安らぎが結びついているのかも知れない。感情を抑えることができなくなり欲求を撒き散らす、散らかった欲求は他を見ることなく直線的に行動する。その行動経路にそのようなものが存在し、語りかけたとしても振り向くことなく進み続ける。やがて目的を達成し、その行動が終わりを告げるとき、そこには再び安らぎが訪れる。そう考えると私はまだ人として生きていけるのかも知れない。


 私は愛する人を失った。世間は同情してくれるだろう。このまま捕まっても、通常よりは軽い罪で済むかもしれない。いや、罪どころか、このまま隠し通しさえできれば、世間の同情を買ったまま、今まで通りの生活だってできるかも知れない。だが、それが何になるのだろう。あの人にも想いがあった。「ただむしゃくしゃしていた。」そんな想いかも知れない。


 憎しみや哀しみなど虚しいものでしかない。ましてや喜びや安らぎなどそれにすら及ばない。時として想いは安らぎを与える。安らぎによって喜びが生まれる。その喜びが何者かに破壊されたとき、哀しみが生まれ憎しみへと続いていく。安らぎや喜びさえ存在しなければ、憎しみや哀しみは生まれれることはないのだ。それが人の感情なのだ。私はそう言い聞かせてきた。そう考えるとあの人は私を救ってくれたのかもしれない。感情という永遠に繰り返される苦しみの中から私を救い出そうとしてくれた人なのかもしれない。


 目が覚めたとき、冷たい布団の中にいる。それが当然だと思っていた。汚い顔を洗い、臭い歯を磨く。生まれて初めて買ったスーツに身を隠し古ぼけた電車に揺られて会社へ向かう。お金を貰うために上司に媚を売り、一日の終わりに同僚たちと悪口をいいあう。何の価値も見出せないまま無為な日々を過ごしていた。生きていくためにはお金が必要になる。生きるためだった。生きるために給料をもらっていた。


 初めて給料をもらったときのことは覚えていない。覚えているのは初めて上司に叱られたときのことだ。この人が私の価値を決める。私の価値をお金に換算しているんだと。いったいこの人は私の何を知っているのだろうか。否、何も知らない。私のことを何も知らない人が私の価値を決める。たった一度の失敗でこの人の中での私が決まる。しばらくして再び私が過ちを繰り返したとき、この人の中で私は必要のないものへと変わった。それと同時に私の中でもこの人が必要のないものへと変わっていった。


 私に関わる人たちは私の事を知らない。その代償として私も私に関わる人たちのことを知らない。私は私以外の人のことを知ろうとしないかわりに私のことを隠した。ひたすら隠し続けた。やがて私の色は変わっていた。カメレオンとして進化した私は表面の色だけを変えることに成功していた。


 幸せな死だったに違いない。炎の中を思い返してみる。意外にも鮮明に思い出すことができた。温かい炎に包まれ我が子を抱きしめながら死んでゆく姿。美しかった。当然のことだが涙は出てこない。私がかわりに死ねたならどんなに嬉しかったことだろう。炎に包まれた瞬間に時間が止まる。私の時間はその瞬間に終わってしまう。私を助けようといらない努力を試みる人たちなど関係ない。私の心は幸せに満ちている。夢にまで描いた還り方だった。しかし私は生きている。哀しかった。愛する人たちを助けたかったわけではない。残るのが辛かった。生きるのが辛かった。そんな想いしかでてこなかった。


 ふとした考えが私を襲う。もし還っていった人たちが組んでいたなら。炎を与えた人と与えられた人。あの人たちが組んでいたと考えたなら。

 私にとって組む理由は必要なかった。組んでいたという事実、それが重要であり必要だった。あの人たちが組んでいたなら。自ら炎に包まれることを望んでいたなら。無駄になる。私が還してしまった人は還る必要がなかったからだ。いや、それならいっそ愛すべき人も私の手で還してあげたかった。それができれば私が悩むこともない。むしろ、還してあげたという気持ちに満ちていただろう。愛すべき人の望みをかなえたという気持ち、それだけで満足だった。それなのにあの人たちはそんな私の想いを裏切った。


 そう考えると心が落ち着く。私の憂鬱な気持ちも人のせいにすることができる。あの人たちが私に秘密を打ち明けなかったのが悪いんだ。すべての原因はあの人たちにある。そういう気持ちになることができる。そう考えれば何もかもがたいした問題ではない。「私は悪くない」それだけが私の心を支配する。


 私は生に執着する。還ることのできない理由を他に探し出す。こうして私は逃げてきた。そして今回もまた。


 短い夢を見た。子供が大きくなったときの夢を。私たちは幸せに暮らしている。子供はよく勉強をして偏差値の高い大学に入り、一流企業に就職をする。高い給料をもらい、かわいらしい恋人をつくる。そして、結婚をして子供ができる。私にとっては孫ができる。孫ができた時、ふと気づく。この子は本当に私の孫なのだろうか。そこに血の繋がりはあるのだろうか。もし、母親が浮気をして私の知らぬ男の種を宿していたとしたら、血液型も同じだったとしたら。みんな信じてしまうだろう。知っているのは彼女だけなのだ。この子の父親は疑うことを知らない。私がそう育ててきたのだから当然だ。それだけならばまだいい。この子の父親は本当に私の子供なのだろうか。この子自身が私の子でないとしたら。私は無意識のうちに料理している手を止める。


 残念なことに夢はそこで覚めた。ただ私はあの人たちは幸せだったんだと確信した。もしこれからの時間を私と共有することになっていたら、きっと夢はデジャヴとなって甦っていたに違いない。そうなったとき惨めなのは私である。


 幸せとは何なのだろう。夢を思い返してみて一つの考えにたどり着いた。私が信じてさえいれば、余計な考えさえしなければそれは幸せなのだ。例え、疑いが生じたとしても、私の中でその考えを消滅させてしまえば幸せなのだ。少なくとも、周りからは幸せに見えるだろう。ならば、それは私にとって幸せなのか。今の私にはそれを考えないのが幸せなのだ。私の脳の回転が止まってしまうことが幸せなのだ。それだけのことなのだ。


 風が強くなってきた。遥かに聞こえる波の音が大きくなった。さっきまで綺麗に見えていた星たちも私から逃げるように身を隠してしまった。みんな逃げていく。親も子も友人も、街で見かけた野良猫までも、みんな私から逃げていく。足跡だけを残して逃げていってしまった。いや、逃げていたのは私かもしれない。何もかもが嫌で逃げていた。地位や名誉、そして富で決まる価値観が嫌だった。


 やがて逃げることに疲れたとき、その勇気さえ忘れてしまった。そしてレールを歩いた。言われるままに勉強して言われるままの受験をする。運が悪く合格して、決められた学校へ通う。そこで無為の日々を過ごす。あの頃の私に還る場所はなかった。


 親を失ってみて初めて世間の価値観を知った。周りの態度が変わった。見たこともない親戚達が大勢挨拶にきた。高校生の私にはまだ何もわからなかった。逃げることさえわからなかった私はただ意味のない言葉を交わすだけだった。


 小さい時には夢があった。小さいながらも親のしていることを理解していたつもりだった。だが本当に理解する前に親はいなくなった。私の前からいなくなってしまった。独り残されたとき、すべてが狂っていることを知った。私が理解していたのはほんの一握りの部分だった。親が私に見せようとしていた部分でしかなかった。


 そして私は逃げた。逃げるように家を出た。探されなかったのか探しても見つからなかったのかはわからない。ただ夢を忘れてしまっていた。親を失うとともに私自身の夢を失っていた。親を失わなければ私が幸せだったかどうかはわからない。ただ夢を失うことはなかった。その後の私はひたすらに夢を探し続けることしかできないロボットだった。そして私はひたすら繰り返した。繰り返しの日々を送っていた。そこでは何も生まれない。そこでは何も終わらない。すべてが同じ時の繰り返しであった。やがて私が錆び付いてきた頃、失った夢を見つけかけた。


 それと時を同じくして私は見つけてはならないものも見つけてしまった。そこには安らぎが存在していた。その人は私の夢を遠くへ吹き飛ばし、私を見失わせる力を十分持っていた。一瞬にして盲目になりまた夢を失った。安らぎを手に入れるかわりに夢を失ったのだ。失ったというのは正確には間違いかもしれない。失ったのではなく変わってしまったのだ。夢は変わっていた。私は幸せにしたかった。ただ愛する人たちと一緒に暮らしたかっただけだった。しかし一瞬を生きずに永遠を求めようとした私が幸せになれるはずがなかった。


 私は私が好きだった。何よりも私が好きだった。呼吸が止まってしまい、肉体を操ることができない私を他の人に触れさせたくなかった。私は私の中で至高の存在として君臨していた。だからここへ来た。ここなら人知れず静かに還れると思ったのだ。安らかに還りたかった。それが私の夢だった。愛すべき人を失い、再び夢を取り戻した。このまま還ることができれば夢はかなう。小さい頃からの夢がかなえられる。それだけで私は幸せな気持ちになれるはずだった。私の夢をかなえるために私の愛すべき人たちは逝ったのだ。私が愛していたようにあの人たちも私を愛していた。だから逝ったのだ。私のために終わりを迎え入れたのだ。


 そこに魂は存在していない。すべては無知が作り出した空想の産物である。疲れ果てたとき、鼓動は止まりその役目を終える。交代を求めることもなく、再び動き出すこともなく、その動きを停止する。それだけなのだ。そこにはその事象以外は存在しない。


 価値観ほど恐ろしいものはない。価値観があるがために人は間違える。男と女は愛を確かめあい、やがて女は種を宿す。そして新しい生が与えられる。そこに絶対は存在しない。新しい命が2人の愛情の表れであるということは絶対ではない。女は他の男に抱かれ優秀な種を宿す。男ははけ口のない欲求をすれ違う女にぶつける。憎しみに満ちた男は女を疑い、それと同時に愛に飢えた女も男を疑う。絶対という価値観がすべてを狂わせる。


 私の中には絶対が存在しないかわりに信頼が存在する。信頼があることにより今まで終わることはなかった。私は私の愛する人を信頼していた。だからその生を奪った人たちの生を奪った。そこに後悔は存在しない。しているとしたら私が終われなかったことだけだ。生とはいつかは尽きるものである。それと同時に必ず訪れるものである。生の訪れなくして終わりはないのである。終わりを恐れるのは愚かしいことだ。ただ不幸なのは自らの生を自らの手で還せないことである。


 私は野良猫のように生きたい。彼らは生の終わる瞬間を知っている。その瞬間を感じたとき身を隠す。誰にも知られないところへ身を隠して還っていく。ひっそりと生の終焉を楽しむことができる。そして最後の瞬間、私は最高の一時を味わうことに酔いしれる。


 初めて命を奪ったのは十三の夏だった。親に対し刃物を持つ私を止めようとした姉、その命を奪ったのだ。生暖かい液体が私の手の平を伝って皮膚の裏側にまで入り込んでくる。そして私の血液の中へ最後のあがきを試みる。やがてその液体は無駄な抵抗と感じるとその行動を止め自然の摂理に殉ずる。その感触を今でも覚えている。同じ染色体を持ち、同じ遺伝子を持つ液体。私は何も感じることができなかった。一つの生が終わりを迎える、それだけのことだった。やがて最後のあがきは私の中で浄化され消えて行く。


 見たこともない人が家へやってきて私に質問をする。いくつもの質問を浴びせ掛ける。なんで私にそんなことを聞くんだろう、理解できなかった。でもなぜか私は罪には問われなかった。まだ年齢が小さいことと情状酌量の余地があったらしい。親も私を心配したのか世間体を気にしたのかわからないがその事を隠した。あの人たちにはそれだけの力があった。例え私が裁かれることを望んでも許されなかった。そういう環境だった。


 それからも今までと同じように学校へ通うことができた。学校へ通うことができたかわりに私に対して親が何も言わなくなった。姉の二の舞になるのを恐れていたのかもしれない。何も言わなくなったかわりに若い女の人がやってきた。その人は勉強を私に教えてくれると同時に親の言葉を伝言してくれた。本当に伝言だけだった。その人の話す言葉にはその人の意見や感情などはまったく感じなかった。まるでオウムのようにただ繰り返しているだけだった。


 その頃の私は言葉に飢えていた。だから学校に通えるのが唯一の救いだった。学校へ通って知り合いたちと言葉を交わせるのが嬉しかった。どんな内容でもいい。話ができたのが嬉しかったのをはっきり覚えている。ただそれも長くは続かなかった。時が経つに連れて学校でさえ言葉を交わす人も減っていった。その頃の私には理由などわかるはずがない。ただ独りの時間をどう過ごすのか。それだけを考えていた。そして中学を卒業する頃にはオウムだけが言葉を交わす唯一の存在となっていた。


 私が中学を卒業すると親は私の存在を無視するようになった。家ですれ違ったときも振り向きさえしなかった。それと時を同じくして親の飼っていたオウムも私の下を去っていった。彼女が私のもとを去っていったことにより私達の接点がなくなった。世間体のために私を家に住まわせ、死なないために大きな籠の中で生活をする。そんな生活が続いた。


 私たちは互いに逃げていたのだ。そして逃げ切れなくなったと思ったのか、ついにはその存在自体を消してしまった。望んだのか望んでいなかったのかはわからないが終わってしまったのだ。醜い還り方だった。私の望んだ還り方とは正反対の還り方。いや、あのような還り方では本当に還ることができたのだろうか。たんに心臓が止まってしまう。ただそれだけのことではないのか。あの人たちは自らの力で還ることすらできなかった。思い出すたびに吐き気さえ覚える。私にとってはそんな還り方だった。


 私は籠から飛び出してみて初めて気づいた。私は籠での生活に慣れきっていた。一度籠での生活に慣れてしまった生き物は二度と大空を羽ばたくことはできない。それでも私は飛ぼうと努力した。私が生きてきた中でたった一度だけの努力。それはすべてを捨てて逃げることだった。与えられた餌を捨て新しい水飲み場を求めた。そこには二度と戻ることはできない覚悟があった。だが意外にも新しい水飲み場は簡単に見つかった。無色で透明な、いまだ何色にも犯されていない水飲み場だった。


 この人はいったい何を言っているのだろう。私にはまったく理解できない。「そんな人には見えなかった。」まったく意味不明の言葉である。この人の中で私がつくられ、つくられた私をこの人の中で育てる。そして成長した私を現実の私と照合する。そこに誤差が生じると現実の私に修正を加えようとする。私にはそのような人と接する時間がもったいなかった。私の時間。一瞬として無為の時間を過ごすのが辛い。このかけがえのない一瞬を生きてこそ永遠が存在する。一瞬を生きることのできないものに永遠を生きる資格はない。その永遠を得るための一瞬に、このような人と付き合った私の愚かさを悔いた。


 私はその頃から死を恐れていた。おそらく私以上にその存在を恐れる人はいないのではないだろうか。ちょっとした暗闇にも死への幻想を抱く。暗闇の中で踏み出す一歩。先が見えない一歩には踏み出した先に地があるという保証はどこにもない。いや暗闇でなくてもそうだ。今私に見えているものがそこに存在するという保証などはどこにもない。りんごのようなものを手にとって皮をむく。皮の中からはりんごのような無色透明な匂いが漂う。そこにはりんごの実のようなものが存在し、それを口に入れて初めて私はそれをりんごだと確証する。そこには視覚で捉えたりんごが存在し、嗅覚で捉えたりんごが存在し、触覚で捉えたりんごが存在し、味覚で捉えたりんごが存在する。私の中には一つのりんごに対して四つのりんごが存在する。


 死を恐れ始めた私は必死に逃げる。逃げ切れないことがわかっていながらも無駄な努力を怠らない。やがてその無駄と思われていた努力も実を結ぶ。死は絶対ではない。死が絶対でないかわりに生も絶対ではない。私が生きてこうして呼吸を繰り返す。私の心臓が血液の循環のもととなり肉体へ息吹を吹き込む。息吹を吹き込まれた肉体は脳へと神経を伝達する。そして脳が私の生を確認する。その営みを繰り返すことで私の生は私の中でだけの存在となる。人が私の生を確認することはできないのだ。


 私の中で死は絶対ではなくなった。私の心臓が鼓動を止めない限り私は生きている。私の心臓が鼓動を止めたことを私が自覚さえしなければ、私は私の中で永遠に生き続けることができる。例え肉体が終わりを迎え入れたとしても私という存在は生き続ける。それは他の誰からも影響を受けることのない存在となり、思考を停止した私の中でのみ存在し続ける。


 カメレオンは体を透明にすることはできない。何色にも染まっていない水飲み場を見つけた私は私の色を丸裸にしてしまった。色を変えることができなかった私は、周りから浴びる視線に怯え震えた。その視界からは全てが消え粉雪だけが舞い落ちる。舞い降りた粉雪たちは妖精となって私の前へやってきて嘲笑を浴びせかける。私は恐ろしさのあまりに目を閉じ耳をふさぐ。それでも妖精たちは私の周りを離れようとはしない。視覚を失い聴覚を閉ざした私は気配にのみ神経を集中する。やがてその気配を感じなくなった私は恐る恐る目を開け耳を傾けると、粉雪は雛鳥へと姿を変え私の前を飛び立っていく。その頃になりようやく冷静さを取り戻し震えから覚めた私は周りを見て初めて気づいた。裸なのは私だけではなかった。私を見つめるその視線も裸だったのだ。そこにはさまざまな色が存在した。猫のように暗闇の中でだけ瞳を輝かせる色、泥の中から眼だけを覗かせる蛙のような色、まだ孵化する前の蛹のような色、なかには見る角度によって違う色すらあった。ただ私と違っていたのはみんな羽ばたいていた。裸のまま大空を駆け巡っていたのだ。新しい侵入者に裸を見られることを拒むものは存在していなかった。


 自分の色を持つ者は強い。そこで私は弱者だった。限りなく無力な存在でしかなかった。私は必死で私の色を染めようとした。そこでの強者を探し出し、その色へ染まろうとした。だがそれは許されなかった。すべてが強者だったのだ。すべてが同等の色として存在し、すべてが同等の力を持っている。私は私の色を変えることができなかった。何色に変えればいいのかさえわからなかったのだ。


 私が倒れたとき、すべてが理解できた。色を変える必要はなかったのだ。色は変わっていくものだったのだ。最初に私を拾った色、次に私を育ててくれた色、そして私を旅立たせてくれた色。それらの色が混ぜ合わさって私の色がつくられる。やがて私はその色として成長していく。周りの色もみんなそうだった。みんな最初は自分の色など持っていなかった。そしてここへたどり着いた。ここへたどり着いて色をつくっていった。


 自らの色を得た私は孤独ではなかった。還る場所が見つかったのだ。しかし自信に満ちていた私は周りが見えなくなっていた。私の周りの色も私の前に現れたときから色が変わっていることに気づいていなかった。色は他の色と混ざることによって独自の色を作っていく。私はそのことに気づく前に水飲み場を後にしていた。


 苦しみを深める優しさほど酷いものはない。見せ掛けの優しさに苦しめられる人が気の毒だ。「つめたい人。」その言葉の深さを知っている者がどれほどいるのだろうか。その行動の影に隠された辛さをわかるものは少ない。同情するものとされるものではその想いが違いすぎる。同情するものは見せ掛けの苦しみから救いだそうとする。されるものはそれによっていらぬ苦しさを背負う。それを理解し深い苦しみから救いだそうとするものはその重さに潰される。こうして苦しみは苦しみをを深めていく。


 何も望まないものはすべてを知っている。望んだものすべてが意味のないことだ。一瞬の生しか与えられないものにとって望みは必要ない。還るときはすべてを清算しなければならない。存在した事実さえ必要ない。存在するのは還る場所。そこだけでいい。

 望みのある者は何も知らない。欲に支配されたその脳は全ての思考を支配する。その者は後姿からその全体を想像する。自らの経験のみに頼って想像する。その狭い経験はその全体を的確に見抜くことはできない。


 永遠を生きることができる私に還る場所は必要なかった。還る場所を求める私はすでに過去の私になっていた。私は過去を否定した。私の成長する過程を否定し、現在の私だけを見る。現在の私だけを見ることにより弱い頃の私を消し去っていた。弱さを忘れた私は一瞬の強さに酔いしれていた。その強さが偽りとも気づかぬままに。どれだけその生き方を否定しつづけていたのかも忘れたまま酔いしれた。


 否定し続けた生き方を生きていた。私の脳は回転を止め、ただ心臓の鼓動だけが私に生を与え肉体のみを動かし続ける。血液たちはその流れを止め私の肉体から脱出を試みて皮膚を締め付ける。私はその肉体の痛みに気づかずに神経を切断する。


 私は私の否定した永遠の中を彷徨い続けていた。誰にも気づかれず気づかせないまま彷徨い続けていた。やがて肉体が痛みに耐え切れなくなり凝縮を繰り返す。皮膚の裏側で血液たちが暴動を起こす。その時になって私は初めて自分の犯した過ちに気づいた。2度とやり直すことのできない過ちだった。私が最も否定した生き方、最も否定した人の歩んだ道を歩んでいた。もう戻ることはできない道のはずだった。私には戻る方法など持ち合わせていないと思っていた。だが現実は違った。私は戻ることができた。私の最も否定した人にはできなかったことが私にはできたのだった。なぜそうなったのかはわからない。ただ戻ることができた。無意識だった、私が望んだわけではないが私はもとの場所を目指していた。あそこへ行けばきっとわかるはず、ただそう感じていた。


 再び私が水飲み場へたどり着いたとき、そこには何もなかった。正確には何もなかったわけではないが、私にとっては何の価値もないものだった。スーツに身をかためたカメレオンたちが入って行く四角い箱でしかなかった。私が逃げ出してきたところ、ここにも同じ物が存在していた。どこに行っても存在していた。私に逃げ道はなかったのだ。かつて私を育ててくれた場所やそこの住民達は何処へ行ってしまったのだろうか。私には知る術すらなかった。私の中での唯一の還る場所。それすら失っていた。それから私は彷徨い続けた。何処をどうさまよったのかは覚えていないが、あの人の前に私はいた。あの人だけは私を優しく包み込んでくれた。久しぶりに味わう安らぎだった。


 小さい頃に安らぎはなかった。それは籠を抜け出すまで続いた。籠を抜け出し新しい水飲み場を見つけたとき、初めて安らぎを知った。還る場所を初めて得たのだ。しかしその還る場所はもうない。そんな中での邂逅だった。本気で人を好きになったのは初めてだった。私達の間では何も聞く必要もなく何も話す必要がなかった。ただ同じ場所にいて同じ瞬間を共有する。そしてお互いの肌を求めあう。それだけで私はすべてを忘れられた。安らぎを得た私は迷走した。初めて得た安らぎに私は自分を見失っていた。そんな無為の日々を過ごす中から私を救ってくれたのがあの出来事だった。あの炎によって私は自分を取り戻すことができたのだ。

 死にたいと思ったことは一度もなかった。ただ還る場所を探していた。


 先程から降り出した雨が私の心を無色に染める。そのうちの一滴が私の目を覆い、再び私を連れ去ろうとする。もうどれくらいのときが経ったのかさえわからなくなっていた。あの人たちは何処へいってしまったのだろう。私はあの人たちを探さなくてはならない。


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